無職は楽しい? うん、楽しい。

  • いちおう研究者をやっているのだけど、職が安定しない。任期付きで研究員になったり教員になったりして、今年の4月からは次が無くて無職生活を送っている。
  • 完全に暇なわけじゃなくて、論文書いたり就職活動したりゲームやったり人生について考えたりしてるので結構忙しい。そして何よりこのブログだ。誰も読みもしない駄文を毎日平均5,000字くらい書いて、ひどい日は1日2回も記事をアップしてる。1円にもならないし、承認欲求だって少しも充たされない。それなのにガンガン時間がとられて忌々しい。忌々しいけど、これが社会とのささやかな接点になっていて、精神安定剤代わりになっているのも事実だ。
  • 無職の人のブログを見ていると、しんどいという人もいるし、楽しいという人もいる。たぶん、それは貯金次第じゃないだろうか。自分の場合、節約すればまだしばらくは持つので、どちらかといえば楽しい。生活を見直してどこで節約できるか探すのは楽しいし、部屋を毎日丁寧に掃除できるのも楽しい。ご飯食べたあとフローリングの床に大の字になって目をつぶり、「芥川賞作家になろうかなあ」とか「ブログで儲けて投資しまくって第二のバフェットになるー」とか妄想をもてあそぶのもほのかに痛々しくて楽しい。でも、貯金が残り少なくなってきたらたぶん毎日涙目だと思う。いずれ電気代節約のためにシャワートイレの便座の暖房をオフにし、冬でも冷水でお尻の汚れを洗うようになったら、涙が止まらなくなるのではないか。「ひゃっ」と情けない声を出すと思う。
  • ただ、はたらきたくないのだよね。無職スローライフを満喫していると、いまさら大学に戻ってブラック労働に従事する気にもなれない。無職になっても研究関連の人とはまだつながりがあるから、ときどきメールが来ることもある。だけどそういうのはたいてい夜の23時とか24時とかに送られてくる。みんな忙しくて昼間に研究なんかしてる暇が無いから、おのずと研究関連の連絡は夜中になってしまうということみたいだ。そんな世界にまた戻りたいのか? 教員公募にガンガン書類を出してはガンガン落とされて、やっとこさ面接まで進んでも肝心の本番で舌を噛み、ろくに書類を読んでもいない大学理事に苦笑いされる。それでもブラック労働に従事したいのか? 「じゃあもういっしょうむしょくでいいよう」とひらがなで思ってしまう。
  • とはいえ、いつまでもこうして無職をつづけるわけにもいかない。やがて貯金が尽き、冷たいシャワートイレで「ひゃっ」と身をよじるようになるのは目に見えている。困ったことに日本人の寿命は延びつづけていて、貯金が尽きる前に寿命が尽きるというラッキーなハッピーエンドは期待できない。ラジオで「今、山を買うのがブームなんですよ!」というのを聞いて、よし、じゃあいっちょ山を買って自給自足生活をしよう、と一瞬思うけど、ガスが無いとドングリひとつ調理できないという悲しい現実にすぐ気づく。貨幣経済は生活のすみずみにまで浸透しているのだ。だとすれば、わたしは何かを売って、貨幣を手に入れなくてはならない。労働力を売るか、すばらしい発明品を売るか、美しいこけしを売るか、方法はさまざまある。生産せよ。資本主義の走狗となって。その現実からは逃れられないのだ。
  • ただ、それでも無職は楽しい。じっくり本を読み、丁寧に料理をつくり、つれづれに考えたことをブログに書く。皿を洗い、亀の水槽の水替えをして、疲れたらフローリングで大の字になってバフェットになる夢を見る。働いていたときよりも、ずっと「生活してる」って感じがする。働いていたときは大事だと思っていたいろんなものが無価値に思えてくる。査読論文の数も、研究指導した学生の数も、学会内のめんどうな人間関係も、科研に当たったとか外れたとかも、A判定だとかC判定だとかも、ぜんぶどうでもいい。こっちが本当の現実なんであって、働いていたときは集団催眠にかかっていたような気さえする。だから、もう少し目覚めていたい。不安になることもあるけれど、無職はおおむね楽しいです。