【読書ノート】『地球と存在の哲学』第2章

第2章 母型の郷愁

1 近代性の拒否

 西洋にとっては、近代というのは時間的な現象だ。つまり、それまでは前近代だったけど、ある時点から近代に移行したのだ、ということだ。だけど非西洋社会にとっては、近代とは空間的なもの、つまり、西洋との対峙という問題になってくる。

 だから、非西洋社会では、近代は悪として捉えられることもある。なぜならそれは、自分たちのアイデンティティを侵害するものと見なせるからだ。

 それで、環境破壊の元凶は近代科学だ、なんてことを言い出す人も出てくる。梅原猛なんかは、西洋は怒りと力の文明であり、反対に東洋は慈悲の文明だ、なんてことを言っているくらいだ。

 だけどそれも結局は、自民族中心主義なのだ。日本人は、自分たちは自然についてよく理解しているから、自然の本質を庭園の形で表現できるのだ、と主張する。でも、そんな日本庭園だって、同じ東洋の中国人や韓国人から見たら随分不自然に見えるものなのだよ。

2 共生への郷愁

 昔を理想視するのは西洋人も東洋人も同じだ。たとえば聖書では「エデンの園」が理想だし、中国では遙か古代に「大同」という理想社会が存在していたという思想がある。そうした楽園では、人間と自然と神々は共生している。そのような「原初の母型」に対して人々は郷愁を抱くのだ。

 こうして自分の本当のアイデンティティを求める衝動は、「私たちの環境」が「他者の環境」よりも優れているという考えにつながる。本当は、単にお互いの文化的アイデンティティが異なるというだけの話なのに。

 この考え方はさらに、「良き野蛮人」という神話にもつながってくる。それは、「私たち」が失った本当のアイデンティティは、「良き野蛮人」の中に残っているというものだ。それで、現代のエコロジストはアメリカ・インディアンやアボリジニ生活様式を理想化しようとするのだ。もちろんそれは、そうした社会への粗雑な認識不足によるものだ。

 理性的な動物解放運動や、あるいは自然が「権利」を持つと主張する人々は、ようするに「大同」を求めているのだ。大同というユートピアでは、人間とそれ以外の生命のあいだには何の区別もなく、共存しているからだ。

3 全体論からファシズム

 日常生活の中で、動物に優しくしたり、害を与えないようにしたりするのは普通に見られる風俗習慣だ。だけど、それを「倫理」に格上げしようとするとやっかいなことになる。なぜならその場合、存在論的な問題が絡んでくるからだ。つまり、人間と非人間を存在論のレベルで同じように扱えるのか、という問題だ。

 人間に関しては「権利」と「義務」の関係が成り立つ。だけど、これを人間以外にまで広げることはできない。コブラには人間を噛まない「義務」があるだろうか? プレート・テクトニクスには地震を起こして都市を破壊しない「義務」があるだろうか。もちろん無い。だから、権利とか義務とかの概念を使って環境の倫理を築くことはできないのだ。

 それでもむりやり「自然の権利」について語ろうとすると、倒錯した結論が出てきてしまう。たとえば、地球の生態学的なバランスを保つには、人間の定員を減らす方が良いなんて言う人までいる。これはむしろ不道徳な主張だ。

 彼らは生態学全体論という特殊な存在論を前提としている。つまり、重要な地位を持つ存在とは「生命を持つ存在」なのであり、それが人間だろうが動物だろうが区別する必要はない、というタイプの存在論だ。まあ、それはそれで「なぜ生態系を尊重しなければならないか」という問いに対してはきちんと応えている。だけど、「その倫理を誰が守らなければならないのか?」という問いに対しては応えることができない。バッタに責任があるだろうか? ない? ないとしたら人間に責任があるというのだろうか。でも、生態学全体論では人間と動物を区別しないはずなので、それでは矛盾だ。だから、「誰が守るの?」という問いには沈黙するしかなくなってしまうのだ。

 結局、人間の主体性を捨象してしまうと、倫理は成り立たなくなってしまうのだ。そんなことしたら、結局はファシズムに行き着くだけだろう。

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 整理してみると、1~2節の内容と3節の内容はあんまりつながってないように見えるな。1~2節は、自民族中心主義のために「わが国の自然はよそよりも優れている」とか「東洋は西洋とちがって環境に優しい文明なのだ」とかの変な主張が出てきてしまう、という話。3節は、人間と動物の存在論的なちがいをきちんと考えずに環境の倫理をつくろうとするとファシズムに行き着くよ、という話。いちおう、「大同」というキーワードでふたつの議論をつなげようとしているけれど、ちょっと無理があると思う。

 で、議論の中身自体はというと……普通かな。ただ、最後に「人間の主体性」という論点が出てきたところで、ベルク独自の環境倫理に関する議論につながっていくのだと思う。たしか。

【読書ノート】『地球と存在の哲学』序論、第1章

 ベルクはもう読まない! というつもりでいたけれど、やっぱりもうちょっと読まないとなあという気持ちになった。

 風土論によって気候変動みたいな環境問題が解決されるとは全く思わないけれど、風土論のような視点を持たないで環境問題について論じるのはなんか片手落ちのように思えてならない。ベルクは「風物身体」という独自の言い方をしているけれど、ようするに、人間と環境というのは簡単に切り離せるものではないということだ。たとえば、生まれ育った土地の川や森や原っぱのことは、それらが別に生態学的にはどうってことない普通の自然だとしても、その人にとってはかけがえのないものになる。

 環境の価値っていうと、最近は「生態系サービス」とか洒落臭い言葉を使う人が多いのだけど、そういうのは物事を常に打算を通してしか見ることのできない人々の悪い癖だと思う。その人にとって大切な環境とは、それが役に立つかどうかとはまた別の次元で見えてくるものだと思う。ようするに、「環境への愛」ということなのだけど。愛抜きで環境について語るのって、環境に対する接し方として、根本的に間違っているんじゃないかと思うんだ。ということで、私は愛に飢えるとベルクに回帰するのだ。

序論

 わたし(ベルク)は「環境」について語りたいのではない。むしろエクメーネ(風土としての地球)の倫理について語りたいのだ。

 エクメーネとは、人間の居住する、地球上の部分を意味する。エクメーネを所有するのは人間だけだ。エクメーネとしての地球は、私たちを人間たらしめる条件なのである。エクメーネがなければ、私たちは動物と同じだ。

