【研究ノート】環境プラグマティズムって結局なんなの?

はじめに

  • 論文のなかで環境プラグマティズムについて触れようとしているのだけど、改めて調べてみるとなんだかよくわからなくて困っている。
  • ようするに、環境問題っていろんな価値観の人たちが関わっているから、そういう価値観の多様性を認めた上で人々が合意形成できるように働きかけていくのが大事だよねー、というような考え方だと認識している。つまり「多元論」ということだ。
  • でも、その程度のことだとしたら、わざわざ「環境プラグマティズム」なんて名乗る必要はないのではないだろうか。たとえば環境評価の教科書を読むと、人々の価値観は多様だから、環境の価値を貨幣価値に変換してやることが大事なんだよ、ということが書いてある。つまり、価値観が多様だなんてことはわざわざ「多元論」なんて言わなくてもわかりきったことだし、価値観が多様なことを前提としての解決策もすでに提案されている。
  • また、環境プラグマティズム環境倫理学の一種なのだ。「倫理学」を名乗っていているのなら、「価値観が多様ですねえ」以上のことを言えないとダメだと思う。価値観の多様性を前提とするのなら、ハーバーマスみたいに公共的討議の手続きに議論を集中するとか、ロールズみたいに「善」には介入せずに「正義」にだけ議論を集中するとか、やり方はいろいろある。環境プラグマティズムの場合は「収束仮説」といって、価値観がちがっていても長期的には環境保全に向けて協力できるみたいなことを言っているけれど、それはただの「そうだったらいいのにな」という「希望」であって、「仮説」とは言えないと思う。
  • ただ、環境プラグマティズムの中でも、ウェストンの言っていることだけはちょっと新しい気がする。勘違いかもしれないけれど、価値や信念のネットワークを仮定するという、プラグマティズム全体論的なアプローチを意識的に使っているし、「進化」ということもちょくちょく言ってるし、ちょっとヘーゲルとかブランダムっぽいことを言っている気もする。なので、特にウェストンが何を言おうとしているのかについて、もうちょい整理してみたいと思う。
  • なお、環境プラグマティズムの古典の『哲学は環境問題に使えるのか』という本は一応持ってるし、読んだこともあるのだけど、今手元に無い。500キロ以上離れたところにある。さらに、環境プラグマティズムを分かりやすく解説してくれる名著『ネオ・プラグマティズムとは何か』という本はなぜか捨ててしまった。ソース不足なのだけど頑張ってまとめていきたいと思う。

環境プラグマティズムが生まれるまで

第一世代の環境倫理学は「内在的価値」のことばかり考えていた。

  • 環境プラグマティズムというのは環境倫理学の第二世代だとかなんとか言われているものだ。だから、環境プラグマティズムを理解しようと思ったら、まずは第一世代の古い環境倫理学がなんなのかを簡単に理解する必要がある。
  • 環境倫理学の主張にはいろんなのがあるけれど、いちばん重要なのは、「内在的価値」という考え方だ。雑にいうと、「人間が価値を認めようが認めまいが、問答無用で価値がある」というのを内在的価値という。逆に、「人間が価値を認めるから価値がある」というのを道具的価値という。
  • なんのこっちゃ? と言いたくなる。内在的価値というのがなんなのかさっぱりイメージつかないし、そんなの考えるのが環境保全に何の関係があるのかもさっぱりわからん。普通はそう思うだろう。
  • こういう主張の背景にあるのは、「いまの環境問題は、人間が自分たちの欲望を満たすために好き勝手やったから引き起こされたものだ」という信念だ。つまり、人間が自分たちのとっての価値(道具的価値)ばかり重視して贅沢三昧していたから、川は汚染され、山からは獣たちがいなくなり、自然はどんどん食い尽くされていった。だから、こういう状況を解決するには、人間が自分たちが世界の中心だという考え(人間中心主義)をやめなければならない。そして、動物たち、植物たち、岩石たちといった自然のなかで、人間は特別な存在ではないという人間非中心主義にシフトしなくてはならない。それが、第一世代の環境倫理学者たちの基本的発想だ。
  • 人間非中心主義にシフトすることの根拠となる概念が内在的価値だ。自然には、人間が価値を認めるかどうかにかかわらず問答無用で価値がある。そうした内在的価値に人々が気づくことで、人々は自分たちの欲望を捨て、自然を守るための活動に取り組むようになるだろう。そういう風に、価値そのものを見直し、人間中心の世界観を改めることこそが、環境問題解決に必須の姿勢なのだッッッ!!!
  • そういうわけで、第一世代の環境倫理学者たちは、内在的価値を根拠付けるような難解な哲学議論を延々と繰り返してきたわけだ。

