電脳コイル(21話まで)

  • 通路の向こうの世界が怖すぎる。寝る前に観てるので、怖くて眠れなくなって睡眠不足気味だ。
  • あの世の描写っていろんなのがある。すごく変なのだと、チュツオーラの『やし酒飲み』という小説では、あの世は現世から歩いていける距離にあって、人々はなぜかみんな後ろ向きに歩いている。現世とあの世の距離感がなんか狂ってて、主人公はやし酒が飲みたいから死んだやし酒づくりにわざわざ徒歩で会いに行って、戻ってきて俺のためにやし酒を作れと呑気なことを懇願する。呑気すぎて全然怖くない。
  • 電脳コイルの場合はそんな狂った感じじゃなくて、普通にあの世で普通に怖い。ヌルたちが「頂戴頂戴」言って襲ってきて、触られると電脳体が分離してしまうのだけど、多分ほっといたらそのままそいつもヌルになってしまうのじゃないか。ここら辺はゾンビものっぽくもあって、怖さに拍車をかけている。一番怖いのがカンナで、口元だけ人間のままなんだけど、なんかぺちゃくちゃ喋っているのにその声が一向に聞こえない。中途半端に人間らしさの残ってるゾンビが一番怖い。
  • で、こういうあの世の描き方って、ゲド戦記にかなり近いと思う(アニメ版は見てないので原作の話)。石垣の向こうの死者の世界。本当は、死を克服しようと考えた人間たちが永遠に生きられるための世界として作ったのだけど、その代償として、死者たちは暗闇の世界で永遠に苦しむことになった。

ところが、石垣がめぐらされ、魔法がかかると、その石垣に囲まれたなかでは風が吹かなくなってしまった。海の潮は引いたままになり、泉も湧かなくなった。毎日日の出を迎えた山々は、夜しか知らない山々になった。こうして、死んだ人びとのおもむく先には暗い、乾ききった土地が待っていることになった。  

ゲド戦記 第6巻 アースシーの風』

 

アレンの中には、恐怖のかわりに、深い同情の念が湧きあがってきた。もしも、その底に不安があったとしても、それは自分のことを思っての不安ではなく、人びとのことを思ってのものだった。アレンはいっしょに死んだ母子を見かけた。ふたりはこの闇の世界でもいっしょにいたが、子どもは駆けることもしなければ声をあげて泣くこともせず、母親のほうも、子どもを抱くこともしなければ、見やることさえしなかった。愛し合って死んだ者たちが道で出会っても、ふたりはまるで他人のように、ただ黙って通り過ぎるだけだった。  

ゲド戦記 第3巻 さいはての島へ

  • ゲド戦記の場合は死を克服するために石垣を作り、電脳コイルの場合はおそらく物理世界の限界を超えるためにメガネを作った。しかしその結果、死者たちは消滅することもできずに永遠に暗闇の中を彷徨い続けることになった。人間の限界を克服したばかりに「死ぬことさえできない」という最悪のしっぺ返しがくるという構造において、両者はとても似ている(また、しっぺ返しを食らったのが子供たちのような無辜の人々である点も同じ)。
  • で、このアニメは最初は「子供世界で流通する陰謀論を具現化した世界を描く」ことを狙いとしているのかなあ、と思ってたけど、ちょっと流れが変わってきた気がする。つまり、メガネに振り回されて苦しみ続ける子供たちがいる一方で、そういう状況を作ったクソみたいな大人たちがいるという構図がだんだん見えてきた。『がっこうぐらし!』という漫画でも、最初はゾンビまみれの世界で女の子たちが逃げ回ったりスコップでゾンビをペシペシ叩いたりというのが中心に描かれていたのだけど、次第に、そうしたゾンビだらけの世界を生み出したクソみたいな大人たちの存在が浮かび上がってくる。この作品は最初『20世紀少年』だと思ってたけど、次第に『ゲド戦記』と『がっこうぐらし!』の要素も入ってきた気がする。で、こうなってくると作品の向かう先は、「クソみたいな大人たちを出し抜いて、子供たちの力で再び世界を取り戻せ!」というようなものになってくるんだろうか?
    • (追記)結局そういう風にはならなかった。結局この作品で、大人たちの存在感は最後まで希薄で、メインで動いているのは「子ども」「子どもの心を忘れていない大人」「大人になりきれない若者」だけだった。
  • でも、子供たちは子供たちで結構薄暗い感じだ。権力闘争が結構シビアで、大地はイサコによってオヤビンの地位を奪われ、そして今、イサコもまたオヤビンの地位から突き落とされ、第一小の陰険な目つきの子供たちに付け狙われるようになっている。あまり子供たちにも希望が持てない感じだ。
  • ところで、夏休み前まで通ってた小学校が壊されるって、そんな話あったっけ? なんか唐突に壊れてて、唐突に校舎がビルの最上階に移転になって、唐突に第一小と合併してる。唐突すぎて、大地が間違って前の校舎に行ってしまうのもわかるよ。そして、近代的で無機質な校舎で、第一小の学帽少年たちがうろついているビジュアルはかなり異様だ。どう見てもこの人たち、『まんが道』とかの時代の子供たちだ。町自体が古い空間と新しい空間がずれて軋みを上げてるみたいな異様な場所なのだけど、その新旧のずれ具合を具現化したみたいな、ほとんど狂気の世界になっているのがあの新校舎だといえる。カオスすぎて、イサコがオヤビンの座から転落するのもわかる。
  • で、いまだにヤサコというキャラがなんなのかつかめてない。命懸けでハラケンを助けに行ったのは素晴らしいけど、なんでそこまでするんだろう? 自分の大切な人を助けたいという切実な動機のあるハラケンやイサコに比べて、ヤサコが何に突き動かされてるのかがよくわからない。カンナがハラケンのことを好きだと言ったのをハラケン本人に伝えず、代わりにヤサコが「ハラケンが好き」と告白してしまった。これだと、ヤサコはカンナの代用品か、あるいは継承者みたいな存在になると思う。ヤサコ本人に何かがあるというよりも、他者の思念を受け止める「器」みたいな存在として描かれてるのかなあ。