【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第4章 4.3-4.5

第4章 ヘーゲル倫理学、経済学

4.3 スミス、ヘーゲル、セン:思考の家族的類似性

  • センのいう「開かれた公平性」の土台となる概念が、アダム・スミスが『道徳感情論』で論じた「公平な観察者(Impartial Spectator)」だ。つまり、公平な観察者の立場に立つからこそ、自分の共同体の慣習や伝統にとらわれず、グローバルな視点から制度を評価し、より正義にかなう制度を構想することができる。そして、こういう公平な観察者という視点を可能にするのが「同感」という能力だ。

p190-191 同感により同じ状況を異なる観察者たちの立場から見る

同胞感情は、他者の存在に対する原初的な人間の満足、そして、他者とともに感じることができる能力を認識することから生じるポジティブな感情にかかわっている。同胞感情は特定の認知能力と結びついているが、それが「同感(sympathy)」である。
同感という認知過程は第一に、自分自身を他者と同じ文脈におくことによって創造した(「感じた」ではない)感情(feeling)を介して、他者の感情を再構築することへと導く。(…)このことが、同じ状況を異なる観察者たちの立場から見るという可能性を開くからである。

  • 同感によって社会的インタラクションが促進され、道徳的進化が駆動する。こうした発展をつき動かしているのが「是認」だ。

p191 道徳的発展が可能となるのは、私が私自身の行動の適宜性を判断するために、他者たちの立場を採用できるからである

こうした発展を背後でつき動かしている力は、是認を求める人間の欲望である。是認に関するすべての関係は観測者の立場にかかわっている。前述したような感情の再構築と、表現された感情との比較は、是認の関係である。たとえば、私の再構築と表現された感情とのギャップを感じる場合には、私は非是認(disapproval)を表現するかもしれない。こうして一人の観察者として行為するのである。非是認のこうした表現は、道徳的進化の立ち上げに際して決定的に重要である。というおも、他方の側に立つ人は、自身が状況全体をいかに再構築するのかとは独立に、少なくとも、自分の相手から是認されることを欲望し、それゆえ非是認について反省するよう強いられたと感じ、かくして自分自身の感情の表現を再考さえするかもしれないからである。言い換えると、道徳的発展が可能となるのは、私が私自身の行動の適宜性を判断するために、他者たちの立場を採用できるからである。

  • たとえば、親が死んだときにおかしくて笑ってしまう人がいるとする。彼の友人は「不謹慎だ」と注意する。「君はなんで親が死んだのに笑っているんだ。ぼくが君の立場だったら、悲しみのあまりきっと泣いてしまう。それなのに君は笑っている。ぼくが再構築した君の感情と、君が表現している感情とのあいだにはギャップがある。だからぼくは君を是認できない」。こうして友人から非是認を受けた人は考える。「俺はおかしいから笑ってるだけだ。でもそうすると、友だちから非是認を受けてしまった。もしかしたら、今俺は、悲しんで泣くべきなのだろうか?」。この人は友だちから是認されたいので、「泣くべきかどうか?」について真剣に考える。あれこれ考えていった末に、彼は泣くかもしれない。最初は嘘泣きかもしれないけれど、だんだん「悲しむべきだ」ということが腑に落ちていって、本当に泣けるようになるかもしれない。こういう風にして、同感を通した是認・非是認の社会的インタラクションを通して、「親が死んだときは悲しむべきだ」という道徳が成り立ってくる。
  • スミスの言う「公平な観察者」というのは、神様の視点から人々を観察するような主体ではない。むしろこういう風に身近な人々と対話していく中で少しずつ他者の視点を取り入れて物事を判断するよう成長していく主体として想定されている。公平な観察者は「天上から降ってくるわけではなく、現実の討議に由来する」(p193)のである。
  • ここにヘーゲルの承認テーゼをかませると、公平な観察者は「制度」として外在化されることになる。

p194 公平な観察者は諸制度において外在化される

同感に関するスミス的論理は、承認の概念によってより抽象的なレベルへと引き上げられる。市民社会においては、「市民」となることによってのみ、個人は一個人として普遍的な承認を獲得できるのである。それゆえ、公平な観察者を組み込むのは市民社会の諸制度であって、ここでは観察者はもはや内的立場ではなく、そうした諸制度において外在化されている(とりわけ、このことが意味するのは、個人的意識が普遍的道徳原理の究極的源泉とはなりえないということである)。