 エクメーネは倫理学の問題だ。なぜなら、私たちがエクメーネに住んでおらず、単に環境に規定されて生きているだけだとしたら、そこには善も悪もないだろう。そうではないからこそ、私たちには倫理があるのだ。

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 「エクメーネ」が連発されて何が何やらわからないけれど、「エクメーネ」は「風土」と言い直していいと思う。最近の本だと、ベルクは「風物身体」という言葉を使い、人間は動物身体と風物身体のハイブリッドだというようなことを言っている。風土(エクメーネ)がないということは、風物身体を失うということであり、したがって、人間は存在できなくなるということになる。

 ただ、ここから倫理の話に辿り着くには少し距離があるように思う。そこはここから少しずつ議論を深めていくのだろう。

第1章 ヒューマニズムからその対局へ

1 近代性の危機

 環境危機を前にすると、近代批判を始める人は多い。ここでいう近代というのは、「近代は世界を分解する」という公式で要約できるようなものだ。ようするに、事物と人間を分断することで、ものごとのバランスを崩すということだ。

 近代西洋と異なる文明においては、事物と人間はこんなにきれいに分断されてない。たとえば中国では「気」が人体内部と環境の事物のなかを同じように循環していると考える。だから、「気」の問題は医学の問題だけでなく、美学や倫理学の問題にもなり得るのだ。

 ヨーロッパでは、環境世界から科学知識が次第に分離してきた。たとえば、18世紀以降は雨天晴天に関することわざがあまり生まれなくなってきた。これは、昔は気候と道徳の問題がそれほど分離されていなかったが、やがて気候が科学だけが扱う問題に変化してしまったからだ。こうして、人間は世界から分離することによって、大きな自由を手に入れたのだ。

2 理性の危機

 環境を重視する人たちは「人間中心主義」という言葉をよく使うけれど、この言葉には2つの意味がある。混同しないように整理しておこう。

 最初の意味は、「自民族中心主義」だ。つまり、自分の文化の色眼鏡で世界を捉えるということだ。

 もうひとつの意味は、人間の普遍性を前提とする、西洋文化特有の発想だ。近代的主体は、こちらの方の人間中心主義から生まれた。

 後者の意味の人間中心主義は、実は宇宙中心主義でもある。何を言ってるかというと、主体と客体が分離しているということだ。人間は人間、環境は環境、それぞれは別物です、両方のあいだを流れてる「気」なんてものはありません、ってことだ。

 たとえばヨーロッパの数学者たちは、自然は数学の言葉で書かれていると考えた。だから、数学理論を極めていけば宇宙に到達できる、というわけだ。これに対し、中国では逆に、常に実践が理論に先んじていた。だから、「そんなのわざわざ証明しなくたってわかるよ」というような数学の問題には彼らは興味を持たなかった。イエズス会の宣教師がヨーロッパの数学を中国の数学者に紹介したとき、「証明が無駄に網羅的で退屈」と呆れてたという。

 実践を介さず、理論だけを通して環境をみる、というのは、ようするに、感受性を排除しているということだ。ということは、そこに倫理の入り込む余地はないのだ。

 だけど、20世紀にはいると数学も物理学もだんだん変わってきた。近代のパラダイムから外れていって、相対論的世界像に到達している。また、哲学の世界でも、フッサールが「地球は動かない」なんて言い出している。これはガリレオの「それでも地球は動いている」のパロディだ。フッサールが言いたかったのは、環境世界には固有の真実があり、その見地は科学の抽象的な見地と同じものではないということだ。

 というわけで、状況は変わりつつある。近代と決別して、倫理の問題をもう少しきちんと考えてみよう。

3 ヒューマニズムの危機

 実は、近代に固有の基盤の再検討を促したのは近代それ自体だ。自然科学は、人間を決定論的に扱うようになった。地理決定論とか、あるいは、社会生物学だ。一方、社会科学は人間の振る舞いを社会的・文化的な条件付けで示そうとしてきた。たとえば60、70年代の構造主義では、「人間の死」という公式が示された。これは、「人間」、つまり広い意味でのヒューマニズムにおける「意識的で責任能力のある個別の人格」とは、近代西洋の文化を特徴づけるモチーフに他ならない、というものだ。

 近代は、世界の脱象徴化を進めながら、新たな象徴装置を生産してもいる。しかしそれは、限られた領域における効率をねらうような象徴でしかなく、世界の全体的な秩序を象徴するようなものではない。たとえば「道路交通法」という装置によって、人々は信号に機械的に反応するようになる。効率的ではあるが、人々の行動は機械的で自覚のないものになってしまう。近代の技術体系はそうやって人々の選択の可能性を奪い、倫理の条件自体をも排除しているのである。

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 近代は人間と環境の分離を推し進めた揚げ句、皮肉なことに、近代が称揚していた「ヒューマニズム」を自ら破壊することになってしまった。そうして、人間は機械のようになり、倫理もまた失われることになった。その流れがコンパクトに解説されている。

 難しい言い方をしているし、思想史的な部分が専門家からみて正しいかどうかはよくわからないのだけど、感覚的には納得いく論旨だと思う。人間と環境が分離して、環境は科学の領域だけで扱われる対象になってしまった。柳田國男折口信夫なんかを読んでいると、昔の日本人にとって、山とか木というのは、神様の住まう場所だったわけだ。だから、生態系サービスがどうたらと言う以前に、山を荒らしたりご神木を切ったりしてはいけなかった。つまり、環境とは自然科学の問題なのではなく、倫理の問題だったのだ。いちいち「生態系サービス」なんて滑稽な言葉を使わないと環境の大切さを示せなくなってしまったのは、環境は人間にとって大切なものなのだという当たり前のことが、もはや当たり前ではなくなってしまったからだ。

 私はこのブログで環境倫理学の悪口をたくさん書いているのだけど、そもそも環境倫理学が無力なのは、今の人々にとって環境はもはや倫理の問題ではないからだ。「生態系サービス」って言葉からもわかるように、環境は人間に対して奉仕(サービス)するものと見なされているのだ。そういう風に見なして環境の価値を見える化していかないと環境を守っていけない、ということもあるんだろうけれど…。でも、なんか根本的なところでずれてないか? という気持ち悪さが拭えない。それで私は何度もベルクを読み返すことになるのだ。

