【読書ノート】人新世本の批判的検討:第四章~ラスト

前回までのあらすじ

  • 人新世本を前にちょっと読んで、「うわ」と思ってそのまま積ん読になっていた。もう二度と読むことはあるまい、と思ってたけど、周囲で結構頭の良い人でもこの本を褒めてたりするので、何じゃこれ、と悶々としてた。
  • 脱成長の人たちのロジックって何なんだろう。どうしてそういうのを人は受け容れてしまうのだろう。そういうのが気になって、きちんと読んでみることにした。

第一章~第三章の落ち穂拾い(扱う問題が横滑りしがち)

  • 本書の論述の問題として、扱う問題がどんどんずれていって一定してないというのもあると思う。
  • この本は、あくまで気候変動を問題としているのだと思っていた。気候変動がともかく問題なのであって、(筆者の判断によれば)それにうまく対処できていない資本主義や経済学者はクソである。そしてSDGsはアヘンであって、問題解決には全く使えない。だから、資本主義を廃するべきなのだ。そういうことを言っているのかなあ、と思っていた。
  • しかし、読んでいくとわかるのだけど、いつのまにか問題が気候変動から横滑りしていって、アマゾン熱帯雨林での火災とか、貨物船の重油流出事故とか、縫製工場の入ったビルの崩壊事故とか、マイクロプラスチックとか、飢餓問題とか、レアメタルの問題とか、気候変動と直接関係ないトピックにまで議論が拡散していってしまう。
  • もちろん、環境問題というのはあらゆる問題とつながっているので、これらが完全に無関係だとは言わない。たとえば本書でレアメタルが問題として取り上げれられるのは、「気候変動と経済成長のデカップリングが求められている」→「二酸化炭素排出削減に電気自動車が期待されている」→「電気自動車のリチウムイオン電池にはさまざまなレアメタルが大量に使用される」→「リチウム採掘の際に大量の地下水がくみ上げられる」→「地域の生態系に悪影響を与える」という因果関係があるからだ。
  • だけど、こうやって関連する問題を次から次へと芋づる式に引き寄せてくると、何が問題なのか見えにくくなる。それよりも、気候変動なら気候変動に問題を限定した方がいい。それなのにこの本ではそもそも気候変動の基本についてちゃんと紹介していない。気候変動はどういうメカニズムによって発生しているのか、気温変化のシミュレーションではどのような変数を投入しているのか、シミュレーションのシナリオによって予測気温にどれくらいのばらつきがあるのか、そしてそれぞれのシナリオにおいて自然や社会が被る損失はどんなものなのか。気候変動を取り上げるのなら、こういった点についてきちんと説明するべきだ。気候変動というメイントピックの紹介がかなり雑なのに、気候変動からの派生トピックでしかないレアメタル問題が異様に詳細に紹介されていて、かなりアンバランスだといえる。
  • で、こういう風に扱う問題がどんどん拡散していってしまうと、読んでいる側としては、何が問題なのかよくわからないまま、「なんだか知らんけど地球ヤバいことになってるみたい」という危機感ばかりかきたてられることになる。地球環境問題や貧困問題のすべてに精通している人なんてほとんどいない。ひとつかふたつのトピックについては知識があるかもしれないけれど、それ以外のトピックについては素人だ。だから、こうやって世界の様々な問題が次々と紹介されると、読者としてはそこに書いてあることをそのまま鵜呑みにするしかなくなってしまう。前回検討したように本書の議論は穴だらけなのだけど、それなのに納得してしまう人が大勢いるのは、おそらくこういう論述スタイルも影響していると思う。

第四章 「人新世」のマルクス

p158 マルクスは夢中になった。

「マルク共同体」とは、皇帝カエサルからタキトゥスの時代のゲルマン民族社会を広く指す呼称である。狩猟及び軍事共同体としての部落共同体から、定住して農耕を営む共同体へと移行する時期にあたる。
ゲルマン民族は、土地を共同で所有し、生産方法にも強い規制をかけていた。マルク共同体においては、土地を共同体の構成員以外に売ったりするなど、もってのほかであったという。土地の売買だけでなく、木材、豚、ワインなども共同体の外に出すことも禁じられていた。
そのような強い共同体規制によって、土壌養分の循環は維持され、持続可能な農業が実現していた。そして長期的には、地力の上昇さえももたらしていたというのである。(…)
フラースの一連の著作にマルクスは夢中になった。『資本論』執筆中からあったマルクスのエコロジカルな視点が、前資本主義社会の共同体がもつ持続可能性への関心を引き出していったのだ。