  • 同感にもとづく是認・非是認によって生まれた「親が死んだら悲しむべきだ」という道徳は様々な制度の形で外在化される。たとえば「忌引き」というのはどの会社でもルールとして制度化されている。
  • それにしても、なぜこうした手続きを踏まなくてはならないのか? 公平な観察者などいなくても、ロールズの無知のヴェールやカントの定言命法のようなアプローチによって、普遍的な道徳を導き出してはなぜいけないのだろう。それは、「人間の動機の具体的特性を捨象した義務の原理は、まさにそれゆえ、諸個人から善をなすよう駆り立てるインセンティブを奪う」(p196)からだ。スミスの議論では諸個人は是認・非是認によって駆り立てられる。しかし、そうしたインセンティブを欠いているがゆえに、カント的な普遍的道徳は「実行不可能(p197)」なのだ。1

p198 ヘーゲルが求めているのは、傾向性と義務の総合である

ヘーゲルが求めているのは、傾向性と義務の総合である。この総合は、感性、情動、欲望、欲求などを拒否せず、むしろそれらを連続性原理の線に沿って統合し、より高次のさまざまな集団的な共存性の形式のうちにおくのである。

  • センはスミスの公平な観察者概念にもとづいてロールズ的な超越論的制度主義を批判した。それを類似した批判を、ヘーゲルはカントに対して行っていたのだ。これが、本節のタイトル「スミス、ヘーゲル、セン:思考の家族的類似性」の含意だ。
  • こうして、センの議論がヘーゲルに接続されることになる。

4.4 機能、自由としてのケイパビリティ、公共的討議:ヘーゲル的視点

  • センの「開かれた公平」を適用可能とするものが、民主主義とケイパビリティ・アプローチだ。つまり、民主主義があるからこそ、「実現ベースの比較」による制度評価に関する公共的討議が可能になる。また、ケイパビリティ・アプローチが、実現ベースの比較の基準となる。つまり、制度変化を通して個人的な機会集合(ケイパビリティ)が拡張するとしたら、それは良い制度変化だということになる。
  • また、この公共的討議は完全にオープンであるべきだとセンは主張する。つまり、「開かれた公平」なのだから、その共同体の非メンバーの意見も尊重しなければならない。
  • さて、ここで問題になってくるのは、ケイパビリティと公共的討議を整合的に結びつけることだ。
  • ヌスバウムはケイパビリティの普遍的なリストをつくろうとするけれど、センはそれを拒否する。なぜなら、それではどのような状態が正義にかなっているかを天下り的に決定してしまうことになり、「超越論的制度主義に近づくことになる」(p201)からだ。「実現ベースの比較」の立場をとるセンにとっては、どんなケイパビリティが大事かはヌスバウムのような頭の良い学者が決めることではなく、人々が公共的討議を通して決定していくべきことだ。
  • しかし、ケイパビリティの中には、「自分の意見を自由に表現できること」のような、公共的討議自体の土台になるものも含まれている。そうなると、理論的な不整合が出てくる。たとえば、「自分の意見を自由に表現できること」というケイパビリティが女性に認められていない社会を想定しよう。この場合、公共的討議を通して「より良い制度」が決定されたとしても、その制度が本当に良いのかどうかわからない。なぜなら、その公共的討議には女性が参加していないからだ。このように、公共的討議とケイパビリティだけで制度の良し悪しを決定しようという試みは破綻することになってしまう。
  • ここで筆者は、ヘーゲルの「三重の自由の概念」を導入する。そして、センの議論の不整合は、彼がこれらの自由概念を無視していることに起因していると指摘する。

p202 三重の自由概念

人格的自由は目的の自律的選択からなる。また道徳的自由は、行動の一定のルールを採用したり、それに従ったりする自律的決定を含んでいる。最後に社会的自由は、人格的自由や道徳的自由を表現する制度的・物質的条件を提供している特定の共同体の文脈において、個人的自由を完成することを意味している。