【読書ノート】『グリーン経済学』22章~ラスト

22 グリーンプラネット

 気候変動みたいなグローバルな外部性の解決に取り組むには、主要国の協調行動が不可欠だ。だけど、現在の国際法ではそのための責任を共有するように各国に要求することができない。

 気候変動政策が実効性を伴うためには、温室効果ガス排出の市場価格を引き上げる必要がある。ようするに、排出に価格をつけよ、ということだ。具体的には、キャップ・アンド・トレードか炭素税を使えよ、ということだ。

 では、二酸化炭素排出の価格はいくらにするべきだろうか? それを求めるためには費用便益分析を使う。もちろん、気候変動の影響は複雑なので、そんなに簡単にはいかない。「統合評価モデル」というのを使う必要がある。統合評価モデルに基づいて費用便益分析をやってみると、二酸化炭素1トンあたりの価格は約40ドルとなる。そして、この分析を通して次のような結論が導き出される。

  1. 排出ペースを遅らせるための政策を、可能な限り早く導入すべきだ。
  2. 気候政策を調和させるべきだ。つまり、排出削減の限界費用をあらゆる分野で等しくしよう。
  3. 政策の実効性のためには、できる限り高い参加が必要だ。
  4. 実効性の高い政策とは、徐々に強化していく政策だ。つまり、高い炭素価格の世界に適用できるよう、人々に時間を与えよう。

 ところで、さっきの40ドルという炭素価格を設定すると、気温の上昇は(2100年までに)およそ3度上昇する。「え? パリ協定だと2度未満に抑えるんじゃなかったっけ?」うん、その通りだ。でも、その目標を達成するためには、40ドルではなく200ドルまで炭素価格を上げないといけない。

 それに、その40ドルでさえぜんぜん達成できてないのが現状なのだ。2020年時点で、炭素価格は約2ドルに過ぎないのだ。

コメント

 この話題、すでにどっかで読んだ気がするんだけど、思い違いかな? 同著者の『気候カジノ』で読んだのかもしれない。個人的にはとくに新しい話題じゃなかった。

23 地球を守るための気候協約

 グローバルな気候変動政策を妨げるフリーライドは、つぎの2つの次元で生じる。

  1. 国家が他の国家の取り組みを当てにすること。
  2. 現在世代が行動を先送りして、将来性に費用を押しつけること。

 京都議定書は、各国の気候変動政策を効果的に強調させようという野心的な取り組みだった。ところが、どの国もその取り組みに経済的なメリットを見いだせなかった。アメリカはさっさと撤退してしまったし、中国のように排出義務を負わされてない(当時の)途上国の排出量は急増した。「京都議定書の排出規則は、そのあまりにお粗末な設計ゆえ、どこの国も積極的に参加しようとしないクラブで終わってしまったのだ。」(p334)

 京都議定書の次はパリ協定だけど、これもあんまり役に立たない代物だ。というのは、各国の政策は調整されておらず、自主的な目標だったからだ。つまり、「全部の国が目標を達成すれば気温上昇を2度未満に抑えられる」という風に割当量を配分してたわけではないし、そもそも目標を達成できなくても何の罰則もないのだ。

 今の気候変動政策がいかに不十分かを見るには、炭素強度の推移をみてやればいい。炭素強度とは、二酸化炭素排出量をGDPで割った値のことだ。つまり、経済生産の規模に対して二酸化炭素排出規模がどの程度かを示す指標だ。

 実は、炭素強度の減少ペースはぜんぜん加速していない。中国だけは年マイナス3.6%のハイペースだけど、中国を除く全世界でみると、マイナス2%弱くらいで横ばいになっている(1980年~2017年の傾向)。

 2度未満という目標を達成するためには、2050年までに炭素強度をゼロに抑えなければならない。でも、今のペースではそれはとても無理だ。

 私(ノードハウス)が提案したいのは、気候変動対策に関してクラブか協約のモデルを採用することだ。つまり、この気候協約では、参加国は調和された排出削減に取り組むが、義務を果たさない場合にはペナルティが科されるようにするのだ。

 ペナルティとは具体的にどのようなものか? それは、非参加国から参加国への輸入に関税をかけることだ。関税をかけること自体は参加国に費用がかかるものではないので、問題無く実施できるペナルティであるといえる。

 なお、この協定では、排出量ではなく炭素価格を目標とする。なぜかというと、排出量に焦点を当ててしまうと交渉の過程で歪みが生じやすいからだ。たとえば、どこの国もグローバルな総排出量については低い数値にすることに賛成する一方、自国の排出量については高い数値を求めるだろう。

コメント

 最後の協約の話が面白いけど、これも『気候カジノ』で出てこなかったっけ…。あれも分厚い本だったので内容をよく覚えてない。

 このモデルが有効なのだとしたら、ピケティが言ってるみたいなグローバル累進課税も同じ方式で推進できると思う(あれもようするにグローバルな外部性をどうしようかという話だったと思う)。

 でも、実際のところどうなのかな。この手の話は疎いのでよくわからんのだけど。ペナルティの大きさ次第という気もする。二酸化炭素1トンあたり40ドルの負担よりもさらに大きな関税じゃないとペナルティとして意味ないだろう。ただ、そうした関税はそれこそ市場を歪めてしまうものなので、そのあたりでなんやかんや問題が発生しそうな気もする。第一、ノードハウス自身、環境税は歪みを生みにくい税金なのだというので環境税をプッシュしてたのに、一方でめちゃくちゃ大きな歪みを生み出しそうな関税をプッシュするというのは、なんか矛盾した姿勢のようにも思える。

24 グリーン懐疑派

 グリーンに対する態度はいろいろタイプ分けできる。次のは、上から順に、グリーン重視が弱まるように並べている。

  • ディープグリーン
    • 生物中心、環境価値重視。人間の選好はあまり重視しない。
  • グリーン精神
    • われわれの立場。人間のニーズや欲求を中心に置きながらも、それ以外の価値も含めるべきと考える。
  • 自由市場環境主義
    • 公共財の価値に対する懐疑。政府には経済を効率的に規制する力がある。フリードマンが代表的。
  • マック・ブラウン
    • グリーン思考は間違ってるとか喧伝して、自分の利益を優先する人たち。

 自由市場環境主義についてもう少し説明しておこう。フリードマンのような自由市場環境主義の立場だと、国立公園の存在は正当化されない。というのは、政府が介入しなくても、民間企業が運営することもできるからだ。

