【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第3章 3.3 ヘーゲル的パースペクティブで貨幣を再考する

3.3 ヘーゲルパースペクティブで貨幣を再考する

  • 3.2節で、選好が制度であるということがヘーゲル哲学と関連づけて説明された。
  • これが何の意味があるかというと、まあ、たぶんいろいろあるんだろう。ひとつの含意としては、標準的な経済学みたいに、人間を原子論的に扱わなくなるというのがあると思う。つまり、個々人がばらばらに効用関数を持っていて、彼らは自らの効用を最大化するマシーンなのだ、という発想がヘーゲル哲学では否定される。そうではなく、個々人の選好はその社会において制度として規定されたものだ。たとえば現代の日本において、合理的な人はコカインを選好しない。それは、彼らがたまたまコカイン嫌いだということではないし、逮捕されるのを恐れているとかでもない。現代の日本社会において、コカインは選好の対象から排除されている。そもそも「選好してはいけないもの」なのだ。このように、選好はそもそも制度的であり、倫理的なものなのだ1
  • で、今回は貨幣をヘーゲル哲学で理解するというのが狙いだ。連続性テーゼ、遂行性テーゼ、承認テーゼに当てはめて貨幣を分析していく。

貨幣の連続性

  • 貨幣は制度だ。市場において他の商品と交換できるけれど、物理的には1,000円札はしょせん紙切れでしかない。だけど、連続性テーゼで捉えると、脳にとっては貨幣自体が食べ物のように欲望の対象になるという。つまり、貨幣は市場において存在するだけでなく、人の脳の中にも存在するということになる。
  • 貨幣錯覚といって、貨幣の名目価値と実質価値を混同してしまう現象が神経科学の実験で明らかになっている。たとえば、物価が10%上がっているときに給料が8%しか上がらなかったら給料の実質価値は下がっている。だけど、人は貨幣の名目価値と実質価値を混同するので、給料が8%上がったことで素直に喜んでしまう。これは、貨幣がただの制度であるだけではなく、脳にとってもリアルな存在として認識されているということを意味している。

p154 貨幣の連続性

したがって、われわれは連続性の観点に従うことになる。貨幣はその内在的契機として生物学的動機を含むものだが、制度として、それを超越してもいるのである。

  • ここで連続性に関する議論は終えてもいいのだけど、ここからさらに、貨幣の起源に関する話にシフトしていく。
  • で、貨幣の起源というトピックがなぜ連続性のセクションで扱われるかというと、社会的交換を「認知的本能」と捉える進化心理学の議論を意識しているから。
  • メンガーの議論を簡単に要約すれば、貨幣の前身は物々交換が行われている社会における「人々にもっとも求められている財」のことだ。バナナよりもスマホが欲しい。スマホよりも金が欲しい。そういう風に金みんなの需要が集中していくと、いちいちバナナとスマホを物々交換しようと取引相手を探すよりも、間に金をはさんで、バナナ⇔金⇔スマホという風に交換した方が取引の成功確率は高まる。なぜなら、バナナやスマホは一部の人にしか求められていないけれど、金はほぼすべての人に求められるから。そうして、金が貨幣として用いられるようになる。
  • これは一見鮮やかな説明のように思えるけれど、筆者によればメンガーの議論には問題がある。というのは、メンガーは贈与社会を前提にしているにも関わらず、「市場タイプ」の物々交換関係の仮定を導入してしまっているからだ。

p157 社会的交換における相互信頼こそが、原始的物々交換における、貨幣の機能的等価物

メンガーは、人々が資産を物々交換の目的だけのために所持することができる、したがって、かなりの余剰生産を享受できるような、「市場タイプ」の物々交換関係をすでに仮定してしまっている。これは、いわゆる贈与交換におけるように、相互的義務のネットワークとして組織化された原始的経済における社会的交換では成立しない(…)。人々は直近の差し迫った必要がない財を譲り渡し、将来時点で、特定化されない好意を返す義務を創出しているのである。この場合、貨幣を使用するかわりに、人々は負債を負うのだから、交換の連鎖や三角形が直ちに閉じる必要はない。言い換えると、社会的交換における相互信頼こそが、原始的物々交換における、貨幣の機能的等価物なのであり、メンガーが洞察したような仕方では、貨幣に対する必要性は発生しないのである。このことは、問題が多くの人の間の物々交換を同時化するという、貨幣によって解決される問題ではなく、信用と相互負債の範囲を拡張するという問題だということを意味している。