  • ケイパビリティというのは「財を用いて個人がなしうこと」なので、人格的自由の定義と大体重なる。でも、道徳的自由のように「ルールを採用する」という側面は含まれていない。社会的自由は、「特定の共同体の文脈において」という点についてはセンのケイパビリティ概念でも考慮されている。
  • 人格的自由を行使すると、他者の人格的自由とぶつかることもありうる。Aさんは自転車をこいでを街中を風のように走りたい。BGMはもちろんはっぴいえんどの傑作アルバム『風街ろまん』だ。しかしのんびりウィンドウショッピングを楽しみたいBさんは、Aさんが走り回るのを危ないと思っている。肩掛けスピーカーから爆音で流れる「かーぜーをーあつーめてー」という知らない曲も超うっせえし。その上、Aさんは髪が3メートルくらいあって虹色に染められているのでかなりうざい。すれ違うとき、髪の毛が鼻の穴に入ってくしゃみが出た。畜生。殺す。あたしのなかに憎悪がみるみる満ちていくッ!! Bさんはこうしてハッピーでメロウな休日を台無しにされてしまったのだった。
  • こういうとき、AさんとBさんの人格的自由をコーディネートするのが道徳的自由だ。つまり、「Aさんの人格的自由は認めるけれど、Bさんの人格的自由を脅かしてはいけない。だから、Aさんは街中は徒歩で移動するべきだし、音楽は肩掛けスピーカーじゃなくてイヤホンで聴くべきだし、あとその超うざい髪は切れ」という風にルールが定められる。こうして、ルールのもとで実現される人々の自由が「道徳的自由」なのだ。
  • ところで、こういう道徳的自由は誰か偉い人が「ふぉっふぉっふぉっ」とやってきて与えてくれるものではない。AさんBさんを含めた人々の公共的討議によって、「個人が追求するさまざまな目標に対する理由の提示に基づいて、道徳的自由の合理性を確立する」(p203)のではなければならない。つまり、ヘーゲルのいう「承認」が必要ということだ。
  • さて、社会的自由というのは「人倫的生活の諸制度において実現され、具体化される」(p206)ものであり、ヘーゲルによればそれは家族、市民社会、国家だ。これらの制度によって、人々は「権利」が与えられる。
  • こうした制度が無いと、人格的自由も道徳的自由も保障されない。たとえば、ヘーゲルによれば、制度があるからこそ、「市民社会での承認を得るために不可欠な働く権利」(p206)を物質化できる。こうした権利が制度的に保障されていないと、公共的討議という相互承認の場に参加できない。そのために、道徳的自由も人格的自由も保障されなくなってしまうのだ。
  • さて、こうした相互承認を行う具体的な場が、ヘーゲルのいうアソシエーションだ。

p207-208 アソシエーション

ヘーゲルの見解では、アソシエーションは共有されたアイデンティティ(「我々-モード」)の基礎を提供するとともに、分業から導かれた生活の目的を以て、個人的アイデンティティを補完するものである(…)。ヘーゲルによれば、個々人はこのアソシエーション的文脈において真の自律的個人への変換を実現し、それによって国家の市民として自分自身を表現できるようになる。

  • このアソシエーションの具体例として、次の章ではコーポレーション、つまり、企業が分析されることになる。
  • アソシエーションという概念を持ってくることで、相互承認の中身が具体化される。それが教養形成だ。

p208 アソシエーションにおける教養形成で人格的自由と道徳的自由が媒介される

ヘーゲル的な意味においては、アソシエーションは、市民社会における機能のクラスを具体化するものである。(…)たとえば、自由な選択によってその職業を追求しているならば、医師は自分の職業(ヘルスケア・サービスを提供するという社会的機能を実現すること)を生活の目的と考えもするだろう。それゆえ、この医師にとって、それは本質的機能であり、それは教育を必要とし、より一般的には人格としての形成プロセスを必要とするものなのである。
ヘーゲルはこうした現象を、彼の教養形成の概念において捉えたのである。教養形成は人格的自由と道徳的自由を媒介しており、制度のシステムにとっての基礎づけの力として役立ちつつ、またこのシステムによって維持されるものでもある。

  • また、教養形成とはこういうものだ。

p209 教養形成

こくして教養形成は単に技能の習得以上のものである。それは人格的アイデンティティの形成を含むが、それは個人の学習プロセスを通じることと、個人的目的と機能実現の条件――すなわち医師の知識と習慣――を適合させることの両者によってなされるのである。

