【読書ノート】『21世紀の道徳』(ケアの倫理のところだけ)

読む動機

  • ここ数年、ヒースとかボウルズとかグリーンとか、あるいは最近読んでるヘルマン=ピラートみたいに、脳科学や進化論、ゲーム理論の議論を使って哲学上の問題に取り組もうとする議論をちょこちょこ追いかけていた。ちょっと変わり種だと、数理シミュレーションでドゥルーズ哲学を再現しようとする西川アサキなんかにも同じような方向性で関心を持っている。
  • なんでそういう関心を持っているかというと、哲学とか倫理学の本を読んでも面白いと思えなくなってきたから。議論が必要以上にアクロバティックで、現実の問題を考えるのにはあんまり役に立たないんじゃないかなあ、と思うことが多い。
  • たとえばオギュスタン・ベルクの風土論というのが好きなんだけど、ベルクの議論は西田幾多郎とかプラトンとかの七面倒くさい哲学議論を援用している割に、その発想を現実の地域づくりに応用しようとすると「地域のみんなでご近所を歩いて地域点検をしよう」みたいなありきたりな提案にしかならない。あるいは、先月読んだ『現代思想入門』という本でも、デリダとかフーコーとかメイヤスーとかのめんどくさい議論を追っかけた末に出てくるのが「ライフハックして軽やかに生きよう」みたいな提案で、え、その程度のことのためにこんなややこしい議論読まされてきたの? とがっかりしてしまった。つまり、議論の難易度の高さと、アウトプットとして出てくる提案の平凡さがぜんぜん釣り合ってない。だったら、ややこしい哲学議論は極力はしょって、科学的に説明できるところは科学に頼った方が、もっとアウトプットに見合うシンプルな議論になるんじゃないかなあ、と。あと、科学を使うことで、アウトプット自体がもっと意外性のあるものになることもある。哲学には科学をどんどん絡めていった方がいいと思う。
  • で、この本は進化論や脳科学の知見を使って道徳の問題を論じていこうとするものみたい。参考文献を見てみると、自分がこれまで読んだ本とかなりかぶっている。ああ、だったら読まないでいいかなあ、ともちょっと思った。
  • だけど、ぱらぱらめくってみて、「ケアの倫理」に関する記述だけがちょっと気になった。筆者はフェミニスト倫理学の文脈でケアの倫理を扱ってるみたいだけど、自分の場合はむしろ環境倫理の文脈でケアの倫理を一時期勉強していた。文脈の違いのせいかもしれないけれど、ケアの倫理が否定的に捉えられているのが気になるので、そこのところだけちょっと検討してみたい。
  • 先に書いておくと、別にこの本をディスりたいわけではない。すごく良い本だと思う。とくに理系アレルギーを自認する一部の人文系の人たちはこういうのを基礎知識として勉強しておいた方が絶対にいい。ただ、「あれ、ケアの倫理ってそんなにひどい考えだっけ?」と気になるので、これをきっかけにもう一度勉強してみようと思ったということです。

第8章 「ケア」や「共感」を道徳の基盤とすることはできるのか?

  • できない、というのが筆者の考え。
  • 本章では「フェミニスト倫理学」と「ケアの倫理」が互いに密接に関連しているものとされていて、p166では、「フェミニスト倫理学のなかでも代表的な考え方である「ケアの倫理」」と位置づけられている。
  • なので、ケアの倫理の前に、フェミニスト倫理学とはなんぞや、という記述を抜き出してみる。

p165 フェミニスト倫理学とは?

