【研究ノート】環境倫理学について考える(もう考えたくない)
私はこのブログの中で環境倫理学の悪口を何度か書いてきた。別に個人的に関係者に恨みがあるとかではなくて、単純に、勉強しても面白くないと感じるからだ。関連する本を読んでみても、あまり知的好奇心が刺激されない。「あんな問題もある」「こんな問題もある」と、環境にまつわるいろんな倫理問題は紹介されている。でも、それが問題提起で終わってしまっていて、「あ、そんな考え方があったんだ!」という意外な提案が何もないのだ。
だったら環境倫理学なんか放っておけばいいのに、とも思うのだけど、自分の研究テーマが少し絡んでいるので、完全に無視することもできない。で、仕方なく勉強する。でもつまらない…。
このつまらなさの原因はどこにあるのかということを整理してみたいと思う。そうすれば、もう少し面白い環境倫理学のあり方を考案することができるかもしれないから。
環境倫理学の3類型
環境倫理学には少なくとも次の3つのタイプがある。
環境プラグマティズムもアメリカ産なのだけど、とりあえず「アメリカの環境倫理学」とは分けておく。
ここでいうアメリカの環境倫理学というのは、1980年代くらいまでのアメリカの環境倫理学のことだ。「内在的価値」とか「人間非中心主義」が中心的なテーマだった。自然が破壊されているのは、人間が自分たちの利益を求めて自然を道具として利用してきたからだ。だから、そうした「道具的価値」に還元されない、自然それ自体の価値である「内在的価値」を根拠づけなければならない。そうすれば、人間は自然を自分の思いのままに利用することをやめるだろう。人間中心主義的な考え方を我々は捨てなければならない。これからは「人間非中心主義」でやっていくべきなのだ。アメリカの環境倫理学はそんなふうなことを主張していた。
環境倫理学に疎い人が環境倫理学について言及する時、彼らが想定しているのはこのアメリカの環境倫理学だ。そして、大体は「馬鹿馬鹿しい主張」というので切り捨てられてしまうことになる。内在的価値と言われても、そもそも価値というのは人間が評価するものなのだから、価値は全て人間のための価値に決まっている。それに、仮に人間の評価と独立に「自然の価値」というものがあるのだとしても、それを人間が尊重しなければならない義務はどこにもない。世間知らずの環境倫理学者が哲学論文の中で内在的価値を根拠づけたところで、それにどうして一般の人々が従わなければならないのか?
こんな風に、アメリカの環境倫理学はボロカスに批判され、90年代くらいの段階では環境倫理学内部からも「環境問題解決に全く役立ってないじゃないか」という声が出てくる。そうして生まれたのが環境プラグマティズムだ。環境プラグマティズムは、「内在的価値」「道具的価値」の二者択一を迫る問題設定をしたことがアメリカの環境倫理学の誤りだと考えた。そして、多様な価値を前提とした上で、多様な価値観の人々がいかに合意できるかという方向に議論をシフトさせた。たとえばある森に棲む絶滅危惧種のフクロウを守りたい人が「内在的価値」をどれだけ訴えても、その森を開発して利益を得ようとする人には届かない。それなら、むしろフクロウを目玉にした観光施設の建設を提案したらどうだろう? そうすれば、フクロウを守りつつ、開発者側にも利益が入る。価値のレベルで争わなくても、多様な価値に配慮した提案をすれば、合意することはできるのだ。このように、「内在的価値か道具的価値か」という二者択一を迫らず、多様な価値観を認める環境プラグマティズムのアプローチは、「多元論的アプローチ」と呼ばれる。
一方、日本では環境倫理学は独自の進化を遂げた。アメリカの環境倫理学のように自然の内在的価値を尊重する立場では、手付かずの自然(いわゆる原生自然)が称揚されることになる。しかし、日本はアメリカに比べ国土が狭く、手付かずの自然なんてそもそも残っていない。むしろ里山のように、人間が手入れして維持する自然の方が当たり前だ。だから、原生自然ではなく、里山のような「手入れされた自然」を守るための環境倫理が必要だ。そこで、地域における人と自然の歴史的・文化的関わりを守ることこそが自然保護なのだ、という考え方が提唱されるようになった。
君はどのあたりに不満があるのだね?
まず、アメリカの環境倫理学がどうしようもない代物だというのは広く認められているところだ。ヒースが気候変動本の第1章で述べているけれど、アメリカの環境倫理学は内在的価値と道具的価値のトレードオフを認めていないので、価値同士が対立した時に機能不全に陥ってしまう。そのため、アメリカの環境倫理学は現実の問題解決には役立たずになってしまうのだ。
次は環境プラグマティズムについて。確かに、この立場は価値同士が対立した時でも機能不全に陥らないという点では、アメリカの環境倫理学よりも優れているといえる。でも、これが環境問題について何か新しい提案をしているかどうかというと、かなり微妙だと思う。「価値が違うときは妥協しあって合意点を探りましょう」なんて、倫理学者に言われなくたって誰でも知ってることだろう。結局これも現実に対して意味のある提案はできない。やれることはせいぜい、そうした合意がうまくなされた事例を探してきて、「ここでは環境プラグマティズム的な発想が活用されている」と後付けで説明することくらいだ。
では、日本の環境倫理学は? 問題点は2つあると思う。
まず、日本の環境倫理学は里山保全をモデルにしているのだと思うけれど、そのために、グローバルな環境問題に対しては何も提案できなくなってしまっている。たとえば気候変動への取り組みについて里山モデルから何かを言うのは難しいだろう。環境倫理学を日本の風土に適応させた結果、適用範囲がローカルな範囲に狭まってしまった。そのため、気候変動のような多くの人が関心を持つ環境倫理の問題について何も応えられなくなってしまっているのだ。環境倫理学に期待を寄せる人々からしたら、これはかなりがっかりさせられることだろう。
次に、ローカルな問題をめぐって価値の対立が発生した時、どのように対処するべきかがわからない。たとえば、日本の環境倫理学の枠組みでは、捕鯨は人と自然との歴史的・文化的な関わり方であり、守られるべきである生業であるということになるだろう。でも、捕鯨に反対する海外の保護団体は、知的な生命体である鯨を殺すのは残酷であると非難する。彼らの非難は、「苦痛を感じる生き物に対してはその苦痛を軽減するよう配慮するべきだ」という功利主義的立場によって倫理学的に根拠づけることもできるだろう。こういう時、どちらの判断を優先するべきなのか。アメリカの環境倫理学と同じで、価値が対立するときにそれらをどのようにトレードオフするかについて、日本の環境倫理学ではほとんど議論されていないと思う。
日本の環境倫理学に関する本を読んでみても、「こういう地域ではこんな風な形で人と自然が関わってきた」という歴史記述ばかりで、環境倫理学としての積極的な提案が見られない。環境プラグマティズムと同じで、単なる現実の後追いになってしまっているのだ。
どうして環境倫理学はつまらなくなってしまうのか
トレードオフという発想が欠如していることが、環境倫理学がつまらなくなってしまうことの大きな原因であるように思う。まず、アメリカの環境倫理学の主張する「内在的価値」は「道具的価値」とトレードオフができないので、これらの価値が対立すると機能不全になってしまう。それに対し、環境プラグマティズムは多元論の立場を取り、価値が対立していても合意できればいいと主張する。でも、その合意に至るためのトレードオフの基準が何も示されていないから、現実の環境問題に関わる人にとっては何の指針も得られない。日本の環境倫理学はローカルな問題に集中し過ぎているので、ローカルな価値とそうでない価値をどうトレードオフさせるかという発想が希薄だ。
価値と価値のトレードオフに関する方針がないと、現実の環境問題に対して意味のある提案が何もできなくなってしまう。せいぜい「多様な価値観に配慮しましょう」くらいのことしか言えないのではないか。だけど、問題解決に使えるリソースは限られている。SDGsはまさに多様な価値観に配慮することで「誰1人取り残さない」ことを目指すものだけれど、それぞれのゴールの費用便益分析がなされていなかったため、どのゴールに優先的に予算を使えばいいかが不明確だ。そのため効果的な投資が行われず、SDGsの2030年の達成はもはや絶望的だと言われている。「多様な価値観に配慮しましょう」式のアプローチでは問題解決の役に立たないのだ。