 だけど、フリードマンの考えは狭い。彼の考えだと、国立公園は、訪問者がそこを訪れて楽しめるアミューズメントパークとしての価値しかないことになるからだ。もし、そんな風にするよりも鉱山採掘した方が利益が上がるとなれば、それも正当化されることになってしまう。

 それに、国立公園の豊かな生態系の恩恵は広く世界に、そして将来にまで及ぶ。ところがそうした価値を訪問者たちが支払う入場料に反映させるのは難しいだろう。

 だけどその一方で、自由市場環境主義者たちはいいことも言っている。それは、市場の力は生活水準を向上させる、というものだ。たとえば、19世紀後半、ニューヨークでは輸送に馬が使われていて、街は馬糞まみれだった。ところが技術革新により自動車が発明されると馬が使われなくなった。つまり、環境効率が上昇したということだ。

 とはいえ、市場に何もかも任せていてはいけない。やっぱり規制は必要だ。たとえば、GDP当たりの二酸化硫黄排出量は、規制が導入される1970年までは年マイナス1.9%で減っていたが、規制が導入されてからは年マイナス7.4%で減少している。

コメント

 市場の力を使いつつ、規制のこともちゃんと考えるのがわれわれグリーン精神の立場だ、ってことかな。

 フリードマンの国立公園に関する議論は前に記事で触れたことがあった。そのときはなるほどねと感心したけど、確かに言われてみればいろいろ問題はあるか。

odmy.hatenablog.com

 ただ、じゃあ国立公園に関しては市場原理を適用してはダメってことなのかな? CVMとか使って生態系の価値を貨幣評価するというやり方はあると思うけど、確か『気候カジノ』では、ノードハウスは生態系に対する貨幣評価は不確実過ぎて当てにならないみたいなことを言ってたと思う。トラベルコスト法だと生態系の価値は評価できないし(それだと訪問者に料金を払わせるのと実質的に同じことになる)。そう考えると、国立公園は政府による直接規制をするのがベストということになるかな。

25 グリーン精神をめぐる旅

(本書全体のまとめ。略)

全体感想

 基本的には環境経済学の本なのだと思うけど、そこに「持続可能性」という視点を入れているのがグリーン経済学の特徴なのかなあと思う。ただ、その割には持続可能性に関する議論はそこまで多くなかった気もする。直接該当するのは、グリーンNNPという指標を元に「エクソ文明は持続可能ではない」と言ってるあたりくらいかな。で、基本はとにかくグリーン税。個人倫理にはあまり期待してなくて、グローバルなグリーン税の枠組みをいかにつくるか、というのが一番重視されているみたいだ。で、そういう枠組みで規制しきれない部分に関しては各企業のESGに期待する(ここらへんはヒースの市場の失敗アプローチに似てる)。

 極めて常識的な本だと思う(その分、面白みがないとも言えるけど)。いきなり環境経済学の教科書を勉強したりすると、倫理とか政治とかの話が省かれがちなので、どうして環境問題を経済学で考えないとならないのか、飲み込みにくいことがある。また、環境経済学の枠組みを使ったら本当に温暖化は抑えられるのかとかも、教科書ではあまり論じられない。この本はそういう、環境経済学の物足りない部分を補ってくれているのがありがたい。面白みのない結論であっても、こうした面白みのない結論以外にとくに名案はないのだよ、ということを納得させてくれるという点では価値がある。

 あと、やっぱり環境倫理学は無力なのだなあ、といつもながら思う。関連する議論は2章でミューアの話が出てきたところと、あとは、24章の「ディープ・グリーン」に関するところかな。ここにはディープ・エコロジーとかのいわゆる人間非中心主義系の考え方が入ってくる。これらの考えは多くの人々の支持を得られないので、現実の環境政策に影響を与えることはできないだろうとされている。

 グリーン経済学における倫理の役割は、だいたい次のような感じになるかな。

  • (一般市民は)外部性を規制する法の成立を促すこと。
  • 無後悔対策の原則に従って、環境配慮に伴う少々の損失は受け入れること。
  • 企業は外部性の軽減に努めること(ただし、得意分野に資源を集中し、さらに、自社の利害関係者に便益をもたらすESGに焦点を当てること)。

 改めて見てみても、やっぱりヒースの市場の失敗アプローチとかなり似てる(無後悔対策の原則のところはノードハウスのオリジナル)。経済学の視点から現実に影響を与えうる倫理を構築しようとしたら、こういう形になるものなのだろう。ただその一方で、環境倫理学の分野ではこうした議論はほとんどされてないと思う(ヒースの気候変動の本も訳されてないし)。本当は、環境倫理学の分野から本書に対する書評が出るべきなのだけど、少なくとも日本語のものは見つからない。経済学の人たちは倫理学を勉強するけど、倫理学の人たちは経済学を勉強しない傾向があるみたいだ。

【読書ノート】『グリーン経済学』19章~21章

19 グリーン世界における個人の倫理

 アダム・スミスのいう「見えざる手」がうまく働いていれば、私たち一般市民は倫理をめぐる複雑なあれこれを考えなくて済む。市場がきちんと機能しているなら、私が何かを売買する時、たいてい売買相手の経済的な幸福を向上させるからだ。それに、倫理的にその行動が正しいかどうかを判断するために情報をたくさん集める必要もない。

 でも、現実の世界には外部性がある。そういう場合、見えざる手はうまく機能しなくなる。そして、外部性によって私たちは他人に害を及ぼしてしまう。それなのに、その分の補償をしないのは非倫理的といえるだろう。つまり、外部性が規制されていない場合の道徳的な原則は、次のようなものになるのだ。

他者に害を為してはならない。害を為した時には、補償しなければならない。(p270)

 また、外部性が規制されてない場合、そうした外部性を規制するための法の成立を促すことも、私たちの倫理的義務になる。

 もうひとつ、経済学の考えにもとづく倫理を述べておこう。

あなたの外部性のフットプリントを削減する、ほんのちょっとした行為によって、全体的な幸福度を大きく向上させ、相手に対する外部性の影響も削減できる。(p274)(だから、そのほんのちょっとした行為をしよう)