しかし、フェミニズムでは中立や公平という概念そのものが疑いの対象とされる。既存の倫理学が重視してきた「理性」という概念は、所詮は家父長制のもとで定義されたものでしかない。そして、規範倫理の主張は客観的であったり論理的であったりするように聞こえるかもしれないが、実際には「男性的なもの」とされている理性を強調している時点で、片方の性別の側に寄ったものである、と論じられるのだ。このようにして、功利主義や義務論よりも優れた規範倫理の理論を提唱しようとするのではなく、理論の有意性をめぐる既存の論争そのものを無効化することが、批判理論としてのフェミニスト倫理学の目的である。

  • この時点で、自分が昔勉強したケアの倫理と、ここで言われてるフェミニスト倫理学は、かなり違った考えであるという印象を持った。
  • ケアの倫理は、別に功利主義や義務論みたいな規範倫理理論を無効化しようとするものではない。ケアの倫理の提唱者であるギリガンが「ケアと正義の結婚」という比喩を使っていることからもわかるように、ケアと正義(ここでいう規範倫理に該当)は相互に補い合うものとして構想されている(ここらへんは品川哲彦『正義と境を接するもの』で詳しく論じられている)。
  • 先に述べたとおり、自分の場合、環境倫理の文脈でケアの倫理に関心を持った。だから、フェミニスト倫理学は勉強したことがない。ここの記述を読む限り、フェミニスト倫理学は、自分が知ってるケアの倫理とはかなり異質な議論のように感じる。

p171-172 フェミニスト倫理学の主張

(1) ケアや共感は、本来は重要なものであるのに、男性中心主義的な社会によっておとしめられてきた。
(2) 女性が男性よりもケアや共感に優れていることが多いのは、生物学的な本質に由来するのではなく、「女性らしさ」といった規範が社会によって押しつけられて、ケア役割を一方的に担わされてきたことに由来する。
(3) 押しつけられたからであるとはいえ、これまでは軽視されてきたケアや共感は女性によって担われてきたのだから、ケアや共感を「女性の道徳」としながらその価値を積極的に主張することには、フェミニズム的な意義がある。

  • ここで、(1)に関してはケアの倫理の主張と重なると思うけど、(2)(3)はフェミニスト倫理学オリジナルの主張だと思う。少なくとも、ギリガンは(2)(3)を主張してないんじゃないか? (全部の著書をチェックしたわけでないので定かでないけど)
  • ここらへんは品川哲彦氏のまとめを引用して検討しよう。

少なくとも、ギリガンは性差を固定した生物学的な決定論を意図していない。女性の倫理(feminine ethic)をみずから標榜するノディングスでさえそうである。それゆえ、ギリガンの「要求は、けっして「責任と思いやりの道徳」を女性固有の道徳概念として認めよということでも、女性の道徳判断はその道徳概念に基づくべきだという要求でもなかった」(江原:134)とみる解釈が穏当だろう。ただし、女性の概念が社会的に構成されてきたなかで帯びてくる象徴的な意味合いについてはなお論じる余地がある。 品川哲彦『正義と境を接するもの』p148

  • 微妙な言い方をしている。ギリガンがケアの倫理を提唱したのは発達心理学での実験結果に基づくものだ。つまり、「ハインツのジレンマ」という思考実験への被験者の反応からケアの倫理を導き出している。だけど、だからといって生物的に女性であればケアの倫理に必ず従うまで言っているわけではない。ただ、ケアの倫理という発想を導入すると、道徳発達のパターンが違った風に見えてくる、ということを主張しているだけだ。むしろ、ケアの倫理を女性の道徳と見なすことから慎重に距離を置いているように思われる。少なくともここの品川氏による整理からは、ケアが男性からの押しつけだという考えは引き出せないと思う。
  • という風に、フェミニスト倫理学でケアの倫理が重視されているとしても、ケアの倫理の発想がフェミニズム倫理学の主張ときれいに重なるわけではないと考えられる。
  • では、筆者は「ケアの倫理」をどのようなものとして理解しているのだろう?