環境倫理学がつまらなくなってしまうのは、「みんなが気づいていない価値に配慮しましょう」という主張にこだわってきたからだと思う。それは、アメリカの環境倫理学であろうと環境プラグマティズムだろうと日本の環境倫理学だろうと同じだ。しかし、現実の問題解決を進める上で、その主張はあまりに控えめすぎる。「結局どうすればいいのさ!?」という疑問に答えられないから、環境倫理学はつまらなくなってしまうのだ。
環境経済学を勉強しよう
そして、環境をめぐる価値と価値のトレードオフについてきちんと指針を示してくれる学問はすでにある。環境経済学だ。もちろん、環境経済学も万能ではない。たとえば生態系の価値の貨幣評価はあまり信憑性がないと言われている。また、土地に対する所有権関係が曖昧な国では環境経済学の提案する政策がうまく機能しない可能性もある。それでも、価値と価値が対立しているときに問題解決の方向性をきちんと示してくれているという点では、環境倫理学よりずっと役に立つだろう。
環境倫理学は環境経済学をサポートするような学問として位置付けた方が良いのではないだろうか。たとえばヒースの気候変動本は、環境経済学の提案する炭素税の倫理学的根拠を議論するものだ。環境倫理学自体が何かを提案するのではなく、環境経済学の提案を倫理学の観点からチェックする学問として環境倫理学を位置付けなおした方がいいのではないだろうか。価値のトレードオフに関して何も言えないのなら、何か言うことは環境経済学に任せてしまった方が良いと思う。環境倫理学は環境経済学の裏方に回るのだ。
だけど、環境倫理学の人が環境経済学について何か論述しているのを見たことはほとんどない。環境倫理学に関する本を100冊紹介するというブックガイドがあるけれど、そこにも環境経済学の本は1冊も入っていない(環境社会学や環境法学の本は入っているのに。なんで?)。環境倫理学の人たちは環境経済学を勉強しないのだろうか? ヒースの気候変動本でも、環境倫理学者など、環境について論じる哲学者たちは経済学的な発想を嫌悪する傾向があると書かれている。でも、やっぱりちゃんと環境経済学を勉強した方がいいと思うよ。
【読書ノート】『初心者のためのロジスティック回帰分析入門』
統計分析の手法は教科書で一度勉強したらそれでOK、もう二度と勉強しないでいい、ということはなくて、しばらくしたらまた忘れてしまう。だから、再び同じ手法を使う機会が出てきたらもう一度同じ本を勉強し直さないとならない。もっと要領よくやってる人もいるのかもしれないけれど、私は要領が悪いからそうやっている。統計学は、忘れては覚え忘れては覚えの「賽の河原」方式で覚えていくものだと思ってる。
今回の本は、前にロジスティック回帰を使うことがあって一応全部読んでいるのだけど、しばらく使う機会がなかったのでだいぶ忘れている。それで復習して、必要最低限のことは思い出せた。ただ、理屈ばかり思い出して、具体的に分析をどう進めればいいかというのはちょっと曖昧ではある。そこで、細かい理屈はすっ飛ばして、とにかくどうすればいいのか、どの数字を見ればいいのか、ということに着目して整理していきたい(もちろん整理の仕方は自己流で、自分の考えもちょこちょこ入れてる。文句があるなら本を買ってください。古本しかなくてバカ高いけど)。1
ロジスティック回帰のモデルはややこしい
何らかの変数(説明変数)で別の変数(目的変数)のばらつきを説明したり予測したりする手法が回帰分析だ。だけど、目的変数がYes or Noのように2つの値しかとらないダミー変数である場合、普通の回帰分析を使ってもモデルがデータにうまく適合しない。というのは、「普通の回帰分析」とは正確には「線形回帰分析」というやつで、説明変数と目的変数が線形の関係じゃないと扱えないからだ2。
目的変数が連続変数ではなく、2つの値しかとらない場合、ロジスティック回帰分析という手法を使う。目的変数が連続変数か2値変数かなんて些末な問題のように見えるかもしれない。でも、目的変数が2つの値しかとらない、という制限を加えるだけで、モデルはかなり複雑なものになる。だからロジスティック回帰分析だけで本書のように600ページ近い教科書が必要になるのだ。3
ロジスティック回帰のモデルは以下のようなものだ(右端の方の括弧が上手く表示されなくてへんになってるけど、雰囲気だけわかればいい)。
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この時点で、なんだかやっかいなことになってきたなあ、と思う人もいるかもしれない。
ここで、左辺のPは確率だ。つまり、説明変数がある値をとったときに目的変数(D)が1になる確率を意味する。問題は右辺だ。なんだこのややこしい式は。
線形回帰のモデルだったらもっとシンプルにこうなる。
これは、Xが大きくなればYが大きくなる(あるいは小さくなる)という関係性を表している。係数のβが正なら正の関係だし、負なら負の関係だ。そして、係数の絶対値が大きければ、その説明変数が目的変数に与える影響は大きくなる。わかりやすい。
一方、ロジスティック回帰のモデルは、線形回帰のこの式を右辺の分母のところに入れている。その上、マイナスをかけて指数変換までしている。だから、ぱっと見、何がなんだかわからない。Xが大きくなったら何がどうなるのかとか、係数の意味はいったい何なのかとか、ぜんぜんわからん。
ロジスティック回帰では係数をみてもしょうがない。オッズ比を求めよ
そしてさらにやっかいなことに、実はロジスティック回帰では、P(の推定値)そのものは求められない。そのためには、「追跡研究」という研究デザインにしなくてはならない。それはたとえば、100人の被験者を対象にして、現在の説明変数が、数年後の目的変数にどう影響するかを見る、という研究デザインだ。お金をかけた研究ならそんなこともできるかもしれないけれど、普通はそんなことしないし、社会科学の場合ならなおさらやらない。だから、Pは求められないのだ。
そこで、ロジスティック回帰では確率の代わりに「オッズ」という考え方を使う。オッズとは次のようなものだ。
確率とは表現が違うけれど、まあ、確率に似たものだと考えていいだろう。確率(P)が高ければオッズは大きくなるし、確率(P)が低ければオッズは小さくなる。ただし、確率とちがって、最大値は1ではない。理論的には無限大まで大きくなることができる。
そして、ロジスティック回帰で注目するのはこのオッズによって作られた「オッズ比」だ。
「説明変数が1のときに」のところは、書き方が正確ではない。ここの値が変わる場合もある。とりあえず雰囲気を示すためにザックリ書いているだけだ。
このオッズ比を求めるのが、ロジスティック回帰のひとつの目標だ。オッズ比は確率(P)そのものではない。ある説明変数が大きな値を取ったときに、目的変数が「1」になる「なりやすさ」を示している。説明変数が大きな値を取ったときに、目的変数が「1」になるオッズが大きくなるとしたら、オッズ比は大きくなるだろう。逆に、説明変数が大きな値を取ったときに、目的変数が「0」になるオッズが大きくなるとしたら、オッズ比は小さくなるだろう。だから、目的変数が「1」になりやすいとき、オッズ比は大きくなるといえる。確率(P)そのものは求められないので、オッズ比を使うことで、その説明変数が目的変数にどんな影響を及ぼすかを見ようというわけだ。
では、オッズ比はどうやれば求められるのか? 交互作用項があるときはちょっとやっかいだけど、基本的には次の式で求められる(ただし、コードの仕方で変わってきます。ここでは、説明変数が0, 1でコードされていると仮定している)。
つまり、説明変数Xiが目的変数にどんな影響を及ぼすか、というオッズ比をみたいのなら、上の式にその説明変数の係数を代入してやればいいのだ。
逆に、ロジスティック回帰の場合、係数であるβそのものには意味がないことに注意が必要だ。線形回帰の場合だと係数を見れば「なるほど、体重が1キログラム増えるごとに、かけっこのタイムは0.1秒伸びるんだな」みたいな判断ができる。だけど、ロジスティック回帰の場合は、係数をいったん指数変換してオッズ比にしてやらないと、意味のある解釈ができないのだ。
検定の前に…最尤法って?
