【読書ノート】『モラル・エコノミー』第3章

第3章 道徳感情と物質的利害(p35-)

イントロ(p35-)

人々は物質的利害だけで動いているわけではない。たとえばスイス市民は、地域での核廃棄物処理施設建設の受け入れに関して、補償を提案されたらかえって抵抗が高まってしまった。

こういうことを、本章では様々な実験結果を紹介しながら考えていこう。

ホモ・ソキアリス(p37-)

囚人のジレンマで人々が裏切るのは、別に相手を出し抜こうと考えるからではない。そうではなく、自分自身の協力を相手に悪用されるのが嫌だから裏切るのだ。

人々は利己的ではない。社会的選好を持っている。

社会的選好:自分自身の富や物質的利得の最大化に忠実であるよりも、他者を助けるように人々に働きかけるような動機のこと。

つまり、人間って案外良い奴なんですよ。それなのに、インセンティブを与えると、そういう社会的選好が損なわれてしまうことがあるのだ。

クラウディングアウト(クラウディングイン)(p41-)

さて、社会的選好が人々の行動を動機付けるかどうかは、ケースバイケースだろう。

たとえば、ショッピングのときに社会的選好を働かせる人はたぶんいない。あなたはただ単に、財布と相談しながら自分が欲しいものを買うだけだ。

逆に、投票のときは社会的選好で動くものだろう。

では、公共財に拠出するときは? たとえば、ゴミをあまり出さないようにするとかだ。ゴミが減れば、その個人の便益は上がる。でも、コストもかかる。もしその人だけがゴミ削減に力を入ら、コストの方が大きくなるだろう。でも、みんながゴミ削減に力を入れてくれるなら、便益の方が大きくなるかも知れない。こういうとき、インセンティブを与えればそれでいいのだろうか? それとも、社会的選好にも配慮すべきなのだろうか?

さて、人々が「公共財に拠出するのは社会にとって良いことだ」と思っているのだとしたら、人々はそこに経験に基づく価値を認めていると呼ぼう。言い方はピンと来ないかもしれないが気にしないでくれたまえ。私は言語感覚があまり良くないんだ。

普通に考えると、こういう因果関係が成り立つ。

A. 社会的選好が強い → 経験に基づく価値を高く評価する → 公共財に拠出する

でも、こういう因果関係も成り立っているかもしれない。

B. インセンティブが与えられる → 経験に基づく価値を低く評価する → 公共財に拠出しなくなる

つまり、Aの因果関係が、Bの因果関係によって弱められてしまうことがありうるのだ。こういうのをクラウディングアウトと呼ぶ。逆に、下のような関係が成り立っていれば、インセンティブは社会的選好を補完することになる。これをクラウディングインと呼ぶ。

B'.インセンティブが与えられる → 経験に基づく価値を高く評価する → 公共財に拠出する

クラウディングアウトの効果がどれくらいなのか、どうやって評価すればいいだろう? それは、社会的選好を持たない人なら、インセンティブにどう反応するだろうかと予測を立てることだ。その予測とずれた反応が見られたら、それがクラウディングアウトの効果だ。

こういう実験をコロンビアの農村住民に対して行った。

共同利用資源ゲーム

  • 個々人は、森林伐採に何ヶ月費やすかを決める。
  • すべての村人が1年につき1ヶ月というペースで伐採するなら、グループ全体の総利得は最大化できる。
  • でも、ここからずれると総利得は下がる。

つまり、適正水準で伐採していればみんなが儲かるが、適正水準をこえて伐採すると、抜け駆けした奴を除いてみんなが損するということだ。

で、この実験をやってみると、最初は伐採水準は低かった。つまり、抜け駆けして自分だけ伐採しまくろうという奴らは出てこなかったのだ。

次に、実験の中に罰金を導入した。抜け駆けして伐採しまくってる奴に罰金を与えるのだ。そうすると、なんということか、かえって伐採量は増えてしまったのだ! 利己的な奴ならこれくらい伐採するだろう、という水準にかなり近づいてしまったのだ。この近づき具合がクラウディングアウトによる効果だ。

クラウディングアウト――立法者のための分類(p51-)

さて、クラウディングアウトについての理解を深めるために、クラウディングアウトを次の2つの分類してみよう。

カテゴリー的クラウディングアウトインセンティブの有無で発生するクラウディングアウト。
限界的クラウディングアウトインセンティブの大きさにリンクして効果の大きさが変動するクラウディングアウト

カテゴリー的クラウディングアウトの場合、インセンティブを大きくすればうまく対処できるかもしれない。つまり、インセンティブの大きさに関わらずクラウディングアウトの大きさが一定なわけだから、その一定の大きさを超えるような効果をもたらすインセンティブを与えれば相殺できるのだ。

だけど限界的クラウディングアウトの場合、インセンティブを大きくしたらクラウディングアウトの大きさも大きくなってしまう。もちろん、そのクラウディングアウトの大きさは、インセンティブへの人々の感度次第だ。感度次第で、インセンティブを大きくすればちょっとずつだけど公共財への拠出を大きくしてくれるというのもあるだろうけれど、逆にどんどん公共財への支出が減っていくということもありうる。

カテゴリー的および限界的クラウディングアウトを測る(p55-)

さて、同じようなゲームをドイツ人学生相手にもやってみた。ここでも、最初、プレイヤーたちは、自分の利益を最優先するような振る舞いはせず、それなりの量の公共財を拠出していた。つまり、社会的選好を持っていたわけだ。

さて、ここでインセンティブを与えてみた。つまり、拠出額の大きい人にボーナスを与えることにしたのだ。で、ボーナスの金額を変化させて反応を見てみて、カテゴリー的クラウディングアウトと限界的クラウディングアウトを推測してみた1

立法者の驚き(p60-)

補助金によってクラウディングアウトが発生する場合、補助金の金額をかなり大きくしないと、目標の拠出水準は達成されない。

実験室とストリート(p64-)

でも、実験室で見られた結果をそのまま現実世界に応用するのは間違いだ。というのは、実験室環境というのは日常生活とはぜんぜん違うからだ(研究者に観察されてる、他の参加者とコミュニケーションできない、実験参加者はたいていの場合学生)

だから、実験室での結果と現実世界での行動とのリンクを見ないとならない。

たとえば、日本のエビ漁師を対象とした研究だと、実験室でより多く拠出した人は、現実世界では漁協組合員になる可能性が高かった。つまり、実験室内で協力的な人は、現実世界でも協力的だったわけだ。

あるいは、エチオピアの羊飼いを対象とした研究もある。実験室でより多く拠出した人がたくさんいるグループは、エチオピアでの共同的な森林プロジェクトで成功する可能性が高かった2

道徳感情と物質的利害の相乗効果(p69-)