内在的価値の研究をしたって環境問題解決にぜんぜん役立たないじゃないか

  • で、もちろん内在的価値をめぐる議論をうだうだ重ねたって環境問題解決には役立たない。「木には内在的価値があるのじゃよ」と環境倫理学者が小学生の孫に説いたって「おじいちゃんがボケた!」と逃げられるだけだろう。内在的価値があるとか言われたって、それを自分にとっての価値だと思えないのであれば、環境を守ろうという動機にはつながらない。
  • それに、そもそも「内在的価値」という概念自体、成り立つかどうかはかなり疑わしい。たとえば「美しい珊瑚礁を守ろう」という人は多い。でも彼らは、珊瑚礁の内在的価値が大事だから守ろうと言っているのではなく、まさに「美しい」から守ろうと言ってるわけだ。だから、「ゴキブリを守ろう」とか「エボラ出血熱を媒介する蚊を守ろう」なんて言う人はいない。人は美しいものを見ると幸せな気持ちになれるし、醜いものを見るとドブみたいな気持ちになる。つまり、価値あるものというのは、「わたしにとって価値あるもの」なのであって、「道具的価値」なのだ。多くの場合、内在的価値というのは偽装された道具的価値だと考えられる。
  • こんな風に、内在的価値のまわりをぐるぐる回っていても、彼らの努力は環境問題に対して完全に無力なのだ。

これからは環境プラグマティズムの時代だーゼ~!!

  • それで、90年代半ばくらいに、環境倫理学の内部から「環境倫理学役に立ってないじゃん」という自己批判の声が出てくる。彼らが標榜したのが環境プラグマティズムだ。
  • 環境プラグマティズムのなかにもいろいろ立場がある。ただ、「内在的価値にばかりこだわっててもしょうがないよね」という問題意識は共有されている。内在的価値のことばっかりうだうだ議論してるんじゃねえウラナリどもよ。現実の環境政策に影響を与えられるよう、俺たちは変わらなければならないのだッッ!! 
  • それでは、第一世代の環境倫理学を罵倒した第二世代たちの提唱する環境プラグマティズムとはなんなのか?

環境プラグマティズムってなに?

われわれは多元論の立場をとる

  • 環境プラグマティズムでは内在的価値自体が否定されているわけではない。そうではなくて、環境を守る理由は内在的価値を守ること以外にはありえない、という極端な発想を否定しているのだ。
  • だから、内在的価値を守るために環境を守る人がいても構わないし、道具的価値を守るために環境を守る人がいても構わない。問題は、そういう風に価値観が多様なのを前提として、人々が環境政策について合意することだ。これを多元論という。

パターン1:ノートンとライトによる多元論

  • このあたりのことは大石敏広氏の「環境プラグマティズムにおける〈政策の合意〉の概念について」と言う論文がわかりやすくまとめていたので参考にしてみる。
  • 大石氏によると、この多元論をベースにした〈政策の合意〉というのにも、2パターンの考え方があるという。
  • 1つめのパターンは、ノートンとライトという人たちの考え方だ。彼らは、哲学と政策を分離した上で、〈政策の合意〉を目指すべきだと考える。つまり、価値とは何かとか哲学者たちがうだうだ議論するのは構わないけれど、政策に関して議論するときはそういう哲学話をいったん置いておこう、という考え方だ。
  • で、そういう発想のもとで、収束仮説というのが出てくる。これは、自然環境について人々の価値観がちがっていても、政策をつくるときは合意することができるよ、という仮説だ。たとえば、猟師は野生生物に道具的価値を見いだしている。これに対して、環境保護団体の人たちは野生動物の内在的価値を重視しているのかもしれない。でも、両者ともに「野生生物の生息地を守る」という政策については合意しうる。
  • ただ、こういう仮説がいつも成り立つとは限らないし、合意するために具体的にどうすればいいのかというのもわからない。ただ、「合意しうる」と言っているだけだ。