p168-169 筆者による「ケアの倫理」理解

ギリガンによれば、〔男性の〕発達心理学者たちの説では、女性の道徳的判断能力がコールバーグの発達モデルの第三段階以上に達することはめったにないということになっている。そして、女性の活動領域が家事や子育てに限定されているために、女性の発達は他者に対する補助もしくはケアの段階に止まってしまい、自立的な正義理解の段階へ進むことが妨げられているからだというのが、これに対する〔男性の〕発達心理学者たちの説明である。そこでギリガンが選択したのが、女性の道徳的発達は男性の道徳的発達は男性の道徳的発達より劣っているように見えるかも知れないが、それは決して女性の道徳的発達が不十分だということではないこと、むしろ女性の道徳的発達は、〔ケアという〕男性とは異なる独特の道徳的理論と特性を持っているということを、証拠をあげて示すという戦略である。(…) (ピーパー、128-129頁)
女性は男性とは異なる視点に基づいて道徳を判断しているのだとすれば、男性的な理性や正義といった物差しで女性の道徳性の発達を測ることはできなくなる。必要なのは、ケアという「もうひとつの声」に耳を傾けることである、とギリガンは論じたのだ。

  • 本書中でのケアの倫理の説明を探してみたけど、あんまり詳しく論じられていないように思う。ここの記述だけだと「ケア」というのが具体的にどういうことなのか、イメージしにくいのではないか(男性の道徳とは異なる独特な道徳だ、ということしかわからない)。
  • その後のページでも説明はあまり追加されていない。そして、ケアの倫理とフェミニスト倫理が必ずしも同じとはいえないけれど、「なにを強調するかという細かい点には違いがありながらも、フェミニスト倫理学者やケアの倫理学者たちの問題意識はおおむね一致しているようでもある」(p170)とまとめられている。シノドスというサイトに掲載されている筆者による自著紹介記事(https://synodos.jp/library/27704/)でも「ケアの倫理(フェミニズム倫理)」という表記がみられるので、筆者はケアの倫理とフェミニズム倫理(フェミニスト倫理?)を同一視しているようだ。
  • ケアの倫理のイメージを理解するには、ギリガンが実験で使った「ハインツのジレンマ」をみると手っ取り早いと思う。

ハインツのジレンマ

  • ハインツのジレンマというのは一種の思考実験だ。有名なトロッコ問題もジレンマの一種だけど、トロッコ問題が「功利主義 対 義務論」のジレンマとして論じられることが多いのに対して、ギリガンはハインツのジレンマを「正義 対 ケア」のジレンマとして位置づけている。
  • ハインツのジレンマに対する被験者の反応から、コールバーグは、女性の道徳的判断能力はあまり高いレベルに達しないと結論づける。だけど、コールバーグの弟子であるギリガンはこの解釈に反発して、そもそも道徳的な発達段階が男女で違う傾向があるのではないか、と考える(ここではあくまで「傾向」を問題にしているのであって、男女で発達段階が絶対に違うと言っているわけではないことに注意)。
  • それじゃあ、そのハインツのジレンマとはなんなのか? それに対する男女での反応はどうちがうのか? 品川の前掲書に要約されているので、引用してみよう。

コールバーグは子どもを含む被験者の発達段階を調べるために、仮設したディレンマによる設問を用意した。そのディレンマのひとつが、重い病気の妻をもつ夫ハインツが妻の命を救う薬代を払えないために薬屋から薬を盗むべきか、それとも、結果的に妻を助けることができなくても法を守って盗みをすべきでないかと問う「ハインツのディレンマ」である。
ギリガンもまたコールバーグ理論にしたがって研究を進めていた。ところが、他の面では同等の能力をもつ十一歳の男女を調べたところ、ハインツのディレンマにたいするふたりの回答はきわめて対照的だった(Gilligan 1982:26ff)。男児はディレンマを生命と財産との二つの価値の対立と捉え、つねに生命のほうがいっそう重要だから薬を盗むべきだと答えた。一方、女児の反応は、夫が逮捕された場合に誰が妻の世話をするのか、ほかに薬代を払う方法はないのかなどの別の問題に飛んでしまい、明確な回答に収斂せず、やがて「誰かを生かし続けるものをもっているなら、それをあたえないのは正しくない」(ibid.:28)から薬屋が悪いという結論にいたった。 品川前掲書p141-142