こういうクラウディングアウトの問題をきちんと理解しないと、インセンティブの使いどころは見えてこないものだよ。

コメント

読みにくい…。なんだよ「経験に基づく価値」って。ネーミングの根拠がぜんぜんわかんねえ。

要するに、人はインセンティブに対して複雑に反応するものなので、その複雑さを理解しておかないとインセンティブをうまく使いこなせないよ、ということだろう。で、それ自体は前章から議論としてあまり進展してるとは思えない。

新しい議論は、クラウディングアウトに2種類あるということと、あと、実験室内で見られることと現実世界での行動にはそれなりにリンクが見られるということかな。

ただ、その知見を現実世界にどう応用すれば良いのか、というのはあんまりイメージが湧かない。結局、実際にインセンティブを設定してみないと、人々がどう反応するかはわからないのでは? もちろん、実験室の中でいろいろ反応パターンを確認してみることはできるだろうけれど、それが当てになるかどうかはわからない。

現実的には、「実施しようとする政策の意義を根気よく国民に説明する」+「インセンティブを設定する」の二段構えでやる、という以外にやりようはないんじゃないかな。つまり、政策の意義を説明することによって人々の社会的選好に訴えかけて、クラウディングアウトを最小化しようということ。で、反応が芳しくなかったら、説明を追加した上でさらにインセンティブを上乗せする。


  1. ちょっと、ここは要約するのが無理です。というか、読んでもよくわからん。

  2. ところでこの本では「社会的選好を持つ人=市民」みたいな前提で議論が進められていると思う。で、こういう途上国の第一次産業を例にあげて、人々の協力関係がうまく成り立っているよ、というのが説明されているわけだ。だけど、こういう途上国の農村・漁村というのは差別的な慣習が残っていたり、人々の自由な議論が抑制されたりしていることが多い。日本の農村でも女性の発言力が弱いというのは報告されているし。たとえば『農村女性の社会学』という本でも、日本の農村で女性が意思決定になかなか参加できてない現状が指摘されている。そういう、差別が普通に温存されているような社会の人々を「市民」と呼ぶのはかなり違和感がある。単に社会的選好を持っているというだけでは「市民」と呼ぶには足りないと思う。センやヘーゲルの言うような、人々の間で自由な理性的な対話が行えるような社会というのが市民の存在の前提として必要なんじゃないだろうか?

【読書ノート】『ゲド戦記1 影との戦い』ラストまで

各章のあらすじとコメント

8 狩り(p219)

ハイタカは影を狩る旅に出た。海上でまた影に出会った。しばらく追っかけっこしたのだけど、波にさらわれて砂浜に打ち上げられた。

その小さな島にはボロボロの服を着た年老いたふたりの男女が住んでいた。なんだこいつらは。言葉もわからないみたいだ。だけどなんとなく世話してもらって、命拾いした。島を出るときに半分に欠けた腕輪をもらった。これは2巻につづく伏線なので覚えておいてくれたまえ。

コメント
で、ここからハイタカは影から逃げるのではなく追うようになる。

あらすじにまとめると本当に内容がない。この作品で、ハイタカは基本的に影から追われたり影を追いかけたりしてるだけだ。他の登場人物も出てくるけれど、みんな物語の脇役に過ぎない。カメラは常にハイタカに焦点を合わせている。だから、どうしても物語としては単調になってしまう。

しかし、それでもゲド戦記シリーズの中ではこの1巻がいちばん好きだ。なんでかというと、ハイタカが徹底的に孤独だから。孤独といえば、2巻のアルハだって相当孤独だし、4巻に出てくるテルーも孤独だ。だけど、1巻のハイタカの孤独は、読んでて元気づけられるような孤独だ。美しい孤独だという言い方もできる。で、その美しさが輝き出すのが、自分の影に立ち向かうようになったこの8章あたりからだと思う。たとえばこんな描写。

ゲドはそのまま、南東の方角に舟を進めた。世界のこの東の端に夕闇が迫る頃、いったん浮かび上がった陸地はまた海のかなたに沈んで見えなくなった。波頭は残照を受けてまだ赤く輝いていたが、波間はすっかり暗くなった。ゲドは『冬の歌』や『若き王の武勲』などを思い出すまま、声に出してうたった。冬至の祭りの歌だったからだ。彼の声は澄んでいてよく通った。だが、海はしんとして、ただその声を吸いこんでいくばかりだった。あたりはあっという間に暗くなって、空には星がまたたきだした。
一年で一番長いその夜をゲドはほとんど一睡もせずに過ごした。左手から星がのぼり、頭上にまたたき、そして右手の黒々とした海のかなたに沈んでいった。冷たい北風は夜どおし吹いて、ゲドを南へ南へ押しやった。時折うつらうつらしたが、そのたびに彼はすぐはっとして目を覚ました。乗っている舟は、実のところ、とても舟などと呼べるしろものではなく、半分以上が魔法の産物で、残りも古ぼけた流木の板だったから、もし魔法の力が弱まりでもしたら、舟はたちまちばらばらになって、木っ端のように波に漂うことはあきらかだった。
p239-240

9 イフィッシュ島(p247-)

イフィッシュ島という島にたどり着くと、そこで旧友のカラスノエンドウに再会した。カラスノエンドウの家にやっかいになって、彼の妹のノコギリソウというかわいい女の子とちょっと良い感じになる。で、なんだかんだあってハイタカカラスノエンドウと旅に出る。

コメント
改めて読み返すと結構説明臭い章だった。ハイタカカラスノエンドウのふたりで影についてあれこれ議論するのだけど、いかにも読者向きの説明という感じだった。

その一方で、ノコギリソウも交えた3人の会話は軽快だ。ちょっとハイタカが説教くさくなってて、魔法を簡単に使ったら均衡が乱れるのだよ、とか言うのだけど、そのくそ真面目さをノコギリソウが和らげてくれる。なぜ恋に落ちないのか!!! と言いたくなるけど、ハイタカは恋に落ちない。

次は、旅のために準備して作ったパンをかまどから取り上げたハイタカに対してノコギリソウが言った気の利いた台詞。で、これに続いてハイタカが言った台詞は「つきあってください!」ではなく、「均衡とは、こうして保たれるんだな。」なのだ。この野暮天め。

「そんなことして、やけどなさったでしょう。それに、今、そんなことなさったら、島影ひとつ見えない海の上で食べ物がなくなった時、きっと、そのパンのこと思い出して、ため息をつくことになるわよ。『あーあ、あの時パンを盗んでなきゃ、今頃、食べられたのになあ』って。――さてと、じゃあ、わたしも兄のぶんをひとつ減らしておきましょうね、兄もひもじさにお付き合いできるように。」
p269

10 世界のはてへ(p273-)