 これは、私が「無後悔対策」と呼ぶものに基づいている。私の幸福と、あなたの幸福はトレードオフの関係にある。私が夏に、エアコンの温度を21度にしておいて快適に過ごしているとする。あまりに快適なので、21度を22度にしてもそれほど快適さは失われない。だけど、そうすることで電気の使用量を10%減らすことができる。そうなると、あなたの幸福度はだいぶ上がることになるだろう1

 だけど、こうした行動を個人でやっても、あまり大きな効果は期待できない。そもそも、どんな行動をするのが環境にとって効果的なのかという情報も個人には不足している。とくに気候変動みたいな問題に対処するには、政府による力強い集団行動が必要になってくる。

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 外部性がないときの倫理原則(ちゃんと補償をせよ)は、ヒースの市場の失敗アプローチとかなり似てるな。経済学の観点からいうと倫理はこうした形のものにならざるをえないのかもしれない。

odmy.hatenablog.com

 「無後悔対策」の議論はなんで出てきたのかよくわからない。限界効用は逓減するから、効用水準が高いときは財の消費を多少減らしても効用水準が大して減らない、みたいなことを言おうとしてるのだと思うけど。でもそれって、排出権取引とかの形で市場に内部化してしまえば、市場取引を介して自動的に考慮されるようになるのではないだろうか? あるいは、市場取引を想定しているのではなくて、課税を通して再分配をするようなシチュエーションを想定しているのかな? (環境税を金持ちから多めに取ろうみたいなこと?) → 後の方の章でこの議論が役立ってくる。

20 グリーン企業と社会的責任

 フリードマンは、企業の社会的責任とは「オープンで自由な競争に専念するというゲームのルールを逸脱しない限り、企業の資源を活用して、利潤を追求する事業活動に従事することだ」と主張している。

 でも、フリードマンのいう「ルール」とはなんだろうか? 外部性が規制されていないとき、外部性を垂れ流すのはルール的にセーフなのか? それともアウトなのか? 「ゲームのルールを逸脱しない」というガイドラインは曖昧すぎて役に立たない2

 利潤の最大化というのも、短期主義を避けるべきだ。近視眼的に動くのではなく、「啓発された価値最大化」を目指すべきだ。

 なんでもかんでも法で規制することはできない。法の不完全性による空白を埋めるのがESGなのだ。ESGの対象になるものは膨大だ。適切なESGをどうやって選べばいいだろう? その選択基準になるのが外部性だ。私は次のようにESGを定義し直したい。

環境、社会、企業ガバナンス、すなわちESGには、企業による金銭的、技術的な外部性の軽減が含まれる。最も関連性が高いのは、従業員や地元コミュニティなどの利害関係者に及ぼす影響であり、とりわけ深刻な社会的影響を及ぼし、企業が特別な専門知識を持つ外部性である。 (p289)

 私は、次のようなESGのガイドラインを提案する。

  1. 企業活動は、社会的便益ー費用テストに合格すべきだ。
  2. 企業は、情報的、経済的な比較優位を持つ分野に自らの資源を集中すべきだ(その方が、有害な影響を特定しやすいし、対策も立てやすい)。
  3. 企業はおもに利害関係者に便益をもたらすESG活動に焦点を合わせるべきだ。

 ガイドラインの3つ目は、企業を営利組織ではなく、小さな社会と見なすという発想だ。「企業はそのミニ社会に積極的に参加すべきであり、とりわけ労働者、コミュニティ、長期の顧客を疎かにすべきではない

 企業は自らの事業と地域社会についてはよく知っているが、それ以外のことはよく知らない。だからこそ、ガイドラインの2と3が重要になってくるのだ。

 あと、企業がESGに取り組むとき、無後悔対策の原則も忘れないようにしよう。企業は外部性を補正するために、利益をほんの少し削減するだけでいいのだ。

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 ここらへんはヒースの「市場の失敗アプローチ」そのままという感じだな。ただ、ESGのガイドラインの3つ目に関して「ミニ社会」への参加を求めるあたりは、ヘルマン=ピラートっぽい感じでもある(ミニ社会=アソシエーションと捉えれば)。

odmy.hatenablog.com

 あと、そうした企業の社会的責任を後押しする議論として「無後悔対策の原則」を援用しているように思う。ここらへんはノードハウスのオリジナルだ。

21 グリーンファイナンス

 企業の社会的責任では、企業が何をどのように製造するかが重視される。ところがグリーンファイナンスでは、「何を」製造するかしか重視されない。たとえば、エクソンモービルはとにかく石油と天然ガスを生産しているのだから悪だ(だから投資はするべきでない)とった風に。

 しかしそのために、ポートフォリオにおいて、特定の銘柄が排除されてしまいがちだ。そのため、期待収益率が下がってしまうのだ。

 ここでも無後悔対策の原則を適用しよう。最適なポートフォリオから、特定の銘柄をちょっとだけ排除しても収益にはわずかな影響しか出ない。しかし、たくさん排除したらダメだ。

コメント

 グリーンも大事だけど、ほどほどにね、というのが教訓。


  1. ピンとこない例だけど、これは2人の人が同じ家に住んでいるようなシチュエーションを想定しているのかな? 自分の部屋のエアコンの温度をちょっと上げるだけで電力消費量が10%も抑えられるので、かわりに同居人が自室のエアコン温度を下げられる、とかかな。
  2. ここらへんの問題を補ったのがヒースの「市場の失敗アプローチ」だということになると思う。

【読書ノート】『グリーン経済学』14章~18章

14章 グリーン政治の実践

 経済発展は環境に影響を与えるようだ。クズネッツ曲線というのがある。これは、経済発展の初期段階では環境汚染が増加するけれど、だんだん所得が高くなってサービス産業が重要になってくると、環境汚染が減少するという仮説だ。

 実際、炭素強度に関してはこの仮説は成り立つ。でも、炭素強度ではなく二酸化炭素の総排出量をとると成り立たなくなる1

 では、民主主義は環境に影響を与えるだろうか? PM2.5に関して言うと、完全な民主守護国家は完全な専制主義国家よりも汚染度が45%低いというデータがある。ただし、この手の民主主義と環境の関係を実証する研究は他にあまりない。

コメント

 章の後半では関税とか気候変動対策とかの話が出てくるのだけど、グリーン政治の話とあまり関係ないように思ったのではしょった。前に出てきたコロナの章のときも思ったけど、この本、構成があまりよくない。書き方がダラダラしてて、結局何を言いたいのかわからない、というところがある。