  • Aさんは、自分が医師だと思っている。でも、「俺は医師だ!」と主張しているだけでは医師にはなれない。「医師になりたい!」という個人的目的と、「医師になるための要件」という機能実現の条件が適合しているとは限らないからだ。Aさんの主張は、クライアントや医師たち承認される必要がある。Aさんが彼らを説得することができれば、Aさんの「人格的自由と道徳的自由は医療の世界の社会制度のうちに実現される」(p209)ことになる。
  • さて、ここでセンの問題に戻る。つまり、ケイパビリティの決定を公共的討議に任せてしまって良いのか、という問題だ。ケイパビリティと公共的討議の理論的不整合は、アソシエーションを導入することで解消される。なぜなら、アソシエーションにおいては教養形成への自由なアクセスが保証されているからだ。

p209-210 アソシエーション→教養形成→機能の自由な選択を実質化

このアプローチは、機能とケイパビリティのリスト化に関して、センが未決定にしておいた困難を解決するだろう。センにとって、こうした機能のリストは、公共的討議に媒介されることで生み出されるものである。私たちは今や、この公共的討議が所与の社会におけるアソシエーション的構造によって構造化されており、このことが、公共的討議が特定の歴史的文脈に属することを規定していると保証することができる。機能の自由な選択が実質化されるのは主に、教養形成への自由なアクセスや、そうした機会を保証する可能性を回避することによる。(…)
この見方は、民主主義の概念と公共的討議の間の関係を明確化するのにも役立つ。以前の議論を踏まえると、民主主義が意味しているのは、政治権力の立場へのアクセスを解放するような教養形成の過程の最大限の包摂性を達成することである。

  • 正直なところうまく理解できていないのだけど、今の時点での自分なりの理解でかみ砕いてみる。
  • アソシエーションが教養形成の場であるというのは、つまり、人々が市民として成熟するための場であるということだろう。たとえばそれが医師たちのアソシエーションであるなら、参加者は自分が医師だとクライアントや他の医師から認められるように一生懸命勉強し、経験を積む。そうすることで、最初は未熟で、とても医師とは呼べなかったような人が、だんだん立派な医師に成長していく。そのように周囲から承認されることで、彼は医師としての人格的自由を獲得する。
  • このプロセスを思いっきり単純化すると、「アソシエーションの中でがんばって周囲に認められればケイパビリティを実現できる」ということだ。もし、このような教養形成のプロセスがあらゆる人に対して開かれているならば、女性のような差別されがちな人々でも医師になることができるかもしれない。もちろん、最初は「女が医師になれるわけないだろう」という声もあるだろう。でも、彼女が頑張って実績を上げ、周りに認められていけば、いつしかそうした声も消え、誰もが認める医師になれるかもしれない。こうして、「教養形成」という契機を入れることで、アソシエーションにおける公共的討議は実現されるべきケイパビリティを確定することができる。
  • 別に教養形成なんて要素を入れなくても、単純に公共的討議の場に誰でも参加できるようにすればいいのでは? という疑問が出てきそうだ。そのことについては本文中で詳しく論じられてないように思う。おそらく、ここで前提になっているのは「人は成長するからこそ、他人に認めてもらうことができる」という発想ではないだろうか。たとえば女性だって、ただ「権利くれ」と叫べば権利をもらえるというわけじゃない。様々な分野で男性以上に活躍する女性の存在がいたからこそ、それを男性たちが「女性って案外すごいんじゃない?」と気づくことで、女性の権利が真剣に論じられるようになったのではないだろうか(歴史に詳しくないので憶測だけど)。女性がただにこにこ笑ってプードルなでてるような人ばっかりだったら、「あいつらに権利なんかやったってしょうがないし、やらなくても文句言われないだろう」という流れになってたはずだ。
  • こんな風にして、センの「実現ベースの比較」を実施する上で、アソシエーションの存在とその教養形成という役割が重要であることが明らかになった。

4.5 実現ベースの比較とグローバルな公共的討議

  • さて、アソシエーションはローカルなものであるとは限らない。たとえば同性婚のような問題を扱っていくには、ある国の動向が別の国の動向に影響を与えるかもしれない。だから、真の普遍性を見いだすためには、グローバルな公共的討議を組織化するために、グローバルなアソシエーションを構想しなければならない。

p219 グローバルなアソシエーション

結果としてわれわれは、傍観的観察者に対して発言権を与えるような、自由でグローバルな公共的討議という描像を得ることになる。こうして、実現ベースの比較にとって、グローバルなアソシエーション構造の段階的創発と進化という追加的条件が必要となる。それは、Sen(2007)が構想したように、共同体の政治的境界線と別次元に走り、こうした共同体から独立した複数のアイデンティティの形成と表現を可能にするものである。