ハイタカカラスノエンドウとともにまた海に出る。そして影に出会い、相手の名を呼ぶ。ハイタカは影と一体化する。ハイタカは自由になった。

コメント
で、大団円となる。

ところで、なんでカラスノエンドウハイタカについてきたんだろう? いてもいなくても良かったような気がするんだけど…。いないと話が単調になりすぎるということかな。

全体感想

まとめのために改めて読み返すと、かなり単調な物語だと思った。また、あちこちに説明臭い記述やお説教がちりばめられていてかったるい。セレットやノコギリソウと良い感じになっても結局それ以上進展しないというのもストイックすぎる。

単調なのは、自分探しが物語のテーマだからだろう。つねにハイタカひとりに焦点が当たっていて、他の人たちはいてもいなくても良い感じになっている。とくに最終章のカラスノエンドウは、なんでいるんだろう? というくらい脇役感が強い。

決してできの良い小説だとは思わない。たぶん、これ1作で終わっていたら失敗作として片付けられていたんじゃないだろうか。でも、孤独なときに読むと気持ちがシンクロしてとても勇気づけられる。そういう点では、とても好きな作品でもある。山登りとかしないけど、ひとりで山に登って山頂でテントの中で読んだらすごく良いだろうなあ、と妄想してる。

で、1巻につづいて、2巻ではアルハという巫女の女の子の孤独が描かれることになる。で、それは構図的には、孤独なお姫様を王子様が助けに来てくれる、というような感じのものになるのだけど、やっぱりこのふたりはくっつかない。ゲド戦記では、男女がどんなに良い感じになっても、そう簡単にはくっつかないのだ。というか、フェミニスト作家のル=グウィンが、そんな「お姫様を王子様が救い出してふたりは結ばれました」みたいな前時代的な話を書くわけがない。どんなに良い感じになっても、そう簡単にくっつけてたまるものですか、というのがこの作家の矜持なのだろう。

追記

小説の読書ノートをつけたらもっと小説を楽しめるのではないか? と思ってやってみたのだけど、別にそんなことはなかった。

今回いろいろ検討してみて、ゲド戦記1巻はそんなに良い作品じゃないんじゃないか、という結論になった。でも、個人的にはこの作品は好きだ。で、客観的に見てダメであっても、主観的に見て良いのなら、別にそれでいいのではないか。わざわざ読書ノートをつける意味って何なのか。特に意味なかったような気もする。

改めて気づいたのだけど、わたしは小説が好きだ。たぶん、アニメはそんなに好きじゃない(嫌いでもないけれど)。で、好きじゃないからこそ、客観的に分析しないと良し悪しが判断できない。

だけど、小説は主観的に好きだし、それだけでもう十分だ。そこに客観的評価を付け足したところで主観的評価は変わらない。ゲド戦記1巻は、かったるいし、単調だし、説教臭いし、ときめきも足りない。だけど好きだ。別にそれで良いじゃん。

というわけで、たぶん小説での読書ノートはもうつくらないと思う。

【読書ノート】『ゲド戦記1 影との戦い』7章まで

各章のあらすじとコメント

4 影を放つ(p93)

ハイタカとヒスイはとうとう全面的に対立する。ヒスイの挑発に乗って、ハイタカは死人の霊を呼び出す魔法を使う。すると、黒い影の塊のようなものを呼び出してしまって、ハイタカはそいつによって半殺しにされてしまう。大賢人ネマールが助けてくれたけれど、その代償にネマールは死んでしまった。

ハイタカは身体が治ったけれど、すっかり暗くなった。天才少年と呼ばれていい気になっていたころの姿はもはや無い。ハイタカはロークを去った。

コメント
読み返してみると、なんでハイタカがロークを去るのか、ちゃんとした理由は書いてない。どうしていいかわからないとき、賢人である「守りの長」という人に出会って、「そなたは自分の名をあかして、ロークに入ることを許された。今度はわしの名をあかして、ここから自由に飛び立っていくがいい。」(p126)と言われる。だから、ハイタカ自身もどうしたいのかわからないまま、外に出て行くことになったわけだ。まあ、自分探しの旅というのはそういうものかもしれない。

5 ペンダーの竜(p130-)

赴任地であるペンダーでハイタカはのんびり暮らしていた。しかし、影はまだ追いかけてくる。仲良くなった家族の子どもが病気で死にかけていたので、魔法でなんとか助けようとしたけれど、黄泉の国であの影に出会ってしまった。で、子どもは結局死んでしまった。

ハイタカは影から逃れるために、ペンダーを困らせている竜を退治に行く。で、魔法で竜たちを次々倒していったのだけど、年寄りの竜に、お前、影に追われているだろう、わしはお前の影の名前を知っているぞ、どうだ、教えてほしいか、と言われる。

コメント
たぶんこの竜退治が全巻を通して一番派手な戦闘場面。といっても、やっぱり地味なのだけど。

こうしてまとめてみると、かなり単調なお話なのだなあ、というのがわかる。それぞれの土地の文化人類学的な風俗描写はとても詳しいのだけど、それで時間稼ぎしているようなところもある。結局のところ、1巻はハイタカの自分探しの旅であり、自分の弱さに真正面から向かい合えるようになるまでの内面の物語なのだから、どうしても単調にならざるを得ない。

6 囚われる(p159)

ハイタカはペンダーを離れてまた放浪の旅に出る。スカイアーという頭巾のへんな男に出会って、しばらく一緒に行動してたのだけど、なんかおかしい。アッ!! こいつは影ではないかッ!!! 影から逃れて、命からがら、謎の建物の中に逃げ込んだ。

コメント
ここらへんも単調だなあ。

7 ハヤブサは飛ぶ(p183-)

謎の建物はテレノン宮殿というところだ。助けてくれたのは、セレットというきれいな奥さん。やさしくされる。奥さんに、この宮殿にある不思議な宝石を見せられる。ハイタカさん、この宝石は何でも知ってる物知りなのよ、何か聞いてみたいことがあるんじゃないの? うそおっしゃい、聞きたいこと、あるんでしょう? 聞いてごらんなさいよ。ね? ね? 

セレットによると、宮殿の人々はだれもその宝石を使いこなせていない。でも、ハイタカなら使いこなせる。そうすれば、とんでもない力を手に入れることができるという。しかしハイタカは宝石に手を出さなかった。

そうこうしているうちに、それまで存在感のなかった宮殿の主のおっさんが出てきて、セレットのたくらみを非難する。で、ハイタカとセレットのふたりに襲いかかる。ふたりは逃げ出す。すると、セレットの姿がみるみる変わっていく。ああ! こいつは魔女ではないか! わかったぞ、俺が子どもの頃、魔法を使ってようとせがんできたあの女の子じゃないか! 