  • 第四章からマルクスが召喚される。で、召喚されたマルクスゾンビはなんかエコロジー思想に目覚めていて、ここにあるような前資本主義社会の共同体に持続可能性を見いだすようになっている。
  • 守田志郎とか内山節とか宇根豊とかの農本主義者たちが描く農村共同体と似たような感じだなあ、という印象。地域づくりとかのムラレベルでこういう考えを肯定する人は多いけど、筆者の独自なのは、こういう農村共同体のあり方を全世界規模で推し進めるという構想を持っているところだ。そこが筆者の過激なところであるし、本書の魅力的なところにもなっているんじゃないか。内山節のファンは多いけれど、多くの読者は、内山氏の思想というのはあくまで資本主義社会の片隅でひっそりと実践すべきものだと受け止めていると思う。資本主義自体を廃せよ、とまで主張する農本主義者なんていないんじゃないかな?

p169  別に「農村に帰れ」と言っているわけではない。

もちろん、ここで注意しなくてはならないが、この構想は、ノスタルジックに「農村に帰れ」とか、「コミューンを作れ」というような話ではけっしてないという点である(マルクスは繰り返し、ロシアの共同体は、資本主義がもたらす技術革新のような肯定的成果を取り込むべきだと言っている)。西欧における革命は、あくまでも近代社会の成果を大切にしながら、「原古的な類型」、すなわち定常型社会をモデルにして、コミュニズムへと跳躍せねばならないのである。

  • でも、近代社会の成果を大切にするというのなら、やっぱり資本主義を否定してはいけないのではないだろうか? 資本主義社会は否定するべきだけど、スマホを否定しているわけではない、とか言う人がいたら、「あの、あなたのそのスマホはいったいどこから来たのですか?」と誰だって突っ込みたくなる。少なくとも、この段階ではまだ筆者の考えるコミュニズムのイメージがよくわからない。

第五章 加速主義という現実逃避

p196 これからは開放的技術だ。

さて、なぜバスタニーニの加速主義を長々と扱ったかといえば、彼の議論の問題点が、私たちの抱える課題を明確化してくれるからである。つまり、創造力を取り戻すためには、「閉鎖的技術」を乗り越えて、GAFAのような大企業に支配されないような、もっと別の道を探らなくてはならないのだ。
そのためにまず必要なのは、「開放的技術」である。「閉鎖的技術」がもたらすトップダウン型の政治主義の誘惑に打ち克ち、人々が自治管理の能力を発展させることができるようなテクノロジーの可能性を探らなくてはならない。

  • ここの章の議論はかったるいのでいきなり結論を引用。
  • バスタニーニの加速主義というのは、ようするに技術楽観主義ということみたい。科学技術をガンガン発展させていけば地球環境問題なんてチョロいもんよ、という考え方。
  • 閉鎖的技術というのは原発のようにトップダウンでないと管理できない技術。開放的技術というのは人々がコミュニケーションしていくなかで民主的に管理できる技術(具体例が書いてないけど村の水車みたいなのをイメージしてるのかな?)。加速主義がガンガン発展させようともくろんでいるのは閉鎖的技術の方だ。
  • 閉鎖的技術は民主的でない。だから、職人は没落し、労働者たちは資本の命令をただただ実行するだけの存在におとしめられてしまう。で、どの技術をどうやって使うかを構想し、意志決定するのは、知識を独占する一握りの専門家と政治家だけになってしまう(p191)。
  • ここらへんの議論は、確かにそうかもなあ、と思う。たとえばコロナのワクチンについて素人があれこれ口出ししても百害あって一利無しだろう。だから、多くの人々は世界のどこかの頭の良い人たちがワクチンを作ってくれるのを三密避けながら待っているしかない。
  • その一方で、じゃあ開放的技術って何なの? というのは今の段階だとぜんぜん具体例が無いし、よくわからない。
  • あと、ここもやっぱり程度問題のような気もする。たとえばGAFAを危険視する声が高まることで規制を強化していこうという流れになることはある。「閉鎖的技術」「開放的技術」っていう風にきれいに区分けできるのかなあという疑問もあるし(たとえば原発だって今は小型原発なんてものもあるし、運営の仕方に地域住民の声を取り入れる仕組みをつくることで、開放的技術的なものに転換させることもできるのではないか)。ここも、「閉鎖的技術」「開放的技術」という風に単純な二項対立を提示した上で、片方を否定し、もう片方をプッシュしていくという論法が用いられている。