パターン2:ウェストンの多元論

  • 個人的には、パターン1の多元論はあんまりたいしたことを言っていないように思う。収束「仮説」と言っているのに、ぜんぜん仮説になってないというか。
  • 普通、仮説って、「勉強すると成績が上がる」とか「食べないとお腹が減る」みたいに、「X → Y」という因果関係とか、もうちょっと緩い仮説でも「X ⇔ Y」みたいな相関関係とかを示すものだ。だから、「合意しうる」というのなら、「Xという条件では合意しうる」みたいに、合意が可能になる条件を提示しないと仮説といえない。「この薬を飲むと病気がよくなる」なら仮説だけど、「病気がよくなることがある」だけでは仮説と言えないし、そんなことを医者に真顔で言われたら失笑するしかない。だから、パターン1の多元論はかなりアホっぽい主張をしていると思う(大石氏はこんな失礼なこと書いてないです。個人の感想です)。
  • これに対して、ウェストンは上のふたりとはちょっとちがった立場から多元論を論じている。どんなことを言っているのか、また大石氏の同じ論文を参照してみてみよう。
  • ウェストンは、価値・欲求・信念・責務等々が複雑に絡み合うものだという考え方をする。たとえば、ある人について「彼は、非常に残酷な人です」と価値的な言葉で判断するとしたら、それは「彼は、正しい人間ではない」と規範的な言葉で判断しているのだ。
  • ちょっとここは例がわかりにくい気がする。そもそも規範と価値がどう違うのかよくわからんし。なので、かみ砕いてみる。
  • ここで「規範」と言っているのは、ようするに「ルールを守ってるかどうか」ということだろう。だから、「正しい」とか「間違ってる」とかが規範的な言葉になる。これに対し価値に関する言葉は「好き」とか「嫌い」とか「辛い」とか「かわいい」とかだ。
  • 基本的に、価値と規範は違う。たとえば「かわいい」からといって「正しい」とは限らない。でも、ウェストンによれば、こういう規範と価値は絡み合っている。つまり、お互いに無関係なわけではない。「かわいいは正義」とか昔の漫画(今もやってます)で言ってたけど、これは、「かわいい」という価値的な判断と「正しい」という規範的判断がリンクしていることを意味している。
  • そして、誰も彼もが「かわいいは正義」と考えるわけではない。かわいい小学生女子たちがきゃっきゃきゃっきゃしてる漫画を愛でる人はこうした考えをするかもしれないけれど、それはかなり少数派だと思う。『ミスター味っ子』なんかだとうまいものを食べさせると大概の問題は解決してしまうので「うまいは正義」という風な考え方をするかもしれない。つまり、規範と価値の絡み合い方は、人によって異なるのだ。
  • で、こういう絡み合いは規範と価値のあいだでだけ起こるものではない。「かわいい」という価値判断をする人は、「かわいいものにまみれて生きていたい」という欲望を持っているかもしれない。また、「かわいい」という価値判断をする人は、「かわいい」に関して何らかの信念を持っている。ある人は小学生女子をかわいいと思う。ある人はモフモフの生き物をかわいいと思う。ある人は稲穂の頭が垂れてる感じをかわいいと思う。つまり、「かわいいとは何か?」に関する信念が人によって違ってくるのだ。
  • さて、こう考えていくと、環境をめぐる人々の対立をちがった風に見ることができる。つまり、パターン1の多元論みたいに、哲学抜きにして政策面で合意できればいいじゃん、ということが言えなくなってくるのだ。
  • どういうことか。ここからも、大石論文だと具体的なイメージが湧きにくいので、自分なりの例で考えてみる。
  • たとえば、「野生生物の生息地を守ることは正しい」という規範的判断をする点では合意できる人たちがいるとする。でも、この人たちが話し合えば話し合うほど、なんだかお互いにギスギスしてきたみたいだ。というのは、片方は「野生生物を狩猟したい」という欲望を持っていて、もう片方は「野生生物には内在的価値がある」という風に価値を見いだしている。そしてその背景にある両者の信念も全然食い違っている。片方は「野生生物は人間にとって有害な悪魔のような奴らだ」という信念を抱いていて、もう片方は「野生生物はスピリチュアルな存在であって神にもっとも近い存在だ」という信念を抱いている。こういう風に、「野生生息の生息地を守ることは正しい」という規範的判断の背景にある欲望や価値や信念がぜんぜん違うのだから、当然、どんな風に生息地を守るべきかという具体的な政策内容もぜんぜん違ったものが提案される。片方は野生生物を毎年一定量狩猟して良いというルールを作りたがるし、もう片方は野生生物はいっさい狩猟してはいけないというルールを作りたがる。
  • これはウェストンの言葉でいえばまさに「泥沼(swamp)」だ。つまり規範的判断も価値も欲求も信念も全部相互に絡み合っていて、議論すれば議論するほどそういう絡み合いが表面化していく。パターン1の多元論では「とにかく政策面で合意できればOKっしょ。哲学とかめんどうなことは考えなくていいよ」という風に軽く考えるけれど、それは泥沼を見て見ぬふりしてるだけだ。ちょっと議論を始めればすぐに泥沼が顕在化する。それなら、やはり哲学を抜きにするわけにはいかない。というのは、哲学というのも泥沼の一部だからだ。たとえば野生生物が悪魔なのか神なのか、という信念に関する議論はそのまま哲学的議論につながる。「政策は政策、哲学は哲学」なんて調子の良いことは言ってられない。哲学者もその泥沼に足を踏み入れていって、この七面倒くさい議論に巻き込まれないといけないのだ。