  • ギリガンの著書だと男児・女児の発言が掲載されているので、それも引用しよう。日本語版がないので、英語版を自分で訳す。まずは男児の方の発言。括弧内は実験者の台詞。男児は「ハインツは薬を盗むべき」と結論を出している。

なんでかというと、ひとつには、人間の命はお金よりも価値が高いからです。もし薬剤師が1,000ドルしか稼げないとしても、彼は生きていけるでしょう。だけど、ハインツが薬を盗まなかったら、彼の奥さんは死にます。(どうして命はお金より価値が高いの?)それは、薬剤師はいずれ癌になったお金持ちから何千ドルもお金を稼ぐことができるけれど、ハインツは奥さんを二度と手に入れることができないからです。(どうして?)なぜなら、人はみんなそれぞれ違ってて、だからハインツの奥さんは二度と手に入らないからです。

  • 次は女児の発言。女児はジレンマに対しはっきりした結論を出さない。

ええと、わかんないです。盗まなくてもいいんじゃないかなあって。たとえばお金を誰かから借りるとか、ローンで払うとか。でも、盗むのはいけないと思います――でも、奥さんが死ぬのもダメだと思う。
(…)
もし薬を盗んだら、奥さんを救えるでしょう。でも、そうしたら彼は刑務所行きです。そうしたら奥さんの病気はまた悪くなるし、彼ももう薬を手に入れられなくなるし、それは良くないです。だから、ちゃんと話し合って、お金をつくるための方法を探すべきだと思います。

  • 男児は「お金と命」という抽象的な問題設定をして、それらを比較した上で、「お金より命の方が大事。だからハインツは薬を盗むべき」という結論を導き出す。
  • それに対して女児は、ギリガンの解釈によれば「関係性という文脈(a context of relationships)」で問題を捉えている。つまり、単に奥さんの命が助かればいいというのではなくて、ハインツと奥さんが一緒にいられること、ふたりが関係性を維持することができることを重視している。ハインツが薬を盗んだら、彼が刑務所行きになることで、ふたりの関係性は断たれてしまう。一方、奥さんが死んでしまうのも、やはり関係性が断たれることになる。だから、盗むのもダメだし、奥さんを放置するのもダメなのであり、盗まずに奥さんを助ける第三の方法を考えなくてはならない。
  • 女子の反応に典型的に現れているのがケアの倫理だ。つまり、正義の倫理が生命、金銭、権利等々の抽象的な概念を比較検討することで道徳判断をするのに対して、ケアの倫理では関係性を維持することや関係性を育てることに価値を認める道徳判断をする。関係性というのは個別具体的なものなので抽象化できない。ケアの倫理における道徳問題は「文脈依存的で物語的(contextual and narrative)」なものとして現れるとギリガンは言う。抽象化しようとすると文脈や物語が消えてしまう。
  • だとすると、ケアの倫理にとって正義の倫理は敵なのだろうか? ものごとを抽象化して文脈や物語を捨象してしまう正義の倫理は、道徳問題を的確に捉えられないダメな倫理ということになるのだろうか? ギリガンは必ずしもそう考えていない。
  • しかしその前に、『21世紀の道徳』に戻って、筆者がケアの倫理についてどう評価しているかを見てみよう。

p175 ケアの倫理は理論や原則を否定する(?)

先述したように、ケアの倫理では、普遍的で中立的な理論や原則の存在を否定して、個別の状況や当事者の主観や関係性といったことに基づきながら考えることが重視される。しかし、ここで明らかに問題となるのは、理論や原則を否定してしまうと、個人の経験からは遠いところにある法律や政治体制について評価をおこなったり「どこを修正すればいいのか?」と具体的に考えたりすることが困難になる、ということだ。