なんだかんだあって、セレットは殺され、ハイタカハヤブサに変身して逃げていった。そして、やがてオジオンの元にたどり着いたのだった。オジオンは、影から逃げてもダメだ、向きなおるのじゃ、そなたを追ってきた狩人はそなたが狩らねばならん、と言う。ハイタカはオジオンの元を去り、また旅に出た。

コメント
初めて読んだとき、このセレットという女性が気になっていた。確かに魔女だし、ハイタカを利用して悪しき力を使わせようとはしている悪役だ。でも、セレットはそういうたくらみとは別に、純粋にハイタカのことが好きなんじゃないか? という感じもしていた。

いや、そんな描写は一切ないんだけど、でも、少なくともセレットはハイタカに危害を加えようとはしていないんじゃないか。「あなたは誰よりも強くなれましてよ。人の国の王となり、君臨するのです。そうしたらわたくしもともに王座につきますわ。」(p199)という発言からすると、ハイタカに闇の力を使わせて王に仕立て上げ、自分はハイタカのお妃になろうというつもりらしいことがわかる。

もちろん、闇の力を使えば世界の均衡は崩れることになる。でも、世界の均衡が崩れたとしても、わたしたちは恋に生きる、という選択肢もあるだろう。そういう恋愛至上主義みたいな価値観をとると、セレットと恋に落ちてしまってもいいんじゃないか、という気がしないでもない。 で、哲学者とか経済学者なら世界の均衡を気にするべきかもしれないけれど、小説家というのは芸術家なのだし、世界の均衡よりも恋愛を優先するべきなんじゃないか? 

この後の章で、ハイタカカラスノエンドウの妹とも良い感じになるのだけど、それも結局、恋愛には発展しないまま終わってしまう。で、ハイタカが誰かときちんと恋愛するのは、かなり年老いてからだ。真面目すぎる。2巻でも、ある女性と良い感じになるのだけど、それも一切手出ししないし。なんだよそれ、と恋愛展開を期待する向きからすると肩透かしを食らう。チャンスはいくらでもあるのに、ハイタカはすべてのチャンスをふいにしていく。すべては「世界の均衡」のためなのかもしれない。でも、そのくそ真面目さが、この作品をとても説教臭いものにしているのも確かだ。

【読書ノート】『ゲド戦記1 影との戦い』3章まで

はじめに

わたしは小説を読んでも読書ノートを取ったりしない。理由は簡単で、記憶力がないので、読み終わるとすぐに内容を忘れてしまうから。というか、読みながらすでに序盤の方とかは忘れている。やけに主人公に親しげに話しかけてくる奴がいても、そいつが誰なのかわからないまま、(まあ、たぶん前に出てきた奴なんだろう)とむりやり納得して読み進めることがすごく多い。

でも、だんだんそういう雑な読み方で良いのかなあ、と思うようになってきた。4月にブログを始めてから、手慰みでアニメの感想をいくつか書いてきたのだけど、やっぱり、書くことで初めて気づくことって多い。ということは、逆に言えば、何も書かないで漫然と見ているだけでは、かなり多くのものを見落としてしまうということだ。

前に、「盆栽化する小説」という変なタイトルの記事を書いて、今の小説ってなんかおじいちゃんの盆栽みたいで読む気しないよ、みたいなことをたらたら述べていた。今読み返しても主旨はよくわからんのだけど、ようするに、小説にときめきを感じなくなってしまった、ということを言いたかったのかなあ、と思う。でも、ときめきを感じないのは、お前が鈍いだけだ、ということもありそうな気がする。「今の小説は盆栽だ!」なんて偉そうなこという前に、自分の読み方をもうちょいと洗練させてやろう。

で、小説読書ノートシリーズの第一弾は『ゲド戦記 影との戦い』。去年初めて読んで、すごく面白かったのだけど、例によって内容をほとんど何も覚えてない。

 主な登場人物

  • ハイタカ:本当の名前はゲド。ゴント島出身。山羊飼いの少年だったけど、なんやかんやあって天才魔法少年になる。でも若さ故の傲慢さからへまやらかして、影にとりつかれる。
  • オジオンハイタカの師匠。超無口だけど超やさしい。
  • ネマール:ロークの学院長。大賢人。ハイタカがやらかしたことの尻拭いをして大変なことになる。
  • カラスノエンドウハイタカが魔法学院で知り合った人。すぐに親友になる。いい奴。
  • ヒスイハイタカが魔法学院で知り合った人。やな奴。
  • ノコギリソウカラスノエンドウの妹。名前はアレだけどかわいい&やさしい。

 地理情報

  • アースシーゲド戦記各巻にはアースシーの地図が載っかってます。現実世界の世界地図とはぜんぜん違うので、たぶん地球とは違うどこか別世界のお話なのでしょう。原書だとアースシーはearthsea、つまり、「大地と海」ってこと。作中ではアースシーの地名がガンガン出てくるので、頻出の地名には蛍光ペンでも塗っておくとよいかもしれない。
  • アーキペラゴ多島海:この物語の主な舞台になる地域には大陸がない。インドネシアみたいにちっちゃい島々が点在してる。こういう諸島を「アーキペラゴ」と総称してるみたい。
  • ゴント島ハイタカの故郷。ド田舎だけど優秀な魔法使いがボコボコ生まれるチート地帯。
  • ローク:魔法学院のあるところ。
  • 人種:地球では白人がマジョリティで黒人がマイノリティだけど、アースシーではこれが逆転する。ハイタカも黒人だったはず(黒人っていうか、色黒っていう程度だけど)。

 魔法に関するシステム

  • 名前:魔法で大事なのは名前。相手が人だろうが動物だろうが草木だろうが、そのものの真の名前を言い当てると、そいつを支配することができる。だから、この世界で人々は真の名前をなるべく他人に教えずに、「ハイタカ」とか「カラスノエンドウ」みたいな、動植物から取った名前で生活している。
  • 均衡:でも、魔法をガンガン使ってると世界の均衡が崩れていく。均衡が崩れるとどうなるかというと、たいへんなことになる。だからゲドたちは普段あんまり魔法は使わない。なので、ハリー・ポッターみたいな派手な魔法アクションを期待してゲド戦記を読み始めると肩透かしをくらう。
  • 魔法学院:ロークという地域にある学院。最強の魔法使いたちが若者たちに魔法を仕込んでいる。どこかの国に所属しているわけじゃない。トップの魔法使いは王様と同じくらい偉い。

各章のあらすじとコメント

1 霧の中の戦士(p9-)

ゴント島にハイタカという山羊飼いの少年がいた。山羊飼いだけど、魔法の才能がみなぎっていた。よその国の軍隊に村が襲われたとき、ハイタカが魔法で霧を出した。敵の兵隊たちは霧に包まれてにっちもさっちもいかなくなり総崩れになった。ハイタカの才能を知ったゴント島の偉大な魔法使いオジオンは、ハイタカを引き取って魔法使いとして育てることにした。

