【読書ノート】『倫理的市場の経済社会学』序章

前置き

基本的に、わたしは経済の話が好きではない。お金の話をする人が苦手だ。前にがんばって日経を読んでいたことがあるけれど、露骨なお金儲けの話ばかりなのにうんざりして購読をやめてしまった。

その反動で、むしろ倫理の方に関心を持っているのだけど、でも、倫理のことばかり考えていてもしょうがないとも思う。経済が発展していて、経済全体のパイそのものが大きくなっている時代であれば、「弱者に配慮を!」みたいなことを叫んでいるだけで良かったのかもしれない。でも、どう考えても今はそんな時代じゃない。下記の本によると、アイデンティティ・ポリティクスみたいな高学歴者に受けそうなリベラル政策に左派政党が夢中になったがために、経済格差に苦しむ人々からそっぽを向かれて、結果的にポピュリスト政権が世界中に暗躍するようになってしまった、ということらしい。

つまり、経済を無視して倫理に夢中になりすぎると、かえって非倫理的な社会が実現してしまうわけだ1。キャンセルカルチャーなんかも同じような話だと思う。自分たちの信じる正義を振りかざして「悪」をキャンセルしようとするのは、当人たちにとっては倫理的な振る舞いなのかも知れないけれど、端から見たらただのイジメにしかみえない醜悪な光景だ2

だから、どうも倫理のことだけを考えるのはまずいみたいなので、やっぱり経済のこともきちんと考えないとならない。それで、アマルティア・センとか、ボウルズとか、ヒースとか、ヘルマン=ピラートとか、経済と倫理のあいだを行くような論者の議論に惹かれてきた。今回の本も、その一環で読み始めた。いちおうフェアトレードがテーマなのだけど、フェアトレードそのものに関する本というよりも、フェアトレードを題材として経済と倫理の関係を考えていく、というような主旨の本だと思う。理論編と結論のところだけ読んだけれど、ハイエクとか、あんまりわたしになじみのない話が出てくるので、いまいちピンとこない。整理してみたいと思う。

序章 問題の所在

倫理的市場と社会的経済

本書の重要なキーワードとして、「倫理的市場」と「社会的経済」が挙げられる。これらは二項対立的に用いられてる用語で、「社会的経済から倫理的市場へ」(p7)という表現も見られる。

社会的経済とは、「主に協同組合の組織化によって市場における自由な経済活動を制御することで、自然環境や社会環境に配慮された生産・取引・消費が実現するという理論的モデル」(p3)のことだ。ここで「協同組合」というのが出てくるけれど、そこはあんまりこだわらなくていいと思う。協同組合を使うかどうかは別にして、ともかく社会において人々が「規範的価値」(p1)を共有することで、市場における自由な経済活動を制御する、というのが社会的経済というモデルであるようだ。

一方、筆者がプッシュする倫理的市場とは、「倫理的配慮それ自体が市場に内部化されることによって、自然環境や社会環境に配慮された生産・取引・消費が自由な経済活動の一環となるということ」(p3)だ。

環境経済学を多少かじっている立場からすると、こういう二項対立のさせ方はいまいちピンと来ない。倫理的市場というのは、たとえば炭素税をかけて外部不経済を内部化した市場と何が違うのだろう? また、炭素税を導入する際に、人々の間で議論を交わしてSDGs的な「規範的価値」を共有することが必要になるだろうけど、その場合、これは倫理的市場であるだけでなく、社会的経済でもあるということになる。なぜこれらを概念的に分離させてしまうのか、というのが読んでいるあいだずっと腑に落ちなかった。

あと、引用されるのが社会学の文献ばっかりで、環境経済学とか文化経済学みたいな、倫理的市場に近いテーマを扱っている経済学の議論を全く検討していないのも気になった。ハイエクはいちおう経済学者だけど、マクロ経済学ミクロ経済学の教科書では基本的に無視されていると思うし、経済学の世界では異端なんじゃないだろうか。異端の議論を援用すること自体は問題ないんだけど、もうちょいとハイエク以外の経済学の議論も踏まえた方がいいのではないだろうか。

あたかも秩序に妥当しているかのような行為

本書を読み進めていくと、「あたかも秩序に妥当しているかのような行為」という表現があちこちに出てくる。これが「自生的秩序」を形成するものであるようだ。

なぜ「秩序に従う行為」みたいなわかりやすい言い方じゃなくて、「あたかも秩序に妥当しているかのような行為」というまだるっこしい言い方をするのか。それは、行為が秩序に合致するというのは、観察者がそのように解釈しているだけであって、行為する人の内面の問題ではないからだ、ということらしい。

