【読書ノート】人新世本の批判的検討:第一章~第三章

読む動機

  • 前にもちらっと書いたけど、この本は途中まで読み進めたものの「あ、もう無理」ってなって、そのまま積ん読していた。
  • ただ、何かやけに売れてるのも気になるし、自分の周囲のかなり冷静な研究者でもこの本を褒めてる人がいたりする。それは一体何でなんだろう?
  • 資本主義を否定するという考え方は、よっぽど画期的な代替案を出さない限り成り立たないと思う。どんなに資本主義がきつくても、もう地球人口は80億近いのだし、貧困国でさえ多くの人がスマホを持っていて、近代文明の恩恵無しではもはや誰も生きられなくなっている。そういう状況で「脱成長」とかやったりしたら食糧不足やエネルギー不足で大勢の死人が出るだろうし、不足する資源をめぐって血みどろの殺し合いが発生することも考えられる。医療体制も滞るから、とくに貧困国で大勢の人々が病で亡くなるだろう。みんな楽しいスローライフ、みたいな呑気なものじゃなくて、端的に地獄絵図にしかならないと思う。
    • さらにもうちょっと言うと、大学の予算だって確保できなくなるから、哲学とか役に立たないことをやってる人文系の学者のポストはまっさきに削られる。だから人文系の学者こそ脱成長を訴えてはいけないはずなんだけど、なぜか人文系の人たちは「脱成長」とかのキーワードが好きな人が多い気がする。なんでなんだろう?
  • 個人的には、スローライフは好きだ。忙しいのが大嫌いで、本を読んだり亀の世話をしたりしてる方が楽しい。でもそういうスローさは、資本主義がうまく機能しているから成り立つのだということも自覚している。資本主義が機能してなかったら、書店で欲しい本を手に入れることもできないし、亀の水槽のヒーターだって使えなくなる。
  • だけど、「脱成長」というキーワードに魅力を感じる人は世間にかなり多いみたいだ。それって何なんだろう? 彼らはどういうロジックに納得してるのだろう? というのが気になるので、読んでみることにしたわけです。たぶんこれ一冊読んでおけば、脱成長好きの人たちのロジックが何となくイメージできるようになるだろうから。

第一章 気候変動と帝国的生活様式

p13 気候変動対策をしないことが経済学にとっての最適解(?)

ノードハウスによれば、私たちは、気候変動を心配しすぎるよりも今のままの経済成長を続けた方が良い。経済成長によって、世界は豊かになり、豊かさは新しい技術を生む。だから、経済成長を続けた方が、将来世代はより高度な技術を用いて、気候変動に対処できるようになる。経済成長と新技術があれば、現在と同じ水準の自然環境を将来世代のために残しておく必要はない、と彼は主張したのである。
ところが、彼の提唱した二酸化炭素削減率では、地球の平均気温は、2100年までになんと3.5℃も上がってしまう。これは、実質的になにも気候変動対策をしないことが、経済学にとっての最適解だということを意味している。

  • ノードハウスは環境経済学の人で、気候変動に関する研究でノーベル経済学賞を受賞した。ノードハウスの考えは2015年に邦訳が出版された『気候カジノ』という分厚い本にまとめられているのだけど、なぜか筆者はここで1991年の古い論文を持ってきて批判している。
  • で、『気候カジノ』を読んだ者からすると、ここでの筆者の記述は強い違和感をおぼえるものだ。べつに、ノードハウスは気候変動対策をしないで良いなんて言ってない。『気候カジノ』のp15-16では、地球温暖化抑制のために重視されるべきポイントとして、「人々の意識の向上」「二酸化炭素やその他の温室効果ガス排出に対する価格の設定」「経済の脱炭素化に向けた技術研究の促進」の3つが挙げられている。
  • また、ここでいう3.5℃というのは、あくまで気候対策を講じない「ベースライン」での予測値のことだ(『気候カジノ』p68-72参照)。ノードハウスが推奨しているのは、2~3℃だ。