  • ここではフェミニスト倫理学ではなく、はっきり「ケアの倫理」と言っている。だからここではケアの倫理そのものの難点を指摘しているのだといえる。
  • で、ケアの倫理だと法律や政治体制について評価を行ったり修正点を具体的に考えることが困難になるというのはその通りだと思う。たとえば気候変動対策のための炭素税を導入しようというときに、全人類の「関係性」とか「文脈」「物語」を考えていったら絶対に解は出てこない。おまけに、気候変動の場合はまだ生まれていない未来世代まで倫理的配慮の対象に含めなければならない。一方、ケアの倫理というのはあくまで具体的な他者との関係性に関する倫理なので、まだ生まれていない未来世代という抽象的な存在の前では無力だ。だから、気候変動問題にケアの倫理で立ち向かおうとしても混迷が深まるばかりだろう。
  • ただ、ギリガンは、すべての問題をケアの倫理で解決しようと言っているわけではないし、そもそも正義の倫理を否定してもいない。むしろ、ケアの倫理と正義の倫理の「結婚」によって、人間に対する見方を変えていくことを重視している。

ケアと正義の反転図形的関係

  • さて、最初に述べたように、ギリガンはケアの倫理と正義の倫理の関係を結婚になぞらえている。

ギリガンは『もうひとつの声』の末尾でケアの倫理と正義の倫理の関係を「結婚」になぞらえた。正義の倫理だけでなくケアの倫理へと「見方を広げることで、私たちは、現在描かれているような成人の発達と今注目しだした女性の発達とが結婚すれば、どのように人間の発達についての理解を変えていき、人間の生についてもっと生産的な見方をもたらすことができそうか、思い描くことができるだろう」(Gilligan 1982:174)
品川前掲書 p156

  • ただし、そのように成熟したケアを、ギリガンは「誰もが他人から応答してもらえ、仲間に入れられ、誰ひとりとして取り残されたり傷つけられたりはしない」(Gilligan 1982:63)という普遍的な広がりをもつものとして描いている。これでは、ケアは正義と見かけ上ほとんど同じもののように思えてしまう。
  • この点について、品川はノディングスを参照して、ケアをネットワークとして解釈している。これなら、ケアの独自性を維持しつつ、ケアに普遍的広がりを担保することができる。

したがって、ケアの倫理が到達をめざしている理想的状況は、「どの特定のひとも誰か特定のひとによってケアされ、後者の特定のひともまた誰か特定のひとによってケアされる」というしかたでケアのネットワークがすべての特定の個人を余すことなく編み込む事態を指していると解釈しなくてはならない。それゆえ、ケアの倫理による成熟の説明のなかで、「どのひとも誰かによってケアされなくてはならない」ということが「すべてのひとがケアされる」事態を表しているとしても、それを「どのひともケアされる権利をもつ」とか「どのひとも平等にケアされるべきだ」というように、権利・平等などの正義の倫理のなかで多用される概念を用いて翻訳することはできない
品川前掲書p158

  • のちにギリガンは正義とケアの関係を「結婚」ではなく「反転図形」の比喩で説明するようになる。反転図形というのは、「アヒル・ウサギ図形」とか「ルビンの壺」とかのこと。最初見たときはアヒルだけど、じーっと見てるとウサギに見えてくる。さらにじーっと見ているとまたアヒルに見えてくる。そういう不思議な図形のことだ(検索すればいくらでも出てくる)。
  • 長いけど、品川氏の記述を引用しよう。氏のいうように、ここではもはや正義とケアを性差に結びつける発想はなくなっており、フェミニスト倫理学の理解するケアの倫理とは全く別物になっていると思われる。

