【読書ノート】『正義のアイデア』序文

読む動機

  • 実はこの本は10年くらい前に読んでいる。やたら分厚いけれど読みやすかった。センの思想の集大成みたいな感じで、センがやってきた社会的選択理論とケイパビリティがどうつながってるのか、というのがこの本で初めて理解できた。
  • で、今回の再読のきっかけは、ヘルマン=ピラートのヘーゲル本を読んだこと。センの「実現ベースの比較」という考えがかなり重要な位置づけで援用されていて、また勉強し直してみようかな、という気になった。
  • この本はめちゃくちゃに分厚くて、参考文献リストを抜かしても600ページくらいある。で、それを10年前に読んでみて、結局頭に残っているのは「完璧な正義を追い求めるよりもマシな正義を実現せよ」みたいな話だけだ1。いや、それだけわかってりゃ十分なのかもしれないけれど、そもそもなんでそういう主張が成り立つのかというロジックを忘れてるし、他にもいろいろ理解できてないところがありそうな気がする。そういうのもあって、ちゃんと読書ノートを取りながら読み直すことにしたわけです。

序文

イントロ

本書は序文から大事なことがたくさん書いてある。読み飛ばさないでゆっくり読んでいこう。

p1 我々を道理的に動かすものは、明らかに正すことのできる不正義が我々の周りにあり、それを取り除きたいという認識である

我々を道理的に動かすものは、この世界が「完全に公正な世界」ではないという認識ではなく(そう期待するものはほとんどいない)、明らかに正すことのできる不正義が我々の周りにあり、それを取り除きたいという認識である。

という、本書の一番の主張である「実現ベースの比較」に関わる話がのっけから出てくる。ガンディーとかマーティン・ルーサー・キングとかはできる範囲で明らかな不正義を取り除こうとしたのであって、別に「完全に公正な世界」を達成しようとしたのではない。

ここらへんはわかりやすい話だ。でも、実際には「完全に公正な世界」を提唱する人はそれなりにいるように思う。たとえば、「気候変動問題を根本的に解決するのなら、われわれは資本主義を捨てて脱成長社会を実現しなければならない!!」と過激な主張をする本が何十万部も売れている。センが本書で行っているのは、そういう風に具体的な人々の暮らしぶりに目を向けず「完全に公正な世界」を目指そうとする議論は無意味である、という辛辣な批判だ。

さて、「完全に公正な世界」を目指すのではなく、「明らかな不正義」を取り除くというやり方でいくにしても、問題がある。というのは、そもそも何が「不正義」なのかを判断するための正義の理論がまだよくわかってないからだ。

p2 不正義のシグナルは批判的に検討する必要がある。

不正義の感覚は、我々を動機付けるシグナルとなりうる。しかし、シグナルは、批判的に検討する必要があり、主としてそのシグナルに基づいて得られた結論の妥当性を精査しなければならない。

たとえば、戦争している人々を見て、「これは不正義だ!」と感じる人がいるかもしれない。なぜ人が人を殺すのか。理不尽だ。むかつくぜ。こんな戦争はさっさとやめるべきだ! ケンカ両成敗で、どちらにもペナルティを与えるべきだ!!! そんなシグナルをピコーンと受け取って、反戦デモに出かける人がいるかもしれない。

しかし、実はこれは片方の国が片方の国を一方的に侵略しているのであって、侵略された側は自分たちの国を守るために戦っているのだとしたらどうだろう? 「それでも戦争は絶対悪だ!」と叫ぶだろうか。でも、そこで侵略された側が降伏して、多くの人々が戦犯として処刑されたら? 女性たちは散々レイプされた末に殺され、子供たちは家を失いスラム街でストリートギャングみたいなことをしないと生きられなくなったら? 

それでも「不正義だ!」と叫ぶのは非合理だ。その人は、自分の「不正義の感覚」だけに頼ってものを言うのではなく、きちんとした根拠にもとづいて推論して、なぜそれが不正義なのかを人に伝わるように述べなくてはならない。そうした合理的な推論を可能にするのが、本書で論じる「正義の理論」だ。

どのような種類の理論か?(p2-)

本書で提示される「正義の理論」は、正義を促進したり不正義を抑えたりするにはどうしたら良いか? という問題に答えるための理論だ。つまり、「完全な正義とは何か?」という理論ではなく、「マシな正義とはどういうものか?」という問題に答えるための理論だ。