検定の前に、まず、尤度という考えを知っておく必要がある。
線形回帰では最小自乗法という方法を使って、モデルをデータに適合させる。これは、モデルによる予測値と観測データのズレの二乗和がもっとも小さくなるようにモデルの切片と係数を決めるという方法だ。
しかしロジスティック回帰では最小自乗法は使えない。なぜ使えないかという理由は省く。代わりに使われるのが最尤法だ。これは、尤度関数が最大になるようにモデルをデータに適合させる方法だ。
尤度関数とは、実際に観測されたデータについて、そうしたデータが観測されるもっともらしさ(尤もらしさ)を表す関数だ。なんのこっちゃって感じなので、シンプルな例でイメージを見てみよう。これは、コイン投げを100回して、表が75回というデータが観測された状況だ。Pはわからない。この場合の尤度関数は次のようになる。
つまり、Pの同時確率で表せるということだ。最尤法では、この尤度関数が最大になるようにPを決める。この場合、Pは0.75になる。つまり、このコインは歪んでいて、表が出る確率が75%もある、というわけだ。「こうした結果が出るのが尤もらしいと思える度合い(尤度)を最大にするように確率(P)を推定する」のが最尤法だ。
ロジスティックモデルで同じことをやろう。この場合、Pではなく、ロジスティックモデルの切片や係数をいろいろいじって、尤度関数を最大化することになる。もちろんそんな計算はコンピュータがやってくれる。また、ロジスティックモデルを使った尤度関数はやたら複雑だけど、そんなのいちいち自分で作らなくてもいい。最尤法の基本的なイメージがわかっていればそれで十分だ。
検定の方法1:尤度比検定
最尤法を使ってロジスティックモデルの切片と係数を推定するということは、統計ソフトでロジスティック回帰を実行すると最尤値も出てくるということだ。最尤値そのものには意味はない。でも、モデル同士の最尤値を比較することで、係数の検定をすることができる。
たとえばロジスティック回帰で、目的変数は同じだけど、説明変数が異なる次の2つのモデルをつくり、最尤法でデータに適合させてみたとしよう。
- モデル1
- 説明変数はa, b, c, d, eの5つ
- モデル2
- 説明変数はa, b, cの3つ
ここで、モデル1とモデル2の最尤値を比較してみよう。もし、両者に有意な差があるとしたら、モデル1から説明変数d, eを取り除くべきではない。取り除くと、最尤値が有意に減ってしまうからだ(モデル1はモデル2を包含する関係にある。小さいモデルの方を包含する大きいモデルの方が最尤値は大きくなる)。逆に、有意な差がないのなら、d, eは取り除いてもいい。これを「尤度比検定」という。
なお、細かい話だけど、尤度比検定は、最尤値そのものを比較するのではない。尤度比を使ってLR統計量というものを求めるのだ。
LRは、カイ二乗分布で近似できる。自由度は0と設定したパラメーターの数、つまり、小さい方のモデルで取り除いた説明変数の数だ。
なお、さっき書いたように「大きい方のモデルの最尤値」の方が「小さい方のモデルの最尤値」よりも大きくなるけど、LRの式ではそれぞれの最尤値の対数にマイナスをかけているので、大小関係は反対になる。だから、LRは必ず0以上となる。
検定の方法2:Wald検定
説明変数1つずつについて検定したいときはWald検定をしよう。Wald検定では、次のようにZという統計量を求める。
ここで、分母は推測された係数βの標準誤差を示す。このZを二乗した統計量は自由度1のカイ二乗分布に従うので検定ができる。
だったらWald検定だけやればいいじゃないの? なんで尤度比検定なんて面倒なことをするの? そう思われるかもしれない。
実は、サンプル数が多いときは問題ないのだけど、サンプル数が中規模以下だと、次のようになってしまうのだ。
つまり、尤度比検定とWald検定で、統計量が変わってしまうということだ。こういう場合、LRの方が優れていることが明らかにされている。つまり、サンプル数が少ないときは、Wald検定よりも尤度比検定の方をやるべきなのだ。
区間推定
オッズ比を求め、有意かどうかを判定したら、95%信頼区間もちゃんと求めよう。「オッズ比が有意だからいいじゃん」と思考停止になるのではなく、その値の精度を理解するためには信頼区間が必要だ。有意であっても信頼区間がやたらと広かったら困る。たとえば点推定されたオッズ比が3.0であっても、その信頼区間が1.2~5.9だったりしたらオッズ比がどれくらいの大きさだと考えればいいのかよくわからなくなるだろう。社会科学なら別に良いかもしれないけれど、疫学みたいに人の命が関わる分野でこんなに推定がガバガバだったら結果を現場にどう生かせばいいか判断できない。だから信頼区間を求める事は重要なのだ。
95%信頼区間は次のように求める。
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で、「Zのパーセント点」は、95%信頼区間の場合は1.96となる。
ただし、これは説明変数をどうコードするかで変わってくるので注意。たとえば、(0, 1)ではなく(-1, 1)とコードされていたら、1と-1の差は2なので、上の式のexpの中身は2倍になる。
あと、交互作用があるケースは、標準誤差の部分に他の係数の分散・共分散が影響してくるので、非常に複雑になります。
モデルの適合度をどう評価するか:逸脱度とHL統計量
さて、モデルがデータにどの程度適合しているうのか、どう評価すればいいのだろう? つまり、回帰分析でいうところの「決定係数」に当たる指標はどんなものなのか、という話だ。
「逸脱度」という指標がある。これは、評価対象のモデルの最尤値と、飽和モデルの最尤値を比較した指標だ。こいつはカイ二乗統計量に近似できるので、検定ができる。
でもその前に、「飽和モデル」ってなに? これは、結果を100%完璧に予想できるモデルのことだ。たとえば、各被験者ごとにその被験者であるかどうかを示すダミー変数をつくり、それを全部モデルに説明変数としてぶちこむ。たとえばAさんを表すXaというダミー変数は、Aさんに関しては1で、他のBさんやCさんに関しては0という値を取る。目的変数が「ガンである」であって、Aさんがガンだとしたら(「ガンである」=1)、Xaの係数を1にすればいい。そうすると、Xaというダミー変数によって、Aさんの目的変数の値を完全に予測できる。これを、すべての被験者についてつくるのだ。そうすれば、結果を100%完璧に予想できることになる。
そして、もちろんこんなモデルは無意味だ。普通、モデルをつくるのは、より少ない変数で結果を予測したり説明したりするためだ。被験者の数だけ説明変数を投入しても、興味のある現象に関して何も知見を得ることができない。だけど、「完全なモデル」という意味では一種のベースラインとして使える。この飽和モデルをベースラインとして、そこから大きく逸脱していないモデルなら、そのモデルはデータによく適合している、といえるのだ。
だから上記の逸脱度で検定をするときは、有意になってはいけない。有意になったら、それは飽和モデルから大きく逸脱しているということであり、適合度が低いということなのだ。
ところが、逸脱度には問題がある。共変量パターン別のサンプル数が1に近い状況になると、カイ二乗統計量に近似できなくなるのだ。「共変量パターン」というのは、たとえば「年齢が50歳で、性別が男で、タバコを吸っていて…」といった、各変数の値のパターンのことだ。もし説明変数に連続変数が含まれていると、共変量パターン別のサンプル数が1になりやすくなる。なぜなら、たとえば年齢のような連続変数は「51歳、52歳、53歳…」と非常に多くの値を取り得るからだ。そのため、共変量パターンが同じになるサンプルが少なくなってしまうのだ。
そこで、問題のある逸脱度よりもHL統計量を使った方がいい。HL統計量の求め方は面倒だが、全部ソフトがやってくれるので覚えなくていい。基本的な考え方は逸脱度と同じで、有意でない方が適合しているといえる。ちなみに、HL統計量もカイ二乗統計量に近似できる(ただし自由度の求め方はちょっとややこしい)。
目的変数が3つ以上の値を取るときは?
