【アニメ感想】エヴァンゲリオン『Q』『シン』

ぐちぐち文句をいいつつも、結局ぜんぶ見てしまった。

で、残り2作についてもたくさん文句があるのだけど、ただの愚痴にならないように、それなりに分析的に見ていければなあ、と思う。

キャラの心情変化の理屈がよくわからない

これは4部作全部を通して言えることだ。思い出せるものをいくつか挙げていこう。

たとえば『序』で、シンジはリリスを見ることでエヴァに乗ることを決意する。そして『シン』では、第3村でしばらく泣いているうちに復活して、最終的にはゲンドウと渡り合えるくらいの男前になってしまう。急激な心情変化で、見ている側としてはちょっとついていけない。

また、『Q』と『シン』でアスカがシンジに対し怒っているのは、3号機が使徒に乗っ取られたときにアスカごと3号機をぶったたく覚悟がシンジになかったからだ、みたいな理由が明かされるけど、それもよくわからない。それで怒ること自体はわかるけど、十数年も引きずるようなものではないと思う。だって、あれは根本的には「事故」なのだから。責任は、使徒の侵入を許してしまったネルフのスタッフ(?)たちにもあるだろう。シンジに対し十数年も怒りを抱き続けるというのは常軌を逸していると思う(アスカは身体的にだけでなく、精神的にも時間が止まっている。本人は「自分は大人になった」と盛んに言うけれど、見ている側としてはヒステリーな子どもにしか見えない)。

あと、シンジがニアサードインパクトを引き起こしたからというので、ヴィレの女性から憎まれているけど、あれもおかしい。だって、『破』でシンジがレイを助けに行ったとき、ミサトはそれを止めるでもなく「行きなさい!」ってばっちり叫んでるんだから。あの女性はシンジよりも、その監督者であったミサトを憎むべきだ。

という風に、いろいろへんなことになってる。

呪いを解くためのムリヤリな展開

エヴァの呪いを解く、というのが作品の目的なんだと思う。シンジやアスカがずっと14歳のままで年を取れないから、呪いを解いてちゃんと歳を取らせてやろう、ということだろう。だけど、ムリヤリ呪いを解いたことにした、という感じが強い。

たとえばマイナス宇宙でとつぜんゲンドウが改心してしまうこと、そしてシンジがレイやアスカやカヲルと円満にお別れすること。これらはすべて唐突で説明不足だ。とつぜん改心したり、とつぜんお別れ会モードになってしまったりする。そして最後にシンジがマリと結ばれる、というのも意味がわからない。アスカやレイと結ばれたらそれはエヴァの呪いから逃れたことにならないので、シンジとのあいだにあまりしがらみのないマリをむりやり持ってきてくっつかせた、ということではないだろうか。そして、大人になったふたりが駆け出すと、CGで作られた町のロングショットになって、やがてCGなんだか実写なんだかわからない風景になる。それで、アニメとしてのエヴァが終わり、現実世界に戻っていく……という表現上の意図は推測できるけど、やっぱりムリヤリだ。

こういうムリヤリな展開になんとか説得力をつけようとしてつくられたもののひとつに『シン』の第3村がある。第3村は完全に「作り物」の村だ。のどかな前近代的農村と人情に厚い高度経済成長前の都市という、ノスタルジーのかたまりみたいなものをドッキングした世界になっている。住民はみな型どおりで個性がない。食事をしないシンジを叱るガンコおじさん、和気藹々と田植えをするおばさんたち、『トトロ』の世界に出てきそうな素朴な子どもたち。人工的なノスタルジー空間でシンジは癒やされ、アヤナミそっくりさんは人間らしい感情を持つようになる。だけど、逆に住民たちはまるでロボットみたいに心のひだがない。和気藹々と農作業するおばさんたちの中でレイが大事にされる、なんてことは現実にはありえないんじゃないだろうか? 田舎なんだから、「今どきの若い人って何考えてるかわかんないわ」「愛想笑いのひとつもできないのかねえ」くらいの陰口は絶対言われると思うけど。ヴィレのクルーたちに比べると、陰影というものが一切欠如しているのが第3村の住民たちだ。それは、この村自体が、「シンジにまたエヴァに乗らせる」というストーリー上の都合のためだけに存在しているからだろう。ストーリー上の都合で村ひとつをでっちあげてしまったのだ。

この物語は結局何を描こうとしてるんだろう?

作品の出来という点で見たらこの4部作はダメダメだと思う。映像は豪華だけど、物語には何の必然性もないし、説得力もない。物語としての決着をつけるというのが狙いだとしたら、完全な失敗作だと思う。

だけど、気になって結局4部作ぜんぶ見てしまったし、見終わったあともエヴァのことをあれこれ考えている。わたしはエヴァはテレビシリーズも旧劇場版も見ていない。今回初めて見たのだけど、なんでかわからんけど魅力的な作品だし、中毒性がある気がする。

そもそも、この物語はいったい何を描こうとしているのだろう?

