【読書ノート】Morality Competition and the Firm 第4章

chapter4 An Adversarial Ethic for Business(ビジネスにおける対立的倫理)

ビジネス倫理学が反資本主義的なものになりがちなのは

ビジネス倫理学の扱う問題のほとんどは、市場競争のような対立的関係に関わるものだ。このことに、ビジネス倫理学者たちはほとんど気づいていない。そのため、道徳的な観点からは市場競争は不可能になってしまい、ビジネス倫理学は反資本主義的なものになりがちだ。そういうわけで、現実のビジネスでは無視されがちなのだ。

本章では、ビジネスのような対立的な環境における道徳について議論する。

ウィンウィンの結果をもたらすのが道徳規範

人間の営みというものは、放っておくと非常に悪い方向に傾きがちだ。自分の利益を性急に求めるのを抑制しない人は集合行為問題に巻き込まれる。みんなが利己的な行動をとると、それで得られる帰結はそうしないときよりも悪いものになるのだ。個人がこんな風に集団的な自滅行為に陥るのを防ぐのが道徳の役割だ。

たとえば、地下鉄から出るときに車内に新聞を置き去りにするのも集合行為問題だ。新聞の置き去りを禁止する規範があると、両プレイヤーが置き去りをする左上の(1, 1)ではなく、右下の(2, 2)を達成できる。つまり道徳規範に従えばウィンウィンの結果を生み出せる。道徳規範とはこういうものだ。

置き去り 置き去りしない
置き去り (1, 1) (3, 0)
置き去りしない (0, 3) (2, 2)

規制されない競争は底辺への競争に至る

このように、道徳的義務に基づく協力はウィンウィンの結果をもたらすのが普通だが、競争はウィンルーズの結果をもたらすものだ。だから、競争は道徳的に問題があるように思えるのだ。

こういう例を考えてみよう。何人かの人たちで競争するとする。たとえば100メートル走とかだ。でも、結局のところ勝つのは元々の能力が高い人だ。だから、競争の前にトレーニングしないようにみんなで約束する。そうすれば、トレーニングなどという面倒なことをすることなく、誰が一番かを決めることができる。

だけどこれは競争なのだから、みんな良い結果を得たいと思う。だから、誰もがこっそりトレーニングするのだ。こうして、「誰もトレーニングしないでいい」という最初のもくろみが崩れ去ってしまう。これが底辺への競争だ。

望ましい競争とは、正の外部性をもたらすものだ。スポーツであれば、激しい競争をすることで観客は楽しめる(たとえ、それによって競争者に不利益がもたらせようと)。健全な競争とそうでない競争のちがいは、それによってもたらされる正の外部性が競争者の不利益を上回るかどうかだ。不健全な競争は不利益の方が上回ってしまう。たとえば、スポーツでの薬物使用の横行は不健全な競争によるものだ。だから競争は注意深く監視され、規制されなければならないのだ。

見えざる手について復習

ここで、市場競争の構造を簡単におさらいしておこう。

1対1の取引の場合、交渉をいつ打ち切られるかわからない。そのため、「本当はもっと高く売りたいんだけど」とか「本当はもっと安く買いたいんだけど」と内心思っていても、相互に利益が得られる範囲なら取引が成立してしまう。つまり、買い手と売り手が1人だけの場合、市場清算(つまり、売れ残りが発生しないこと)が達成できるとは限らないのだ。

しかし、別の買い手や売り手が入ってくると状況は一変する。もし価格が高すぎたら、売れ残りが発生する。2人の売り手がいるとすれば、どちらも売れ残りを抱えることになるだろう。しかしどちらかが価格を下げれば売れるかもしれない。そしてどちらかが価格を下げるのだが、そうなるともう1人の売り手もそれに同調するだろう。このプロセスが売れ残りがすっかり無くなるまでつづく。これが、需要曲線と供給曲線の交点である。

こういう競争は、競争している人同士にとっては利益にならない。つまり、高く売った方が売り手の側からしたら得なのだ。それでも、社会全体には便益がもたらされる。要するに、死荷重を取り除くことができる(相互に便益をもたらす経済取引の発生数を最大化できるということ)のだ。逆に言えば、競争しなければ誤ったシグナル(誤った価格)が送られてしまう。これが「見えざる手」という主張の本質だ。

競争が持つこの力は、別に市場だけが持つものではない。そして、どんな競争も健全なものであるためにはルールが必要だ。

ただし、不適切に規制するとかえって問題が起こる。それは旧共産圏の移行経済がどんなものであったかを思い出せばわかるだろう。たとえば、1994年にハンガリーで農業と食品製造業が民営化されると、鉛中毒が大流行した。原因は、食品製造業者たちがパプリカの色を良くするために鉛入りの塗料を使っていたからだ。彼らは情報の非対称性を利用するという許されない戦略を使って市場競争をしていたわけだ。

競争に黄金律を適用すると?