我々の分析では、産業化以前(この場合1900年)からの気温上昇を、コストや参加率、割引の問題を勘案しつつ、2~3℃に押さえることを目標にした政策を提案している。コストが低く、参加率が高く、将来の経済的損失に対する割引率が低い場合は、野心的な温度目標を立てることが望ましい。逆に、コストが高く、参加率が低く、割引率が高い場合には、より緩やかな温度目標を設定したほうがよい。 『気候カジノ』p13

  • ちなみに、3.5℃も、2~3℃も、いずれも1900年を基準年とした数字。
  • もちろん、気候変動には様々な不確実性がつきまとう。これからどんな技術革新があるか、景気はどうなるか、どんな感染症が発生するのか、どんな規模の戦争があるのか。そうした気候変動にまつわる諸々の不確実性が、ノードハウスの書名にある『気候カジノ』の含意だ。この2~3℃は、そうした不確実性を踏まえ、さらに自然や社会に対する様々な影響を考慮した上で導き出された数字だ。

不確実性への対処に関する経済研究の結論は、次の通りである。GDP、人口、排出量、気候変動に関する最も有力なシナリオからスタートし、この最有力ケースの損失と影響に最も有効に対処できる政策を選択せよ。次に、気候カジノにおける、低頻度大規模リスクの可能性について検討し、危険な結果に備えて保険をかけるべく、追加の策を講じよ。だが、それらの問題が消えてなくなると絶対に期待してはならない。 『気候カジノ』p53

  • このように、人新世本の方は、のっけからノードハウスの主張をかなりゆがめて紹介している。筆者は経済成長か脱成長かという極端な二択を読者につきつける。しかしノードハウスはそもそもそんな二択を拒否している。そうではなく、気候変動が自然や社会に与える影響を考慮しつつ、現実的な対策を提案しているだけだ。

問題は過度の経済成長にあるということだろうか。人類はゼロ成長をめざすべきなのだろうか。今日このような結論を下す人はほとんどいない。ミルクが痛んでいるからと言って、すべての食料品を捨ててしまうようなものだ。とるべき対応は、気候変動に関連する負の経済外部性を是正し、市場の失敗を修復することだ。傷んだミルクを捨て、不良品の冷蔵庫を修理するのである。 『気候カジノ』p120

p16 気温上昇を1.5℃未満に抑えないと人類破局(?)

危機は複合的に深まっていくのだ。そして、「時限爆弾」に点火してしまえば、ドミノ倒しのように、危機は連鎖反応を引き起こす。それはもはや人間の手には負えないものだ。
だから、この破局を避けるために、2100年までの平均気温の上昇を産業革命前の気温と比較して1.5℃未満に抑え込むことを科学者たちは求めている。

  • さて、ここもよくわかんない記述だ。まず、その「科学者たち」って誰なのか。具体的な名前が全く挙げられていない。少なくともノードハウスははじかれてるみたいだ。
  • で、ここでは「産業革命前」って言ってるけど、ノードハウスが言ってるのは「産業化前」だ。産業革命Wikipediaだと18世紀半ばから19世紀ということになっている。一方、ノードハウスの言っている「産業化前」というのは1900年を基準としたものだ。100年以上ちがう。一体どっちの意味で言ってるのかよくわかんない。
  • また、ノードハウスによれば、「経済成長なし」シナリオでも、2000年から2100年までで世界の平均気温上昇幅は2℃以上だ(『気候カジノ』p117)。当然、1900年基準の上昇幅はこれよりももっと大きくなる。つまり、脱成長したとしても、人新世本のいう「産業革命前の気温と比較して1.5℃未満」は達成できない。
  • もうちょっと突っ込むと、人新世本では、気温上昇すると具体的にどんな損失が生じるのかをきちんと示してない。「ホッキョクグマが行き場を失う」とか「2018年の西日本豪雨の被害はすごかった」とか、個別のエピソードばかりが挙げられているだけで、全体像がよく見えない。だから、筆者がなぜ1.5℃未満にこだわっているのかもよくわからない。

p32 グローバル・サウス

だが、環境汚染を軽減しながら、経済成長を果たしたことを先進国が寿ぐことこそ、まさに「誤謬」である。先進国の環境改善は、単に技術発展によるものだけではなく、資源採掘やごみ処理など経済発展につきまとう否定的影響の少なからぬ部分を、グローバル・サウスという外部に押し付けてきた結果にすぎないからだ。

