【感想文】かもめ食堂

  • アマゾンプライムで『かもめ食堂』を数日かけて見終わった。個人的には、アニメより映画の方が気持ちが安らぐ。それは、映画はキャラでなく風景に焦点を当てることができるからではないだろうか。

  • たとえば『電脳コイル』は風景がかなりしっかり描かれているけれど、それでも基本的にアニメキャラって風景に比べてどぎついから、風景はあくまで背景にとどまる。『トトロ』の場合は割とカメラが引き気味なので風景全体が強調されてるけれど、多くのアニメはキャラに接近しすぎている。なんでかというと、アニメの駆動力は風景ではなくキャラだからだ。

  • 一方、『かもめ食堂』は主要キャラ3人のおばちゃんの濃さが楽しいのだけれど、でも見終わったあとの印象に残るのは店の内装や港や森といった風景だ。キャラを描いているのではなくて、人々が動き回るフィンランドの風景を描いているような感じ。

  • アニメは風景を描けるのか? いや、めちゃくちゃ描いてるじゃん、なめてんの? とか言われそうだけど、風景にとくに焦点を当てるようなアニメってあまり思いつかない。きちんと現地調査して、ロケ地は「聖地」と呼ばれるようにもなる。だけど、それでもアニメにおいて風景はあくまでサブであって、聖地巡礼する人たちだって、その土地の風景そのものを楽しみに行くというよりは、「あのキャラが歩いたこの道」「あのキャラが登ったこの階段」を体験しに行くのではないだろうか。

  • かもめ食堂』を見ると、キャラとか聖地とか関係なしに、フィンランドに行ってみたいなあ、という気持ちになる。たとえば、あの3人のキャラを総入れ替えして、別のキャラで『かもめ食堂』をやっても、それなりに映画として成立すると思う。もちろんストーリーの展開はぜんぜん変わってくるだろうけれど、それでも見終わった後、「フィンランド行きたいなあ」と感じるような作品をつくることはできるはずだ。この作品は、フィンランドを背景としてあの3人の物語を描いているのではなく、あの3人の物語を背景としてフィンランドを描いているのだ。そういう表現の仕方って、アニメではなかなかできないと思う。アニメキャラってあまりにデフォルメされすぎてて、現実の人間と比べると異形の存在になっているので、ただ黙って立っているだけでもキャラの自己主張が強すぎるのだ。風景の方に主眼があるアニメって、『トトロ』とか『木を植えた男』とか『キリクと魔女』とかノルシュテインの一連の作品とか、それくらいしか思いつかない。アニメはキャラが動き回ることで成り立つ芸術なのだ(動くからこそそこに命が宿るわけで、それがアニメーションということだ)。でもそれだけに、キャラの自己主張が重たくてうっとうしいと思うことも多い。個人的にはアニメより映画の方が好きだ。

  • かもめ食堂』で、それぞれのキャラの物語はほとんどちゃんと語られない。ミドリはなんで突然旅に出たくなったのか最後まで語らないし、マサコもいつまでフィンランドにいるのかよくわからないまま毎日店に通ってくる。あの自転車青年も毎日コーヒーを飲みに来るけど、いったい普段何をしている人なのか最後までわからない。あのフィンランド人のおばちゃんの苦労話は語られるけど、それもフィンランド語のできないマサコの推測でしかないので、どこまで本当かわからない。サチエだけが、なぜおにぎりにこだわるのか、というのを最後にちょっとだけ語るけれど、それも本当にちょっと語られるだけで、また日常に戻っていく。そして、とにかくおいしいものを食べてしまえば何も語る必要はない。言葉が通じなくても、おいしければそれでなんとかなる。だからどのキャラも、理由はよくわからないけどなんとなくそこにいておいしいものを食べている。語らなくても、おいしい食べ物と、フィンランドの風景があれば、作品として成立する。しつこいけれど、こういう表現はアニメではとても難しいと思う。「理由はよくわからないけどなんとなくそこにいる」というキャラは、映画の場合は違和感ないけど、アニメだとかなり違和感がある。アニメキャラは黙って立っていても自己主張が激しいからだ。違和感を放置したらシュールなギャグになってしまうから、ギャグをめざさないのなら、「回想シーン」を入れてその違和感を解消しなくてはならない。

  • だからアニメがダメだってことじゃない。アニメの場合キャラの自己主張が激しいからこそ、かなり非現実的な物語でも説得力を持たせることができる。たとえば『ピングドラム』を実写版でやったらかなり恥ずかしいことになると思うけど、アニメだからこそ、あの強烈な物語に見合うだけの濃いキャラクターを設定することができる。物語が強烈であればあるほどアニメの方が有利だし、風景に焦点を当てたいのなら映画の方が有利だ。向き不向きの話です。