【読書ノート】『モラル・エコノミー』第1章

読む動機

  • 何年か前に読んだ本だけど、ちょっと必要があって再勉強してみることにした。
  • 最初に読んだときは素晴らしい本だと思った。「経済を機能させるには倫理が必要だ」ということを、ただのお説教じゃなくて、心理学実験のデータによってきちんと実証的に示してくれている。経済と倫理の関係を問うアマルティア・センの議論をさらに先に進めて、より実用的なものにバージョンアップする議論だと受け止めていた。
  • でも、だんだん、そもそもここで語られているのは「倫理」ではないんじゃないか? という気がしてきている。
  • センにとって倫理というのは、人々が理性による公共的討議を通して構築していくものだ。それに対し、本書の著者であるボウルズはそういう公共的討議のプロセスみたいなものは考えていないように思う。
  • 本書の副題には「インセンティブか善き市民か」とある。この「市民(citizen)」というのは、「社会的選好」という、社会や他者の利得に配慮するタイプの選好を持つ主体という風に性格付けられている。それは良いのだけど、じゃあ、そういう社会的選好はいったいどういうプロセスで生まれたものなのか、というのはあまり本書の中で議論されてなかった気がする。いや、なんか文化進化論みたいな話が出てきた気もするけれど、文化進化論のアプローチだとセンやヘーゲルの議論に出てくる「理性」という話がすっぽり抜け落ちてしまう。
  • 「理性」がなくても「社会的選好」を持つ人々というのは想像できる。たとえば、日本の昔のムラ社会において、人々は社会的選好を持っていた。耕作放棄地が出れば隣の人が面倒を見るし、若い男女は家を存続させるために親の決めた相手と結婚する。それが当時の常識だった。だけど、こういうムラ社会において、理性による公共的討議などというものは行われない。なんとなくの同調圧力があって、空気を読み合いながら動いているだけだ。だから。当時の社会というのは女性差別がガンガンに行われていたわけだけど、そういう状況を是正しようという動きは内部からは起こらなかった。センの言い方を使うなら、不正義を発見するために理性がうまく機能してなかったのだ。
  • ボウルズの考える「市民」には、こういう、理性をあまり働かせない昔のムラ社会の住民みたいなのまで含まれてしまうと思う。だとすると、ボウルズが示しているのはあくまで「経済と社会規範」の関係であって、「経済と倫理」の関係じゃないんじゃないか。
  • それがどうして問題なのかというと、これでは、「やっぱり昔のムラ社会が良いよねえ」みたいなつまんない話につながりかねないからだ。社会の経済的パフォーマンスを高めるには、われわれは伝統を見直さなければならないとかね。小学校では儒教を教えようとか、上杉鷹山に見習えとか。そんなのはもちろん無理だ。現在において人々の価値観は多様だし、そもそも日本人じゃない人たちだってたくさん日本にいる。小さな会社とかNPOとかスポーツクラブとかの小集団でやるのなら良いかもしれないけれど、文科省が仕切って日本中で行うようになったら悲劇だ。そういう馬鹿馬鹿しいノスタルジーを肯定してしまいかねないような、危ういところがボウルズの議論にはあるんじゃないか? そんな問題意識を持ちつつ、再読していきたいと思う。

第1章 ホモ・エコノミクスに関する問題

経済学では人間は「ホモ・エコノミクス(経済人)」であると仮定されている。つまり、人々は完全に利己的であって、チャンスがあれば常に相手を出し抜こうとする奴らだということだ。だから、人々を動かすには経済的インセンティブを与えなくてはならない。たとえば、レジ袋の利用を控えてもらいたいのなら、レジ袋を有料化すればいい。家庭で子どもに皿洗いを手伝わせたければ、小遣いで釣ればいい。そういうことになる。

だけど、これは変な仮定だ。というのは、現実の人々はそんなに利己的じゃないからだ。それに、経済的インセンティブを与えたら本当に人がそれに釣られて動くとは限らない。むしろ、経済的インセンティブを設定することで、人々が道徳心を忘れてしまうようなこともあるんじゃないだろうか?

たとえば、イスラエルのハイファという都市の託児所では、子どもを迎えに来るのに遅刻する親が結構いた。それで、遅刻に対して罰金を設定したのだけど、なんということか、遅刻の頻度は2倍に増えてしまったのだ。おそらくこれは、「お金さえ払えば遅刻していいんだ」と親たちに理解されてしまったからではないだろうか? 経済的インセンティブを設定することで、「遅刻してはいけない」という親たちの倫理的義務感は掘り崩されてしまったのだ。

私は別に経済的インセンティブなんかやめちまえ、と言っているわけではない。そうではなくて、インセンティブと倫理的な動機付けには相乗作用があるということを言っているのだ。そういう相乗効果を無視していては、政策はうまく機能しない。

人々をホモ・エコノミクスだと仮定した政策はうまく機能しないことがある。このことを、次の章ではもうちょっと詳しく見てみよう。

メモ

ここは完全なイントロの章。ハイファの託児所は有名なお話で、確かサンデルの本でも引用されてた気がする。

学生時代に読んだ本だけど、コーンの『報酬主義をこえて』という本でも、お絵かきを楽しんでいる子供たちに「お絵かきしたらご褒美あげるよ」と言ったら、できあがる絵の出来が劣化する、とかいう話が出てきた記憶がある。「楽しいからお絵かきする」のなら、自分が納得いくまで根気よく描くことになる。だけど、「ご褒美もらえるからお絵かきする」だと、適当に描いてもご褒美がもらえるのだから、なるべく手抜きをしようということになる。

これはいろんな場面で出てくる問題だと思う。研究者の場合も、「査読論文の数やインパクトファクターによって就職が決まる」ということになってしまったら、少しでも流行に乗った受けの良い研究テーマに飛びつくことになりがちだ。自分が研究したいから研究するのではなくて、社会的ニーズが高いから研究するという、なんだかむなしいことになっている。そういえば、前の職場で、「あなたの研究分野のホットトピックはなんですか?」ということをやたらと聞いてくる先生がいたっけ。「SDGs」が話題になったら授業で「SDGs」を連発して、陰で学生達に「SDGs先生」と呼ばれて馬鹿にされてたけど、元気にしてるかなあ(棒読み)。

ところで、ちょっと気になったのは、ホモ・エコノミクスの定義。ミクロ経済学とかの教科書だと、個人は自身の効用を最大化する存在だとされている。でも、この「効用」の中身がなんなのかは何も限定されていない。だから、たとえば寄付をすることで効用が高まるような利他的な人がいても問題ない。フェアトレードの商品を買うことで効用最大化できる人だってOKだ。本章において、ボウルズは「利己的」「利他的」というのを割と雑に使い分けているけれど、これらの概念を厳密に使い分けないと、ちゃんとした批判にならないんじゃないかな。「利他的であることも含めて利己的なんです」って言われたらどうするのか? そういう議論は後の方の章で出てくるんだっけ?