個人の内面が「規範に合致する」ことは、秩序形成の前提条件ではなく、状況に対して観察者が事後的に構成した説明図式にすぎない。複数の行為者の合意についてもそれは同様であり、相互の解釈の「一致」や内面的見通しの「透明性」によってそれが可能となっているわけではない。規範的行為、および複数の行為者間の合意の可能性の条件は、ウェーバーの言葉でいえば「諒解」である。諒解とは、他の人びとの行動について予想を立てそれに準拠して行為すれば、その予想の通りになっていく可能性が、次の理由によって経験的に「妥当」しているという事態である。その理由とは、他の人びとがその予想を、協定が存在しないにもかかわらず、自分の行動にとって意味上「妥当なもの」として実際に扱うであろう、という蓋然性が客観的に存在しているということである。 p11

難しい表現が続いてなんだかよくわからない。なんで「了解」をわざわざ「諒解」と書かなければならないのか。昔の人がウェーバーの用語を「諒解」と訳したからって、そういう漢字をほとんど使わなくなった今の人までがそれに従う必要はないと思うんだけど。不必要に文章をいかめしくするべきではないと思う。

ここは、ゲーム理論の「均衡」みたいな話をしているのかな? たとえば、エスカレーターで左に立つか右に立つかというのも一種の秩序とみなせると思う(少なくとも観察者の視点からは)。たとえばみんなが左に立っているから、わたしも左に立つ。そのとき、他の人たちの解釈や内面がどんな風になっているかはわたしには全くわからない。なんとなく左に立っている人もいれば、「左に立たなきゃ!」と強迫観念にさいなまれている人もいるだろうし、「へえ、この地域では左なんだ」と面白がっている人もいるだろうし、「本当は並んで立たなきゃならないのに、なんでわたしはみんなに流されてしまうんだろう」と自己嫌悪に陥っている人もいるかもしれない。だけど、わたしも左に立てば後ろの人たちも左に立つだろうな、と予測できるし、実際にそういう風になる。別に他の人たちと「左に立ちましょう」と協定を結んだわけではない。だけど、わたしが左に立つことを、他の人たちは意味上「妥当なもの」として扱ってくれるだろう。なぜなら、右に立つことは均衡から外れることであり、わたしの利得を減らしてしまうことになるからだ(周りから舌打ちされる、下から歩いてきた人にぶつかられて嫌な思いをする等)。

むりやりゲーム理論で解釈してみたけど、それなりにきれいに解釈できてるんじゃないかな?3 

で、こういう解釈が妥当なのだとすると、本書で繰り返し出てくる「自生的秩序」というのはゲームの均衡のことなんじゃないかと思うのだけど、ちがうのだろうか? 結構似てる発想だと思うので、注で良いからちょっと検討してほしかった。

公正な取引とは何か?

この本はフェアトレードをテーマにしているわけだから、そもそも公正な取引とは何か、というのが重要な問題になってくる。

取引が不公正だといわれる多くの場合、問題とされているのは次のような状況である。すなわち、一方の取引従事者は自らの目的を十全に達成できるが、他方の取引従事者は目的を十全に達成できないにもかかわらず他の選択肢が存在しないため、しぶしぶそれに合意しなければならないとう状況である。(…)このように、自由が不公正に分配されることによって一方の選択の機会が排除された状況は「独占」とよばれる。(…)フェアトレードが不公正な取引として批判してきたのは、まさにこの「独占」であった。 p18

つまり、どう考えても相手はぼったくりしてるのだけど、他に同じ商品を売ってくれる人もいないから、しぶしぶその相手から商品を買わなくてはならない、みたいな状況を「不公正な取引」と言っているみたい。

だから、不公正な取引を無くす手段のひとつとして、「競争状態の創出」(p20)が大事だということになる。つまり、独占を無くすということだ。だけど、「社会的環境状態」(p20)が劣悪なために、「競争によって形成された市場価格にさえ対応できないコーヒー農家も数多く存在する」(p20)。だから、公正な取引を成立させるためには、競争状態を創出するだけでなく、ルールをつくることが必要になる。たとえば、コーヒーの最低価格を決めるとかだ。

さて、不公正な取引を無くすために競争状態の創出が必要だというのは多くの経済学者にも納得できることだと思う。ミクロ経済学の教科書では、「不公正」という表現は使われないと思うけど、社会的余剰を減らしてしまうという点で独占は批判的に扱われている。