【コメント】
魔法で敵をやっつけるというのはこの物語では珍しい場面だ。ただ、「霧を出す魔法」というのが適度にショボくて、やっぱりゲド戦記らしいとも言える。遊星爆弾を敵の頭上に降らせるみたいな派手な魔法は出てこないのだ。

ハイタカはこの物語において最強の魔法使いという設定なのだけど、これからも基本的に彼の活躍は地味だ。その地味さを予感させる、地味な晴れ舞台だと言える。

2 影(p32-)

ゲドはオジオンの元で暮らすのだけど、オジオンは魔法を教えてくれない。エボシグサを示して、お前はエボシグサのことをわかっとらん、そのまるごとの存在を知ることが大事なのだ、とか意味不明なことを言ってくる。

薬草を探しに野原に行ったら、白人の女の子がいた。やれやれ、醜い白人め。でも、話しているうちについつい気持ちがほぐれていって、魔法のことをいろいろしゃべってしまった。調子のいい女だ。あなた、魔法でハヤブサを呼び寄せられるのなら、死んだ人の魂を呼び寄せることもできるんでしょう? ねえねえねえねえ、やってみてよ、とヤバいことを言ってくる。で、ついつい乗せられて、オジオンの持ってる魔法の本をぱらぱらめくって死霊を呼ぶ魔法を唱えてみたら、なんだかヤバいものを呼び寄せてしまった。

危ないところをオジオンに助けられた。どうやら、あの女の子は魔女の娘だったみたいだ。オジオンに叱られたけど、ハイタカとしては、魔法を教えてくれない師匠にむかついてもいる。じゃあ、ここに残るか、ロークの魔法学院に行くか、どっちかにしなさい、と言われて、ロークに行きます、と答えた。

【コメント】
色恋の話がぜんぜん出てこないこの物語において、魔女の娘とたわむれているのは数少ないニヤニヤシーン。単に誘惑されて利用されてるだけなんだけど、もう、魔女でもなんでもいいからつきあっちゃえよ、だからお前は暗いんだよ、とか言いたくなる。

ところで、読み返してみると、オジオンはオジオンでダメだよなあ、と思った。言ってることは正論なのだけど、血気盛んな若者相手にエボシグサがどうこう言ったって「はあ?」となるに決まっている。もうちょいとハイタカの気持ちを汲んだ指導をしていれば、これからハイタカがダークサイドに落ちていくのを止められたのではないか。

序盤では、ハイタカは本当に普通の子どもとして描かれている。かわいい女の子に声をかけられたら見栄を張りたくなるし、物事が思い通りに行かないとむかっ腹を立てる。確かに才能はあるけれど、どこにでもいる調子に乗った子どもだ。で、調子に乗った子どもは調子に乗っているうちに、だんだん普通の人になっていくものだと思う。ハイタカにもそういう、普通の人になる道は開けていた。この段階なら、まだ引き返すことができたのだろう。

3 学院(p60-)

ロークの魔法学院でハイタカは魔法の力をぐんぐん伸ばしていった。人間関係は難がある。カラスノエンドウという親友はできたけれど、ヒスイという嫌みな奴とずっと仲違いしている。いつかヒスイを俺の魔法であっと言わせてやるぜ。

コメント この章は物語の世界観を説明するみたいな内容で、ちょっとかったるい。ハイタカが魔法の授業を受ける中で、魔法の言葉というのは実は太古の竜の言葉でね、みたいな設定が読者に明かされる。

この章から、ハイタカはオタクという小動物と一緒に行動するようになる。オタクといっても、オタクではない。前に読んだときはフクロウみたいな生きものなのかなあ、と思ってたけど、読み返してみるとフクロウだなんて書いてない。「からだが小さいわりには横に広い顔と鋭く光る大きな目を持ち、全身はこげ茶かぶちの光沢のある毛でおおわれている。鋭い牙があって、獰猛だから、人間のペットになることはめったにない。」(p87)とある。『グレムリン』に出てくるギズモみたいなのかなあ? 日本語で画像検索してもいいのが出てこないけれど、「earthsea otak」で画像検索するといろいろ出てくる。ナウシカの連れてるテトみたいのをイメージする人が多いみたい。ギズモじゃないのか。

3章までの感想

一言でいうと、かったるい。2章でオジオンが出てきて、3章でロークの先生方が出てきて、みんなハイタカにお説教してくる。このお説教が身にしみる人は読み続けるし、うぜえと思った人は投げ捨てるのだと思う。

で、お説教の内容というのは、要約すれば、人間はこざかしい知恵を働かせるのではなく、ちゃんと身の回りの自然の声に耳を傾けなさい、みたいなことなんじゃないかな。こういうお説教が身にしみるときは自分にもある。だけど、そんなお説教ばかりでもしょうがないよなあ、とも思う。実際、そのお説教はハイタカにはぜんぜん届いてない。また、今の時代の読者たちにもかなり届きにくいだろう。実際、『ゲド戦記』がジブリで映画化した後に原作小説がベストセラーになったみたいな話は聞かないし。映画の出来・不出来以前に、この物語の説教臭さが敬遠されているのだと思う。

ただ、そのことは作者もわかってるみたいで、だからこそオジオンたちのお説教はハイタカに届かない。また、この後の方の巻だと、ロークの賢人たちの世間に対する無関心ぶりが割と批判的に描かれるようになる。お説教はたぶん作者の本音でもあるのだけど、その一方で、お説教だけでもダメだというのを作者はきちんと自覚している。そこの二面性みたいなのをきちんと読み取ると、この小説をもっと面白く読めるかもしれない。

【読書ノート】『モラル・エコノミー』第2章

第2章 悪党のための立法(p9-)

イントロ(p9-)

ボストンの消防本部長は、病欠の多い消防士の給料を減らすことにした。そうすると、かえって病欠が増えてしまった。ずる休みが増えてしまったのだ。

こんな風に、インセンティブを与えるとかえって逆効果になることもあるのだよ。

マキャベリの共和制(p10-)

昔の哲学者たちは、法律だけつくっても人々が従ってくれないことに気づいてた。大事なのは、市民的徳(civic virture)を涵養することなのだ。

あのマキャベリだってそうなんだよ? マキャベリって、人間というのは根っからの悪人だから、法で縛んないとろくなことになんねえ、って言ってた人だ。そんなマキャベリでさえ、市民の教育は大事だと考えていた。人々は法に従うことを通して、善い慣習を学んでくれる、って考えてたわけだ。

制度だけでも人は動かない。でも、人々の善良さだけに期待するわけにもいかない。問題は、制度によって人々の善良さに関してどんな創発がみられるかということ。つまり、秩序立った社会の創発性だ。

悪党のための立法(p15-)

今の経済学者たちは「ホモエコノミクス」なんていう風に人間を単純化をする。でも、古典派経済学者たちは、それがただのフィクションであることをきちんとわかっていた。インセンティブみたいな制度だけで人が動くわけがない。