  • ここでいう「グローバル・サウス」というのは、「グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民を指す」(p24)とある。
  • だんだん頭が痛くなってきたけどがんばろう。
  • まず、こういう定義だと何が「グローバル・サウス」なのか判別できない。たぶん、日本人だって、グローバル化によって被害を受けている側面があるはずだ。で、逆に途上国でも、グローバル化によって恩恵を被っている側面があるだろう。めちゃくちゃに曖昧な定義で概念として使い物にならないと思う。
  • で、先進国はグローバル・サウスという「外部」に経済発展につきまとう否定的影響の少なからぬ部分を押し付けてきたという。でも、これは分析でもなんでもなく、トートロジーだと思う。だって、そういう風に否定的影響を押し付けられる人たちをグローバル・サウスと定義したわけなのだから。
  • あと、こういう問題を扱うのなら、そういう被害の程度をちゃんとデータで示すべきだと思うけれど、ここでも「原油流出事故」とか「縫製工場の事故」とか、個別のエピソードが紹介されるだけ。だから、読者にとっては何が問題なのかよくわからないまま、「なんだかわからんがとにかく問題だ」という気分だけがかき立てられる論述の仕方になっている。
    • たとえばピンカー『21世紀の啓蒙』上巻には「不平等は本当の問題ではない」という章があって、ジニ係数やらなんやらちゃんとデータを示した上で、こういう風に締めくくられている。「グローバル化と技術の進歩によって、何十億もの人々が貧困から抜け出して世界規模の中流階級を形成しつつあり、それにつれて国家間ジニ係数もグローバル・ジニ係数も下がってきた。一方で、分析力や創造力や資金力で世界的な影響力をもつようになったエリートたちは桁外れの富を手にした。確かに先進国の低所得層や下位中間層の富はそれほど増えていないが、そこに属する個々人は少なからず上の階層へ移動しているので、個人ベースの生活は改善されている。そしてその改善には、社会的支出と、必需品の価格低下と品質向上によって、いっそうの拍車がかかっている。つまりいくつかの点で世界はより不平等になったが、より多くの点で世界の人々の暮らしは良くなったのだ。」
  • なんかやっぱり「もう無理」ってなってきてるけど、乗りかかった船だしもうちょいと検討を進めてみよう。

第二章 気候ケインズ主義の限界

p52 気候変動は経済成長の好機

フリードマンの発言からもわかるように、気候ケインズ主義が与えてくれるのは、気候変動を好機にして、これまで以上の経済成長を続けることができるかもしれないという「希望」である。別の言い方をすれば、気候ケインズ主義に依拠した「緑の経済成長」こそが、資本主義が「平常運転」を続けるための「最後の砦」になっているのである。

  • ここらへんも偏った紹介なんじゃないだろうか。もちろん、気候変動を経済成長の好機にしようという発想はある。だけど、別にそれだけのために気候変動対策が進められているわけではないだろう。経済成長だけを狙うのなら、ガンガン化石燃料使ってった方がお得なわけだし。
  • で、筆者は次のページから、ここでいう「最後の砦」の旗印であるのがSDGsであると主張する。これも一面的な決めつけではないだろうか。別に経済成長のために、国連でSDGsについてうんざりするような議論を重ねたわけではないだろう。
  • なんか、だんだん筆者の論理展開のパターンが見えてきた。「経済成長か脱成長か」という極端な選択肢を設定して、どっちかに少しでも偏っていたら、「はい、あなたは経済成長派ですね」「あなたは脱成長派ですね」という風にレッテルを貼る。中間は一切認めない。だから、SDGsを経済成長のチャンスにしようとする考えを持つ人たちがいれば、SDGsは経済成長派の旗印だということになってしまう。
  • こういう論法は極めてわかりやすい。で、わかりやすいだけに危険だと思う。なぜなら、中間を認めないということは、対話を認めないということだから。もちろん、ノードハウスにせよ、SDGsにせよ、経済成長を肯定する側面はあるだろう。でも、だから「ノードハウスもSDGsもダメ」と切り捨ててしまっては、「俺は奴らとちがう。正しいのは俺だけ」という独断に陥ってしまうだけだ。で、そういう独断が本書の魅力なのだと思う。なぜって、人は面倒なことを考えるのが苦手だから。めんどくさい「対話」よりも、わかりやすい二元論で偽善者野郎どもをたたきのめした方が爽快だ。でもそれって、問題を極端に単純化した上で「悪者」たちを指弾する陰謀論の論法と何も変わらないと思う。

