【読書ノート】『ヘーゲルの実践哲学』二章残り

この本は難しすぎて要約しながら読むというのが難しいので、自分になんとなくわかるところを抜き書きして自分なりの解釈を加えていく、という形で読み進めていきたい。

p72-73 精神の説明は「私たち」についての問題であって、自然科学の問題ではない。

「自然はこの精神という心理のうちで消失しており、精神は対自存在へ到達した理念になった」という「消失」についての見解は、精神を自然的に説明するのは不適切だということ、また、たとえ精神がなおつねにある時ある所にあるとしても、時間・空間といった観念を「その真理において」ある精神に適用することはまったく不可能だということに関係している。(…)私たちが求めているのは、難しく摑みどころのないものである。なぜなら、それは、何が説明の適切さとみなされるのか、説明上の満足とみなされるのか、したがって、認知に関する神経学的になしうる否認し難い記述や倫理的性向に関する進化論的-生物学的描写が間違いではないにせよ、不完全で誤解を招く不適切なものであるのはなぜなのか、といった問題に対する答えだからである。こうした説明上の満足の問題は、要するに、自然についての問題ではなく、私たちについての問題なのである。

  • つまり、精神というのは自然とは別の次元のものだということ。といっても、前回やったように、精神というのはオカルト的なものではない。ようするに「制度」ということだ。
  • 脳科学や心理学を倫理学に持ち込もうという動きはずっと前からある。グリーンの『モラルトライブズ』という本で、脳科学研究の成果を根拠にして功利主義をプッシュしているけれど、これもそういう動きのひとつだろう。でも、そういう風に精神(ここでは倫理)を説明するのは不適切だとヘーゲルは考える。というのは、それは「自然についての問題ではなく、私たちについての問題」だからだ。この主張の含意は今のところまだ展開されていない。ともかく、ここでは「自然と精神(制度)は別次元であって、精神(制度)は自然に還元できない」ということを抑えておけばOKだろう。

p91 理性に導かれて精神はみずから形成する。

決定的な論点とは理性であり、精神の生成である。すなわち、精神がますます理性に導かれ、理性に集合的に応答するように、それ自身をみずから形成することである。これが、自然の直接性の最終的な克服(精神の実現)の達成である。(…)精神は、ある有機体が時間経過を通じて、言わば有効な「理由の空間」を「作る」努力によって、精神に成ると想定されている。

  • で、自然と別次元で動くものである精神は、理性に導かれてみずからを形成していく。ここで「理由の空間」という言語哲学の議論が出てくる。たぶんこれが、お互いに理由を示し合い、相互承認することで制度が形成されていく、というヘルマン=ピラート本でも出てきた話につながってくるのだと思う。
  • ただ、今のところ、それじゃあ理性ってなんなんだいとか、なんだって理性さまはそんなに偉いんだい、といった話はまだ論じられてない(と思う)。

p92 何かあるものが規範として存在するのは、私たちがそれを確立し、それに自分をコミットさせてきたからである。

ヘーゲルの場合も、セラーズの場合と同様である。その考え方の核心にあるのは、あるひとを一人の人格とみなすことは、そのひとを人格として「分類または解説する」ことではなく、むしろそのひとの「意図を詳細に物語る」ことである、というものである。ヘーゲルには、この意図の内容に関するセラーズとは異なった物語がある。それは、その意図の私たちに対する権利請求の本性に関する物語である。私たちが歴史物語を語らなければならないのは、そのような意図が今あるように存在するようになったのはどのようにしてなのかについてなのであり、また、どのような種類の規範的権威をもってなのかについてなのである。
(…)何かあるものが規範として存在するのは、まさしく私たちがそれを確立し、それに自分をコミットさせてきたからであり、私たちが非物質性のようなものを見出したからでも、あるいは、非因果的な原因についての精神を抱いているからでもない。

  • で、ここで推論主義でもでてきた「コミット」の話が出てくる。『推論主義の哲学』で出てきた「想起」の話とほとんど同じような話題なのかなあ、とも思う。歴史を通して人々はコミットを修正していく。で、それを最後に歴史物語として想起して制度として合理化する。
  • ただ、人格云々の話は「想起」では出てこなかったはずなので、きれいに対応しているわけではなさそう。
  • ともかく、ヘーゲル哲学ではこういう風に、精神を歴史的なものとして捉えている、というのを抑えておきましょう。