  • そして、こうしたグローバルなアソシーエションのひとつのあり方として、グローバル経済におけるコーポレーションが挙げられる。

p219 グローバル経済におけるコーポレーション

とくに、コーポレーションの活動は、各国の公共的討議を架橋する。たとえば、特定の国における労働基準は、国民的な公共的討議の主題であるかもしれないが、異なる国の顧客がこれらの国々における労働条件に関心を持つかもしれない。(…)コーポレーションは常に、自国における価値システムと受入国において支配的な価値システムとの関係をどのように調停し、調整するかを決定する必要がある。

  • さて、これは2022年時点の現状を見ていると、ちょっと楽観的すぎる見通しではないか、という気もしないではない。グローバル企業が本当に教養形成の場となっていて、制度を良い方向(つまり人々のケイパビリティを高める方向)に動かしているのかどうか、疑わしい気がする。むしろ、グローバル企業は自分たちの利益を高めるように政治に圧力をかけ、制度を悪い方向に変えてしまっているのではないだろうか。
  • ここらへんは客観的なデータが無いのでなんとも言えない。各企業がSDGsやらCSRやらESGやらに精を出すことによって環境問題や労働問題を改善するような制度変化の原動力になっているという見方もできるかもしれない。ただ、やっぱり何らかの形でそういうのを数量的に評価しないと、なんとも言えないだろう。
  • ただ、こうやってアソシエーションを入れてくることで、センの「実現ベースの比較」という考えと制度とが結びつきやすくなったのは確かだ。個々人のケイパビリティだけ見ていてもそれと制度の関連はよくわからないけれど、アソシエーションというのを個人と国家のあいだの中間集団みたいな位置づけとして挿入することで、制度とのつながりが見えやすくなってきた。たとえば、まずは一部の先進的な企業が率先して女性を管理職に登用することによって、それらの企業を支援するような制度改革が行われる、というようなことは現実的な流れとしてあると思う。こうすることで、健康や教育のような福祉の局面において扱われがちだったセンのケイパビリティ論が制度論に接続され、制度変革のための実践的な理論としてよみがえるわけだ。

  1. 効果的な利他主義という、理性を導き手として世界の幸福の総和を最大化しようという社会運動がある。こういう功利主義的発想に基づく運動の問題点は、同感に基づく「是認・非是認」のようなインセンティブを考慮していないことではないだろうか。同感とは「自分自身を他者と同じ文脈におくことによって創造した(「感じた」ではない)感情(feeling)を介して、他者の感情を再構築すること」だ。同感そのものは感情ではなく(だから「感じた」ではない)、他者の感情の再構築だ。だけど、そうして再構築された感情が是認・非是認の判断基準になっている。感情は判断を誤ることが多いから、効果的な利他主義にとって同感は行動の判断基準にならないだろう。だけど、そもそも感情が無ければ善行を施そうという動機自体を失って「実行不可能」となってしまう。ずっと以前読んだピーター・シンガーの『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ 』という本には、自分の収入の何割かをいつも寄付にまわしている効果的な利他主義者が紹介されていた。それはもちろん立派なのだけど、そういう慈善行為のインセンティブとは何なのかということをきちんと考えていかないと活動に広がりが生まれないのではないかと思う(ずっと前に読んだ本なので内容はちゃんと覚えてない。もしかしたら動機の問題についても論じてたかもしれないから、機会があったらチェックしよう)。このあたりは、前に検討した『21世紀の道徳』におけるケアの倫理論とも関連していると思う。 理性を重視する立場からは、ケアのように共感をベースに行われる道徳的判断は不確かで恣意的になりやすいので批判されるべきものだとなる。しかし、正義とケア(効果的利他主義の文脈で言うなら理性と感情)は相補的な関係にあり、人としての成熟とは、これらの視点を切り替えることに成熟することだ。本章のセンに関する議論は、正義とケアの関係をヘーゲル制度論の枠組みで捉え直したものともいえると思う。