【雑文】1年経ってみて反省

ブログを始めてから1年経ったので、ちょいと反省してみよう。人は生きていくうちにたくさん道を踏み外すものだし、私もいろいろ踏み外してる気がする。なのでときどき踏み外し具合をチェックしてみるといいと思う。檻の中のハムスターのようにせっせとPDCAサイクルを回すのだ。

そもそもの目的

このブログはお勉強ノートです。それが当初の目的であり、それは今も変わらない。疲れたら愚痴を書く。しかしそれはあくまで脱線であり、本筋はお勉強だ。

「お勉強ならおうちでやりなよボーイ、公共のサーバー使ってやることじゃないぜ」と言いたくなる。でも、独学ってモチベーションを保つのがすごく難しいのですよ。たとえば、今は洋書をチマチマ読んで、整理ノートをちびちびアップしているけれど、こういうのをおうちで一人でやるのははっきり言って面倒くさい。もうこんなのやめて、適当に読んで、きちんと読んだふりになってしまいたい。でも、まあ、読んでくれてる人もわずかながらいる気がするし(幻想かもしれないけど)、つらいけど続けてみよう。公共のサーバー使うことでモチベーションが維持できるのだ。

図書館で勉強するようなものです。周りに勉強している人たちがいるので、自分もきちんとしなきゃという気持ちになれる。「それなら図書館でお勉強しなよボーイ」と言いたくなる。しかし、図書館って案外うるさいものなのですよ。静寂であるだけに、人々の新聞をめくる音、貧乏ゆすり、時々炸裂するくしゃみ、ノートにシャーペン走らせる音(というか打ち付ける音?)が耳障りでストレスがたまり副交感神経がヤバいことになる。イヤホンでもすればいいのだけど、今度は(音漏れしてないかな…)というのが心配になって免疫系から謎のサイトカインが出てアトピーが悪化する。「いろんなことを気にしてしまうのですね。そんなのでは生きにくいでしょう」はい、生きにくいです。でも、いろいろ事情があり死ぬわけにもいかないので、生きるしかない。だからブログを書くしかない。その論理にはいろいろ飛躍があるけれど、飛躍のない文章なんてChatGPTにだって書けるのだから、人間は飛躍のある文章を書くといいと思う。バッタのように飛躍せよ。

亀のこと

亀はまだ元気に生きている。名前はまだ無い。誕生日はいつか知らないけれど、ブログ開始の日を誕生日ということにしよう。なので今日から亀は18才だ。名前は引き続き考え続けよう。

お勉強の動向

社会科学のお勉強はもういいかなあ、と思うようになってきた。社会科学の研究者なのに。

理系の本を読んだ後で社会科学系の本を読んでみると、その進歩スピードの遅さに愕然とする。よく、マルクスとかマックス・ヴェーバーとか、古典をちゃんと読んでない学生に対して怒る年配の先生がいるけれど、それは学生が悪いんじゃなくて、その学問が悪いんだと思う。古典を読む必要を無くしてくれるようなちゃんとした教科書がない学問は、どこかおかしい。

で、これ以上社会科学の勉強をつづけても、重箱の隅をつつくようなことにしかならないのじゃないかなあ、という風に感じている。ヒースの『ルールに従う』と盛山和夫の『協力の条件』を読めば、社会科学において重要なことはだいたい網羅できるんじゃないだろうか? この2冊は(特に『協力の条件』の方は)、「古典を読む必要を無くしてくれる教科書」になっていると思う。

ただ、意思決定理論はもうちょいと勉強してみたい気もする。たぶん、ヒースが考えてるみたいな「規範に従う人間を前提にした意思決定理論」というのは、ほとんど議論が進んでない研究領域なんじゃないだろうか? ギンタスとかボウルズとかがやってるような気もするけれど、ちょっとちがう気もする。ああいう、制度の安定性みたいなマクロの現象を問題にするようなのじゃなくて、もっと日常的なミクロの意思決定を扱えるような理論。ほぼ知識がないのですごくフワフワしたこと言ってるのだけどね。でも私の言うことはだいたいいつもフワフワしてるからフワフワ風に吹かれてればいいと思う。

で、そういう「規範に従う人間を前提にした意思決定理論」というのがうまくつくれれば、倫理学とか政治哲学の立場から、もっと意味のある政策提言ができるようになるのではないかと思うのだよ。私はかつて環境倫理学を勉強して、「こんなフワフワしたこと勉強したって意味ないよ。みなさん世間知らずにも程がありませんか?」と絶望したクチで、ついでに倫理学全般にも絶望したクチなのだ。だから、倫理学をもっと使えるものにリメイクする、ということができたら面白いだろうなあと考えている。もちろんそれは構想で終わるので、ビッグマウスもほどほどにしておこう。