この作品はニヒリズムについて描いているのだ、という解釈もできると思う。ゲンドウとシンジの父子はどちらもニヒリズムにやられている。ゲンドウはニヒリズム故に人類補完計画を進めようとするし、シンジはニヒリズム故に無気力で人との間に距離を置いてしまう。そしてシンジのニヒリズムというのは実質的にはゲンドウのニヒリズムとあんまり変わりなくて、レイを助けようとしてニアサードインパクトを起こしてしまったりする。無意識的とはいえ、それは、ユイに会いたくて人類補完計画を進めるゲンドウと同じ種類の行動だ。自分がニアサードインパクトを引き起こしたことを知ってシンジくんがうじうじ悩んでしまうのは、自分がけっきょくは父と大して変わらない人間だと自覚してしまったから、というのもあると思う。

アスカとレイもニヒリズムに近い存在だ。アスカはエヴァが唯一の居場所だし、レイはネルフの外では生きられない。唯一の居場所があって、それが無くなると虚無しか残らない、という点ではニヒリズム一歩手前の存在たちだといえる。

エヴァは「セカイ系」と呼ばれていて、キャラクターの内面の問題がそのまま世界存亡の問題に直接リンクしてしまう。それは、この物語がニヒリズムを扱っているからではないだろうか。自分の内面に不満があれば、それがダイレクトに「世界なんか終わってしまえ」という欲望に変換されてしまう。それは普通に考えればおかしな思考なのだけど、ニヒリズムにやられている人というのはそういう思考をする。「セカイ系」とは、そのニヒリズムの発想に実体を与え、「世界なんか終わってしまえ」と思ったら本当に世界が終わってしまうようにした、というものなのだろう。だからセカイ系の正体は、ニヒリズムなのだ。

そしてニヒリズムというのは、決してフィクション世界だけの問題ではなく、現実世界でも問題になりうるものだ。不可解な理由で何の罪もない人を殺してしまう事件は現実に発生している。本人にとって何の得にもならないのに、計画を粛々と準備して、ビルにガソリンをまいて火を放ったり、街頭演説をしている人を射殺したりする。犯行動機には怒りや恨みがあるにしても、突発的に行うのではなく、周到に準備しているのが不気味だ。それは、人類補完計画という無意味で暴力的な計画を粛々と進めるゲンドウの不気味さと似ている。

エヴァの提起している「ニヒリズム」というテーマ自体は現在でも重要なものだ。ニヒリズムは社会の不安定さの原因でもあり、結果でもある。だから、今回の4部作が失敗作だとしてもこのテーマ自体は無視できない。しかし、そのテーマに対して作品が納得のいく解答を出しているとはとても思えない。ニヒリズムにやられて大人になれないシンジたちをムリヤリ大人にすることで物語を終わらせてしまった、という印象が強い。

どういう展開だったらよかったのだろう?

若い頃のゲンドウがニヒリズムから脱することができたのはユイと出会ったからだ。でも普通に考えればそれは現実的な脱出法ではない。暗いゲンドウ青年に明るくて美人のユイさんがどうして惚れるのか。普通に考えれば、ユイさんに片思いを抱くものの、別の男に取られてしまう、という展開の方が現実的だろう。で、現実世界の多くのニヒリズム青年たちも、そんなものなんじゃないだろうか。ニヒリズムに落ち込んでいるときに手を差し伸べてくれる都合の良い人なんてそうそういない。なぜなら、ニヒリズムに落ち込んでいる人は多くの場合、暗くて気持ち悪くて自己中心的で魅力に欠けるからだ。

ニヒリズムにはまり込んでいる人にとって、実は『エヴァ』という作品の存在自体が、誰かが差し伸べてくれた手なんじゃないだろうか。解決策を何一つ見せてくれなくても、「こんな世界無くなってしまえばいい」とうじうじしているのが自分だけではないと知ることはちょっとした慰めになる。それで前に進むことはできないとしても。

そういう人にとって、最後にマリと一緒に手をつないでシンジが走り出すシーンはどういう風に見えるんだろう? 「置いていかれた」という風に感じるんじゃないだろうか。少なくとも、素直に感動することはできないと思う。

本当にニヒリズムを脱するには、他者との出会いが必要だ。ひとりではシンジくんみたいに延々とうじうじしたり、ゲンドウみたいに世界を破滅させようとしたりすることにしかならない。アニメは慰めにはなっても、解決にはならない。だから、この4部作は『エヴァ』という作品を強制終了させることで、エヴァに慰められている人たちに「もうアニメはやめて現実と向き合ってください」というメッセージを送っているのだともいえる。

でも、解決のお手本くらいは示せなかったのかなあ、という不満はある。ゲンドウ青年がどうやって自分のうじうじを乗り越えてユイさんと結ばれたのか、というのを丁寧に描くとかでも良かったのでは? 

ぜんぜん違う作品だけど、『3月のライオン』の主人公の零くんも初期の頃は相当なニヒリズムにはまっていた。それを、三姉妹とか「心友」の二階堂とかの助けもあって乗り越えていくのだけど、それだけじゃなくて、零くんの独自の頑張りもきちんと描かれている。『エヴァ』ではゲンドウ青年とユイが結ばれるプロセスはカットされているけど、『3月のライオン』では零くんとひなちゃんが結ばれるプロセスをこれ以上ないくらい事細かに描いている。ひなちゃんが天使だから零くんを一方的に好きになってくれるというのではなく、零くんの方から先にひなちゃんを好きになって、さんざん恥をかきながらも自分から手を伸ばすという展開だ。本当は『エヴァ』も、こういうことを描くべきだったんじゃないだろうか。

作品を強制終了することで「大人になれ!」とお説教のようなメッセージを送るよりも、どうやって人は大人になっていくのかをきちんと描くことの方が、受け手がニヒリズムを乗り越えていく上でずっと役に立つ。今の漫画やアニメはそうした描写をずっと丁寧に描いていると思う。それに比べると、今回の4部作はあまりにいろんなものを投げ出しすぎだ。今の時代の受け手に向けてつくられた作品になっていないと思う。90年代にエヴァとともに少年期を過ごした今の中年たちに向けてつくられた、壮大な内輪ネタなのではないだろうか。