で、そういう「マシな正義」かどうかという判断には当然理由が必要だ。正義に関する人々の考えは多様だ。自由恋愛を認めるのが正義だという社会もあれば、自由恋愛など悪魔の所業だと考える社会もある。お互いに議論を重ねて理由を提示し合っても、対立は完全には解消できないかもしれない。でも、だからといってそうやって理由を示し合い、「マシな正義」に関する議論をすることは無駄なわけではない。というのはおそらくその議論の過程で、合意できないところだけでなく、合意できるところもいくらかは見つかるはずだからだ。  

公共的推論、民主主義、グローバルな正義(p8-)

本書で提示する「正義の原理」は、制度ではなく、人々の暮らしや自由に着目するものだ。だからといって、制度を完全に無視しているわけではない。「マシな正義」について議論するには、そもそもそういう「公共的討議」の機会が保証されていないとならない。そして、そういう公共的討議を可能にする民主主義という制度も、参政権とかの形式面だけで判断されるべきではなく、多様な人々の様々な声が実際にどれだけ届くのか、ということによって判断されるべきだ。

ヨーロッパ啓蒙運動と我々の世界的遺産 (p9-)

ヨーロッパ啓蒙主義の思想家たちには、「公正な制度」に議論を集中する人たちがいる。ホッブズとかルソーとかのことだ。20世紀に入ってからだとロールズもこのグループに入る。

これに対して、制度だけじゃなくて、人々の暮らしがどういうものになるかを比較することに関心を持つ人たちもいた。アダム・スミスとか、ベンサムとか、マルクスとかのことだ2。あと、センがずっとやってきた「社会的選択理論」もこのグループの考え方に基づくものだ。

前者が「完全な正義」グループで、後者が「マシな正義」グループだ。

理性の場所(p14-)

啓蒙運動の特徴は、「理性的な推論に基づくこと」と「公共的討議を要求すること」だ。

しかし、かといってロボットみたいに理性一辺倒で、感情を無視しているわけではない。感情を考慮することも大事だ。問題なのは、「感情だけ」でものごとを判断することなのだ。

しかしその一方で、推論をするからこそ偏見が強化されるということもあるだろう。たとえばアリストテレスは、奴隷になる人間はそもそも不完全な人間だから、完全な人間である市民に支配されなければならないのだ、という推論をしている。

しかし、理性的に議論をするならば、推論の「理由」をお互いに対決させることになる。適切でない理由は却下されるだろう。たとえばアリストテレスが今の時代の人と議論するなら、そもそも「完全な人間」「不完全な人間」とはどういうことであり、どうやって判別するのか、と説明しなければならない。で、おそらくアリストテレスはまともな説明をすることができず、「奴隷になる人間はそもそも不完全な人間だから」という理由は却下されることになる。

そしてこの序文は次のような力強い主張で締めくくられる。

p17 「理性的でないこと」に溢れている世界だからこそ、理性は特に重要なのである。

「理性的でないこと」に溢れている世界であっても、理性は正義を理解する上で中心的な位置を占めるのである。さらに言えば、そのような世界だからこそ、理性は特に重要なのである。


  1. ただ、Googleで「アマルティア・セン   “実現ベースの比較"」で検索してもヒット数が38しかないのだよね。たぶん、センの受容のされ方が「ケイパビリティの人」というので固定化されちゃってて、それ以上の理解があんまり世間的に進んでいないのだと思う。最近センがあまり流行らなくなってきてるのは、幸福度研究が流行るようになったからじゃないかと憶測している。[人々の豊かさを測るのなら幸福度を使えばいい] → [だったらケイパビリティはいらないよね] → [だったらセンはもう過去の人だよね]という短絡的理解になっているんじゃないだろうか。もしそういう風に理解されているとしたら、その理解は大間違いだと思う。まず、センによると、幸福というのはケイパビリティを構成する機能のひとつに過ぎない。センの自由に関する議論は、ときにはそうした幸福を減らしてでも自由であることが大事だという過激な主張をも含むものだ。そして、ケイパビリティは本書に出てくる「実現ベースの比較」という考えと結びつくことで、具体的な制度設計にも応用できる概念として位置づけ直されている。つまり、センの主張は幸福度研究からはみ出すものをかなり含んでいるということだ。

  2. マルクスが「マシな正義」グループに入れられているのが面白い。p59の注20で出てくるけれど、マルクスは「共産主義の究極の段階」にだけ夢中になるのではなく、「資本主義的労働制度は搾取的であると論じる一方、奴隷労働制に比べて、賃金労働制がいかに大きな改善であるかを指摘するのに熱心であった」(p59)という。資本論を読んで「資本主義なんてやめチャイナ」とか安易に主張する「完全な正義」論者はいるけれど、マルクスはむしろ地に足の着いた「マシな正義」論者なのだ。