ただ、意思決定理論にしても、ボウルズ、ギンタスにしても、数式がガンガン出てくる。ぬるま湯に浸かってきた私にはちょっとキツい。あと、理論つくって終わりというのもつまらないので、できれば数理シミュレーションに落とし込んでみたい(これも実態をわからずにフワフワしたことを言ってる)。

というわけで、しばらくはこういうのを勉強しようかなと思う。「しばらく」って、3年くらいかかりそうだけど。

ゲーム理論

なるべくごまかし無しで、証明とかちゃんとやるやつ。進化ゲーム理論もやっておこう

制度の経済学

途中までは読めるのだけど、進化ゲーム理論の話が入ってくるととたんに読書スピードが落ちる。ゲーム理論を勉強してから再チャレンジしよう。

意思決定理論

意思決定理論の世界に疎いので、とりあえずギルボアの難書2冊。ギルボアの入門書の方はもう読んだ。その中間を埋める難度の本が欲しい。『意思決定の数理』は中級書のような気もするけれど、ちょっと無味乾燥すぎて積ん読になってる。Pythonで勉強できる本もあるみたいだから、そっちをやろうかなあ。

数理シミュレーション一歩手前

今勉強中の本。プログラミングと数学を同時に勉強できるのでお得。しかも楽しい。

これも今勉強中。

「あの「天然知能」を情報科学として明快に解説!」という触れ込みだけど、「あの」って言われても…。なんとなく、社会科学に応用できそうな予感で読んでる。面白い。ペギオ氏のお弟子さんの担当した章は非常にわかりやすくて、確かに「あの天然知能」がわかるようになってる。ペギオ氏の担当章は相変わらず難しいのでこのまま神棚に飾ってしまおうかどうか思案中。

とはいえ、私はもう研究者をやめようとも思っていて、結局このお勉強構想は頓挫するかもしれない。良い仕事の口があればつづけるけれど、なければ実務系の翻訳者に転身する。そこらへんはPDCAサイクル様にもChatGPT様にも先読みできない不確実性だ。

その他

人のブログを読むと、読者を楽しませようという配慮があるように思う。他人への配慮なんて、私には逆立ちしたって真似できない。いや、面倒なのだ。お給料もらってるわけでもないのに、サービス業のまねごとなんてしたくないよ。

なので、このブログを訪れる人は極めて少ない。人が少ないブログの原因を検索してみると、「それはあなたのブログに価値がないからです」と身も蓋もないことが書いてあった。すごく納得できる。

ただ、その「価値」というのはろくでもないことでもあって、前にやたらとpvが増えた時期があって、なんじゃこりゃと思ったら、Twitterから誘導されてきた人たちだった。前に、ある売れてる本を批判的に読む記事を書いたことがあって、それがTwitterでさらされたということみたい。そりゃ、売れてる本を叩けば見に来る人は増えるよね。でも、そういう「価値」は私は求めてないのだよ。第一、私が名前をさらしてないのに、名前をさらしている人を叩くとか、卑怯ではないですか。別に私は人を叩きたいんじゃなくて、ただのお勉強なのです。売れてる本がなんで売れてるのかわかんなかったから、批判的に読んでみた、というだけのこと。あくまで独り言なのであって、その独り言は、私ひとりが価値を認めていればそれでいいのだ。うっかり調子に乗ってしまったら、売れてる人たちの本をpv目当てにひたすら叩きまくるような悪趣味なことにもなりかねないし。

なので、このブログは無価値です。読む価値ありません。「公共のサーバー使ってやることかいボーイ、そういうの外部不経済っていうんだぜ経済学の教科書復習しなよボーイ」いや、私はボーイなんて年じゃないし。

外部不経済といえば、ちょっと気になるのが著作権のことだ。本の内容をけっこう長々とまとめた記事を書いてるけれど、あんまり良いことではないと思っている。だけど、ヒースみたいにややこしい論理を駆使した本だと、へたに省略すると論理の微妙なところがそぎ落とされてしまいがちで、ついつい長くなってしまうのだ。どうしたものかね。

なので、なるべく「売れない本」を対象に記事を書くようにはしている。あとは洋書とかね。そこそこ売れてる本に関しては、本全部じゃなくて、ほんの一部だけまとめてみるとか。どちらにしても、そもそも見に来る人がすごく少ないので、気にしすぎだとは思うのだけど…。で、売れない本について記事を書くから、ますます人はこなくなる。これは悪循環なのだろうか? 好循環なのだろうか? よくわからんけど、私のブログが無価値なのは確かだ。