だけど、コーヒーの最低価格を決めるとかの話になってくると、納得できない人も出てくるんじゃないだろうか。社会的環境状態が劣悪でコーヒー農家を継続できないのなら、他の職業に転職するという方法もある。たとえば都市に出て企業で雇用されるとかだ。あるいは、価格には介入せずに社会的環境状態の劣悪さに対する補償をするというやり方もある(日本でいうなら中山間地農業に補助金を出すとか)。農業経済学の教科書だと、農業を保護するのに市場介入するようなやり方は望ましくない、ということが強調されているのだけど、どうもここでの議論は、市場介入するような形のルールを想定しているみたいだ(出てくる例がコーヒーの最低価格の話だけなので)。

ただ、この後で次のような懸念も触れられているから、単純な市場介入の話ともちょっと違うのかも知れない。

この種の最低価格のようなルールが、競争によって形成された価格を無視してつくられたとすると、それは秩序の破壊につながり、ひいては思わぬ混乱を引き起こすことになる、という問題である。たとえば、市場価格が(1ポンドあたり)100セント前後のときに、いきなり500セントという最低価格が義務づけられたとしたら、実際どうなるかを考えればそれは明白であろう。コーヒー価格は高騰し、買い手の手に届かないものとなるだろう。場合によっては、売り手(買い手? 引用者注)は取引から撤退して紅茶の買い付けに移るかもしれない。そうなると、コーヒー農家は取引の可能性を失うことになる。コーヒー農家に対する善意に基づいて形成されたはずのルールが、コーヒー農家を殺すことにもなりかねないのである。 p21

それで、政府が勝手にルールをつくるのではなく、「人々の主観的な意味構成の過程をルール形成のなかに組み込む」(p22)ことが必要だと主張される。つまり、自生的秩序としてルールを考えよう、ということなんじゃないだろうか。

ただ、いずれにしても価格介入するようなルールを想定しているみたいなのが気になる。

「秩序」に対する理解の仕方が普通の経済学とぜんぜん違っているのかな? 普通の経済学の教科書において「秩序」に相当するのは「パレート最適が達成されていること」だと思う。だから、価格介入なんてやってしまったら市場の機能がゆがめられてしまいパレート最適が達成できなくなるので、やるべきでないという風に考えられる。だけど、ここでは市場において自生的に生まれたルールが「秩序」なのだという風に理解されているみたいだ。で、そういう自生的「秩序」が、市場が達成する「パレート最適」という「秩序」を乱すことも考えられるけど4、そういうことは本書では問題視しない、ということなんじゃないだろうか。

感想

改めて序章を読み返してまとめてみたけれど、やっぱりよくわからない。このわかりにくさの原因は、議論が社会学の中に閉じられてしまっていて、経済学やゲーム理論の知見があまり検討されていないことにあるのではないかと思う。ゲーム理論を使って説明した方がわかりやすくなりそうなところもあるし、農業経済学の自由貿易に関する議論と相反していそうなところもあるし、わざわざ「倫理的市場」という言い方をしなくても環境経済学の内部化の話をすればいいんじゃないかと思ったりもする。それで、「なんでこんなわかりにくい説明をするんだろう」とか「経済学の専門家から見たらここの記述って受け入れがたいんじゃないだろうか」とか違和感を持ちながら読み進めることになってしまった。

今のところ、どこらへんが重要な論点なのかつかめてないのだけど、もうちょい頑張ってまとめてみよう。


  1. 倫理にばかり夢中になるということは、逆に言えば経済みたいな話に対しては耳を閉ざしてしまうということでもある。それはある意味では非寛容ということでもあって、その非寛容さが非倫理的なのだと思う。本当に倫理的な人は、お金のことばかり話したがる人にもちゃんと耳を傾けるはずだ。その点で、日経を読むのをやめてしまったわたしはあまり倫理的ではない(倫理的になろうと努力はしているつもりだけど)。

  2. 『21世紀の道徳』という本は、部分的には賛成できないところもあったけど、倫理に夢中になりすぎる人たちの問題点をきちんと洗い出して批判しているという点では今の時代に必要な本だと思う。「倫理がへんなことになってるから、倫理は捨てて経済だけで行こう」みたいな安直なやり方はとらず、あくまで倫理の立場から現状を変えていこうとする議論は、日本にはまだまだ少ない。

  3. ハイエクの自生的秩序論を進化ゲーム論とか青木昌彦の比較制度分析と関連づけている論文があった。こういう風に議論してもらった方がわかりやすいんだけど…。上田雅弘「多様な制度と秩序生成に関する仮想実験」https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=27800&item_no=1&attribute_id=28&file_no=1

  4. 自生的な価格介入というのは、ようするにカルテルということではないだろうかとも思うけど…。あるいは、企業間で価格を決めてるわけではないからカルテルとはちがうのかな? よくわからん。わたし自身も経済学ちゃんと復習しないとなあ。