【読書ノート】『モラル・エコノミー』第7章(ラスト)

第7章アリストレレスの立法者の使命

イントロ(p181-)

インセンティブそのものが問題なのではなくて、インセンティブがもたらすメッセージが問題なのだ。だから、罰金にせよ補助金にせよ、インセンティブをつける倫理的理由をきちんと説明すれば、クラウディングアウトは回避できるかもしれない。

取得と構成(p185-)

(取得と構成に関する話がだらだらつづく。あまり議論が進展してるように思えないので省略)

懲罰付きの公共財ゲームでは拠出額が高い水準で推移する。つまり、みんな協力的になる。これは、懲罰付き公共財ゲームでは、懲罰を下すという行為が倫理的なものだという理解が人々の間で共有されているからだ。

どういうことか? つまり、懲罰をするのにはコストがかかる。にもかかわらず懲罰をするのならそれは倫理的だということになる。だから、懲罰を受けた人も納得して恥を知り、拠出額を増やそうとするのだ1。これは一種のクラウディングインだと言えるだろう。 

道徳的教え――インセンティブが悪いのか(p194-)

道徳的メッセージをちゃんと伝えればクラウディングインが起こることがある。アイルランドで少額のレジ袋税を導入したところ、ビニールのレジ袋の利用は94%低下した2。これは、課税実施前に広報活動とか公開審議をきちんとやっていたからだ。

ハイファの託児所だって、いきなり罰金設定するんじゃなくて、なんで罰金を設定するのか、道徳的意義を説明するべきだったのだよ。インセンティブと道徳的メッセージというのは補完的なのだ。

アリストテレスの立法者の使命(p198-)

でも、そもそも利己的な人だったら道徳的メッセージなんて真面目に聞かないよね。現実社会には、道徳的メッセージを真面目に聞く人もいれば、聞かない人もいる。それを区別することはできない。

さて、これまで人々のタイプ分けをあんまりきちんとやってなかったけど、次の3タイプがいるとしよう。

  • 利他的主義者

  • 互恵主義者

  • その他

実は懲罰付き公共財ゲームにおいて、プレイヤーが利他主義すぎると拠出額は逆に下がってしまう。というのは、利他主義者は相手にとって利益になることを求めるので、懲罰を実行しようとしないから。優しすぎるということだ。むしろ、互恵主義者の方がきちんと懲罰を実行してくれるので、拠出額は上がる。

こういういろんなタイプの人々が混ざり合って社会は構成されている。だとすると、どういう風に政策を立てればいいのかもわからなくなってくるんじゃないだろうか?

懲罰付き公共財ゲームみたいのを現実世界でも実現してしまうというのが一つの解決策だ。利己的な人と互恵的な人をペアにする。で、利己的な人を先手にする。利己的な人は、「自分が利己的に振る舞えば相手も利己的に振る舞うだろう」と予想できる。なぜなら相手が互恵的だからだ。で、両方が利己的に振る舞うと利己的な人にとっても利益が減る。だから、利己的な人は利他的に振る舞う。それに対し互恵的な人は同じように利他的に振る舞う。3

ポイントは、みんなが利他的な人だったり互恵的な人だったりしなくてもいいということだ。利己的な人が社会に一定数いても構わない。善き市民がある程度いる社会なら協力は可能だ。逆に、善き市民がゼロだと、どんなにインセンティブを与えたとしてもその社会では協力は不可能だ。その意味で、本書の副題にも示したように、「優れたインセンティブでも善き市民に取って代わることはできない」のである。

ありうべき市民のためのありうべき法律(p207-)

(これまでに出てきた議論の繰り返しみたいな内容なので省略)

コメント

第1章をまとめるとき、「ボウルズの考える「市民」には(…)理性をあまり働かせない昔のムラ社会の住民みたいなのまで含まれてしまうと思う」と書いてたんだけど、全部読み終わった後でも同じような感想。特に、最終章で懲罰付き公共財ゲームみたいなのを現実世界でもやってみたらどうか? というのを提案してるあたりは、もろに相互監視的な伝統的ムラ社会を現代によみがえらせてしまうような議論につながりかねないと思う4

odmy.hatenablog.com

ボウルズは「リベラル」というのを制度のレベルだけで捉えている。つまり、市場が整備されていて、法律がきちんと施行されて、人権が保証されているような制度を指して「リベラル」と言っている。だけど、そうやって制度のレベルにばかり目を向けるのは、人々の具体的な生き方から目をそらせてしまうものだ、とセンなら言うだろう。

センなら、「リベラル」というのであればまずは人々の自由が重要だと考えると思う。その上で、彼らが理性的な公共的討議の場に参加し、社会における不正義を発見していくプロセスを重視する。ボウルズみたいに人々の自主的で相互監視的な「懲罰」で社会を維持するのは理性的対話を放棄する発想のようにも思える。あるいは、「道徳的メッセージ」が重要だとしても、それを政府が一方的に人々にアピールするだけならそれはただの「お説教」だ。道徳的メッセージを人々が受容するにも、やはりその妥当性を検討するための公共的討議が必要だ。センならそう言うだろう。