目的変数が2値ではなく、3つとか4つとかの値をとることがある。こういうときは多項ロジスティック回帰を使おう。
たとえば、目的変数が(0, 1, 2)の3つの値を取るとする。この場合、これらの値のうちのどれか(普通は0)をベースラインに設定して、それと1または2という別のカテゴリーとを比較する、というやり方をする。
「比較」というのは、具体的には次にように、オッズ(のようなもの)を求めるのだ。
これらはオッズそのものではない。下がオッズの正しい式だ。
だから、オッズを求めるのなら、本当は次の式でないといけない。
だけど、これだと「0と1」の比較ではなく、「1以外と1の比較」になってしまっている。だから、オッズを使ってしまうと主旨が変わってくるのだ。
多項ロジスティック回帰の場合、オッズ比を求めるなどの計算に使うのは「オッズ」ではなく「オッズ(のようなもの)」の方だ。具体的には次の式を使う(例によって、「説明変数が~のときに」の部分は、ケースによって変わってくる)。
ここでgは、目的変数のカテゴリーの値だ。この場合、1か2の値を取る。
オッズ比がこのように求められるということは、gの値がなんであるかによって、オッズ比が変わってくるということになる。つまり0と1を比較したときのオッズ比と、0と2を比較したときのオッズ比は異なるのだ。多項ロジスティック回帰で気をつけるべきことはここだけだ。
別の例でもう少し見てみよう。たとえば、目的変数のカテゴリーが(0, 1, 2, 3)の4つだとする。そして、0をベースラインの設定する。このとき、オッズ比は目的変数のカテゴリーの比較の組み合わせごとに求めなければならない。つまり、次の3パターンのオッズ比を求めなければならないということだ。
- 目的変数=0と目的変数=1を比較したときのオッズ比
- 目的変数=0と目的変数=2を比較したときのオッズ比
- 目的変数=0と目的変数=3を比較したときのオッズ比
検定したり信頼区間を求めたり、といったことは2値ロジスティック回帰のときと同様にやることができる。でも、「目的変数のカテゴリーのどれとどれを比較するか」ごとにオッズ比を求めなければならない、というのが面倒なところだ。ソフトが勝手に計算して出してくれるけど、それを論文掲載用の表に直すのはなかなかめんどくさいかもしれない。
ところで、こんな風に比較の組み合わせごとにオッズ比を求めないとならないのなら、2値ロジスティック回帰を繰り返し実行しても同ようなものじゃないか? と思われるかもしれない。つまり、こんな風にやるのだ。
- 目的変数を「1」と「1以外」にコードし直して2値ロジスティック回帰を実行してオッズ比を求める
- 目的変数を「2」と「2以外」にコードし直して2値ロジスティック回帰を実行してオッズ比を求める
- 目的変数を「3」と「3以外」にコードし直して2値ロジスティック回帰を実行してオッズ比を求める
これでも確かに同じようにオッズ比は求められる。でも、結果が多項ロジスティック回帰と変わってくることがある。というのは、多項ロジスティック回帰でモデルをデータに適合させるときの尤度関数は、目的変数のカテゴリーが3つ以上であることを踏まえたものになっているからだ(尤度関数の式の導出は簡単だけど、書くのがめんどくさいので書かない)。一方、2値ロジスティック回帰を繰り返し実行するやり方だと、目的変数のカテゴリーが3つ以上あるという情報が無視されてしまう。だから、目的変数のカテゴリーが3つ以上なのなら、2値ロジスティック回帰を繰り返すのではなく、素直に多項ロジスティック回帰を行うべきなのだ。4
- なお、本書ではモデル構築のプロセスについてかなりページ数を割いているけど、全部カットしています。というのは、内容が交互作用や交絡をどう扱うか、というものだから。この本は疫学の研究者を対象にしたもので、疫学だと年齢とか性別とか喫煙状況とかが交絡になってくるのだと思うけど、自分の研究の場合、交絡って発想がそもそも必要なのかよくわからない。年齢や性別は単なる交絡じゃなくて、それら自体が興味のある変数だ。で、交絡について考えない場合、本書で説明されているモデル構築プロセスはほとんど不要になってしまう。いや、もしかしたら交絡を考えないようなモデルをつくること自体が間違っているのかもしれないけど…。でも、そもそも関連する既存研究がほとんどないことやってるから、何を交絡と考えればいいかもよくわからない。もうちょっと勉強していったら「やっぱりあのモデルづくりは不適切だった」となるかもしれないけど、とりあえず今回はモデル構築について考えないことにする。↩
- 「線形」ってのは、X軸に説明変数、Y軸に目的変数を設定してプロットしたら、右上がりや右下がりの直線的な関係になるということ。ちなみに、Y=X2みたいな関係でも線形と判断できる。なぜなら、X2=Zという風に置き換えてしまえば二乗の部分が消えるからだ。こういう風な置き換えをしても直線的な関係にならない関係のことを「非線形」という。そして、今回扱うロジスティック回帰はまさにこの非線形な関係を扱うものだ。↩
- それはこの教科書が馬鹿丁寧だから、というのもあるのだけど、類書の『データ解析のためのロジスティック回帰分析』でも500ページ近くある。洋書の教科書も1冊持ってるけど、これも350ページ近くあるよ。『Rによる多変量解析入門』でロジスティック回帰を説明する章は、理屈の説明をほとんど省いているので20ページくらいしかないけれど、知識がない人が読んでも何が何だかわからないと思う。↩
- なお、目的変数が順序変数の場合は順序ロジスティック回帰というのをやるといい。ただ、今回は分析に使う予定がないので端折ります。↩
【研究ノート】道徳問題における感情の役割について
感情は道徳問題を悪化させるという議論
心理学や脳科学の観点から道徳について論じる議論の中には、感情は道徳問題を悪化させるものであるという主張が割と見られる。
なぜ感情が道徳問題を悪化させるのか? それは、感情は非合理なものであり、理性的な議論を抑制してしまうと考えられているからだ。
心理学者のジョナサン・ハイトは、感情と理性の関係を「象と乗り手」の関係の比喩で表現している。ここで「乗り手」は「象使い」ではなく、ただの「乗り手」だ。だから、象をコントロールすることはできず、ただ象に乗っているだけだ。象は自動的に動き、乗り手は象の代弁者として、象がたった今したことの根拠を後から考え出す。この比喩でハイトが言いたいことは、理性は感情をコントロールできない、むしろ理性は、感情に仕える従順な召使いなのだ、というのことだ。
そして道徳問題は感情に大きく左右される。ハイトは、「無害だが不快な物語」を被験者に聞かせ、彼らの反応をみる実験を行っている。ここでいう「無害が深いな物語」というのは、たとえば、「押し入れを整理していたら国旗が出てきたので、雑巾にした」というようなものだ。別に国旗を雑巾にしても誰にも害は与えられていない。しかし、この物語を聞かされた被験者の多くは、この物語の中で「害」が発生していると主張した。そしてその理由付けはひどいこじつけばかりだった(「国旗を雑巾として使った後、トイレに流したら、トイレが詰まってみんなが困るかもしれない」など)。これは、「国旗を雑巾にする」という行為に対して(愛国的な人が)不快を感じ、その感情に対して後付けとして、「国旗を雑巾にするのは悪いことだ」という道徳的判断がでっち上げられたということだ。道徳問題においてもまず感情(象)が動き、後から理性(乗り手)が適当な理屈をつける、というわけだ。
他にも、脳科学者・哲学者のジョシュア・グリーンも感情は道徳問題を悪化させるので、理性に基づく功利主義を道徳問題に対処する際の原則にすべきだという主張をしている。これに似た論点として、ヒースは、確かに理性は大事だけど理性はあまりに貧弱すぎるので、「外部足場」によって補強してやる必要があると言っている(つまり、理性を補うような社会制度をつくろうということ)。いずれにしても、感情は道徳問題に持ち込むべきでないというのが彼らの主張だ。1
感情は非合理?