15 グリーンニューディール

(「グリーンニューディール」という言葉を出してる割には、内容は単に現在のアメリカの環境政策についてあれこれ批判してるだけ。これまでも出てきたような議論なので省略)

16 グリーン経済の利益

(適切な炭素価格を設定すれば企業は二酸化炭素を出さないようにイノベーションをしたりするだろう、などのこれまで何度も出てきた話。省略)

17 グリーン税

 課税によって歪みが生じることがある。もっとも歪みが生じやすいのは資本に対する課税だ。たとえば、法人税が高いと、不動産投資が増え、製造業に対する投資が減るので、住宅が増える一方で工場が減ってしまう。逆に、労働所得に対する課税は歪みが少ない。税金が高いからといって、外国で働こうという気持ちにはなかなかならないものだ。

 では、環境税はどれくらい歪みをもたらすのだろうか? 実は、環境税はむしろ逆に、歪みをなくすものだ。環境税によって環境被害が減少すれば、経済効率が高まるのだ。

 環境税が期待できる分野は、外部性が充分に測定されていて、製造プロセスのなかに課税しやすいポイントがあり、収入に比べて管理費の小さな分野だ。たとえば温室効果ガスの排出、ガソリンなどの燃料だ。

 環境税の中でもっとも重要なのが炭素税だ。なぜなら、課税ベース(課税対象となる活動の価値)が大きいからだ。しかし実際のところ、ほとんどの国において炭素税の税収はゼロだ。

 大気汚染に関しては、アメリカでは排出許可を供与している。ところが、二酸化硫黄の取引価格は限界損害の10分の1に過ぎない。安すぎるのだ。

 アメリカの現行のグリーン税は、連邦政府歳出の4%しか占めていない。しかし、適切な額を課税するなら、これは24%にまで増やせるはずだ。たとえば炭素税による税収は現在ゼロだが、将来的には1,590億ドルまで増やせる。自動車燃料も、現在の800億ドルから3,700億ドルまで増やせる。

 環境税を確立するためには厳しい戦いに勝たなければならない。敵は課税反対派の集団や、近視眼的なものの見方しかできない人々だ。

コメント

 環境税はまだまだ確立されてませんという状況報告の章。課税による歪みの話って必要だった?

18 グリーンイノベーションの二重の外部性

 現在われわれが直面するグリーン問題に対処するには、重大な技術革新が必要だ。グリーンイノベーションには二重の外部性がある。

  1. 環境に配慮した製品の価格が、本来の価値を反映していない。
  2. イノベーションに対して個人が受け取る報酬が、公的な利益を下回る。

 2について説明しよう。

 新しい技術には非競合性がある。つまり、Aという企業がその技術を使ったからといって、Bという企業がその技術を使える分量が減るということはない。また、新しい技術には排除不可能性がある。つまり、技術が開発され、公開されたら、他の企業がその技術を真似するのを止めることができない。

 産業革命のころ、イギリスが機械技術の輸出を制限しようとしたことがある。紡績職人がイギリスを離れるのを禁じたり、結構無茶をやったのだけど、意味なかった。結局は技術は外国に流出したのだ。

 これが、さっきの2の外部性だ。つまり、イノベーションには外部性があるということだ(もっとも、それは正の外部性だけど)。そのため、イノベーションを発明した個人に対する報酬が、社会的利益を大きく下回ってしまう。イノベーションの社会的収益率と私的収益率を比較した研究があるけど、私的収益率は社会的収益率の半分くらいしかないという。そして、これはさっきの2の外部性しか考慮していない数字だということに注意してほしい。1の外部性も考慮したら、社会的収益率と私的収益率の差はさらに拡大する。こうしたわけで、イノベーションが起こりにくくなるのだ。

 2の外部性がとくに大きくなるのは基礎研究だ。というのは、基礎研究だと通常、特許が取れないからだ。一方、基礎研究の対局に位置する製造は、100%近く専有可能だ。

 政府が外部性に価格をつければ、1の外部性はとりあえず補正できる。2の外部性が残ってしまうのはしかたないけど、とりあえず1の外部性をどうにかするだけでもイノベーション促進につながるだろう。

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 イノベーションの外部性という表現は初めて見た。なるほど。でも、そのイノベーションの外部性をどうやって解消するかという話がなくて、結局は1の外部性の内部化(環境汚染とかにちゃんと価格をつけよう)の話になってしまうのは少しがっかり。だったらなんでわざわざ2の外部性の話をしたの? と言いたくなってしまう。

 というわけで、この本はやっぱり構成がよくない。でも、一応最後までまとめていこう。次の章は私の得意な倫理の話だし。


  1. 当たり前だ。

【読書ノート】『グリーン経済学』10章~13章

10章 エクソ文明の魅力

 地球の環境がメチャクチャになっても、よその惑星に移住すればいいじゃないか、と考える人はいるかもしれない。移住先で新たに「エクソ文明」を築くことに成功したなら、地球上のさまざまな環境問題はチャラになる、というわけだ。

 でも、残念ながら自給自足可能なエクソ文明を築ける可能性は低い。たとえば火星に移住するという計画を実行しようとしても、ロケット打ち上げにかかる累積費用はひとり当たり25億ドルを超えるし、住居費やらなんやらを入れたらひとり当たり年間2億5000万ドルはかかるだろう。火星で何か財を生産して地球に輸出したとして、この費用をまかなえるだろうか? 無理だ。だから、火星の植民地は持続可能性テストに合格できないのだ。

 たくさん投資して技術進歩していけばもっとコストを下げられるのでは? と思われるかもしれない。確かに。でも、だとしても心理的、経済的な問題、さらには社会構造の問題はつきまとうだろう。たとえば心理的な問題を考えよう。犬がないと生きていけないという人はそれなりにいるだろう。彼らにとって、犬のいない星なんて生きてる価値がない。では、犬は火星に住めるのだろうか? それは無理かもしれない。なぜなら、犬は地球という特殊な環境に適応してきた生物だからだ。

 持続可能な世界を人為的に作ろうとした事例も見てみよう。バイオスフィア2というのがある。これは、アリゾナ州に建設された巨大なガラス張りの閉鎖空間だ。ここに地球上の生物群系を再現して、2年間、8人の人々に生活してもらおうという実験をやったことがある。しかしこれは大失敗だった。酸素濃度はギュンギュン下がるし、生物種がどんどん絶滅していくし、散々な結果に終わった。