他人から盗むことで自分の利益を高めることはできる。でも、もしみんながそうするなら、セキュリティのためにみんなかなりの投資をしなければならなくなるだろう。結果的に、盗むことは誰にとっても望ましくない結果をもたらすことになる。

「みんなが同じようにしたらどうなるか?」という考え方が黄金律だ。日常的な道徳の根柢には黄金律がある。でも、黄金律を競争に適用するとおかしなことになる。サッカー選手が「自分が相手のチームのメンバーだったら、ここでゴールを決められたらどう思うだろう?」なんてことを考えたらおかしいだろう。

Arthur Applbaumによると、市場のように対立的構造を持つ制度は道徳的に間違った振る舞いを生み出すことが多いが、あらゆる要素を考慮に入れるならそうした振る舞いは容認できることがある。協力から離脱すると他の競争相手に害をもたらす。しかしこの害の悪さよりも競争全体が生み出す正の外部性の方が上回るなら、その行動は道徳的に許されることになるのだ。

こうした制度は道徳を無効にしてしまうものではないが、ある特定の道徳的義務から人々を免除してくれるのである。

スポーツの道徳

こういうことはスポーツの道徳を検討してみるとよくわかることだ。

  • 不正をしないこと
    • 誰も見ていないからといってインチキをしてはならない。
  • ズルはしない
    • ルールでは禁止されてなくても許されない戦略はある。そうしたズルい戦略を実行するのはスポーツマンシップに反している。
  • 王道を行くこと

ルールの役割は、健全な競争を促すことだ。この場合の道徳的判断はつねに、競争によってどんな帰結を生み出すことができるかにかかっている。

ステークホルダーモデルにきちんと反論してみる

会社法では、取締役は株主の受託者だということになる。それでは、顧客とか供給者とか地域社会とかはどういう位置づけになるんだろう? 株主と経営者のあいだでだけ義務関係を考えると、それ以外の主体との関わりに関しては「詐欺的」行為を自由に行えるように見えてしまう。

この問題に対して、ビジネス倫理学者たちは、シェアホルダー(株主)からの受託責任を「ステークホルダー」からの受託責任にまで拡大することを提案した。こんな風に受託関係をあっちこっちに広げるやり方はあまりうまくない。でも、この議論に反論する人たちもまた、きちんと反論できてないのが現状だ。

ステークホルダーモデルにきちんと反論するには、ロナルド・コースがやったように、経営管理上の取引と市場取引を分けるといい。企業内部では市場取引は行われない。資源分配は経営管理のなかで行われるのだ。一方、市場取引は競争の論理で行われる。市場における道徳的義務は競争的なものだ。なぜなら、競争するからこそ、資源分配を最適化する価格に近づくからだ。競争的な場面では、人は他者の利益を増進する義務を負わないのである。

「見えざる手」が万能だと信じる人々の誤り

残念ながら、「見えざる手」の議論に惑わされる人々は、市場取引では義務というのは全く存在しないという発想に陥りがちだ。

私的利益と相互便益が完全に調和するためには、完全競争が成立していないとならない。しかし、現実の世界では完全市場なんて成り立たないのだ。外部性や情報の非対称性はどこにでも存在する。また、そうした条件を満たすよう可能な限り手を尽くしたとしても、効率性に可能な限り近づくというわけではない。逆に、遠ざかることさえある。

だから、完全競争を持ち出して市場における道徳を無視できると主張する人は、経済学をよく理解していないのだ。

「見えざる手」論法で市場における道徳の必要性を排除することはできない。それは、スポーツが対立的構造を持つからといってスポーツマンシップを大事にする必要性を排除できないのと同じ事だ。

市場において道徳を無視していいわけではない。こんな当たり前のことが見過ごされがちなのは、法律が企業による過度に反社会的な競争戦略をすでに禁止しているからだろう。しかし法律はナマクラな武器でもある。ルールによってスポーツに完全な競争を実現することが不可能なのなら、市場システムの場合はなおさら無理だろう。

広告が道徳的に問題なのは

例として広告を挙げよう。ほとんどの広告が道徳的に問題なのは、(正しい情報を消費者に与えないことで)市場における情報の非対称性を悪化させるからだ。たとえば、そもそも脂肪が入っていないのが当たり前の食品について「脂肪ゼロ!」という広告を出すのは、嘘はついていないが、問題なしとはいえない。こうしたケースを法律で取り締まるのは難しい。でも、情報の非対称性を利用して利益を得ようとする試みである点において、これは非道徳的な行為なのである。