「泥沼」と「収束仮説」、どっちがいいの?

  • こうなってくると、パターン2の「泥沼」式多元論は、パターン1の「収束仮説」式多元論とまったく逆のことを言っているようにさえ思えてくる。つまり、パターン1は「泥沼に入らずに収束を目指そう」と言っているのに対し、パターン2は「収束できなくても泥沼に入らなくてはならない」と言っているのだ。
  • 個人的にはパターン2の多元論の方がまともだと思う。パターン1は哲学の放棄にしか思えないし、仮にパターン1式の合意ができたとしても、将来的に合意が破綻する可能性が高いと思う。総論では合意できても各論で延々と小競り合いが続くことになるはずだ。短期的には合意に至れなくても、パターン2のように泥沼にずぶずぶ入って行った方が、いずれは頑強な合意を達成することができるだろう。

「多元論という主張のかんちがい」というのは本当?

  • 安彦一恵氏という人が「「環境プラグマティスト」の勘違い」という、環境プラグマティズムをボコボコにやっつけるえげつない論文を書いている。
  • 安彦氏はいろんな観点から環境プラグマティズムをやっつけているんだけど、そのなかで、今回の議論に関係が深いのは四節「「多元論へ」という主張の勘違い」だ。こいつを検討して、果たして安彦氏の批判がウェストンの多元論に対しても妥当なものなのかどうかをみてみよう。
  • 安彦氏は、環境プラグマティストたちのいう「多元論」が、道具的価値と内在的価値の両立を目指すものであることを問題視する。というのは、内在的価値というのはそもそも多元論と相容れない概念だからだ。
  • ここも説明がちょっとわかりにくかったので、自分でかみ砕いてみる。道具的価値というのは多元的であってもOKなものだ。たとえば、お腹が空いたとき、バナナを食べてもいいし、リンゴを食べてもいい。つまり、「どうしてもバナナじゃないとダメぇ!!」ということがない。「バナナが無ければリンゴを食べればいいじゃないの」というわけだ。だけど、内在的価値というのは多元的であってはいけない。つまり、「この山は絶対に守られなければならない」とか「この猿は絶対に絶滅してはならない」という問答無用の「一元性」が内在的価値の含意なのだ。だとすると、道具的価値と内在的価値の両立なんてあり得ないことになるわけで、したがって、環境プラグマティストたちのいう多元論は成り立たない。
  • さて、この安彦氏の批判は、まずパターン1の多元論には当てはまらないと思う。というのは、パターン1の収束仮説では、内在的価値とかの哲学的なことを抜きにして、ともかく政策面で合意できればOKという発想をするからだ。哲学的に考えたら道具的価値と内在的価値は両立しえないのだけど、ともかく価値に目を塞いでしまえば、「野生生物の生息地を守る」という政策面で人々が合意することはありうるのだ(とはいえ、こういう反論の仕方だと、「だったらお前らは倫理学者を名乗るな」という再批判が来ると思うけど)。
  • では、パターン2の「泥沼」式多元論に対してはどうだろう? 一見、安彦氏の批判がそのまま当てはまりそうな気もするけれど、そうでもないと思う。というのは、確かに道具的価値と内在的価値は両立しないかもしれないけれど、それはまず「泥沼」に入っていって議論するべきことだからだ。その議論の過程で内在的価値はやはり両立しないということが判明するかもしれない。そのときに初めて内在的価値を切り捨てれば良いのであって、少なくとも、議論の場においては道具的価値も内在的価値もどちらもあっても構わない。そういう意味で、パターン2の多元論は成り立っているといえる。
  • また、逆に内在的価値の方が生き残り、道具的価値が切り捨てられるというケースもありうると思う。これらは両立しないというだけのことであって、内在的価値が常に切り捨てられるべきということではない。どちらが生き残るかわからないからこそ、議論の場において道具的価値と内在的価値が併存している多元論的状況を作っておくことは大事だ。
  • というわけで、パターン1、パターン2のいずれでも多元論は成り立つのだ。

