【読書ノート】『正義のアイデア』序章

序章 正義へのアプローチ

イントロ(p31-)

何かに対して「不正義だ!」と感じるとしても、その理由は人によってさまざまだ。でも、たとえばアメリカによるイラク侵攻のように、どんな理由からも「不正義だ!」という結論が導き出されることもある。ここで大事なのは、理由について合意できてなくても、「不正義だ!」という点については同意できるということだ。

推論と正義(p35-)

正義の理論の要件は、正義と不正義の判断において理性を働かせることだ。感覚に任せて判断してはいけない。

啓蒙運動と基本的な相違(p37-)

正義・不正義を判断する推論の仕方には次の2つのタイプがある。

  • 先験的制度尊重主義(先験主義)

    • 社会にとって公正な制度とは何かを明らかにしようとするアプローチ。
      • 「完全なる正義」にのみ関心を集中する。
      • 制度の完全性にのみ関心があるので実際の社会を直接みようとしない。
    • ホッブズ、ルソー、カント、ロールズ、ドゥオーキン、ゴディエ、ノージックらが代表的論者。
  • 実現ベースの比較

出発点(p40-)

先験主義には次の2つの問題点がある。詳しい説明はあとでやる。

  • 実現可能性の問題:「完全に公正な社会」を提案したとしても、人々がそれに合意するかどうかはわからない。
  • 過剰性の問題:「完全な正義」を考えようとするのは過剰だ。

これに対し、実現ベースの比較では、次のことをやる。

  • ものごとを比較する。
  • 制度や規則じゃなくて、社会が実際に実現したことに焦点を合わせる。

唯一の先験的合意の実現可能性(p43-)

じゃあ、先験主義の問題点のひとつ「実現可能性の問題」を検討しよう。

たとえばロールズは、無知のヴェールをかけた原初状態では「正義の二原理」が全員一致で選択されると主張する。でも、そんなわけない。他にも正義の在り方に関する代替案はいくらでもあるのに、なんで正義の二原理だけが選ばれるのか、というのをロールズはちゃんと示してない。

三人の子供と一本の笛 ――例証(p46-)

さて、今の問題を「三人の子供と一本の笛」というお話で説明してみよう。一本の笛をめぐって、3人の子供が言い争っているとする。あなたなら、3人のうち、だれに笛をあげるのが正義にかなっていると思うだろう?

  • アン:「つーか、お前ら、笛吹けないやん。あたしが華麗に笛を吹いたら、その音色をきいておまはんたちもハッピーになれるやん。だからあたしに笛よこせ」(功利主義
  • ボブ:「でも、俺んち貧乏だもん。おもちゃなんかひとつも持ってないもん。笛は吹けないけど、ぶんぶん振り回してたら楽しくない? ぶんぶん振るから、俺に笛よこせ」(平等主義
  • カーラ:「あのー。その笛、わたしがつくったんですけど。木彫りで。ですからあ、あのお、わたしの所有権を侵害するお前らは邪悪ですから、わたしは笛をお前らにあげません」(リバタリアン

さて、彼らの主張のどれが正しいか、つまり、どれが「完全な正義」なのか、君には決められるか? 決められないだろう1。だからやっぱり、完全な正義について合意形成するなんて土台無理な話なのだよ。

比較に基づく枠組みか、それとも先験的枠組みか(p50-)

さて、次は先験主義の問題点の二つ目、「過剰性の問題」を検討しよう。

何が「過剰」なのかというと、こういうことだ。つまり、「マシな正義」を特定できるのならそれで十分だ。「完全な正義」まで考えようとするのは明らかに過剰だろう。

でも、いったん「完全な正義」を決めてしまえば、そこをベースラインにして「マシな正義」を評価することができるんじゃないだろうか? それなら、必ずしも「過剰」とは言えないのでは?

そんなことはない。

たとえば、「完全なワイン」というものを考えてみよう。どっかの眼光鋭いおっさんが居酒屋でとつぜん、ドン! とテーブルの上にワインの壜を置いて、「どうだ、坊主。これが完全なワインだ」と言い出したとする。「これがベースラインだ。坊主、お前のワインを出してみろ。この完全なワインと比べてお前のワインがどれほどのものか、俺が評価してやる」