ところが、ギリガンはのちに結婚とは別の比喩を提示した。論文「道徳指向と道徳的発達」(一九八七年)のなかで語られた反転図形の比喩である。「正義への関心からケアへの関心へと注意の焦点が移ることで、何が道徳的に問題であるのかについての定義が変わり、同じ状況が別のしかたでみえてくる」(Gilligan 1995:32)。たとえば、ひとの世話になることは、ケアの見方からは、そのひととの「関係」のあるあかしとして肯定されるが、正義の味方からは「自律への妨害」にみえる(ibid.:44)。二つの見方が成り立つのは、そもそも、人間関係が両義的だ――他者への愛着が自己形成にも自己喪失にも通じうる――からである。反転図形の比喩はいろいろな点で注目に値する。まず、対置されているのはケアの倫理と正義の倫理ではなく、ケアの見方と正義の見方である。つぎに、二つの見方の発達過程やそれと性差との関係への関心は失われていないものの、生物学的な決定論があらためて否定され、女性であれ男性であれ、同一の人間がどちらの見方もとりうることが強調されている。正義の味方とケアの見方は「切り替えることができる」(ibid.:39)。したがって、この解釈は、二つの見方が「統合、融合される用意があるという暗黙の了解を否定している」(ibid.:43)。
(…)この比喩の長所は正義の見方とケアの見方の異質さを明言している点にある。両者の統合や、その場面でどちらの見方が適切かをあらかじめ指示する別個の原理はない。したがって、見方を切り替えて、異なる見え方に熟通し、そのあいだで均衡をとるようにして像を結んでいくほかない。だが、その過程で、たとえば、個別の状況に配慮するケアはそれまで気づかれなかった不正義を発見するのに寄与するかもしれないし、一方、不正義に気づくケアの感受性は正義の感覚によって錬磨されうる。それゆえ、二つの見方が相補的に機能することもありうるのである。
だが、ひとりの人間における統合をもって成熟とするという前提はもはやないのだから、異なる見方のあいだで均衡のとれた適切な理解は、ひとりの人間のなかでのみ完成される必要はなく、複数の人間が意見の交換をとおして追求していくこともできるだろう。だとすれば、他者の異質性や対話の重要性を強調してきたケアの倫理には、この解釈こそがいっそうふさわしいのである。たしかに、どの事態にも異なる見方ができるとは主張できぬにしても(Flanagan and Jackson:627)、もともと、「もうひとつの声」という比喩はひとつの声への収斂を示唆していなかったはずである。
品川前掲書p163-164

  • 最後にある「もともと、「もうひとつの声」という比喩はひとつの声への収斂を示唆していなかったはずである」というのは指摘からわかるように、そもそもギリガンは、正義の倫理を否定してすべての問題をケアの倫理で扱うべきなどとは主張していない。正義の倫理(というか見方)だけでなくケアの倫理という視点にも立ってみることで、道徳問題の現れ方が異なってくることがある、ということを述べているのだ。
  • ハインツのジレンマの問題に戻って考えてみる。正義の倫理だけに固執していると、「ハインツが薬を盗むと刑務所行きになって奥さんと一緒にいられなくなる」と考える女児は、問題設定から逸脱しているだけだという風にしか見えない。しかしケアの倫理の視点に立ってみると、女児は「ハインツと奥さんの関係性」という、命やお金とは別の対象に価値を見いだしていることに気づく。そして、この場合、別に女児の考えが絶対に正しいということではない。ただ、そうやって見方を変えることで、「個別の状況に配慮するケアはそれまで気づかれなかった不正義を発見するのに寄与するかもしれない」。そして、「不正義に気づくケアの感受性は正義の感覚によって錬磨されうる」。この女児はやがて政治や経済や歴史を学んでいく中で、遠い国で貧困に苦しむ人々に対してもケアの感受性を持てる女性に成長するかもしれない。
  • で、これはただの哲学的おとぎばなしではなくて、実際に人はそういう風に成長していくものではないだろうか。たとえばアマルティア・セン開発経済学を学ぶようになったのは、10歳の時、ベンガル大飢饉で飢えて死んでいく人を目の当たりにしたことがきっかけだったという。