だけど、結局それって「倫理学」ではないんじゃないですか?

  • 個人的には、パターン1の主張する収束仮説は無内容だと思うし、仮に収束したとしても合意が不安定になってしまう危険がありそうなので、パターン2の「泥沼」式多元論を支持したい。
  • ただ、泥沼式の多元論は、結局のところ「とことん議論を尽くせ」ということを言っているだけのようにも思える。これが「倫理学」であるというのはどういう意味においてなのだろう?
  • おそらく、「倫理」というものの捉え方が、「泥沼」式多元論の場合、ちょっと独特なものになっているんじゃないだろうか。普通、倫理というのは「嘘をつくべきでない」とか「機会は平等であるべきだ」といった、「べき」「べきでない」という主張のことだ。だけど、泥沼の場合、たとえば「嘘をつくべきでない」という倫理的主張を引っ張り出すと、いろんな価値観とか信念とか欲求とかが芋づる式にくっついてくる。そして、人々はそうした価値観や信念や欲求も込みで議論することによって、「嘘をつくべきでない」という倫理的主張に合意することを目指すのだ。つまり、「嘘をつくべきでない」という倫理的主張の背後にある文脈や理由も含めて合意が成されるわけだ。
  • もちろん、そうした文脈や理由について100%合意できるということはないだろう。たとえば人によって欲求は違う。もうちょっとセンシティブな事例を挙げるなら、「いやらしい漫画を禁止すべき」という政策が提案され、人々が議論するとき、人々の欲求はそれぞれ全然ちがうものだろう。また、そもそも漫画とは何か、性とは何か、といったことについての信念も互いに異なったままだろう。それでも、議論を重ねることで合意に達することはありうる、というか普通にそういう合意は日常的に行われている。泥沼でもなにがしかの合意は可能なのだ。
  • こういう風に、政策やその背後にある倫理的主張をばらばらに捉えずに、価値観や信念や欲求との絡み合いの中で捉えると、倫理の範囲が曖昧になってくる。つまり、「嘘をつくべきでない」という主張だけが倫理なのではなくて、そうした主張も込みの泥沼全体が倫理なのだ。「泥沼」式多元論における倫理学の役割は、泥沼がどんな風に成り立っているのかを分析したり、どんな風になったら合意ができたと判定できるのか基準をつくったりすることになるのではないか。そんなことはウェストンも誰も言ってないけれど、少なくとも「泥沼の存在だけ指摘して、あとはぜんぶ泥沼任せ」というのだと倫理学にならないと思う。

(2022/06/07追記)