同じような例として、企業がコストを外部化することができる状況を考えてみよう。汚染のような外部性が存在するのは、その企業が製造によって生じる社会的費用を考慮せずに「安すぎる」価格で製品を売っているからだ。そして、ひとつの企業がそういうことをやり出すと、他の企業も同じように外部性を垂れ流すようになる。なぜなら、そうしないと価格競争に勝てないからだ。こうして、底辺への競争が始まるのだ。

企業が市場取引において従うべき義務テンプレ

スポーツとのアナロジーで、市場取引において企業が従うべき規範のテンプレを以下に挙げてみよう。

  • 市場の失敗につけ込むな
  • 嘘をつくな
  • ルールに関してズルをするな
    • ルールに穴があってもそれを利用するな。
  • 王道を行け
    • 相手が先にやったからといって、それに乗っかってずるをするな。
  • 市場の失敗を是正しようとするルール変更に反対するな
    • (これはスポーツとのアナロジーによるものではないが重要だ)

経営者たちが利益の最大化を目指すのは構わない。ただし、それは市場経済の「目的」という、もっと大きな社会的善と矛盾しない範囲でのことだ。

ここに挙げたのはあくまでテンプレだ。もっと具体的な道徳規範をつくることまではここではやらない。

ビジネス倫理学は敗北してるのでちゃんとしよう

こうしたテンプレだけでも、これが企業に対してかなり多くのことを要求するものであることはわかる。だからこれはあくまで理想だ。重要なのは、このように資本主義の精神に反しないようなビジネス倫理をつくることができるということだ。

孫子』はマネジメントを学ぶ学生たちに人気だ。なぜなら、それがビジネス倫理よりももっと「地に足の着いた」アドバイスをくれるものだと思われているからだ。これはビジネス倫理学の敗北だといえるだろう。こんなことになってしまっている原因は、ビジネス倫理学が市場における対立構造をきちんと認識してこなかったからだ。また、対立構造を認識しないビジネス倫理学は、過酷なビジネスの場においてあまりに感傷的なものだと思われがちだ。対立構造をきちんと認識することで、市場競争において許されることと許されないことをきちんと区別できるのだ。

感想

ヒースはそろそろ卒業しようと思ってたけど、考えてみたらこの本、3章までしかまとめてなかった。本自体はもう読んでるけど、記憶がアレなわたしはほとんど何も覚えてないので、きちんとまとめておこうと思う。

本章でadversarialって言葉が出てくるのだけど訳しにくい。「敵対的」という訳もあるし、裁判だと「対審的」とも訳される。章タイトルではadversarial ethicで「対立的倫理」と訳したけど、かなりへんだ。もっとかみ砕けば、「市場やスポーツや裁判のように、参加者の対立的関係が前提とされる制度における倫理」ということだと思う。

で、そうした対立的関係における倫理というのは、倫理学の教科書なんかを見てみても絶対に出てこない。考えてみれば、おかしな状況だと思う。人間は人生の大半の時間を競争に費やしている。学校でも職場でも、さらには余暇時間の娯楽のはずのSNSでも、誰も彼もが競争にのめり込んでいる。それなのに、競争を前提にした倫理理論が見当たらない。競争とは何かをきちんとした認識する理論がないままにビジネスに関して倫理学が口出ししようとすると、説教くさい、反資本主義的なものになってしまう。だから、ビジネス倫理学はビジネスの世界ではほとんど存在感を持たない。

…この手の問題って、応用倫理学全般にいえることなのかもしれないな。たとえば環境倫理学も、市場の役割をきちんと認識しないまま構築されているので、現実の環境政策においてほとんど存在感を持っていない(このことは前に整理したヒースの気候変動本で繰り返し論じられている)。最近日本で食農倫理学がやや盛り上がりつつあるけれど、これも同じような運命を辿りそうな気がする。

逆に、ヒースがなぜこれまでの倫理学者たちとは違った視点からビジネスや環境について論じられるのかというと、それはヒースが道徳問題を集合行為問題に還元して理解しているからじゃないだろうか。本章の最初の方でも、ゲーム理論の利得表が出てきて、ウィンウィンの結果をもたらすためのもの(つまり、底辺への競争を抑制するためのもの)として道徳が位置づけられている。別の言い方をすると、道徳問題を政治哲学の問題として位置づけ直す、ということでもある(そんな言い方が本書のどこかに出てきた記憶がある)。

道徳問題を政治哲学の問題として位置づけ直すのはヒースのオリジナルというよりロールズが元ネタだ、というのを前にブログに書いた気がする。あるいは、未読のゴティエも関係してるのかな? まあいいや。本書をまとめ終わったらゴティエに行こう。