 バイオスフィア2の「ひとり当たりNNP」を推計してみた。2015年のアメリカの値が47,907ドルであるのに対し、バイオスフィア2の場合はなんと-3,443,064ドルだった。これは、バイオスフィア2を維持するのにとてつもない投入が必要であり、さらには資本の減価償却も膨大なものになるからだ。

 というわけで、近い将来に自給自足のエクソ文明が実現する見込みはほとんどないのだ。

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 そうか、NNPはこういう風に使うのか。本章では持続可能性の指標としてNNPが使われている。

 『水星の魔女』とか見てても、いきなり緑豊かなコロニーで暮らしている人々の生活が出てくる一方で、そういうコロニーをどうやって作ったのかというプロセスはまるっと省かれてしまっている。考えてみればそれも変な話だけどな。私はSFに疎いのだけど、ここらへんのプロセスを描いた作品ってあるのだろうか? 意外と無さそうな気がする。

11 パンデミックなどの社会的カタストロフィ

 (コロナ禍に書かれた本なので、コロナについてたくさんページが割かれている。こういうカタストロフィはもちろん持続可能な社会をつくる上で重要なのだけど、ちょっと内容がコロナに寄りすぎているので、他の章に比べてかなり浮いてる印象がある。なので省略)

12 グリーンの敵である行動科学

 省エネ効果の高い家を買うとかするときは、市場収益率を使って費用便益を割り引くべきだ。だけど行動経済学の教えによると、人間は割引率を高く設定しすぎる傾向がある。

 これは環境行動において問題になる。というのは、環境汚染を削減するために投資するとき、費用は今すぐ払わないとならないのに対して、実際の便益が現れるのはずっと将来になるからだ。すると、便益が大きく割り引かれてしまう一方、費用の方は割り引かれないから、「環境汚染を削減することは割に合わない」と評価されることになるからだ。

 同じような話だけど、「初期費用バイアス」といって、目先の費用を過剰に気にしてしまうという問題もある。

 では、なんでわれわれはそんな風に意思決定に失敗してしまうのだろう? 理由は次の4つだ。

  1. 情報の問題:情報が足りなかったり、情報をきちんと理解してなかったりする。
  2. 意思決定の問題:間違った意思決定を合理化してしまう。
  3. 制度の問題:制度が原因で価格インセンティブが働いていない。
  4. 経済以外の選好:現状維持バイアス、損失回避、利他的な行動など

 ライフサイクル費用分析というのを使えば、初期費用バイアスにひっかかった意思決定が馬鹿げたものであることは一目瞭然だ。つまり、費用と便益が長期的にどんな風に発生するかを調べ上げて、さらに適切な割引率で割り引く、というやり方だ。

 じゃあ、ライフサイクル費用分析を使えば私たちは初期費用バイアスを克服できるのだろうか? そういうわけでもない。というのは、ライフサイクル費用分析はすごく手間がかかるし、そもそも必要なデータが手に入らないこともあるからだ。

 だから、個々人がライフサイクル費用便益分析を使うのではなく、政府が適切な規制を実施すればいいのだ。そうすることで、エネルギー効率の悪い住宅や家電を排除してしまえばいいのだ。

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 個人の心理的バイアスをいかに克服するか、という方向に話を進めるのではなく、そもそも個人の意思決定にあまり頼るな、というのがこの章の主張。

 経済学の観点からいくとそういう結論になるのはわかる。ただ、そういう発想だと個人が環境に対して関心を持つきっかけが軽視されることになるのではないかな、とも思う。「消費者は政府の規制をクリアした商品を買ってればいいんだよ。中途半端に頭使わなくていいよ」と言っているようなものだから。

 私も個人の意思決定が合理的なものだなんて思わない。環境に良いと思い込んでいる行動が、環境にとってほとんど無意味だということは普通にあると思う。でも、無意味であっても環境配慮行動を習慣化している人々がいるからこそ、炭素税みたいに本当に環境保全に有効な政策を支持する層が維持されるという面はあると思う。環境のために何かしたことのない人が環境配慮に関心を持つ可能性は低いのではないかな。ノードハウスは「非合理な行為は無意味」と考えているように思うのだけど、私は「非合理な行為もまわりまわって有意味」と考える。

13 グリーン政治理論

 市民の健康や安全を脅かすような深刻な外部性については、政府は直接的規制管理を行う。たとえば1970年、アメリカのでは気浄化法で汚染物質排出量の削減を自動車メーカーに義務づけた。

 ただ、本当をいえばやみくもに規制するのではなく、きちんと限界費用と限界便益を比較するべきだ。たいていの規則はこういうプロセスを経てない。直接的な管理は非効率なものになりがちなので、たとえば排出課徴金を利用するなどして、市場を通してアプローチした方がいい。

 政治とは、個人の選好をひとつにまとめる方法だと定義できる。つまり、大気汚染や気候変動のような問題に対処するには人々が集団行動することが必要だが、政治は、彼らの選好をひとつにまとめて、規制を設けたり、望ましくない活動に課税したりするのだ。

 しかし選挙をするたびに与党がころころ変わってしまうことはある。その場合、政府の意思決定もころころ変わってしまうことにはならないだろうか? とりあえずアメリカの場合は大丈夫だ。というのは、制度の多くに慣性の法則が働いており、方の撤廃にやたらと面倒な手続が必要だったりするからだ。

 一方で、税法は割と変わりやすい。だから、せっかく環境税が成立しても、環境主義に批判的な人物が政権の座に就くと、あっさりと廃止されてしまう可能性がある。

 最後に、ロビー団体の影響力は大きい。良い環境政策であれば、費用便益分析をきちんとパスするだろう。しかし、環境問題の害を受ける人々は広範囲に散らばっていて、団結できない。一方で、ロビー団体は一部の人々の利益を代表して団結することができる。だから、良い環境政策であっても成立しなくなってしまいがちなのだ。

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 ロビー活動って、日本だとあまり身近に感じられない気がするのだけど、そうでもないのかな? 農協はロビー団体なのかな。でも、農協は准組合員がやたらと増えてしまったので、組織としての一体性がなくなってきてるんじゃないかと思うのだけど(調べたら6割くらいが准組合員)。ちょろっと検索したら「農協のロビー活動の影響力低下をめぐる要因分析」なんて報告が見つかるくらいだから、やっぱり弱体化してるんだと思う。