  • と、いろいろまとめてみたけれど、やっぱり論文に使うのやめた。なんとか環境プラグマティズム抜きで論文を仕上げてみる。
  • 「収束仮説」にせよ「泥沼」にせよ、ちょっと現場に投げすぎで、議論として中身のないものになっていると思う。というか、現場に敬意を払いすぎて、哲学者としての主張があまりに控えめになってしまっているというか…。「内在的価値」とかの独断的な議論をしてくれた方が、まだ哲学者としての仕事をちゃんとしている感じがする。
  • 環境倫理学は学部の時からちょこちょこ勉強してきたけれど、「つまらん」という印象はずっと変わらない。第二世代になって環境プラグマティズムになりました、っていうことなんだけど、正直なところ、環境プラグマティズムになってますますつまらなくなった印象がある。今日も関連文献をがんばって読んでみようとしたのだけど、退屈すぎて投げ出してしまった。
  • 第一世代の環境倫理学は「お説教」であると『異議あり!生命・環境倫理学』という本の中で批判されている。それに対して、第二世代は第一世代に対する「反省」が延々とつづいているだけだと思う(だから環境プラグマティズムの論文を読むと、たいていは第一世代がいかにダメだったか、という話から入る。「反省」がアイデンティティになってしまっているわけだ)。で、その反省の一環で、哲学者も現場に出て泥沼のなかであがかないとダメだ! ということになっているのだと思うけど…。外野からの感想としては、現場になんか出ないでいいよ、という感じなのだ。
  • 哲学の面白さって、それこそ現場にいる人たちが思いもよらないようなすっ飛んだことを真顔で主張してくれるところにあると思う。そういう「すっ飛んだ感じ」こそが哲学の強みなんであって、そこを先鋭化させてほしい。その方が面白いし、なおかつ「役に立つ」。ヒースやヘルマン=ピラートの制度論において、ヴィトゲンシュタインやブランダムの浮世離れした言語哲学がどれだけ活躍していることか1。自分は多少現場に近い方だと思うけれど、面白い考え方さえ示してくれれば現場の方でうまくカスタマイズなりローカライズなりしてみせます。「反省」は大事だけど、そろそろ第三世代の段階に進んだ方が良いのではないのだろうか2

(2022/06/08追記)

  • この記事を書いた後もあれこれ考えてしまう。たぶん、自分としては環境プラグマティズムを批判すること自体に関心があるわけじゃなくて、学問と現場の関係について考えたいのだと思う。
  • よく「象牙の塔」という言葉で、現場を知らない学者が馬鹿にされることがある。で、その反動として自分の周りでも地域貢献みたいなことをやっている学者はたくさんいるのだけど、そういう人たちが研究として新しいことをやっているかどうかというとかなり疑わしいと思っている。結局は地域づくりのコーディネーターみたいなボランティア仕事をやってるだけなんじゃないかなあ、と。もちろんそれはそれなりに地域に役立ってはいるのだろうけれど、それが学者にしかできない仕事だとは思えない。現場をリサーチすること自体は研究において大事なんだけれど、その一方で、ちゃんと象牙の塔にこもるというのも大事なんじゃないか。現場の人々が学者に求めているのはコーディネート能力じゃなくて、アイデアだと思う。

  1. あと、環境倫理関連の議論で一番現場に強い影響を与えたのって、たぶんピーター・シンガーの動物解放論だと思う(専門家に言わせれば厳密には環境倫理とカテゴリーが違う議論らしいけれど興味ない。今はあくまで、哲学が現場にどう役に立つか、ということを考えたいので)。シンガーは功利主義を徹底して、動物への配慮や障害を持つ新生児の安楽死を肯定する議論を展開してきた。シンガーの議論は直観的には受け入れがたいものだとよく批判される。でも、そういう直観からずれたことを言えることこそが哲学者の強みだし、だからこそ現場に対しても変革を促す強烈なインパクトを持つのだと思う。個人的にはアマルティア・センが好きなので、シンガーみたいに功利主義だけで物事を割り切っていこうとするやり方には抵抗感がある。でも、中途半端に現場に配慮せずに哲学をとことん突き詰めていくシンガーの姿勢は素晴らしいし、哲学者ってこうあるべきだと思っている。

  2. この追記部分に書いた不満の内容は、安彦氏の「「環境プラグマティスト」の勘違い」論文における次の記述とほとんど同じことかもしれない。《何故にあえて「環境倫理学者」が実践的「環境倫理学」をもってそこに介入しなければならないのか。それとも、「環境プラグマティスト達」は、そもそもの「学」を放棄して、自ら「政策」者となるべきだ、とでも説いているのであろうか。》環境プラグマティズム関連の文献では、個人的にはこの安彦論文が圧倒的に面白かった。