  • つまり、物々交換から金のような特定の財が貨幣として浮上していくためには、余剰生産が無ければならない。金を生産しても、それがただちに消費されず、交換のためにストックされているという状況が成立していないと、バナナ⇔金⇔スマホという交換は成り立たない。だけど市場の無い自給自足経済において、そんな風に十分な余剰生産があるとはとても思えない。メンガーは貨幣の誕生前に市場を仮定するという点で、論点先取を犯しているのだ。
  • むしろ、原始的経済は贈与経済だったのだから、贈与関係における人々の相互信頼が貨幣の起源だと考えた方がいい2。社会的交換という認知的本能から貨幣が生まれたということだ(だから連続性が成り立っている)。

貨幣の遂行性

  • ここでなんとジンメルが出てくる。普通の経済学ではジンメルの『貨幣の哲学』は完全に無視されているけれど、ここでは貨幣の遂行性を説明するためにジンメルが大活躍する。

p160-161 貨幣の遂行性

しかしながら、ジンメルの仕事における貨幣の遂行性はずっと包括的なものである。貨幣は、すべての社会的インタラクションにおいて効果を持つ、包括的な転換力を持っているからである。貨幣の存在によって条件づけられているような社会的現象は広範に存在する。(…)法廷不換紙幣の誕生は、貨幣文化を構成する。その宣言は、客観的精神の世界の中で、すなわち制度的実在の中でそれ自身を主張することによって、真であることが証明される。ひとたび貨幣という制度的事実が発生すると、他の制度的事実が生成可能となり、貨幣によって生成された「第二の自然」を拡張し強化するのである。

  • 遂行性というのは、制度的現実が遂行的であること、つまり、人間が行為することによって制度が生成するということを意味している。ここで言うなら、貨幣を使うことで貨幣にまつわる文化が生まれてるということだ。
  • あまりわかりやすい例が挙げられてないので自分で考えてみる。たとえば、物々交換の社会では銀行というのは無かった。そういう業態の会社もないし、というか会社というもの自体存在しない。さらにいえば、株式も存在しないから、株式会社も存在しないことになる。そうしたさまざまな制度的存在が、貨幣を使うという人間の行為が行われている中で徐々に生まれてくる。
  • ジンメル貨幣論と遂行性の関係はいろいろ論じられているけど、全部やってるときりが無い。最後のまとめだけ載せておく。

p165 ジンメルの貨幣理論の特徴要約

・貨幣は外在化した人工物として、主観的評価と客観的評価の分離を媒介する。
・その存在は、主観的評価を個人的に客観的な評価へと転換し、合理的選択を可能にする。
・貨幣のこの役割は制度的に進化し、そうすることで、新たな社会的構成と文化の文脈において個々人の主体性を変換する。
・貨幣は、抽象的な関係性をダイナミックに具体化するものとしての社会的実在の新たな概念化を必然的に伴うものである。

承認と貨幣の社会的存在論

  • 貨幣は人々に「承認」されることで、社会的に存在することができる。

p165-166 貨幣の存在は、人々がその使用を確立するために合意するルールから独立ではない

制度としての貨幣の発生とその持続は、ある人工物を「貨幣として」使用するという集団的合意に依存している。したがって貨幣は、単なる規制的制度(regulatory institution)とは対比的に、構成的制度(constitutive institution)だということができる。貨幣的制度は貨幣を新たな社会的事実として創出するのであり、単に既存の社会的インタラクションの形態を規制するだけではない(…)。貨幣の存在は、人々がその使用を確立するために合意するルールから独立ではないのである。
(…)貨幣の制度化という特定の社会的メカニズムを指定するものとしての、相互主観的な受容、あるいは貨幣の承認である。

