【読書ノート】『ルールに従う』第5章

第5章 選好の非認知主義

イントロ

経済学者たちは選好は所与であると考えがちだ。好きなものは好きなんだからしょうがない。非合理なものなのだよ、という風に。これは選好の非認知主義というやつだ。

だけど、「本当はこうした方がいいんだけど、こういう風にもしたいよなあ」みたいにあれこれ悩むのは普通のことだ。選好は合理的な熟慮とコントロールの範囲外にあるわけではないのだよ。

5.1 実践理性に関する懐疑主義

ヒューム主義の人たちは選好の非認知主義者でもある。彼らは、選好を裏づける欲求は、なにか別の欲求によってのみ正当化されるものだと考えた。これは欲求イン・欲求アウトの原理と呼ばれるものだ。これによると、欲求にはたとえばこんな風に正当化の連鎖が成り立っている。

「今すぐ出かけたい」→「なぜならあのバスに乗りたいから」→「なぜなら会社に遅刻したくないから」→「なぜなら上司からの評価を下げたくないから」→「なぜならクビになりたくないから」→「なぜなら給料が欲しいから」→「なぜなら飢えるのが嫌だから」→「なぜなら死ぬのが嫌だから」→……

こんな風に、どこまで遡っても出てくるのは何らかの「欲求」だ。で、欲求については合理的に考えることができない。したがって、選好(欲求)に関する非認知主義が成り立つ。というのがヒューム主義者たちの見解だ。

5.2 欲求イン・欲求アウトの原理

でも、これは論証になってない。

ヒューム「主義者」たちの考え方はさまざまだけど、ヒューム自身の考え方はこういうものだ。つまり、こうやって欲求の連鎖を辿っていくと、最終的には「所与の欲求」で終わらなければならない。つまり、欲求はそうした「所与の欲求」によって基礎づけられると考えているわけだ。で、その「所与の欲求」として、ヒュームは「情念」というのを持ち出した。これは、快とか苦痛とか、ようするに身体的状態の直接的経験のことだ。で、身体的状態の直接的経験はその人にしかわからない主観的なものだから合理的な議論なんてしようがない、というわけだ。

しかし、「所与の欲求」が情念だろうがなんだろうが、こういう「欲求に対する基礎づけ主義」は全部問題含みだ。

5.3 基礎づけ主義の問題点

現代哲学において、選好や欲求の非認知主義というのは擁護しようのないダメな考え方だ。このことを見るために、まずは選好や欲求ではなく、「信念」について基礎づけ主義がうまくいかないことを見ていこう。

クワイン全体論というアイデアは、信念と経験が一対一対応しているという考えを否定するものだ。クワインによれば、信念は経験だけでなく、他の信念の集合全体とも適合しなければならない。

たとえば、物理学者は霧箱にできた軌跡を観測することで、霧箱の中を移動するミュー中間子を「見ている」と主張するだろう。物理学の素人には「ミュー中間子」なんて言われても何のことやらだ。「経験と信念は一対一に対応している」という素朴な考えの人には、これは理解不能な主張だろう。なぜなら、「ミュー中間子」に対応する経験は何も無いように思えるからだ。

だけど、物理学者は物理に関するさまざまな信念(理論とか仮説とか)を持っている。そうした信念集合との関連の中で、物理学者は霧箱にできた軌跡を通してミュー中間子を「見ている」のだ。物理学者は物理学者たちのコミュニティの中で行われている一種の言語ゲームに参加しているのだと言ってもいい。

何を「見る」ことができるのかは、その言語ゲームの中であなたがどんなポジションを占めているかによって決定される。あなたが持つ信念はそうしたポジションに規定されるものだ。つまり、信念に関しては「基礎づけ」なんてすることはできないのだ。

5.4 基礎づけなしの実践的推論

信念と同様に、欲求に対しても「基礎づけ」はできない。欲求も信念と同様に、推論的関係のネットワークに埋め込まれているのだ。

「間違った欲求」というのはありうる。たとえば吊り橋効果だ。好きでもない相手と一緒に吊り橋の上にいると、胸がドキドキする。すると人間の心理は「胸がドキドキしている」という経験から「この人のことが好きだ!」という推論をしてしまうかもしれない。欲求も信念と同様に推論されるものであって、情念によって基礎づけられるものではないのだ。

あるいは、私たちは喉が渇いてなくても「水を飲みたい」という欲求を持つことがある。たとえば「熱中症のときは頭痛がするものだ」という知識を持つ人は、頭痛がするときに「水を飲みたい」という欲求を持つだろう。これもまた、推論によって欲求を導き出しているわけだ。

5.5 規範に関する認知主義

以上のように、私たちは欲求は何かによって基礎づけられるものではなく、「所与の欲求」に盲目的に従っているわけではない。したがって、私たちは欲求について熟慮することもできる。これは、「目的」について熟慮できるということでもある。