一方で、感情が逆に問題解決に役立つという議論もある。囚人のジレンマのような社会的ジレンマ状況において、自己利益を合理的に計算する人は決して協力行動を選択しない。そういう状況では、自己利益の計算を放棄し、協力行動にコミットする主体の存在が必要だ。たとえば囚人のジレンマなら、「絶対に黙秘を貫く!」と自分の行動を決めてしまって、利益のことは一切考えないのだ。こういう人がいるなら、他の人だって協力しようという気になるかもしれない2
その人が何らかの行動にコミットするとき、そのコミットの原動力となっているのが「感情」だとされている。たとえば「義侠心」とか「怒り」とか「義憤」とか、そういう感情に突き動かされている人は、自分の利益を度外視して、自分の行動を固定してしまう。感情のおかげで人間は社会的ジレンマを克服できるというわけだ。
しかしこの議論もまた、感情は非合理だと考える点では同じだ。また、こうした感情的反応は進化上、小集団社会に適応するように進化してきたと考えられている。だから前出のグリーンは、感情による道徳問題の解決は小集団ではうまくいくが、より大規模な集団内の問題や、グローバルな問題の解決においては、かえって党派心を引き起こしてしまうことで問題を悪化させると指摘する。現代社会における道徳問題の解決には、感情ではなく、やはり理性が必要なのだ、というわけだ。
感情は道徳問題を考えるためのスタートポイント
ハイトは、道徳的な問題に関して人々の意見を変えるには、「乗り手」ではなく「象」に語りかけるべきだと主張する。つまり、理性に訴えかけても道徳問題に対する人々の意見は変わらないのだ。しかし、愛情や敬意を感じられる人から語りかけられれば、「象」はその人に耳を貸すようになる。
論争になると、人はほとんど考えを変えようとしなくなる。〈象〉は論争相手から遠ざかろうとし、〈乗り手〉は相手の挑戦を、むきになって論駁しようとするのだ。
しかし相手に愛情や敬意を持っていれば、〈象〉はその人に向かって歩み寄り始め、〈乗り手〉は相手の主張に真理を見出そうと努めることだろう。 ハイト(2014)『社会はなぜ左と右にわかれるのか』
だから、道徳問題に関して意見の合わない人を前にしたら、まずは相手との共通点を見つけたりして信頼関係を築くべきだということになる。
異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったらな、次のことを心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する賞賛の気持ちや誠実な関心に表明を忘れないようにしよう。ハイト 前掲書
確かにそうなのだろう。でも、これでは感情は「進化上の厄介な遺産」という消極的な位置づけしか与えられていないように思う。道徳問題に対処する際、理性は感情の顔色をうかがいながらうまいこと説得しないとならないよ、というのがここでハイトが言っていることの趣旨だ。
ハイトの本の中には、感情という動力源がないと理性も働かなくなるから感情もやはり大事、という風な指摘もいちおうはある。脳に損傷を受けて感情が働かなくなった患者は判断能力を失い、生活は混乱を極めたという。それでも全体としては、道徳問題を解決するときにはやはり感情は否定的な位置づけしか与えられていないように思う。
一方で、倫理学では道徳問題における感情の役割が見直されてきているように思う。感情は、道徳問題について議論を始めるためのスタートポイントになりうるのだ。
センは不正義の解消において、公共的討議の役割を重視している。つまり、偏りのない視点から理性的に討議し、正義の問題を精査するということだ。ロールズのように「完全な正義」を構想しようとする議論では、完全な正義をどのようにすればゼロから立ち上げることができるのかがわからなくなる。完全な正義を一挙に実現しようとするのではなく、公共的討議を通して相対的な不正義を少しずつ解消していくことが、本当に現実を変えることにつながる。もちろん公共的討議によって必ず全員の意見が一致するということは考えにくい。それでも、奴隷制のような明らかな不正義についてはほとんどの人が合意できるだろう。そういう明らかな不正義を解消していくために、公共的討議を行うべきだ、というのがセンの正義論の骨子だ。
このようにセンもやはり理性を重視しているのだけど、一方で、センの分厚い正義論の本(『正義のアイデア』)の第1章では、感情の役割の重要性がはっきりと述べられている。たとえば奴隷制のような不正義の問題に対し、ある人は嫌悪感を持つだろう。あるいは今の時代なら、肉を食べることを残酷だと感じる人がいるかもしれない。そうした感情的反応は、そのままでは道徳になり得ない。「肉を食べるのは私は残酷だと感じる。だから肉を食べるあなたは悪だ!」という風にはならない。それでも、「肉を食べるのは残酷だ」という感情的反応があるからこそ、そこに何らかの問題があることに気づくことができる。そうした感情的反応の妥当性を理性によって精査することは必要だ。もしかしたらそこで残酷さを感じるのはただの偏見であって、よくよく考えてみたら植物を食べる方が残酷だという結論になるかもしれない。だけれど、ともかくも感情が働くからこそ、そこになんらかの不正義の問題があるのではないかという気づきにつながる。ここでは、感情はむしろ道徳問題を考えるためのスタートポイントという積極的な役割を与えられている。3
感情も立派な「理由」である
センの議論をより明確にしてくれるのが、Tappoletによる議論だ。もっとも、かなりややこしい議論なので、以下ではエッセンスだけを紹介する。うまくかみ砕けなくて原文をそのまま訳したところも多いけど我慢してくれ。
感情は評価的特性に対する知覚経験である
Tappoletによれば、感情は知覚(perception)経験に似ている。もっと正確に言えば、感情は評価特性に関する知覚経験である。
感情は知覚そのものではない。あくまで知覚経験だ。知覚と知覚経験はちがう。あなたは灰色の猫が黒猫であるという誤った「知覚経験」を持つことがある。一方、あなたが猫を灰色猫と「知覚」するとしたら、その猫が灰色猫だということになる。つまり、知覚は間違わないが、知覚経験は間違うことがあるのだ。ということは、感情には正しい感情と間違った感情があることになる。適切な対象に適切な感情を抱くのなら、その感情は正しいといえる。
感情は評価的特性に対する知覚経験である。たとえばヒグマが「恐るべきである」という評価的特性を持つのなら、それに対して「恐ろしい」という感情が生じる。しかし、不適切な感情というものもある。たとえばヒグマのぬいぐるみを見て「恐ろしい」と思う人は、「恐るべきでない」ものに「恐ろしい」という不適切な感情を抱いたことになる。
感情は実践的理由を教えてくれる
人が自律的主体性を持つためには、その人が批判的反省を行えることが必要だと考えられている。そして、批判的反省を行うためには、理由に反応する能力が必要だ。
ここで問題になるのは、感情と自律的主体性の関係だ。感情に影響されて行動する人は、理由に反応しているといえるだろうか? それとも、理由に反応しているのではなく、単に感情に突き動かされて盲目的に行動しているだけなのだろうか?