でも、そういう比較評価はできない。なぜなら、このおっさんは「何をもってこのワインが完全であるか」を示す評価軸を何も示していないからだ。

完全だというのなら、「香り」とか「味」とか「まろみ」とかなんとかかんとか、いろいろ評価軸を示さないとならない。だけど、そうやって評価軸を出したら、そのワインは完全だといえなくなってしまう。たとえばそのワインが「香り95点、味100点、まろみ100点」なら、「香り96点、味100点、まろみ100点」のワインを出せば勝てる。じゃあ、「香り100点、味100点、まろみ100点」のワインだったら? そんなことしても無駄だ。というのは、今は100点だとされていても、将来的にはそれを上回るワインが出てきて、「101点」とか「105点」としなければならない事態だって起こりうるからだ。つまり、評価軸を出した時点で、すべては相対評価になってしまうのだ。

だから、このおっさんがそれでも「これは完全なワインだ」と言い張るのなら、そもそも評価軸を出すべきでないということになる。評価軸を出さないということは、比較評価ができなくなるわけだから、「完全なワインをベースラインにしてマシなワインを評価する」なんてことは不可能になる。

で、これをワインではなく正義に関する話に置き換えれば、完全な正義をベースラインにしてマシな正義を評価するなんて不可能だというのは自明だろう。

達成、生活、ケイパビリティ(p54-)

さて、実現ベースの比較アプローチで行くのなら、何をもって「より良い社会」と判断するべきかという基準が必要になってくる。

「より良い社会」というのは、人々が実際にどんな風に暮らしているかをみないとわからない。

人々の暮らしの良さというのは、効用や幸福だけで評価できるものではない。たとえば、ヤクでバッチリきまっていて、最強に幸福な人がいたとして、その人の暮らし向きが良いとはとても言えないだろう。あるいは、子供のころから何一つ苦労を知らずに生きてきた良家の子女で、でも仕事も結婚相手も自分で自由に選べないという人がいるとしたら、それもやはり良い暮らしとは言いがたい。

だからその人の「自由」というのも評価するべきだ。自分で自由に選択して、その選択に対する責任を自分で負う。そういう人の方が、『マトリックス』や『トゥルーマンショー』みたいな幸せな幻想世界で生きている人たちよりも、良い人生を生きているといえるだろう。

そういう、人の自由さを評価する尺度が「ケイパビリティ」だ。ケイパビリティが何かについてはまたいずれ論じます。ともかく、実現ベースの比較では、ケイパビリティを使って社会の良し悪しを評価していく、ということを覚えておいてくれ。

インド法における古典的区別(p56-)

実は大昔のインド法でも、先験主義、実現ベースの比較にそれぞれ対応する概念があったのですよ。前者に対応するのがニーティ、後者に対応するのがニヤーヤだ。

過程と責任の重要性(p59-)

ニヤーヤ(実現ベースの比較)だと、現実の達成に焦点を当てるから、個人の義務とか責任とかを無視してしまうことにはならないかね? つまり、何かを達成するためのプロセスを無視することになるんじゃないかな。

そんなことはない。達成をちゃんと評価するのなら、プロセスも含めて評価するべきなのだ。つまり、単にケイパビリティが高ければそれでいいってことじゃない。

たとえば、食べ物がなくて栄養失調になるのと、抗議のために断食して栄養失調になるのは、ケイパビリティだけみればどちらも同じことだ。つまり、「十分に栄養を得ること」ができていないわけだ。

だけど、抗議のために断食してる人をやめさせてムリヤリ何かを食べさせたりするのはへんでしょう? つまりケイパビリティだけでなく、「その人がなぜいまこういう状態にあるのか」というプロセスも含めて評価しないとならないのだ。

先験的制度尊重主義とグローバルな無視(p62-)

さて、先験主義の場合、「グローバルな正義」というのを考えるのが難しい。ホッブズにせよ、ロールズにせよ、「国」というのを前提にした議論をしている。たとえばホッブズなら、万人の万人に対する闘争を回避するために主権国家というものが生まれた、という考えをする。つまり、「国」という枠の中での正義を考えているわけで、「グローバルな正義」を考えるための枠組みを持っていない。

そこが先験主義の限界なのだよ。


  1. カーラが笛をつくったんだから、それを他のふたりが「よこせ」っていうのはどうかしてる気もする。しかし、カーラは笛を吹けないわけだよね。つくったのはいいけど、ずっとお道具箱に入れたまんまでほったらかしにしてるのだ。そこでアンが「カーラ。あんた、どうせ吹かないんならあたしによこしなさいよ。あたしが吹いてあげるから」と言ったり、ボブが「カーラぁ。僕、おもちゃのない子供時代を過ごしていて、なんだか情操的にヤバいことになってるよ。使ってないんなら、僕に笛をおくれよう」と言ったりするとしたら、彼らの言い分もそれなりに一理あるように思える。