 環境保全を働きかけるロビー活動ってないのかなあ、と思ったけど、やっぱり難しいのかな。ロビー活動は基本的に自分たちの利益のためにやるものであって、一方、環境保全は公益のためのものだ。「公益」を隠れ蓑にしてロビー活動はありそうだけど、本当に環境のために行われるロビー活動は存在しないんじゃないかな…と思って調べてみると、いや、結構やられてるよ。どう理解すればいいんだろう? ダメだ、私には知識も常識もない。

【読書ノート】『グリーン経済学』8章~9章

8 グリーン経済学と持続可能性の概念

 主流派経済学(新古典派経済学)による環境問題への考え方はこういうものだ。まず、環境関連の財・サービスは、普通の財・サービスとちがい、市場の失敗の影響を受ける。なぜ市場の失敗の影響を受けるのか? それは、たとえば二酸化硫黄の排出に適正な価格がついていないからだ。だから、きちんと価格をつければ市場の失敗は解消され、環境問題も解消されるだろう。

 こういう考え方には次のような批判がある。

  1. 現在世代の選好には将来世代の選好が反映されていない。
  2. 金融市場や公的な意思決定には、将来よりも現在を重視するバイアスが働く。
  3. 環境の質のような公共財の価値は、自由放任主義市場経済では安い価格で評価されがち。
  4. 持続可能性を確保する方法が何も考慮されていない。

 この中で大事なのは4番目だ。というのは、1~3の批判は、突き詰めれば持続可能性の問題だといえるからだ。

 財やサービスの中には、「かけがえのないもの」と「かけがえのあるもの」がある。たとえば、電車が導入されると駅馬車は使われなくなったが、それは、駅馬車が「かけがえのあるもの」だからだ。これに対し、環境に関わる財やサービスの中には「かけがえのないもの」が含まれている。しかし、主流派経済学はこうした違いを考慮しない。ある種の財が希少になるのなら、別の財で代替すればいいじゃないか、と考えるのだ。

 とはいえ、「これはかけがえがないから、絶対に消費するべきではない」というのも極端だろう。「かけがえのないもの」と「かけがえのあるもの」の間に明確な境界線が引かれているわけではない。だからこそ費用便益分析が必要になるのだ。

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 「かけがえのない」というのは、本文だと「侵害すべからざる」というわかりにくい言い方だったので勝手に言い換えた。「かけがえのある」の方は、本文だと「純経済財」となっている。まあ、どちらも経済学の教科書には出てこない表現なので、適当に言い換えても問題無いだろう。

 「かけがえのない」と「かけがえのある」の区別は曖昧だから、費用便益分析で判断しよう、ということだけど、それだと主流派経済学とあまり変わらなくなってしまうんじゃないだろうか? 「費用」と「便益」について現在世代を優遇するってこともあるだろうし。あと、割引率を設定するときも、批判の2にあるような、金融市場による現在バイアスがかかるとかありそうな気がするけど。

 いや、別に主流派経済学でのやり方でも個人的には問題ないと思うのだけど、ただ、費用便益分析で行こうとなるとグリーン経済学の独自性が曖昧になってくるんじゃないかなあと思ったということ。

9 グリーン国民計算

 環境汚染を適切に処理した国民生産(つまりGDPみたいの)は、「グリーン生産」と呼ばれる。

 グリーン生産の前に、まず、GDPをもっと改善する方法を示そう。というのは、GDPでは減価償却が考慮されていないからだ。だから、投資総額から減価償却をマイナスしよう。あと、居住者のみの所得に注目した方がいい1。そうして求められるのが国民純生産(NNP)だ。

 しかしNNPにも欠点がある。それは、環境のように、市場で取引されない財やサービスがカウントされないことだ。以上を踏まえて、とりあえずグリーン生産を次のように定義しておこう。

 グリーン生産:国民生産の測定であり、市場取引を介さない重要な財・サービス、投資を含むとともに、大気汚染のような外部性が経済に与える影響を補正する。

 具体的な式で表すとこんな風になる。

 グリーンNNP = 通常のNNP + 汚染の価格 × 量

 出発点はNNPだ。NNPをあれこれ補正することで、グリーン生産を求める。補正の仕方には2つある。水準補正と成長補正だ。

 まず、水準補正について。Xという汚染物質で環境が汚染されているとする。するとその分の「汚染の価格×量」がグリーンNNPから差し引かれることになる。こうした水準補正によって、NNPの成長率を補正することを成長補正という。

 これを気候変動の例でみてみよう。水準補正すれば、普通はNNPよりもグリーンNNPの方が小さくなる。つまり、二酸化炭素排出の分、成長を少なく見積もるからだ。ところが成長補正によって、逆にNNPの成長率よりもグリーンNNPの成長率の方が大きくなることがある。なぜか? それは、環境対策のおかげで生産2に対する二酸化炭素排出量の割合が少しずつ減少しているからだ。二酸化炭素排出量の減少分がグリーンNNPの成長とカウントされるので、結果的に、グリーンNNPの成長率の方が大きくなることがあるわけだ。

 別の例でも見てみようか。地下資源の場合だとどうなるだろう? つまり、地下には石油や天然ガスや金属が埋まっているのだから、そいつらもグリーンNNPに組み込むべきではないかということだ。でも、それはやらない方がいい。というのは、地下資源はただそこにあるだけであって、新たに生産されているわけではないからだ。

コメント

 ふーん、と思いつつも、グリーンNNPを求めたとしてそれを何に使えばいいのだろうか、とふと思った。グリーンNNPの低い国に「もっとがんばれ」とハッパを掛けるとか? でも、グリーンNNPには経済活動の分と環境破壊の分がまざってるので、経済発展をがんばればいいのか、環境保全をがんばればいいのか、かえって方向性がわからなくなる気もする。あと、環境破壊を凌駕するような経済成長を遂げれば、少々の環境破壊はごまかせる、みたいなへんなインセンティブが働きそうな気もする。別に、無理して求めなくてもいいのではないだろうか。無理して求めるべき理由もとくに書いてなかったと思うし。


  1. GDPだと海外に住んでる自国民の生産もカウントするのだけど、それだとたとえば日本という国として環境にどんな影響を与えているかが見えにくくなってしまうから、ということかな?
  2. 二酸化炭素の生産ということではなく、経済生産ということ。