「追跡テーゼ(Tracking Thesis)」という考え方がある。これは、「感情はわれわれに対し、自分たちの実践的理由を教えてくれる」というテーゼだ。感情が実践的理由をわれわれに教えてくれるというのは、何もその感情に介入しないという条件のもとで、つまり、感情が正確に評価的事実を表すという条件のもとで成りたつ。
感情が教えてくれる実践的理由は「阻却可能」なものだ。つまり、後で自分の感情が不適切だったことに気づき、「やっぱり間違ってた。これは実践的理由にならないよ」と取り消すことができるのだ。それでも、阻却されるまではそれは立派な実践的理由だ。ロールズの「反照的均衡」という考え方があるが、Antti Kauppinenの言うように、感情に基づいた信念は、「反照的均衡を目指すプロセスにおける、最初の信頼できるスタートポイント」を構成すると見なすことができるのである。
それでは、阻却可能かどうかはどうやって判別すればいいのだろう? デヴィッド・ヒュームが強調したように、何が阻却要因(defeater)として重要であるかを判別することは、他者とともに取り組む企てなのである。ヒュームが主張しているのはこういうことだ。相互理解の可能性は、ヒュームのいう「共通の観点」または「一般的な観点」をわれわれが採用することを前提としている。一般的観点とは、空間的または時間的距離によるバイアスのような、視点による効果を補正するものだ。このアイデアによると、何が阻却要因として重要であるかを決めるためには、様々な時間や状況におけるわれわれの経験だけでなく、他者の経験も考慮に入れる必要がある。
主体的徳
Jonesによれば、感情に基づいて行為することは、その行為が彼女が「統制的ガイダンス」と呼ぶものに対する主体のコミットメントを表している場合には、真正な主体性を意味することがある。統制的ガイダンスとは、「私たちの実践的・認識論的主体性に関する反省的自己監視の習慣を継続的に養成し、実践すること」を指す。
極めて一般的にいえば、理由反応性に求められるのは、よく調整された認識論的・実践的習慣、つまり広義には「主体的徳(agential virtues)」とも言えるものの実践である。よく調整された自己監視の習慣を実践しているのなら、怒っている主体は理由に反応しているといえる。そのように言えるのは、たとえば、もし自分の怒りが自分を誤った方向に導いていると信じるべき理由があった場合には、その怒りに任せて行動しないという習慣を実践している場合である。
ここでグッドニュースがある。私たちの感情的傾向には改善の余地があるのだ。感情が直接的に意志に従うものではないとしても、私たちはそれに間接的な影響を与えることができる。私たちの感情的傾向性は狩猟採集生活を送っていた遠い過去の役立たずな遺物に過ぎず、ステレオタイプに基づいた行為や不適応な行為を強いるものである、と主張されることがあるが、そういう訳ではない。情動に関する神経科学上の新しい発見に基づいてPeter Railtonが主張するように、私たちの感情的システムは、これまで考えられてきたよりもずっと適応性が高いのである。Railtonの言葉を借りれば、「広義の感情的システムは経験を基礎とした柔軟な情報処理システムであるという認識がますます一般的になってきている」のである。
また、Railtonが強調するように、人間はネズミと違い、事態から一歩身を引いて、自らの直観的な反応を精査することができる。彼が示唆しているのは、感情が価値の適切な表現を構成し得るだけでなく、「行為を‘正しい方向’へ導き、理由反応性を実現する実践的知識の構成要素」とさえもなり得るということである。
理性が「本当の自己」であるわけではない
それでは、理性的判断と感情とが衝突した場合はどうだろう? 道徳的ジレンマ状況ではそうした問題が発生する。たとえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』では、主人公のハックが黒人奴隷のジムに出会う。ジムは逃亡してきた奴隷であり、彼を助けることは犯罪だし、宗教上のタブーでもある。そんなことをすれば自分は地獄に落ちるのではないかとハックは苦悩する。しかし逡巡した末、「地獄に落ちてもいい」とハックは考え、ジムを助ける。
「理性こそが本当の自己だ」と考える人は、ハックの決意は間違っていると考えるだろう。しかし、別の考え方もできる。そもそも、理性は「本当の自己」ではないのだ。ハックの本当の自己が「ジムを警察に突き出すべし」と考えるハックの理性だという主張をするとしたら、その主張は明らかに間違っているだろう。
もちろん、感情的反応が常に正しいわけではない。だとしても、理性を常に感情より優位において、理性に判断を任せるのもおかしい。だから、もしあるできごとに対して私たちの感情的反応にズレがあるのなら、そうしたズレについてまず話し合うべきなのだ。
自らの徳を高め、他者に耳を貸すこと
感情が概念的に構築された中身を伴わないとしても、評価的事実への気づきにおける感情の役割は、感情を主体性にとって本質的なものにする。 というのも、適切に理由に反応するためには、私たちは自らの感情に耳を澄ませなければならないからだ。
もちろんそれは、その時たまたま感じているあらゆる感情にただ従えばいい、ということではない。私たちは自らの耳を、適切な感情だけを聞くように訓練することはできない。だから、私たちに必要なのは、自らの感情的傾向性を養うこと、もっと一般的に言えば、私たちの主体としての徳を涵養することだ。 そしてそれだけでなく、私たちには、他者に耳を貸すこともできるのだ。
おわりに
Tappoletの議論は徳倫理学の一種なのかな? 徳倫理学をちゃんと勉強したことがないのだけど、たぶんそうだと思う。徳を高めよって言われても、具体的にどうすればいいのだよという問題はある。他者の意見をちゃんと聞くというのも、その他者にバイアスがかかってたらどうなのか、という批判もできる。でも、言いたいことはなんとなくわかる。
センの議論では、不正義に気づく上で感情は重要という議論だった。Tappoletの議論でもロールズの反照的均衡において感情がスタートポイントになるという話が出てくるので、いずれにしても、感情的反応にそのまま従って社会的決定をするのはまずいけど、スタートポイントに感情を使うのはよい、という点では同じだ。
一方、Tappoletの議論では、「なぜ感情なのか?」というセンの議論に欠ける部分を補ってくれている。感情は評価的事実に気づかせてくれるものであり、実践的理由を教えてくれるものなのだ。そして、そうした感情の「精度」をどうやって上げるか、という方法も教えてくれる。ようするに、徳を積むことだ。そうすれば感情は評価的事実に対する良いセンサーとして働く。だから、道徳問題において感情を無視してはいけない、ということだ。そしてこれは、感情は非合理的なものだという従来からの批判への反論にもなっている。感情は非合理的なのではなく、むしろ合理的判断に必要な実践的理由を教えてくれるものなのだ。
あまりに抽象的で現実には役立たない議論のようにも見えそうだけど、実はとても重要な論点だと思う。環境倫理学のような応用倫理学分野は、いわば「新しい倫理」を提案しようとしているわけだけど、別に倫理学者たち自身がそうした新しい倫理を発見したわけではない。ソローとかレオポルドとかレイチェル・カーソンのような感性の鋭い人たちがいて、環境問題が騒がれるずっと昔に、自然環境の状況に対して違和感を覚え、本を書いたり、社会に向けて発言したりしてきたのだ。だから彼らの本を読むと、理屈よりもまず、自然に対する敬意とか、驚きとか、あるいは自然の異変に対する不安とかが表現されていることに気づく。彼らはいわば徳を積んだ人たちで、自然に対する感情の精度が異様に高かったのだ。レイチェル・カーソンは晩年、『センス・オブ・ワンダー』という本を出しているけれど、これは、自分の親戚の子どもと一緒に自然の中を探索しながら自然の驚異を発見していくという内容の本だ。こういうセンスのある人だから、自然の異変にいち早く気づき、『沈黙の春』で環境汚染の実態を社会に向けて訴えることができたのだろう。
もちろん、環境保護論者のなかには感情に突き動かされておかしなことばかり叫ぶ人たちもいる。だから感情が万能などとは言わない。でも、感情を無視するのもおかしい。センサーの精度が100%じゃないからといってセンサーを捨ててしまうのは非合理だ。
- そして、こうした主張の根拠になっているのが行動経済学が主張する「システム1」「システム2」という脳の処理システムだ。感情はシステム1に該当し、理性はシステム2に該当する。システム1は素早く動き判断を下してしまうが、システム1を制御する立場にあるシステム2は動きがにぶいし疲れやすいので、しばしばシステム1が非合理なことをやらかしてしまう、というのが行動経済学では指摘されてきた。↩
- もちろん「正直者が馬鹿を見る」ということはあって、そういう「絶対に黙秘を貫く!」という人を搾取しようとする人はいるだろう。本当はここは、囚人のジレンマではなく集合行為問題を例としてあげた方が適切だ。集合行為問題の場合、協力者の人数が閾値を超えれば集団全体が「協力」を選択するようになる。だから、自己利益を度外視して協力行動にコミットする人が一定するいれば、利己的な人たちも協力せざるを得なくなる。ただ、集合行為問題をいちいち説明するのがめんどくさいので、ここでは囚人のジレンマを例に挙げた。↩
- 同じような発想は、倫理学におけるケアと正義の関係をめぐる議論でもみられる。その辺りは品川哲彦『正義と境を接するもの』で整理されているけど、ややこしいので今回はこれ以上深入りしない。いずれ読書ノートをつくらないとなあ。↩
【読書ノート】『正義のアイデア』第18章
ずっと前に途中まで読書ノートをつくっていたけど、同じような議論が延々とつづくので疲れてストップしてた。最終章である第18章は全体のまとめになってるので、ズルしてここだけ要約して、読書ノートを完成させたふりをしよう。
第18章正義と世界
かつてリカードは、旱魃で食料不足が発生したとき、「政府は何をやっているんだ!」と訴える社会運動家たちに対して軽蔑の気持ちを表した。食料が足りないのはどうしようもないことだ。それなのにそれをどうにかできるかのように貧しい人々の感情を刺激するのは残念なことだ、というわけだ。
だけど、私はこうしたリカードの非難には反対する。
まず、感情は大事だ。不正義の感覚は間違うこともあるけれど、ともかく検討することが必要だ。不正義の問題を精査するために、まずは感情を出発点とするのだ。怒りが議論に取って代わってしまってはいけないが、議論の動機として用いるのは構わない。
それから、別に食料不足はどうしようもない問題ではない。それは単に、人々が食料にアクセスできないだけであって、食料が本当にないわけではないのだ。
だから、自分とちがう意見がどんなに未熟で粗雑にみえようと、まずは公共的討議をしてみるべきなのだ。
激怒と理性
不正義に対する怒りはわれわれを動機づけてくれる。でも、そうした怒りの根拠をきちんと理性的に精査することは必要だ。
たとえば、18世紀におけるフェミニスト思想家のウルストンクラフトの著作には怒りのレトリックが見られるが、そうしたレトリックの後にはかならず理性的な議論がつづく。それは、彼女が、自分の議論の反対者にもきちんとその問題を考えてほしいと思っているからだ。
そんな風に理性にもとづいて議論することで、すべての対立を解消し、合意に至ることができるという保証はない。しかし、完全な解決は、理に適った社会的選択をするために必ずしも必要ではないのだ。
正義が行われるのを見ること
でも、どうして理に適った合意が、正義の問題を考える上で重要なのだろうか?
