盆栽化する小説

  • 小説を読んでも時間の無駄、という感じがして、このところは全然読んでない。

  • 前は、小説を読むことに価値観や世界観が強引に変化させられるような驚きがあった。高校の頃に三島由紀夫を読んで、倒錯した美意識にやられて初めて読書で吐き気を感じた。大学では村上春樹にはまり、孤独であることを許容してくれるやさしい無関心の世界観にどっぷり浸かっていた。大学院に入ってからは、保坂和志ベケットプルースト、ウルフなど、こんな小説もありなんだという自由さに触れ、秩序だったものよりもめちゃくちゃなものを肯定するようになった。

  • でも、ここ数年、小説を読んで驚いた記憶がない。好きになった作家はいる。ル=グウィンとか。でも、どの作家の作品も想定から大きく外れるものではなく、これまで読んだ小説のバリエーションのひとつにしか思えなくなった。

  • 小説だけでなく、映画もそんな感じだ。良い作品はある。でも、驚きは無い。現代詩はまだ読んでるけど、これもだんだん飽きてきた。これを見れば自分が変わる、という革命に参加するような高揚感はあらゆる芸術作品に対して感じなくなってしまった。

  • なぜなのか。ひとつには、フィクションよりも現実の方がはるかに驚きに満ちているということがあるだろう。震災があって、トランプ政権が生まれて、コロナがあって、ウクライナでのことがあって。どれもフィクションの想像力の遥か先まで行っている強烈な現実だ。現実がこんなおかしなことになっているのに、フィクションなんて見ている暇はないと、どうしても思ってしまう。気晴らしとしての意味はあるかもしれない。でも、気晴らしなら酒でも飲めばいい。酒にくらべれば健康的かもしれないけれど、精神的にはかえって不健康かもしれないし…。

  • 最近はエンターテイメントの方に可能性を感じている。それで、小説よりもアニメや漫画を見るようになった。例えばゴールデンカムイには新しさを感じている。連載中は、これまで見たこともないものを見せられているという感覚を持ちながら追いかけていた。「アート」とか「純文学」の世界の小難しさとか息苦しさがなくて、それなのに軽薄ではなく、現実を真正面から捉えようとする真剣さがあった。

  • アートは、アートが好きな人たちのコミュニティがしっかりできあがっている。たとえば小説なら、文芸誌を熱心に読んでくれるような読者や同業者に向けて書けばいい。しかし、エンターテイメントの場合、そうしたコミュニティが必ずしも成立していないところで勝負しなければならない。もちろん、エンターテイメントにだって無数のコミュニティがある。たとえば深夜アニメを観る層というのがある。だけど、ゴールデンカムイは明らかにそうしたコミュニティを超えたところで人々に受け入れられている。コミュニティごとの審美感やお約束を超えた、もっと普遍的な面白さがそこにあるからだと思う。そしてその普遍性は、この現実と緊密に結びついたものだ。

  • 震災があったから震災をテーマに小説を書く、というやり方だとどうしても小説は現実の後追いになってしまう。おそらく、これからはコロナをテーマにした小説も出てくるだろうけれど、そんな小説読みたくない。現実が現実になる前の、まだ形が定まっていないときに、そのうごめきを敏感に察知し、作品として提示できなくては、作品としての価値は無いと思う。ゴールデンカムイの連載終了時期はたまたまロシアによるウクライナ侵攻と重なった。自分たちのふるさとを守るために戦うアシリパの姿は、ウクライナの人々の姿を連想させる。それは本当に「たまたま」なのではなく、ゴールデンカムイという作品がエンターテイメント作品として、現実が今どんな風に動き、人々が何を感じているかを真剣に考えた上で生み出されたものだからではないか。質の高いエンターテイメント作品は、人々の感覚に輪郭を与えることで、一種の予言の書のような役割を果たすことがある。それが、アートが時代遅れになっても、エンターテイメントが時代遅れにならない理由だろう。

  • でも、エンターテイメントも安易な方に流れれば、マニアを相手とした閉鎖的な世界でだけ作品が量産されることになる。というか、ほとんどのエンターテイメント作品はそういう風に作られているだろう。その方がマーケティング戦略として成功確率が高いからだ。正体不明の「現実」をターゲットにマーケティングなんてできない。だけど、それでもそうしないともうフィクションの世界に新しさは何も生まれないと思う。化け物のように巨大で変幻自在な現実を前に尻込みしてニッチ市場に逃げ込んでしまったら、フィクションは好事家相手の盆栽になってしまう。最近小説を読まないのは、今の時代において小説が盆栽になってしまったからだ。

  • いや、盆栽でない小説もたくさんあると思うよ。だけど、優れたアニメや漫画に出会って、「負けた…」と感じることがとても多い。ゴールデンカムイに対しても、「すげえ」という気持ち以上に「負けた」という気持ちの方が強いんです。なんで負けたと感じるかと言ったら、やっぱり自分は小説で育った人間だから。小説に救われてきたという気持ちがある。だからこそ、盆栽に小宇宙の美を再現してそれで終わりみたいな小説はもう読みたくないのだ。

  • (追記)若気の至りで書いた。今朝だけど。ツッコミどころは色々あって、そもそもお前それほど小説読んでないじゃんとか、ゴールデンカムイウクライナを重ね合わせてるあたりは多分来年あたり読み返したら赤面するぞとか、知ったかぶりで色々失礼なこと書いてるぞとか。ただ、小説にワクワクしなくなったのは本当。保坂さんが薦めてる小島信夫とかベケットとかを読んでみて、確かにすごいと思うんだけど、でもこれでいいのかなあという疑問もこの数年くらいで強く感じるようになった。昔好きだった小説家に夢中になれなくなってしまった、というのは寂しいことだ。でも、そろそろ自分の足で歩き出さないと。