【雑文】脳無しな私は生きるのに大切なことの8割くらいを死にゲーから学んだ

私はお世辞にも能力が高いとは言えない。とくにコミュニケーション能力にかなり難があって、他の人が何の話をしているのかぜんぜんついていけないことが結構多い。共同作業の中で自分の役割をよく理解しないまま行動して致命的な失敗をやらかし周りに迷惑をかけることもたまにある。世間的には脳無しの部類に入ると思う。

いっぺんにたくさんの情報が流れ込んでくるとあっというまにオーバーフローしてしまうのだ。だから飲み会なんかだと周りがなんの話してるのかさっぱりわからないし、周りの人たちが笑っててもなんで笑ってるのか理解できない。海外出張なんか行ったときは周囲の情報量が多いので常にキャパオーバー状態で、観光客向けの見え透いた詐欺にまんまと騙されたり、開けてはいけない非常ドアを開けて警報ベルを鳴らしてしまったりと散々な目に遭ってきた。ヤバい。何がって、私の脳がだ。

ただ、そうやって脳のヤバい私でも、扱うべき情報量を最低限に抑えればそれなりにうまく立ち回ることができる。たとえば研究だと、論文を書くのに必要な参考文献の量はある程度限定できるし、フィールド調査ではなくアンケート調査をメインでやれば扱うべきデータ量が増殖するのを抑えることができる(フィールド調査だとどれだけ調べても「あのデータが足りないから追加調査せよ、さもなくばリジェクト」と査読者に脅されることがある)。脳無しには脳無しなりの立ち回り方がある。ようするに、戦線拡大をせずにひたすら狭い世界で戦うべし、ということだ。

ぜんぜんちがうようで実は関連する話なのだけど、私はゲームが得意ではない。ルールを覚えるのが苦手だし、対戦ゲームみたいのだと相手の戦略を読むことができず大体ごり押しでなんとかしようとして自滅する。しかし、俗にいわれる「死にゲー」と呼ばれるタイプのゲームは割と得意だ。死にゲーだからもちろん何度も死ぬ。しかし、死ねば死ぬほど、なぜあそこでダメージを受けるのか、なぜあそこでジャンプが届かないのか、という失敗の原因を反復学習することができる。死にゲーは他のゲームに比べて反復学習の機会がやたらと多いのだ。だから私のような無脳者でも何千回と死を繰り返すことで超魔界村やホロウナイトをクリアできる。

生きるのに大切なことの8割くらいは死にゲーから学んだ気がする。

日常生活で死ぬことはあまりない。死んだら死んじゃうしね。しかし死にゲーの世界ではいくらでも残酷な死を迎えることができる。天井に生えたトゲトゲに後頭部をぶつけて死ぬこともできるし、ババ色のよくわからない生き物に足が引っかかって死ぬこともできる。魔法を出そうとしたら地図を出して死ぬこともできるし、なんとなく壺を割ったら口の大きい化け物が出てきて頭をガッポリやられて死ぬこともできる。そしてそれらの死はすべて自分の責任なのだ。ダメなプレイをしたからあなたは死ぬ。「理不尽だッ!」と叫んでもいいけど、冷静になればやっぱり自分の方が悪いとわかる。この冷酷な現実がプレイヤーを謙虚にしてくれる。私は脳無しだ。しかし、あと15回くらい死んだらうまく行く気がする。死ぬことができるから人は成長することができる。

現実世界で出会う困難も、うまいこと「死にゲー化」すれば対処できると思う。しかしやっかいなことに、現実世界で死ぬといろいろまずいことがある。何がまずいかというと、たとえば1度死ぬと2度死ぬことは難しい。だから現実を「死にゲー化」するにはまず現実を「ゲーム化」することの方が先だということになる。ゲームなら死に放題だからだ。