まず、理に適った合意であるということは、人々の信頼と承認が得られているということだ。そういう決定はスムーズに実施することができる。
でも、そういう便宜的な理由だけではない。もし、理に適った合意ではないことを実践に移すとしたら、それは健全なものではないだろう。理由として大事なのはむしろこっちの方だ。
理由の複数性
評価に対して理由の複数性を取り入れるのは重要なことだ。しかし、そういう風に複数の理由を取り入れてしまったら物事が決められなくなってしまうのではないだろうか?
そんなことはない。たとえばリンゴとオレンジの価値は様々な次元で様々に異なるだろう。味の次元、値段の次元、栄養の次元、見た目の次元…。こんな風に次元がたくさんあるからといって、「ああ、味基準だとリンゴだけど、見て目基準だとオレンジだし…。こんなの選べないよ!」なんてことにはならない。
正義の問題も同じだ。正義について判断するためには、さまざまな理由を調和させなければならない。そうやって複数の理由を考えていって、選択肢を完全に順序づけすることはできないかもしれない。でも大丈夫。部分順位しか決められなくても物事は決められるのだ。
不偏的推論と部分順位
もちろん、笛を求めて争う三人の子どもの例のように、どうしても公正な選択肢を決められない状況はありうる。全ての問題が必ず解決できるわけではない。でも逆に、全ての問題が全く解決できないわけでもない。
判断基準によって、どれを選ぶべきかちがってしまう場合だって、よくよく見たら、どの判断基準でも共通している順位付けが見つかるかもしれない。たとえば、「どんな評価基準を使っても、奴隷制は明らかに悪い選択肢だ」となるかもしれないのだ。
部分的決定の及ぶ範囲
たとえば、選択肢yとzのどちらが良いか順位が決められない状況を考えてみよう。こんなときでも、選択肢xがこのいずれよりも良い選択肢であれば、xを選べば良い、ということになる。
x P (y ? z) → x を選べばいい!
あるいは、こういう状況は?
(x ? y) P z → zを選ばなければいい!
比較の枠組み
正義に関する論争をもっと実用的なものにするには、完璧な正義を追い求めるのではなくて、「どの選択肢を選べば正義を促進できるのだろう?」という比較をしてものごとを考えなくてはならない。
正義と開放的不偏性
不偏性は、国や地域の中だけではなく、グローバルに展開しないといけないものだ。
なぜか? 一つには、われわれの世界は相互に依存していて、自分たちの正義や不正義が他国や他の地域にも影響してしまうからだ。たとえば、アメリカ発の金融危機は他国にも大きな影響を与えた。また、ある国で人々が不正義に苦しんだり憤ったりすれば、その不満は他国にも影響を与えることになるだろう。
もう一つの理由は、グローバルに考えることで、自分たちの偏狭さから逃れることができるからだ。
正義の要件としての非偏狭性
アダム・スミスの「公平な観察者」という思考実験は、偏狭主義を回避するのに役立つ。彼は、われわれは自分の感情を「自分自身から遠く離れて」見なければならないと主張する。そうすることで、伝統や習慣にとらわれることなく自由に物事を考えることができるのだ。
もちろん、そうやって遠くの声を聴くからといって、すべての声を尊重しなければならないということではない。ずいぶんおかしな声だってあるだろう。でも、最初は奇妙に思える議論だって、よくよく検討すれば、私たちの考えを豊かにしてくることもあるんじゃないか。
正義、民主主義、グローバルな推論
グローバル政府は、しばらくは実現しないだろう。でも、だとしてもグローバル民主主義が実現できないということではない。国連や市民組織、NGO、あるいはメディアなどを通して、様々な「声」を他国や他の地域に届けることができるのだ。
社会契約と社会的選択
社会契約にかかわる議論はいろいろためになるものだが、それでも私は社会的選択アプローチの方を推す。
差異と共通点
哲学は、世界中の人々の苦しみについて深く考えるために役立つのだよ。
コメント
なぜ今さら本書に手を付けたかというと、「感情」と倫理の関係についてこのところ考えているから。
ジョナサン・ハイトみたいな道徳心理学における議論だと、感情は道徳的な偏見を生み出すものだとされているように思う。
あるいは、トロッコ問題をネタにたくさん実験をやった末に功利主義をメタ道徳に据えようと提案するジョシュア・グリーンも、感情は小集団での道徳問題を解決するための進化の産物であり、小集団の枠を越えたグローバルな道徳問題の場合、かえって問題をこじらせる原因になるというようなことを言っている。
あと、読んでないけど「共感」なんてダメ! みたいな議論もあるそうだね。
だけど、今回まとめた最終章では、不正義に対する怒りや憤りのような感情的反応は、正義の問題を考えるためのとっかかりだという位置づけがされていると思う。そして、リカードみたいに感情的な人々を冷たく突き放す姿勢を批判している。
センによるこうした議論は、感情の役割を否定しようとする論者たちに比べると、ずっと「大人」であるように感じる。人間は感情を持つ生きものであるし、感情を無視してデータや屁理屈を他人に押しつけようとするやり方は、何と言うか、「ガキっぽい」という感じがしてしまう。たとえば、原発事故やコロナパンデミックやらで不安に暮らしている人々に、「データによるとリスクはそれほど大きくないから、あなたが不安に感じるのは間違ってますよ」と言う人がいたら、それは人として何かまちがったやり方のように思う。
もちろん、その感情が妥当かどうか精査することは必要だ。だけど、そうした精査は学者が勝手にやることではなくて、当事者が自らやらなくてはならないことだろう。それは、当人任せにすればいいということではなくて、不安を感じている人が冷静さを取り戻せるように、ケアしてあげることは必要だ。理性主義者の人たちは「ケア」とか「共感」という考え方を嫌う傾向があるけれど、理性的に考えるためにも、まずはケアと共感が必要なのだと思う。
倫理や正義にかかわる問題に最終的に決着をつけるのは理性の役割だ。だけど、そもそもそうした問題に気づいたり、あるいは理性をうまく働かせて問題を考えるためには、まずは感情の役割が重要になってくる。だから、倫理や正義の問題において感情の役割にもっと注目しよう、というのが最近の私が考えていることだ。
で、前もちょっと触れたこの本をさっさと読み終えたいのだけど、なかなか読み進められないなあ。
【研究ノート】どうしてメタ倫理学は「実在」にこだわるのか?