p60 「十分な絶対的デカップリング」は不可能

ところが、あのロックストームさえも、デカップリングによる緑の経済成長は「現実逃避」だと認めるようになっている。1.5℃未満という目標を達成するのに「十分な絶対的デカップリング」は不可能だというのである。
なぜ不可能なのか。デカップリングには、単純かつ強固なジレンマがつきまとうからだ。経済成長が順調であればあるほど、経済活動の規模が大きくなる。それに伴って資源消費量が増大するため、二酸化炭素排出量の削減が困難になっていくというジレンマだ。
つまり、緑の経済成長がうまいくい分だけ、二酸化炭素排出量も増えてしまう。そのせいで、さらに劇的な効率化をはからなければならない。これが「経済成長の罠」である。果たして、この罠から抜け出すことは可能なのだろうか。
結論をいってしまうと、残念ながら、その罠を逃れられる見込みはあまりない。2~3%のGDP成長率を維持しつつ、1.5℃目標を達成するためには、二酸化炭素排出量を今すぐにでも年10%前後のペースで削減する必要がある。だが、市場に任せたままで、年10%もの急速な排出量削減が生じる可能性がどこにもないのは明らかだろう。

  • まず、先に指摘したように、1.5℃という目標自体がどこから出てきたのかよくわからん。だから、年10%の排出量削減の妥当性も判断できない。新書だから、ってことなのかもしれないけれど、本当はもっとこういう数字を慎重に検討した上で提示しないと、意味ある議論にならないと思うのだよね。もちろん、ノードハウスのモデルが絶対に正しいとは言わないけれど、筆者はいちおう『気候カジノ』も読んでいるようなので(p303に記載されている)、ノードハウスのモデルがなぜダメかというのをちゃんと検討してほしいと思う。
  • もうひとつ、「経済成長の罠」について。これは、経済成長と環境負荷のバランスを考慮すべしという問題であって、別に罠でもなんでもないのでは? 化石燃料をガンガン使ったら経済成長するけど環境負荷がヤバくなる。逆に、環境負荷を極端に軽減して脱成長とかってやると死人がガンガン出てヤバくなる。両者のトレードオフ関係を踏まえたうえで、ほどほどの経済成長とほどほどの環境負荷のバランスを達成すれば良いということではないだろうか。何が罠なのかよくわからない。(本書では「バランス」という発想が一貫して欠如しているように思われる)

p86-87 適応はダメ。全力出せ。

そうなると、グリーン・ニューディールを提唱する人々に本当に気候変動を止める気があるのかさえも、疑問に思えてくる。気候変動の「阻止」「緩和」ではなく、気温が3℃上昇した世界へ「適応」することで、経済成長を目指すグリーン・ニューディールもありうるからだ。この「適応」作戦は、NETや原子力発電などとセットになるだろう。
そして、これこそ、アメリカの有名な環境シンクタンク「ブレイクスルー・インスティトュート」が推進している案である。さらにこれは、スティーブン・ピンカービル・ゲイツといった、気候変動への「適応」を重視する人々にも共有された見方である。
だが、そのような「適応」とは、要するに気候変動はもう止められないということを前提とした対処方法でしかない。まだ可能性はあるにもかかわらず諦めるのは、早すぎないだろうか。まず、やれることは、全力ですべてやりきるべきではないか。
その際の変化の目安としてしばしばいわれるのは、生活の規模を1970年代後半のレベルにまで落とすことである。(……)だが、それが実際にどれほどの影響をもたらすというのだろうか。そう、地球の平均気温が3℃上がることに比べれば、些細な変化にすぎない。