道徳感情と物質的利害の分離可能性(p20-)

今の経済学者たちは、インセンティブと道徳が分離できるものだと思っている。つまり、インセンティブで人を動かすときは、道徳の問題は棚に置いておいて構わない、ということだ。だけど、そういう認識は大間違いだ。

こういう研究がある。アメリカの士官候補生にアンケート調査をしたんだ。アンケートでは、彼らに士官学校に入学する動機を尋ねた。

動機には「道具的動機」と「内発的動機」という2つのカテゴリーを設定した。「道具的動機」は、「出世したい」みたいな、士官学校を自分の利益のための道具としているっていうタイプの動機だ。一方、「内発的動機」は、「とにかく士官になるのが夢だから」みたいな動機のことだ。

内発的動機が低い奴らは、道具的動機が高いほど士官になる確率が高かった。まあ、これはわかるだろう。つまり、とくに士官という仕事に思い入れはなくても、「出世して金持ちになって数十名の美女を自宅敷地内の各所にはべらせてやるぜ」みたいなガツガツした奴の方が士官になるということだ。

ところが、内発的動機の高い奴らは、道具的動機が高いと逆に士官になる確率が下がってしまうのだ。つまり、「士官になるのは子どものころからの夢でした!」と語りつつ、でも一方で、「美女をはべらせるのもいいよねえ」とか言ってる奴は、士官になりにくい。

士官学校側がPR戦略を立てるとする。相手が内発的動機の低い奴らばっかりだったら、「うちにくると出世できるよ!」「就職率100%」とかPRすればいいだろう。そうすれば、そいつらは道具的動機を刺激されて、士官になる確率が上がる。でも、相手が内発的動機の高い奴らだったら逆効果だ。かえって、「俺は士官になりたいのか? それとも出世したいのか?」というもやもやを抱えて、士官になる確率が下がるだろう。

ここで「内発的動機」というのを「道徳」と読み替えてごらん。で、「就職率100%」みたいなPRの仕方を「インセンティブ」と読み替える。すると、インセンティブと道徳は分離できないということがわかるだろう。

道徳不在の領域としての市場(p23-)

でも、経済学者たちは愚かにも、インセンティブと道徳は分離できると思い込んできた。だから、何か社会問題が発生しているのなら、人々が他人への害を考慮できるように、商品やサービスの価格に反映させればいい。つまり、内部化ってやつだ。

市場において、すべては「見えざる手」が何とかしてくれる。だから道徳なんて必要無い。そんな風に経済学者たちは考えてきたわけだ。

悪党のための経済学(p27-)

経済学者たちは、経済的相互作用は完備契約によって統治されなければならない、と考えている。つまり、すべては契約に書かれている。そして、買い手と売り手はその契約によって、請求権と責任を割り当てられるわけだ。

だけど、なんでもかんでも契約に書くことはできない。たとえば、あなたの労働契約書をタンスの中から引っ張り出してきてごらんなさい。あなたはたぶん、その契約書に書かれていない仕事をいろいろやっているはずだ。「職場で同僚に会ったら挨拶すること」なんて書かれてないし、「頭の悪い上司から理不尽な叱責を受けること」も「無能な部下に適切な指導を施すこと」も書かれていない。だけど、そういうことをあなたは日常的にやっている。

つまり、ほとんどの契約というのは実は不完備契約なのだ。ということは、「見えざる手」だって機能するかどうか怪しくなってくる。というのは、「見えざる手」が発動するためには、完備契約という条件が満たされていないとならないからだ。詳細を知りたかったら、厚生経済学の教科書を買ってきて、厚生経済学の第一基本定理というのを勉強してくれ。

マキャベリからメカニズム・デザインへ(p31-)

最近はメカニズム・デザインってのが流行ってる。インセンティブ・システムをもっと巧妙なものにして、人々をうまいこと動かしてやろうってアプローチだ。でも、第6章で検討するけれど、メカニズム・デザインが機能するための仮定もかなり現実離れしたものだ。だからやっぱり、道徳抜きでインセンティブだけで世の中を動かせるものではない。

で、そんなことみんなわかってるはずだよ。あなただって、自分の部下が「ボクはインセンティブが無いと全く働く気しないんです。ボクを働かせたいなら労働契約書に全部書いてください」なんて奴だったら明日から会社行くの嫌になっちゃうでしょう? そういうことだよ。

それなのに、インセンティブさえつければ人は動くっていう思い込みは根深いものだ。そういう思い込みに基づいて政策を立てたら、おかしなことになると思うよ。

コメント

前回のイントロの話をもう少し具体的にして、データの裏づけとか経済学上の議論との関連づけとかもしてみた章です。

士官学校のくだりは、ちょっとかみ砕いてまとめてみたけれど、解釈が合ってるかどうかよくわからない。そもそも「内発的動機も道具的動機も共に高い人」っていうのがどういう人なのかイメージがよくわからん。内発的動機が高いと、普通、道具的動機は下がるものじゃないだろうか? 少数ならそういう人もいるかもわからんけれど、その場合、サンプルに偏りが出てくるのは。あとで再サンプリングするとかなのかな。

【アニメ感想】「輪るピングドラム」20話まで

いかん、感想書くのをサボってるうちに、もうついて行けなくなってる。もう手遅れかもしれないけれど、気づいたことをメモしておこう。

「こどもブロイラー」を出す意味ってなに?

「こどもブロイラー」というのがよくわかんない。よくわかんないってのは、物語としてこれを出すことの意味ってなんなのかがよくわからない、ということ。

前の感想でも書いたけれど、この物語はかなり現実を無視しまくっている。冠葉の身体的タフさはもう人間のレベルではないと思うし、サネトシ先生みたいな異様な人が医者として陽毬たちに受け止められているのもおかしい。「リアリティがないぞ!」と突っ込んでいったらきりが無い。

それでも、現実と非現実の境界はいちおうある。たとえば、死んだ陽毬が生き返れば周りの人たちはみんな驚くし、プリンセスなんとかのイリュージョン世界もやっぱり「あっちの世界」の話だという位置づけになっている。あと、病室でたこ焼きをつくるのが非常識だという共通了解もあるみたいだ。決して、「何でもあり」というわけではない。