  • まあ、当たり前といえば当たり前だ。でかい耳くそがとれて、「これ今日から10円ね」とか言っても他の人がそれを10円として承認してくれなければただのでかい耳くそのままだ。
  • しかし、それではなぜ貨幣はひとつだけなのだろう? つまり、「円でもいいし、耳くそでもいいよ~」というやさしい人たちがたくさんいたら、円も耳くそも貨幣として流通しそうなものだ。みんなちがってみんないい。だけど、貨幣というのは普通そうなってなくて、円が流通するところでは円だけが流通し、ドルが流通するところではドルだけが流通する。もちろん、円とドルの交換はできるけれど、それとこれとは別の話だ。コンビニに買い物に行ったらすべての商品の価格は円で表示されている。
  • これを説明するために、筆者はp167で「ウィナー・テイクス・オール」という、神経経済学に明らかにされている現象を引き合いに出す。「特定の領域の財の中で、ただ一つのブランドが唯一もっとも好まれるブランドの地位を獲得する」のだそうだ。
  • こはちょっと詳細がよくわからない。ファッションでも車でも、ブランドは複数あるのが普通だと思う。よくわからんけど、たくさんのブランドが乱立することはあまりない、ということは少なくとも言えそうな気がする。
  • で、貨幣もこのウィナー・テイクス・オールによってただひとつだけ選ばれる。ここは承認テーゼというよりも連続性テーゼに関わる議論だと思う。

p168-169 承認テーゼによる貨幣の発生の説明

メンガーの自発的交換モデルの枠組みでは、他者に対して直接的に貨幣の使用を実効化することができるような個人は存在しない。したがって、この過程を開始する唯一の方法は、ある人が最初に立ち上げた貨幣に対して、財を譲り渡すことである。個人主義的枠組みにおいては、この行為は(…)利他的である。というのは、他者はつねにイノベーターを騙すことで――すなわち、貨幣によって支払うことで財を受け取るが、自分のオファーに対しては財を要求することで――ハッピーになれるかもしれないからである。このことは、このように知覚されたインセンティブを所与にするとき、貨幣の創始者にとってより基本的な問題を発生させる。自分のアナウンスメントを他者に承認させ、あるいは現代経済学の言語でいうと、それをクレディブルにするという問題である。
(…)信頼は、純粋に個人主義的なインタラクションによっては正当に説明することはできず、集団特定的な共有された態度の結果として、すなわち「我々-モード」の結果としてのみ説明することができる(…)。
この議論が示していることは、「私-モード」の論理にとどまる貨幣の説明が自己矛盾に陥るということである。(…)これは承認の過程である。自我(Ego)が社会的制度として貨幣を立ち上げることができるのは、他我(Alter)もまた自我の貨幣使用を承認するときのみである。

  • これが、貨幣における承認テーゼの具体的中身だと思う。
  • ヘーゲル哲学の「承認」という考え方だと、社会制度は人々が互いに認め合うことで成り立つものだ。メンガーの議論では「承認」をすっ飛ばして、とにかく各人が私利私欲だけに従って物々交換をしていくうちに自然に貨幣という制度が誕生するというストーリーになっている。だけど、もし人々が私利私欲だけに従っているのなら貨幣は誕生しない。なぜなら、1,000円を持ってきた人に天ぷらそばを出して食べさせてあげても、そうやって受け取った1,000円を他の人も受け取ってくれるとは限らないからだ。そうなると、その人は天ぷらそばを人にあげただけ損することになる。損したくないなら1,000円を持ってこられても天ぷらそばをあげない方が合理的だ。他の人たちも同じように判断して行動する。だから結果的に、この私利私欲だけに従っている人たちの社会ではいつまで経っても貨幣が流通しないことになる。
  • だから、そういう「私-モード」を仮定した説明を捨てて、そもそも人々は何らかの態度を共有しているのだという「我々-モード」で捉えるべきだ。そして、ここでいう「態度の共有」に当たるのが、承認ということだろう。

p175 まとめ

このようにして、貨幣の例とこれまでに展開された概念道具を利用した貨幣の分析は、主観に根差した心的メカニズム(連続性)、それが創出し強化する文化(遂行性)、共同的な受容のネットワーク(承認)を通して、制度がどのように発生し持続しうるのかを例証している。