第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム

p210 商品化される → 希少な有償財になる → 使用価値が毀損される

水に価格をつければ、水そのものを「資本」として取り扱い、投資の対象として価値を増やそうとする思考に横滑りしていく。そうなれば、次々と問題が生じてくる。
例えば、水道料金の支払いに窮する貧困世帯への給水が停止される。運営する企業は、水の供給量を意図的に減らすことで、価格をつり上げ、より大きな利益を上げようとする。水質の劣化を気にせず、人件費や管理・維持費を削減するかもしれない。結果的に、水というコモンズが解体されることで、普遍的アクセスや持続可能性、安全性は毀損されることになる。
ここでも、水の商品化によって「価値」は増大する。ところが、人々の生活の質は低下し、水の「使用価値」も毀損される。これは、もともとはコモンズとして無償で、潤沢だった水が、商品化されることで希少な有償財に転化した結果なのだ。

  • だから資本主義はダメで、財はコモンにしなければならない、というのが筆者の主張。
  • よくわからん。水に価格がつき、資本となって投資の対象となるというのなら、資本である水を毀損するのはおかしいのでは? 例として出されている貧困世帯への給水停止や供給量削減や人件費等々の削減はどう考えても投資ではない。
  • 資本が毀損されるとしたら、それは単に経営者が無能だというだけのことじゃないだろうか。たとえば、農地というのも資本なわけですよ。農家が労働やら肥料やらを投資することで、作物という形で経済的見返りが得られるわけだ。で、まともな農家なら農地を大切にする。農地の劣化を気にせずに連作ガンガンやるようなのはまともな農家ではない。
  • あるいは人的資本とかもそうだよね。ブラック企業みたいなところでは社員は使い捨てにされる。でも優良企業であれば、社員はそこで様々な経験を積んで自分の能力を高めることができるだろう。
  • 筆者の考え方は環境経済学と真逆のように思う。環境経済学の発想の前提は、自然には価格がついてなくて、市場で取引されないから、企業が好き放題に使ってどんどん劣化させてしまうというものだ。つまりここで筆者が言っているのと逆で、価格がつくからこそ自然の価値は市場に内部化され、適切に管理されるようになると考えられている。こういう環境経済学の考え方も筆者からすると経済成長派の戯れ言に過ぎないということになるのかなあ。
  • コモンが資本化されると毀損されるから資本主義はクソなんだ、というのは筆者の主張を支える重要な仮説だ。でも、どうもこの仮説はきちんと考えられたものではないように思う。

p223 コモンはラディカルな潤沢さを増やすことを目指す

〈コモン〉を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことがでいる。その結果、これまで貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを、潤沢なものに転化していく。要するに、〈コモン〉が目指すのは、人工的な希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。

  • で、そもそも資本化すると毀損されるという筆者の仮説が疑わしいので、こうやってコモンに期待する筆者の考えも疑わしいものになってくる。
  • すでに筆者の議論は完全に破綻してると思うけど、もうちょい検討していこう。

第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う

p318 脱成長コミュニズム

晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で、環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである。
その結果は、経済の減速である。たしかに、資本主義のもとでの競争社会に染まっていると、減速などという事態は受け容れにくい発想だろう。
しかし、利潤最大化と経済成長を無限に追い求める資本主義では、地球環境は守れない。人間も自然も、どちらも自然は収奪の対象にしてしまう。そのうえ、人工的希少性によって、資本主義は多くの人々を困窮させるだけだろう。

  • 脱成長コミュニズムのまとめの文章。
  • ここで、無駄な価値の創出につながる生産を減らすと書いてるけど、何が無駄で何が無駄でないかを誰が決めるのか。前の方のページにはこんなことが書いてある。

p253 こういうのが無駄だ。

例えば、マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタント投資銀行も不要である。深夜のコンビニやファミレスをすべて開けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。

