【雑感】フィクションの境界線の緩みについて

はじめに

  • 新聞広告におっぱいの大きい女子高生キャラを出したら大炎上、という事案があった。で、ここで考えたいのはこの事案そのものじゃない。むしろ、この事案をダシにして、現実とフィクションの関係についてあれこれ考えてみたいのだ。
  • (追記)現在炎上中の問題について考えるとどうしても「誰が悪いのか」みたいな不毛な犯人捜しになりがちなので、あくまで「ダシ」にしておいて、もうちょいと普遍的な問題を考えてみよう、と思って書いた。けど、読み返すとなんか煮え切らない感じ。もうちょい問題が冷めてからまた考えてみようかな。

おっぱいはやぶさかでないが

  • 表現の自由っていうのでいえば、別に広告におっぱいキャラを出したって問題はない。たぶん、憲法とか法律のレベルで言ったらそれでもう議論は尽きていて、それ以上考える必要は無い。
  • だけど、そういうのにイラっとくる人がいる、というのも何となくわかる。
  • たとえば、実家にいたころ、食事中にテレビでトイレの洗浄剤とかのCMをやっているのを見て、勘弁してくれ、と思うことが何度もあった。なんだって、飯を食ってるときにトイレの排水口の汚物が巻き上がってる映像を見せられなければならないのか。表現の自由的にはOKであっても、うんざりしてたのは確かだ。
  • あるいは、家族とテレビを見ているときに、番組内容がややおっぱい過多で、気まずい思いをすることもあった。これもまた表現の自由的には問題ない。また、おっぱいはやぶさかではない。やぶさかではないが、今はちがうだろう、という不快感はあった。
  • という風に、表現の自由的にはOKであっても、見たくないものを見せられて不快、という感じは僕にもわかる(もちろん、今回怒っている人とは方向性がちがうと思うけど)。

やぶさかおっぱいは淘汰される(長期的には)

  • で、それで苦情を言う人がいるのもわかる。
  • そしてそうやって、やぶさかおっぱいに苦痛を感じる人の数が多ければ多いほど、広告は方針修正を迫られるだろう。そこで対応せずおっぱいパラメータを下げなければ購買者数が下がるだけだ。
  • で、そういう風にしてやぶさかおっぱいは市場メカニズムによって淘汰されていく。そして、おっぱいは、おっぱいを心から見たい人たち向けの市場にだけ残されて、18禁とかのラベルを貼られて、細々と生き残っていくことになる。
  • 今回の事案について言うなら、おっぱいキャラに不快を感じる人が多ければ多いほどそういう新聞を買う人は減っていく。それでも新聞社側が方針を改めなければ、その新聞はおっぱい新聞として生まれ変わることになる。つまり、おっぱい好きの人だけが買う新聞になるのだ。たぶん、わかりやすいラベルとして新聞名にも何らかの形で「おっぱい」がつくだろう。最終的に、そういうラベルがシグナルの役割を果たして、おっぱい好きの人とそうでない人で棲み分けができるようになる。再び世界は平和になった。よかったよかった。

フィクション世界の境界線はどこにある?

  • ただ、ここでもうちょっと話を進めたい人がいるかもしれない。つまり、棲み分けできればそれでいいのか? ということだ。
  • 「確かにわたしたちの目の着くところからおっぱいは消えた。しかし、この広大な市場のどこかで、今もおっぱいはニッチ商品として消費され続けているのだろう。わたしの知らない何千、何万というおっぱいたちが野卑な人々の好奇の目にさらされている。そのことがわたしには耐えがたい――」。僕にはよくわからないけれど、そういうタイプの苦痛を感じる人がいるのかもしれない。
  • テレビ番組にせよ、新聞広告にせよ、漫画にせよアニメにせよ、見ない人にとって、それらはこの世界には存在しないものだ。つまり、それらはただのデータであったり、紙についたインクのしみだったりするわけだ。ここで、実写なのかアニメなのか、というのはあまりこだわらないで良いと思う。たとえばテレビでタレントがしゃべるのは、あくまでテレビという世界での演技であって、フィクションの一部に過ぎない。だから、そうしたフィクションをフィクションとして受け容れた上で鑑賞するのでない限り、それは現実世界とは何の関係も無い非存在であるはずだ。もちろんそのタレント自身は生身の人間だけど、彼が演じる番組内でのキャラはフィクションだということだ。
  • フィクション世界は、そのフィクションを鑑賞しない限りその人にとって存在しない。にもかかわらず、自分が鑑賞しないフィクション作品に出てくるおっぱいを問題にする人がいるかもしれない、というか実際にいる。
  • もしかしたら、フィクション世界の境界線って、かなり曖昧なものなのかもしれない。単純に考えれば、ある漫画で表現された世界を受け容れているのは、その漫画の作者と読者という小さな共同体に所属する人々だけだ。読まない人にとって、その世界は存在しない。だから、『あしたのジョー』で力石徹が死んだとき、ファンは現実世界で力石の葬式をしたけど、読者でない人にとっては意味不明だったはずだ。
  • だけど、今回、問題となったキャラの原作漫画を読まない人まで、「けしからん」と怒っている。中には、炎上してからわざわざ原作漫画を読んだ上で「けしからん」と言っている人もいるみたいだ。つまり、読者でもファンでも無い人が、作者・読者の幸せな共同体の中にいつのまにか紛れ込んでくるようになってしまっているわけだ。フィクション世界の境界線がかなりゆるゆるになっていて、それで「おっぱいけしからん!」という人が発生しやすくなっているんじゃないだろうか。
    • (追記)いや、そういうことじゃなくて、単純にその新聞の購買者数がめちゃくちゃに多くて人目につきやすかったというだけか。ただ、今回の件に限らず、自分が鑑賞してない作品のキャラについてあれこれ言いたがる人はいる気がする。そういうのは何でなのかなあ、とうだうだ考えてみたのが上の文。

