【読書ノート】『啓蒙思想2.0』第2章

第2章 クルージの技法――あり合わせの材料から生まれた脳について

理性は莫大なクルージの集積(p87-88)

クルージとは、根底にある問題を解決せずに、とりあえず表面的に解決してしまう方法のことだ。

たとえば、プログラムを作っていて、どうしてもある数字をインプットしたときにバグってしまうのだとしたら、「この数字を入れたときはこういうアウトプットを出す!」という風に固定してしまうようなやり方。解決策としては美しくないし、根本的な解決になってないけど、当座はしのげる。

で、合理的思考というのもクルージの集積によって可能になっている。たとえば、人間は記憶力が悪い。だから、「記憶術」を活用する。あるいは人間は計算能力が低い。だから紙とペンを使って計算する。「記憶力を上げる」「計算能力を上げる」という根本的な解決をしてないからクルージというわけだ。

認知システムの外部足場(p96-97)

こうやって紙やらペンやらを使うのは、単に記憶装置として使っているだけではない。これらを使って合理的思考をしているのだ。ここで、紙やペンは人間の認知システムにとっての外部足場として機能している。

こういう外部足場もまたクルージなのだ。

人間のCPUはスケジューラで管理されてない(p98-)

理性は直列処理システムだ。だから、マルチタスクに向いてない。

コンピュータだったらCPUがスケジューラで管理されてるから、タスクの優先順位に応じてCPU時間を調整することができる。だけど人間にはそんなスケジューラはついてない。だから、どうでもいいものに注意がそらされてしまったりする。試験勉強を死ぬ気でやらないと明日死ぬのに、選挙カーがうるさくて全然集中できないとか。

それで、家ではなく図書館で作業するとか、眠たかったらちょっと仮眠をとるとか、小腹が空いてたら食うとか、スマホにアプリを入れてエロサイトに接続できないようにするとかして、気をそらすものをなるべく身近から遠ざける。そういう工夫もまたクルージだ。

啓蒙思想1.0は失敗した。保守主義の方がマシ(p107)

理性はこんな風にいろんなクルージに頼らないと機能しないポンコツだ。それなのに、啓蒙思想1.0の人たちは理性を過信して、外部足場の多くをうっかり外すことになってしまった。

理性の力を過大評価すると、社会の進化プロセスの力を過小評価することにもなる。たとえば伝統的な農法は、よそから来た人には非合理に見えるかもしれない。でも、だからといって「ボクの考えた合理的な農法」を押しつけたらだいたい失敗する。伝統の力を甘く見ちゃいけない。今はうまくその伝統農法の良い理由を説明できなくても、じっくり検討していけばちゃんと理由があるかもしれないのだ。

だから、保守主義にも良いところはある。だけど、かといって「伝統に帰れ」なんてことを私は言いたいわけじゃない。保守主義については、次の章でもうちょいときちんと検討してみよう。

コメント

前の章と同じような話が続いているような印象でもある。ただ、「外部足場」というのは新しい話題。本書は確か後半の方でナッジみたいな合理性をサポートするものがあれこれ提案される。ただ序盤の段階でもそういう「合理性をサポートするもの」については取り上げられていて、前章だったら言語、本章は外部足場が出てくる(言語も外部足場だけど)。

保守主義は意外と良いよ、というのも新しい話題だけど、これは本章の話題というより、次章の話題だろう。