  • さて。ここらへんはかなり恐ろしいことを言っている文章だと思う。つまり、筆者が無駄だと思う価値は産出するべきでなく、そうした価値の産出に関わる経済活動や職業は廃するべきだと主張されているのだ。
  • ある人にとっては無駄でしかなくても、別の人にとってはかけがえのないものであることもある。また、世間の価値観も時代によって変わってくる。たとえば昔は漫画というのは俗悪なものであり、子供たちを堕落させるものだと考えられていた。小説や映画も似たようなものだった。でもそれらは今では芸術の一種だと考えられるようになっている。もし、これらを「無駄だからやめろ」と禁止してしまったら、それはこの世界から芸術を排除することにより、結果的に使用価値を毀損することになる。自分にとって大切なものが他人によって無価値だと勝手に判断されて、そうした価値を生み出す活動まで否定されてしまうというのはちょっとした地獄だと思う。
  • また、こうした考え方は職業差別にもつながると思う。一部の人が考える「使用価値」を生み出すのに貢献している職業は尊く、そうでない職業は下賤だということになる。少なくとも、上の記述でコンサルの人たちは筆者によって差別されている。

第八章 気候正義という「梃子」

(ただの事例集なので省略)

全体感想

  • 検討しながら全部読んでみたけれど、やっぱり「うわ」という感想は変わらない。
  • この本の中では財の分配の仕方について議論が無いのだけど、どう考えているのだろう? 筆者は明示してないけれど、財をコモンにしてしまうということは、貨幣や市場も無くしてしまおうということだと思う。市場抜きで、どうやって自動車とか太陽電池とかを社会の中で分配する気なのか。
  • もしかしたら、コモンにするのは一部の財だけで、別に貨幣や市場を否定するわけでないということかもしれない。でも、本書中ではコンビニの24時間営業も禁止するとか言ってるから、コンビニもコモンに組み込まれてるみたいだ。だとしたら、おそらく筆者の構想する脱成長コミュニズム社会では、かなりの範囲の財がコモンになってしまっているんじゃないだろうか。その膨大な種類の財を、市場抜きでどうやって分配するのだろう。いちいち話しあって? なんか、話し合ってるだけで一生が終わっちゃいそう。まず、話し合いだけで家一軒建ててみる実験とかやってからこういう本を書くべきだと思う。
  • という風に、かなりダメダメな本だという感想。いくらなんでも突っ込みどころが多すぎる。前半はアレだけど、後半は筆者の専門のマルクスの話なのだし、もっと有益な議論があるのかなあ、と思っていたけど、それも期待外れだった。
  • ただ、その一方でこういう本が売れるというのも何となく理解できる。極端な二項対立を設定して悪者を一刀両断にしていく議論は爽快だし、環境問題や格差問題について次々と印象的なエピソードを読まされれば「なんかヤバいぞ!」という不安がどんどんあおられる。マルクスゆずりの「SDGsは大衆のアヘンである」みたいな過激なレトリックも魅力的だ。でも、そういう本書の魅力が、気候変動に関する議論を情緒的で無内容なものに偏らせてしまうリスクはある。で、この本を真に受けた「3.5%」の人たちによってむしろ気候変動への取り組みが大幅に後退してしまったりして…(この本を買った人は日本の人口の0.45%くらいにとどまってるみたいなのでとりあえず一安心だ)。
  • 1,000歩譲って筆者の議論が正しいとしても、気候変動というのは現在進行形の問題であって、50年後、100年後くらいにはかなり影響が顕在化してくる可能性がある。筆者の考えるような脱成長コミュニズムで気候変動問題に対処しようとするのなら、今後10年とか20年くらいのあいだに世界中の大部分の国が資本主義を捨て脱成長コミュニズムに移行しなければならないのではないか。どう考えてもそれは無理だ。だから、筆者の主張は、理論面でも実践面でも完全に間違っていると思う。

今回の読書から得られたこと

  • 脱成長という考えはやっぱり無理筋だとわかった。
  • 無理筋な議論でも、「極端な二項対立による問題設定」や「既存研究の不正確な紹介」や「論点の横滑り」や「トートロジカルな概念定義」や「全体的なデータを示さず個別エピソードを羅列する」などのテクニックを使うことで多くの人に受けいけられることがわかった。
  • 今の時代にマルクスを読んでも有意義な知見は何も得られないことがわかった。
    • (追記)ちょっと言いすぎた。でも、ともかくマル経の人たちはこの本をちゃんと批判しないと、世間からマル経自体がいい加減な学問だと見なされてしまうと思う。