その一方で、「こどもブロイラー」に関しては、現実と非現実、どっち側の話なのか位置が定めにくい。普通に考えればこれもただのイリュージョン世界だ。ペラペラのこどもたちがシュレッダーみたいなので砕かれて「透明な存在になる」なんてのは、この物語の世界でもあまりに現実離れしている。だけど、この「こどもブロイラー」に陽毬や多蕗は実際に連れて行かれるし、彼らを晶馬や桃果が実際に救い出している。この描写をただの比喩だと考えることもできる。つまり、親に見捨てられて行き場のない陽毬や多蕗に対して、晶馬と桃果が何か優しい言葉をかけてあげた、というくらいのことを比喩として表現しているだけなのだ、ということだ。でも、だとしたら比喩としてあまりに大げさすぎるし、適切でもない。たとえば、多蕗を救い出すときに桃果は身体にダメージを食らうけれど、それはいったい何の比喩なのか。そして、晶馬達の父親が「こどもブロイラー」の存在を問題視してテロ事件を起こしたというのも、これがただの比喩だとしたら全く理解できなくなってしまう。だから、「こどもブロイラー」は比喩ではなく、本当に「こどもブロイラー」というものが実在する、という風に物語中で位置づけられているのだと思う。

でも、ああいういかにもイリュージョンっぽいものが物語の中に実在するとしてしまうと、物語自体のリアリティがかなり損なわれてしまうと思う。

もしかしたら、この物語において、現実と非現実の境目がだんだん曖昧になってきているということなのかもしれない。

たとえば、ユリの父親のつくった巨大なダビデ像みたいなのが街にそびえているイメージはかなり異様だ。これもイリュージョン世界の話のように思える。しかし、実際にその風景は他の人たちにも見えている。像はユリを抑圧する父のイメージなのだけど、ユリの精神世界の中にだけあるのではなく、現実に存在するのだ(そして、桃果の力で現実にその像は無くなってしまった)。

あるいは、マサコが祖父のとりついたマリオを救うために、祖父の調理したフグの刺身を食べて倒れる、というのも、途中まではただの夢だと思って観ていた。でも、これは物語中では現実のできごとで、マサコは実際にフグの毒でしばらく意識が戻らなかったのだ。

物語の回を追うごとに、現実と非現実の境目が曖昧になってきている。だから、「こどもブロイラー」が実在しても驚くことはない、ということなのだろうか。でも、そうなってくると物語自体がカオスになっていくと思うのだけど。わたしがこのアニメを観るのはこれで2回半目だ。2回目は、この20話目まで観たあたりで、ついていけなくなったのと、仕事が忙しくなったのとで、観るのをやめてしまった。物語自体がカオスになって、ぐずぐずに崩れていっている。完全に崩壊する前になんとか逃げ切ろうってことなのかな? 陽毬が晶馬から運命の果実を受け取る場面を観て感動する一方で、(でも、なんかもうカオスだよなあ)と白けかけてる気持ちもあった。現実と非現実の境目を曖昧にするというのは、面白い面もあるのだけど、うまく着地させないとただの寝言になりかねない。今は、寝言すれすれで物語が展開していると思う。

決して何者にもなれない

別の論点もメモっておこう。

この物語に出てくる大人はどいつもこいつもクズばかりだ。そして、こどもたちはそのクズな大人たちによって大きなトラウマを植え付けられている。冠葉と晶馬の親はテロ事件の犯人だし、ユリの父親は娘を虐待してたし、多蕗の母親も似たようなものだ。苹果の父親はダンディで性欲旺盛な浮気野郎で、マサコの祖父は強引な帝王教育によってマサコとマリオに強烈な精神的ダメージを与える。陽毬の母親は幼い陽毬を置き去りにして、姿さえも見せやしない。「どいつもこいつも…」って、『その男、凶暴につき』のラストの台詞を真似したくなるくらい「どいつもこいつも…」って思う。

で、そんなクズである大人たちに見切りをつけて、晶馬は陽毬に運命の果実を与え、自分たちで家族を始めることにする。それはもちろん嘘の家族だ。大人たちにトラウマを受け付けられた子どもたちは「決して何者にもなることができない」。そういう運命だ。だけど、嘘の家族をつくることで、運命から懸命に目をそらそうとする。だから晶馬は「運命」という言葉が嫌いだ。

晶馬に運命の果実を与えられた過去を思い出すまで、陽毬は完全に幼児退行している。それは、思い出したらもう家族ではいられなくなるからだ。だから幼児退行することで、トラウマを封印し、家族ごっこをつづけているのだといえる。幼児退行するのは無責任なのではなく、陽毬は陽毬なりに運命から懸命に逃げていたのだ、という見方もできる。

「決して何者にもなることができない」者たちの運命に対する対処の仕方はだいたい出そろってきたみたいだ。

対処法1:運命から目をそらして家族ごっこをつづける(陽毬、冠葉、晶馬)
対処法2:何者かに成り代わり何者かの運命を成就させようとする(苹果)
対処法3:自分だけ運命から逃れようとする卑怯者たちをすりつぶす(マサコ)
対処法4:運命に復讐する(多蕗、ユリ)

で、どれも失敗してしまう。だから、ピングドラムを探すのだ、ということになるのだけど…。

でも、物語からいったん離れて、現実問題として考えてみると、運命を変えるというのはとても難しいことだ。周りに良い大人がいなかったら、そもそも運命を変えようという発想自体持ちにくいだろうし。そういう人たちにも届く作品をつくる、というのはほとんど不可能かもしれない。サリン事件を題材に取るということもかなりリスキーだけれど、運命というものをテーマにすることも同じくらいリスキーだ。この試みが成功するのか、失敗するのか、まだよくわからないけれど、凡人なら絶対にこんな危険な橋は渡らない。この試みをしたというだけでも、やっぱり偉大な作品なんじゃないかなあ、と思う。

謎解きばっかりやってるのもダルいけど

いろいろ書いてきたのだけど、謎解きみたいのをするのは正直ダルい。「○○は××の象徴で~」とか、この物語を解釈しようとすると必然的にいろんな象徴や比喩を読み解くことになってくる。だから真面目に謎解きをやってるのだけど、ダルい。

で、このダルさは何なのかというと、「言いたいことあるならはっきり言えばいいじゃん」という不満があるから。ダリとかのシュールな絵を見るときも同じようなことを感じるんだけど、「○○は××の象徴で~」って解釈が可能なくらい作者の中で言語化できてるのだったら、わざわざ象徴なんて迂回しないで、口で説明すればいいと思う。

デヴィッド・リンチの映画なんかだと、どんな風に解釈してもぜったいにつじつまが合わないところが出てくるから、口で説明することはできない。本人も、ボクの映画は解釈とかしないで、そのままただ観てくれればいいよ、HAHAHA、みたいなことをどっかで言ってたし。

でも、この作品はある程度つじつまの合う解釈ができるようにできていると思う。たぶん、真面目な人はもうちょっときちんとした「ピングドラム論」を書いてると思うし。だったら、最初からそのきちんとしたピングドラム論とセットで視聴者に届ければいい。