センが9歳だった1943年です。彼が通っていた小学校に、ある1人の痩せこけたおじいさんが姿を現した。これは何だろうと思っていたら、センの目の前で、やがて数十人、数百人、数千人の数え切れない、もう骨と皮だけになった人たちが食べるものを求めて行進して来る。その姿を目撃したセンは大変深い衝撃を受けます。セン自身は、中産階級の人間だから、飢饉が起きていることを実は知らなかった。ところが、自分の学校の前を数千人の痩せこけた人たちが通って、これは何かと思ったわけです。当時、インドはイギリスの植民地でした。ところがイギリスの総督府は何もしない。自分の目の前で数百万人が死のうとしている。こういう不条理を何とかしなければいけないというのが、センが開発経済学を志したきっかけの1つなのです。
峯陽一 「人間の安全保障の哲学」p142

  • 正義の倫理の観点からいえば、飢饉の問題の重さは、目の前で起ころうと、遠い国で起ころうと同じはずだ。問題は「失われる命の数」や「苦しむ人々の数」ということになる。しかしケアの倫理の観点からいえば、目の前で実際に苦しむ人がいるからこそ、彼らに共感(共苦)し、彼らをケアしたいと考える。それはある意味、目の前の人々をえこひいきしているわけだけれど、でもケアしたいという感情があるからこそ、センは開発経済学を学ぶようになったわけだ。そして、その過程で、センは「ケイパビリティ」や「エージェンシー」といった独特の概念によって構築された独自の正義論を生み出す。つまり、ケアが起点にあって、正義への志向性が育まれたわけだ。
  • で、こうしたケアと正義の関係は、必ずしもひとりの人間の成長過程で現れるものではない。品川氏のいうように、「異なる見方のあいだで均衡のとれた適切な理解は、ひとりの人間のなかでのみ完成される必要はなく、複数の人間が意見の交換をとおして追求していくこともできるだろう」。たとえば環境保護の高まりのきっかけとなったものとして、エマソンやソロー、レオポルドといった、19世紀~20世紀の環境思想家たちによる著作があげられる。とくにソローやレオポルドの著作は今では「ネイチャーライティング」というジャンルに分類されていて、原生自然の美しさを描写することで読者に環境への関心を引き起こすという面を持っている。「痛みを感じることのできる生物種の境界線はエビと牡蠣のあいだくらい」という超冷静なピーター・シンガーの議論に比べると彼らの著作はずっと情緒的だ。だけど彼らがいなかったら環境問題への関心は現在ほど高まっていなかったかもしれない。これは、こうした著作に触れることで一部の人々が環境へのケアに目覚め、彼らが少しずつ草の根で活動していくことで、やがて環境に関する普遍的な正義感覚が広まっていったのだという風にも解釈できるのではないか。このように、ケアと正義の反転図形という発想を取り入れることで、個人の倫理的成熟プロセスだけでなく、社会の倫理的成熟プロセスもうまく理解できるようになる。そうすることで、社会におけるケアの役割を適切に位置づけることができるようになる。
  • という風に、「反転図形の比喩」で正義とケアの関係を考えると、それぞれの役割の違いも見えてくるし、それが現実においてどのように調停されていくのかもイメージしやすくなる。ケアの倫理はフェミニスト倫理学が描くような「正義の倫理を否定するもの」ではない。また、ケアの倫理が万能であって、法律や政治体制のような制度を構築する際にも使えるものだという風にも考えられていない。ただ、「それまで気づかれなかった不正義」の発見という点では、ケアの倫理が役立つことがある。
  • ちなみに、『21世紀の道徳』では、このような「それまで気づかれなかった不正義」に気づくことのできるものとして功利主義が位置づけられている。たとえば動物倫理の必要性は功利主義によって発見されたということだ。そういう面もあるとは思う。ただ、そもそも「動物の苦痛」に気づかなければ、そうした苦痛の総和を合計しようという功利主義的な発想は実行されないと思う。また、不正義というのは必ずしも「快・苦」の形で現れるとは限らない。ハインツのジレンマにあるように「関係性」という形で現れることもあるし、センの言うように「ケイパビリティ」という形で現れることがある。どんな形で現れるかわからない「不正義」に気づくには、やはり個別具体的な文脈を丹念に読み取ろうとするケアの倫理は必要なんじゃないだろうか。