なんで境界線がゆるゆるになってるのか?

  • ひとつには、キャラのビジュアル面でのインパクトが、昔に比べるとずっと強烈になっているというのがあるかもしれない。『あしたのジョー』の時代に比べて、漫画やアニメの絵はずっときれいになった。物語内容はよく知らないけどこのキャラかわいくて好き、みたいのも結構あるんじゃないだろうか。だから、原作漫画を読まなくても、そのキャラのビジュアルを見ただけで、そのキャラのリアリティに納得し、いつの間にかフィクション世界に入り込んでしまっている、ということなのかもしれない。そして、こういうある種の強制力があるからこそ、かわいいキャラを宣伝に利用するということが広く行われているのだと思う。逆に、小説なんかはビジュアルで勝負できないので、人をフィクション世界に人を引き込むという強制力が弱い。村上春樹の『1Q84』がどんなに売れたって、「ふかえり」を観光地のイメージキャラクターにしようとする自治体はたぶん無い。
  • あとは、そういうビジュアルがネットで拡散されることで、興味無い人の目に入りやすくなったというのもありそうだ。新聞には購買者層というものがあるはずなので、そういう層の大半がおっぱいを所望しているのであれば、嫌がる人が見てしまうリスクはだいぶ小さくなるだろう。でも、つったって今どき経済新聞を読む女性なんて珍しくもないし、そういう人たちの一部がSNSで情報拡散すれば、見たくない人にもどんどんビジュアルを見せられることになる。そして、くだんの強制力によって、彼らはフィクション世界に巻き込まれ、「けしからん」ってなってしまうわけだ。

フィクション世界の境界線を意識する

  • 公共の福祉を高めるためには、フィクション世界の境界線をきちんと意識するようにした方がいいだろう。それは、表現の自由を制限するということではない。
  • たとえば、購買者層をきちんと把握した上で広告の内容を考えるとかだ。一昔前はおっさん向けのメディアだったけど、今は結構若い女性も入ってきてる、というケースはあると思う。また、おっさん自体も多様化していて、おっぱいはやぶさかではないという人もいれば、やぶさかという人もいる。お前らこういうの好きなんだろ、と思って放り込んだものの、その「お前ら」の中身が昔とはぜんぜんちがっているかもしれない。その場合、かえってくるのは賞賛よりもブーイングだろう。
  • また、広告にキャラを使うというのももうちょっと慎重に考えた方がいい。キャラは原作物語抜きで人々の前にさらされるので、原作を知らない人はそこにさまざまな独自の物語を付け足してしまいがちだ。「美少女キャラだから受けるだろう」みたいな安易な考えだと、思わぬところで足をすくわれるリスクがある。むしろ広告を出す側が自ら物語をつくり、一種の二次創作として受け手に提示するくらい意識的にやった方が良いと思う。

「どうせフィクションでしょ?」という考え方

  • まあ、公共の福祉的にはこういうことが考えられるのだけど、ちょっと物足りない感じもする。そもそも、フィクションをつくったり享受したりする側からしたら、フィクション世界の境界線をあまりにきっちりしすぎるのはつまらない、というのもあるんじゃないか。現実世界に対してなにか違和感があるからこそ人はフィクションを求めるのであって、境界線をきっちりしすぎると、フィクションがただのつくりごととかファンタジーになってしまう。
  • あともうちょっと言うと、フィクションがただのファンタジーだと思われているからこそ、どうせフィクションなんだからどんどん規制したって構わないでしょ、という雑な議論が出てくる気もする。ここらへんはちょっと微妙だけどね。キャラにリアリティを感じる一方で、そのキャラは身分としてはしょせんフィクションだからこの世から消してしまってもいい、という心理なんじゃないか。矛盾する心理だと思うけど、ここらへんは本人じゃないのでよくわからん(けっこう面白い論点だとは思う。キャラが作中で受けている暴力に反発する一方で、その作品を排除することでキャラそのものを抹消してしまう暴力に対しては無関心というのはどういう倫理観・世界観によって支えられているのか……)。
  • ありがちな結論だけど、フィクションについて真剣に考える、ということが大事なんじゃないかなあ、とか思う。