残りあと4話しかないけれど、どんどんつじつまが合わなくなってくれたら良いのになあ。つじつまなんてかったるい。いやだわ、早くすりつぶさなくちゃ。

【読書ノート】『モラル・エコノミー』第1章

読む動機

  • 何年か前に読んだ本だけど、ちょっと必要があって再勉強してみることにした。
  • 最初に読んだときは素晴らしい本だと思った。「経済を機能させるには倫理が必要だ」ということを、ただのお説教じゃなくて、心理学実験のデータによってきちんと実証的に示してくれている。経済と倫理の関係を問うアマルティア・センの議論をさらに先に進めて、より実用的なものにバージョンアップする議論だと受け止めていた。
  • でも、だんだん、そもそもここで語られているのは「倫理」ではないんじゃないか? という気がしてきている。
  • センにとって倫理というのは、人々が理性による公共的討議を通して構築していくものだ。それに対し、本書の著者であるボウルズはそういう公共的討議のプロセスみたいなものは考えていないように思う。
  • 本書の副題には「インセンティブか善き市民か」とある。この「市民(citizen)」というのは、「社会的選好」という、社会や他者の利得に配慮するタイプの選好を持つ主体という風に性格付けられている。それは良いのだけど、じゃあ、そういう社会的選好はいったいどういうプロセスで生まれたものなのか、というのはあまり本書の中で議論されてなかった気がする。いや、なんか文化進化論みたいな話が出てきた気もするけれど、文化進化論のアプローチだとセンやヘーゲルの議論に出てくる「理性」という話がすっぽり抜け落ちてしまう。
  • 「理性」がなくても「社会的選好」を持つ人々というのは想像できる。たとえば、日本の昔のムラ社会において、人々は社会的選好を持っていた。耕作放棄地が出れば隣の人が面倒を見るし、若い男女は家を存続させるために親の決めた相手と結婚する。それが当時の常識だった。だけど、こういうムラ社会において、理性による公共的討議などというものは行われない。なんとなくの同調圧力があって、空気を読み合いながら動いているだけだ。だから。当時の社会というのは女性差別がガンガンに行われていたわけだけど、そういう状況を是正しようという動きは内部からは起こらなかった。センの言い方を使うなら、不正義を発見するために理性がうまく機能してなかったのだ。
  • ボウルズの考える「市民」には、こういう、理性をあまり働かせない昔のムラ社会の住民みたいなのまで含まれてしまうと思う。だとすると、ボウルズが示しているのはあくまで「経済と社会規範」の関係であって、「経済と倫理」の関係じゃないんじゃないか。
  • それがどうして問題なのかというと、これでは、「やっぱり昔のムラ社会が良いよねえ」みたいなつまんない話につながりかねないからだ。社会の経済的パフォーマンスを高めるには、われわれは伝統を見直さなければならないとかね。小学校では儒教を教えようとか、上杉鷹山に見習えとか。そんなのはもちろん無理だ。現在において人々の価値観は多様だし、そもそも日本人じゃない人たちだってたくさん日本にいる。小さな会社とかNPOとかスポーツクラブとかの小集団でやるのなら良いかもしれないけれど、文科省が仕切って日本中で行うようになったら悲劇だ。そういう馬鹿馬鹿しいノスタルジーを肯定してしまいかねないような、危ういところがボウルズの議論にはあるんじゃないか? そんな問題意識を持ちつつ、再読していきたいと思う。

第1章 ホモ・エコノミクスに関する問題

経済学では人間は「ホモ・エコノミクス(経済人)」であると仮定されている。つまり、人々は完全に利己的であって、チャンスがあれば常に相手を出し抜こうとする奴らだということだ。だから、人々を動かすには経済的インセンティブを与えなくてはならない。たとえば、レジ袋の利用を控えてもらいたいのなら、レジ袋を有料化すればいい。家庭で子どもに皿洗いを手伝わせたければ、小遣いで釣ればいい。そういうことになる。

だけど、これは変な仮定だ。というのは、現実の人々はそんなに利己的じゃないからだ。それに、経済的インセンティブを与えたら本当に人がそれに釣られて動くとは限らない。むしろ、経済的インセンティブを設定することで、人々が道徳心を忘れてしまうようなこともあるんじゃないだろうか?

たとえば、イスラエルのハイファという都市の託児所では、子どもを迎えに来るのに遅刻する親が結構いた。それで、遅刻に対して罰金を設定したのだけど、なんということか、遅刻の頻度は2倍に増えてしまったのだ。おそらくこれは、「お金さえ払えば遅刻していいんだ」と親たちに理解されてしまったからではないだろうか? 経済的インセンティブを設定することで、「遅刻してはいけない」という親たちの倫理的義務感は掘り崩されてしまったのだ。

私は別に経済的インセンティブなんかやめちまえ、と言っているわけではない。そうではなくて、インセンティブと倫理的な動機付けには相乗作用があるということを言っているのだ。そういう相乗効果を無視していては、政策はうまく機能しない。

人々をホモ・エコノミクスだと仮定した政策はうまく機能しないことがある。このことを、次の章ではもうちょっと詳しく見てみよう。

メモ

ここは完全なイントロの章。ハイファの託児所は有名なお話で、確かサンデルの本でも引用されてた気がする。

学生時代に読んだ本だけど、コーンの『報酬主義をこえて』という本でも、お絵かきを楽しんでいる子供たちに「お絵かきしたらご褒美あげるよ」と言ったら、できあがる絵の出来が劣化する、とかいう話が出てきた記憶がある。「楽しいからお絵かきする」のなら、自分が納得いくまで根気よく描くことになる。だけど、「ご褒美もらえるからお絵かきする」だと、適当に描いてもご褒美がもらえるのだから、なるべく手抜きをしようということになる。

これはいろんな場面で出てくる問題だと思う。研究者の場合も、「査読論文の数やインパクトファクターによって就職が決まる」ということになってしまったら、少しでも流行に乗った受けの良い研究テーマに飛びつくことになりがちだ。自分が研究したいから研究するのではなくて、社会的ニーズが高いから研究するという、なんだかむなしいことになっている。そういえば、前の職場で、「あなたの研究分野のホットトピックはなんですか?」ということをやたらと聞いてくる先生がいたっけ。「SDGs」が話題になったら授業で「SDGs」を連発して、陰で学生達に「SDGs先生」と呼ばれて馬鹿にされてたけど、元気にしてるかなあ(棒読み)。

ところで、ちょっと気になったのは、ホモ・エコノミクスの定義。ミクロ経済学とかの教科書だと、個人は自身の効用を最大化する存在だとされている。でも、この「効用」の中身がなんなのかは何も限定されていない。だから、たとえば寄付をすることで効用が高まるような利他的な人がいても問題ない。フェアトレードの商品を買うことで効用最大化できる人だってOKだ。本章において、ボウルズは「利己的」「利他的」というのを割と雑に使い分けているけれど、これらの概念を厳密に使い分けないと、ちゃんとした批判にならないんじゃないかな。「利他的であることも含めて利己的なんです」って言われたらどうするのか? そういう議論は後の方の章で出てくるんだっけ?