  • そして、このように制度として貨幣を捉えることによって、貨幣は単なる取引技術ではなく、道徳的カテゴリと見なされることになる。「なぜならば、それは市場の範囲が決定されるレベルに関連しているからである」(p174)。たとえば闇世界でなければ貨幣を介した臓器市場というものは存在しないが、それは臓器に価格をつけることが道徳的に認められていないからだ。3

  1. これと近いと思われる議論が、畑山要介(2020)「倫理的消費ともうひとつの快楽主義」という論文で紹介されているソパーの「もうひとつの快楽主義(alternative hedonism)」だ。これは簡単にいえば、「自己利益」というものの中に、環境配慮とか社会貢献のような市民としての関心がすでに組み込まれている(内部化されている)という考え方だ。人間の欲求には物理的な次元だけでなく精神的な次元もあり、「人間はたんにパンへの欲求を満たしているときでさえも、常にそれ以上の何ごとかをおこなっているのである」。これは前回出てきた「諸個人はつねに財と財の概念を消費している」という話とも関係していると思う。こういう発想から、論文中では「フェアトレードコーヒーを飲むのは、それが「美味しい」からである」とも述べられている。これは、選好が制度的であり倫理的であるという本書の指摘とほぼ同じことを言っていると思う(逆に、ソパー自身のオリジナルの主張がどこにあるのかよくわからなくなってくるけど)。

  2. ずっとまとめをサボっているThe world of giftでも、現代社会に贈与関係がまだあちこちに残存しており、社会関係において贈与は欠かせないものだということが指摘されている。それは本書の議論で補えば、そもそも貨幣というのが贈与関係を拡張するためのツールであり、昔も今も、贈与の背後にある相互信頼は社会を維持する上で欠かせないものだ、ということだと思う。

  3. ここらへんはCMV批判とも関連するかもしれない。CVMを使えば生物多様性にも仮想的な市場を設定し、貨幣価値を求めることができる。だけどそれはあくまで研究レベルにとどまっていて、実際に生物多様性保護に関してCVMを利用するケースはあまり聞いたことがない。エクソンバルディーズ号原油流出事故みたいに賠償金を求めるときには使われてるみたいだけど、炭素市場みたいな形で生物多様性市場をつくろうという動きは無いと思う。ノードハウスの『気候カジノ』でも簡単に検討されているけれど、少なくとも気候変動による生物多様性への影響をCVMで評価するのは現時点では信頼性が低すぎて使い物にならないとのこと。そもそも、どれくらいの生物種が絶滅するのか評価が難しいというだけでなく、あらゆる生物種について評価金額を合算していくとあっという間に家計所得を超えてしまうという問題があるからだ。つまり、CVMの回答者たちはWTPを適切に提示できていない。こうした現象について、環境評価の教科書だと「倫理的満足」という説明がされている。つまり、回答者たちは生物多様性そのものを評価しているのではなく、生物多様性を守るためにお金を払うこと自体に満足を感じているという解釈だ。これをヘーゲル的に解釈し直せば、生物多様性に価格をつけることが道徳的に認められていないから、回答者たちは適切なWTPを提示することができないということではないだろうか? たとえば、「あなたはコカイン1グラムを購入するのにいくらまで払えますか?」という質問をしても、回答者たちはそもそもコカインを購入することが倫理的に許されないと思っているので、適切なWTPを提示することができないだろう。その場合、むしろマイナスのWTPを提示することで、「倫理的不満」が表明されるかもしれない。