ところで人は「手段」についても熟慮することができる。つまり「自分が得するために人を陥れてはならない」みたいな「手段に対する制約」のことだ。

ゲーム理論家たちは、そういう規範的にアウトな手段をそもそもプレイヤーの選択肢に含めない、というやり方で対処してきた。でも、じゃあなんでそういうのを選択肢に入れないのか、というのはきちんと考えられてきたわけじゃない。私たちが社会化を通して植え付けられた台本どおりに行為するだけのまぬけだから? そういうことじゃないだろう。私たちは、わざと規範から逸脱することで規範に反抗することもできるのだ。

私たちがただのまぬけでないとしたら、私たちはどうして規範に従うのだろう? それは、周りの人たちが規範に同調しているからだ。「じゃあ、やっぱりまぬけじゃん」と思うだろうか。別にまぬけなわけじゃない。規範に同調するのが私たちの社会的行為の「デフォルト・モード」なのだ。デフォルトではこうなっている。しかし、それに反抗することはできるし、「この規範、へんだよね」と他の人と議論することもできる。

ただし、規範に逆らうのはそれなりに骨の折れることだ。すべての行為は社会規範の巨大な背景のもとで行われている。クワイン全体論というアイデアを思い出してほしい。ある信念を覆すには、他の信念同士との複雑なネットワーク全体を覆すことが必要になるかもしれない。規範も同じことだ。「なんで人を殺すのはいけないことなんですか?」と世間知らずの人がうそぶくことは簡単だけど、「人を殺すのはいけない」という規範は他の規範とも複雑に絡み合っている。この規範を無効にすることは社会を成り立たせている規範のほぼすべてを無効にするのと同じだ。そんなことが可能だと考えるとしたら、あなたは世間知らずな坊やなのさ。

5.6 実践的合理性に関するブランダムの見解

ブランダムの考えによると、欲求というのは、個人が理由を与えたり求めたりするゲームで行える手番としての推論を明示的に述べるために導入された表出語彙だ。つまり、信念から行為への推論を明示的に述べるときに表出される語彙が欲求なのだ。

なんのこっちゃ? たとえば次のような推論を考えてみよう。

「傘をさすことだけが私を乾いたままにするだろう。したがって私は傘を開こう」

この推論では、「乾いたままでいたい」とか「雨に濡れたくない」といった欲求が前提として隠されている。しかし、「なんで?」と聞かれれば明示することができるだろう。つまり、欲求は信念(この場合「傘をさすことだけが私を乾いたままにするだろう」)から行動(この場合「私は傘を開こう」)への推論を明示的に述べるときの表出語意なのだ。

5.7 意図に関するノート

さて、最後にちょいと意図のことについても触れておこう。私が提案する意思決定モデルに必要なのは「信念」「欲求」「原理」の3つの要素だ。これに対し、「意図を入れないのはなぜ?」と疑問に思う人もいるかもしれない。しかし私は、「意図」は入れなくていいと考えている。

それは別に「意図なんてものは存在しない」ということではない。そうではなくて、「意図」に対応するような独自の心理学的状態は存在しないということだ。「意図」とは、主張に対するコミットメントを弱めたものだ。たとえば、「私はそのお店に行くつもりです」と自身の意図を述べることには、「行くつもりではあるけれど、状況次第では行かないかもしれない」ということが含意されている。意図とは、「信念」「欲求」「原理」のような志向的状態の一種なのではなくて、自身の義務的地位を述べるために導入された「話法」なのである。

感想

コツコツ読書ノートを取ってはいるけれど、もはや初めて読む人に伝わるまとめ方にするのは無理だと諦めている。議論自体も複雑だし、そもそもこういう議論がなぜ重要なのか理解することも難しい。私自身、なんでこういう議論を追いかけてるんだっけ、と時々よくわからなくなる。

この本は、経済学やゲーム理論の基礎にある「帰結主義」と「選好の非認知主義」という発想を批判し、新しい意思決定モデルを提案しようというものだ。これ自体はものすごくスケールの大きな仕事なのだけれど、別にこの本を読んだからといって現実の社会問題に対する何らかのインプリケーションが得られるというわけではない。そういう点ではとても地味でマニアックな本だとも言える。

音楽の世界だと「ミュージシャンズミュージシャン」といって、一般の人々にはあまり聞かれないけれど、プロのミュージシャンには支持されているようなミュージシャンたちがいる(ザ・バンドとか)。この本もそういうタイプの存在なのかもしれない。この本に出てくるアイデアをベースにして社会にインパクトを与える研究を生み出すことはできるかもしれない。でも、この本単体では社会に対してとくに役に立つ提案ができるわけではない。そういう意味で、この本においてヒースは「研究者ズ研究者」になっているように思う。それはそれでとても大事なんだけどね。

次章ではこれまでの議論を進化論のレベルでさらに裏づけていく作業に入る。気力がつづく限りつづけます。