センの公共的討議という発想が重要なのは、今の時代、そもそも何が道徳的なのかがわかりにくいことが多いからだ。たとえばハイファの託児所の例で問題なのは、遅刻そのものではなく、「なぜ遅刻するのか?」ということを託児所側と親とできちんと話し合っていない点ではないだろうか? 親たちはもしかしたら他にも仕事を抱えすぎていて、時間通りに子どもを迎えに行くのもかなり無理していたのかもしれない。そういう状況で罰金が設定されたら、罰金を払うことで少しでも自分の負担を減らそうとするのは無理もないことだ。その場合、親の道徳性を問題にするよりも、迎え時間について託児所側がもう少し柔軟に対応できないか考えることも必要だし、さらには国の子育て支援政策を見直すというもっと大きなレベルでの対応も必要かもしれない。しかしボウルズの議論だと、「遅刻するのは悪いことだ」という風に、道徳が最初からきっちり決まってしまっているように思える。そしてそのあたりが、リベラルを標榜しているにもかかわらず、ボウルズの議論がぜんぜんリベラルに見えない原因になっていると思う。

あと、翻訳はかなり良くない。前回もちょっとケチをつけたけど、他にも問題がある。

原文にダッシュ(――)があるからといって、日本語文でも馬鹿正直にダッシュを使ったりしている。たとえばp210では「市長モックス――数学者であり哲学者――は」と訳してる。でもこれは、「市長モックス(数学者であり哲学者)は」とか「数学者であり哲学者でもある市長モックスは」という風に処理した方が日本語文としては自然だ。

あと、英語だと同じ意味の言葉をわざわざ言い換えることがあるけど、それも日本語に訳すときは無視してひとつの言葉で統一した方がわかりやすい。たとえば「モックス」「市長」という風に同一人物が複数の呼び方をされていたら「モックス」と統一する。p210で「市長が職に就いたその年は」というのがあるけど、「モックスが市長の職に就いたその年は」と訳した方が意味が明確に伝わる(「市長が職に就く」って、「妻が結婚する」というのと同じくらいへんな表現だと思うけど。職に就いてない市長はいないし、結婚してない妻もいない)。

日本語チェックもちゃんとやられてないみたい。次のp211だと「同様に効果的だっただのは」という変な表現がある。その2ページ先のp213には「ヒュームの原則いに従う」というのもある。ここらへんは編集者とか校正の人がちゃんと仕事してください。


  1. で、これはゲームのメンバーを頻繁に入れ替える条件でやっても同じ結果になる。メンバー固定だと、その懲罰者が「今罰を加えて拠出額を増やさせて、長期的な利益をゲットしてやるぜ」という利己的動機で動いている可能性を排除できない。だけどメンバーを頻繁に入れ替えることで、そういう「長期的な利益」をゲットできなくしてるのに懲罰をする人がいるとしたら、その人は倫理的動機で懲罰をしてるだなあ、と他のメンバーたちが納得してくれる。

  2. これ、「少額」って言ってるけど、「アイルランドのレジ袋税」という論文によると、2002年時点で1枚約20円、2007年になると約30円になっているそうで、日本に比べたらかなり高額だ。重要なのは、結構な額の課税をしているのにアイルランド国内で大きな混乱がなかったという点だと思う。日本だと1枚2円だか3円だかでもブーブー文句言う人が多いのにね。日本の問題は、レジ袋の利用をなぜ控えないといけないのかという道徳的メッセージを政府が国民に対してほとんど発信してなかったことだろう。レジ袋に限らず、日本は道徳的メッセージ抜きで突然政策を進めることが多いのではないか。農水省の「2050年までに有機農業の農地面積を25%に!」というのも国民にぜんぜん説明がないまま唐突に出てきた。政策そのものではないけど、SDGsも「これがグローバルスタンダードだから」というので深く考えずにあちこちでかけ声だけ増殖させて、結果的に一般人レベルではほぼ形骸化していると思う。こういう悲惨な現状だからこそ本書を政治家や官僚どもに読んで欲しいのだけど、読みにくいし、そもそも絶版だし…。

  3. ここらへんで話についていけなくなった。具体的に何をどうすればいいというわけ? 国勢調査で人々のタイプを確認した上で、人々を強制移住させて3タイプがバランス良く含まれたコミュニティをいくつもつくろう、みたいな話なの? お話としては面白いけれど、それはリベラルでもなんでもないと思う。あと、懲罰の実施権を個人に与えてしまうというのも怖い。懲罰といっても別に暴力的なものではなく、「協力しない」とか「村八分にする」とかいうものだと思うけれど、なんか昔の農村社会に逆戻りしてしまいかねないアイデアだと思う。本書のあちこちでボウルズは「リベラル」というのを強調している。でも、具体的に政策を提案する段階になると「道徳的メッセージ」という一種の「お説教」に頼ろうとしたり、「現実世界で懲罰付き公共財ゲームを」という無茶なことを言い出したりして、あんまりリベラルっぽくない。公共的討議による正義の地道な実現を重視するセンからしたら、ボウルズの議論はあまりに乱暴なものに見えると思う。

  4. ボウルズが例として紹介しているのは、コロンビアのボゴタ市で1990年代半ばから2000年代はじめにかけて市長を務めていたアンタナス・モックス。経済学101にも関連記事がある。いろいろユニークな政策を実施していた人で、市民に「いいね!」マークと「ブーイング」マークが印刷されたカードを配って、他の人が良いことをしていたら「いいね!」を出して、よろしくないことをしていたら「ブーイング」を出す、という風に使ってもらったらしい。これだけ見ると、相互監視のヤバいシステムを導入したような印象もあるけれど、市民からは好意的に受け止めてもらえたみたい。この記事とか元ネタの英文記事をみると、他にも奇抜な政策を次々実施して、暴力や汚職に満ち満ちていたボゴタ市を改革した素晴らしい市長のようだ。ただ、それはこの人のバランス感覚が並外れて優れていたからというのもあると思う。別の人が同じようなことをしようとしたらへんなことにならないかな、という懸念はある。