  • 1970年代後半のレベルに生活の規模を落とすってのがまずよくイメージつかない。ハイブリッドカーを捨ててディーゼル車に乗れとか? あと、これは途上国についても同じことを言ってるのだろうか。アフリカの人たちの生活規模が1970年代後半レベルに縮小したら、それは悲劇なんてものでは済まないと思うけど。
  • あと、結局本書では気温上昇によって世界にどんな影響が出るかという基本的なことをきちんと検討していないので、3℃上がると何が問題なのかよくわからないままに3℃上がるのはヤバいという主張が繰り返されている。「1970年代後半」のイメージも「3℃」の含意も極めて曖昧なので、これらを比較することの意味もよくわからない。
  • で、こういう風にそもそも何が問題なのかというのが明確に示されていないので、「適応」だと何でダメなのかというのもよく理解できない。別に適応を唱える人たちは、諦めてるんじゃなくて、現実的な路線を追求しているだけなのでは。
    • (追記)あと、原発は適応策ではなく緩和策だ(つまり、二酸化炭素排出を抑えるアプローチ)。で、NETも適応策ではなく気候工学的アプローチだ。適応策というのは温暖化に適応するということで、例えば海面上昇に対応するため防潮堤を建てるとかのことだ。わかって書いてるのかもしれないけど、なんか、まるで原発やNETが適応策であるかのような書き方にも読めるのが気になる(少なくともこれらのアプローチの違いについて本書中には説明が全くない)。

第三章 資本主義での脱成長を撃つ

p121 脱成長とは

よく誤解されるが、脱成長の主要目的は、GDPを減らすことではない。それでは結局、GDPの数値しか見ない議論になってしまう。
資本主義は経済成長が人々の繁栄をもたらすとして、私たちの社会はGDPの増大を目指してきた。だが、万人にとっての繁栄はいまだ訪れていない。
だから、アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ。プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の拡充、余暇の増大を重視する経済モデルに転換しようという一大計画なのである。

  • なんかイメージ湧かない。余暇を増大させるということは労働時間が減るわけだから、GDPは下がるよね。で、そうなると財源も足りなくなるので、社会保障は貧弱になる。そういう状況で経済格差の収縮を目指したら、「みんな貧しく清らかに」という風にしかならないと思う。
  • で、第四章からはこういう脱成長社会を描くにあたり、「コモン」といって、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」(p127)社会のあり方が提示される。でも、コモンには「コモンズの悲劇」というのがありましてね……。農村社会みたいに規範のしっかりした小規模共同体ならうまくいくかもしれないけれど、市とか県とか国みたいな広範囲でそのやり方を実行するのは無理だろう。ステークホルダーの数が増えれば増えるほどフリーライドすることのインセンティブが高まる。ましてや、気候変動みたいに国家間の問題になってくるとますます協調は困難だ。フリーライダーを抑える仕組みがあとで提案されるのかなあ? 
  • そろそろつかれてきたから、ここで検討はいったん終わりにしよう。

現時点での教訓

  • 気に入らない人の意見でもできるだけ正確に紹介しよう。とくに相手が外国人だと日本語で何書いてもばれないので、こちらの都合の良いように紹介してしまいがちだ(ノードハウス本人の前でそれ言えるか? というのをちゃんと意識すること)。
  • 環境問題や格差問題について何か主張するのなら、データをちゃんと示そう(ソース込みで)。個別のエピソードをちりばめても全体像がつかめないし、何が問題なのかもわからない。
  • 「経済成長 vs. 脱成長」のように、極端な二項対立でものごとを理解するのはやめよう。中間を認めないと対話が成り立たなくなる。
  • 言葉の定義はよく考えよう。「グローバル・サウス」とか、少なくとも本書での定義だとトートロジーな議論の原因になっている。