たとえば、「テスト」というのは一種のゲームだと言えると思う。英語のテストは「英語を使ってなんやかんやする」という現実をゲーム化しているわけだ。合格点数が80点だとしたら、80点を切るのが「死」だということになる。現実世界で「これからあなたの国に核弾頭をぶち込むけど交渉の余地もありますよ」みたいなことを英語で伝えるような状況だと、失敗したら本当にたくさんの人が死ぬ。しかし英語のテストなら何回だって死ぬことができる。ということは、英語のテストは死にゲーの一種なのだということになる。

一方で、死にゲー化しやすいものと、しにくいものがある。たとえば自動車教習所で学ぶことの多くは死にゲー化しにくい。車とコースを与えられて「じゃあ、これから好きなだけ運転してくださいね。どれだけ車をベコベコにしても構いませんよ」と言ってもらえたら1日でどんなコースでもノーミスでクリアできるようになると思う。しかし車の数にも講師の数にも限りがある。コースだって他の人が使っていたら使えない。そして車をベコベコにしたらたぶんブン殴られて自分の頭もベコベコになる。死にゲー的ではあるけれど、死ねる回数が圧倒的に少ないのだ。本当の死にゲーならコースアウトしたら何度もやり直せばいいけれど、教習所だと講師にため息つかれて「ま、もう少しがんばってね」とか言われるだけで、次のチャンスは明日まで回ってこない。

脳無しの人は、死にゲー化しやすい領域だけで生きるようにすればいいと思う。研究職は割と死にゲー化しやすい。査読を突破して論文アクセプトを目指すのは一種の死にゲーで、慣れればそれなりにクリア率(というかアクセプト率)は上がる。他にも、職人的な職業は割と死にゲー的なんじゃないだろうか。プログラマーとか翻訳者とか。プログラムは間違ってたら動かないし(→死)、翻訳も間違ってたら翻訳会社のトライアルで落ちる(→死)。漫画家とかイラストレーターとかは微妙だけど、今ならSNSにアップして割と手軽に人々の反応をチェックできる(いいねが少ない→死)。

あと逆に、職人的な仕事だけどあんまり死にゲー化してないものもある気がする。たとえば純文学系の小説は、読者が圧倒的に少ないので死のチャンスが少ない。漫画とかイラストとかとちがってSNSでさらしていいねを待つ、というやり方もしにくい。だからあえて純文学を「なろう系」サイトに投稿してみるというのもアリだと思う。たぶん、プロの作家でもほとんどいいねがつかないだろう(→死)。でも、そういうところでもまれてみるとこれまでに無かったような作品が生まれるんじゃないかとも思う。文学賞とかでも落選することで死を体験できるけれど、ネットに載せた方がたくさん死を体験できる。

死にゲー化のポイントは、死の機会をなるべく多くすることなのだ。もうちょいと正確にいうと、「リスクの小さい死」の機会をなるべく多くすること。死んで、本当に死んでしまったら再チャレンジはできない。生物的な死でなくても、精神的な死や社会的な死というのもある。その手の死は人を再チャレンジ不可能な状況に追い込んでしまう。再チャレンジ可能な「リスクの小さい死」の機会がたくさんあれば、脳無しでも腕前をメキメキ挙げることができる。で、ごくごく限られた領域であれば天才のように振る舞うこともできる(もちろん、ちょっとでも戦線拡大すればポンコツだとすぐバレるので狭い世界で戦うべしということになる)。

「もっと他者からのフィードバックを受けなさい」というのとはちょっとニュアンスがちがう。というのは、他者からのフィードバックがその人にとって致命的なものになることもあるから。たとえば炎上して小説が書けなくなる人もいるだろうし、場合によっては社会的に抹殺されてしまうことだってある。ポイントは、なるべくリスクの小さい安全な場所を確保しておいた上でたくさんフィードバックを受けること。たとえば、なろう系サイトに投稿するのなら匿名の方が良いと思う。匿名の私が死んでも、私の残機はたっぷり残っている。残機を無視してフィードバックを求めたら本当に死にかねない。いや、そういう厳しい状況を経験しないと人は成長しないものだよというタカ派の人たちもいると思うけど、残機は多い方がいいに決まってる。それは死にゲーから教わったことだ。