環境意識関連の論文の準備を進めている中で、感情と道徳の関係について関心が出てきた。
環境配慮行動系の論文を探すと、感情が行動に影響するとか、道徳意識が行動に影響するといった趣旨のものはそこそこ見つかる。でも、そういう研究はだいたい社会心理学の人たちがやっているので、「なぜ影響するのか?」という哲学的な話には深入りしないで、「とにかくデータは影響があると示しています」というので終わってしまい、物足りない。私は社会心理学っぽい手法を使って研究をしているけれど、気質的には哲学とか倫理学の方に関心があるので、「なぜ?」をもうちょっと突き詰めていきたい気持ちが強い。
それで、感情と倫理・道徳の関連を扱ってる文献を探してみたらちょうど良さそうなのが見つかった。
章のタイトルを見ると、感情と価値、感情と責任、感情と主体性、なんて言葉が並んでいる。多分、人が道徳意識を持つ主体として物事を判断したり他者と議論したりするには実は感情が大事なんだよ、みたいなことを論じてくれるんじゃないだろうか。そう期待して読み始めた。
しかし、読み進めてもなかなかそういう話にならない。代わりに、評価特性は実在するという筆者の説が展開されている。筆者によれば、感情とは、評価特性に関する知覚経験のことだ。例えば、「恐れ」という感情は、「恐れるべきもの」という評価特性を知覚する経験のことである。
この評価特性は実在するという話がいまいちピンときていない。単純に、何かがそこに存在して、それを私が「恐れる」だけなのではないか。つまり、「恐れる」というのは主観的な反応であって、別に「恐れるべきもの」という評価特性が客観的に実在している訳ではないのではないか。
だけど、「恐れる」のが適切な状況と、不適切な状況というものがある。例えば、包丁を持った血まみれの男が目の前に現れたら、そこで「恐れる」のは適切だろう。でも、目の前にプラスチックの刀を持った幼稚園児がいるのを「恐れる」のは不適切だ。そういう「恐れるのが不適切な状況」では、目の前にいるのは「恐れるべきもの」ではない。つまり、その場合、「恐れるべきもの」は実在していない。一方、包丁を持った血まみれの男に対しては「恐れる」のが適切である。だから、この場合、その包丁を持った血まみれの男が「恐れるべきもの」として実在しているのだと言える。筆者はそういう論法で、評価特性は実在し、そしてそうした評価特性に対する知覚経験が感情なのだと主張する。
ただ、話はこんなふうにスムーズにはいかない。というのは、「適切な状況」といったって、そもそも何が適切なのかどう決めればいいのか、という問題が出てくるからだ。そこで筆者が提案するのが、表象的ネオ感情主義というやつだ。これは以下のように定式化される。
xについて考えるとき、xに対する反応として感情Eが正しい時に限り、xはVである。
ここでVは感情に関わる価値を意味する。
このテーゼが言っているのは、感情は対象をある評価特性を持つものとして表象するということ、そして、その感情が正しいかどうかは、対象がそのように表象されているかどうかによって決まる、ということだ。例えば、楽しいという感情が正しいのは、その対象が楽しみをもたらすものであるときだけだ、ということになる。
これって本当に、「適切な状況」の説明になっているの? もちろんなっていない、と筆者はいう。なぜなら議論が循環的なものになっているからだ。だけど、少なくとも、われわれが何かを「楽しい」とか「恐ろしい」といったふうに評価できるという事実は、「楽しい」とか「恐ろしい」という感情と密接に結びついている。その程度のことは言えるのだ。
英語の本だからというのもあるけど、そもそもこの手の議論にあまり慣れていないので、いまいち話のポイントが掴めていない気がしている。表象という議論がなぜ出てきたのかもあまり理解できていない。それで、本書のページのコピーをChatGPTに見せて、「こういう議論を理解するためにはどういう勉強をすればいい?」と聞いたら、メタ倫理学を勉強しろと言われたので、メタ倫理学もにわかで勉強し始めた。倫理学にはそれなりに関心を持ってこれまで生きてきたけど、メタ倫理学はなんとなく瑣末で不毛な学問というイメージがあって敬遠してきたのだ。
まだ途中までしか読んでないけど、とりあえず、メタ倫理学という学問が道徳の実在と非実在の間を行ったり来たりしながら展開されてきたということはよくわかった。
道徳の実在にこだわる人たちからすると、道徳が実在しないとしたらなんでもありの社会になってしまうだろうという懸念がある。また、戦争とか自然災害とか病気といったシビアな状況で、人は道徳的判断を巡って苦悩する。道徳が実在しないとしたら、そうした苦悩をする人々の真剣さをうまく扱えないじゃないか、という問題意識もあるようだ。
一方で、「道徳なんて国や文化や時代で全然変わってくるし、実在するわけないよ。ただの主観でしょ?」と言いたくなる人もいるだろう。でも、ここで言っている「実在」は、その人の心の有り様でコロコロ変わってしまうようなものではない、客観的で安定的なもの、くらいの意味合いしかない。「人を殺してはいけない」という道徳が、「うーん、今日は殺してもいい気分だから、今日は人を殺してもいいという道徳にしよう!」というふうに無効化されてしまうなんてことは、普通は考えられない。となると、やっぱり道徳は実在すると考えた方が良いのではないか。
だけど一方で、「実在する」ということを証明するのもそれはそれで大変だ。実在するというのならその証拠を見せろ、ということになるだろう。でも、「ほら、この国ではほとんどの人が人を殺すのをためらっているでしょ? だから、人を殺してはいけないという道徳は実在するんだよ!」と主張するのは自然主義的誤謬にはまっている。つまり、人々がどう振る舞っているか、といった事実から、「こうするべきだ」といった道徳を引き出すことはできない。最近だったら心理学や脳科学に基づいて「人間は生まれつき共感的な振る舞いをすることがデータによって裏付けられている。だから、人助けをするのは人間にとって道徳なんだ」みたいな主張をする人がいるかもしれない。でもそういうのも同様に自然主義的誤謬だ。
こんなふうに、「道徳は実在する」という証拠を示そうとしてもなかなかうまくいかないのだ。そこで頭に来て「証拠はこれさ! 俺のハートが道徳の根拠なんだよ!」なんてうっかり言ったりしたら、非実在論者のカモにされる。「ハートぅ? じゃあ、やっぱり道徳って主観なんですね。ということは道徳は実在しないわけですね」と突っ込まれてジエンドだ。
というわけで、道徳が実在するかどうか、という問題設定自体が一見奇異なものに見えるのだけど、よくよく考えていくと一筋縄でいかない極めて厄介な問題なのだということがわかってくる。
感情の話に戻すと、なぜ筆者が評価特性の実在にこだわるのかといえば、メタ倫理学で展開されてきた実在論の方を支持したいという気持ちがあるからだろう。じゃあなんで感情にこだわるの? というのはよくわからない。でも、感情ってまさに「主観的」なものであって、実在論とは水と油の関係になりそうなものだ。そういう主観的なものをあえて土台に据えて実在論を展開することができれば、実在論をより強固なものにできるだろう、という思惑があるのかもしれない。
といっても、議論についていけなくなって途中で積読になってしまっているので、本当にそういうことなのかはよくわからない。とりあえず今回は、筆者が実在にこだわる理由がなんとなくわかった、というくらいで満足しておこう。
でも、メタ倫理学って面白いな。これが現実社会に役立つとはとても思えないのだけど、議論の厳密さや発想が人間離れしていて、すごく刺激的だ。環境倫理学みたいに中途半端に現実社会に寄せようとすると、環境社会学の出来損ないみたいなつまんない議論になりがちだ。それで、最近は倫理学に興味が持てなくて勉強をサボっていたのだけど、メタ倫理学みたいなのだったらもっと勉強してみたいな。今のところ、コーネル実在論と、マクダウェルの感受性理論が面白そうだなあと感じている。論文がひと段落したら読んでみようかな。
【雑文】講義スライドをかつての私の倍速で作ってる今の私は
4月に某田舎大学の教員に着任して、毎週講義スライドを何十枚も作っている。いろんな雑用もある中でやっているのだけど、大体毎日6時前には帰れている。
ずっと前に初めて教員になった時は、講義準備で毎日夜遅くまで残っていたと思う。しかも雑用はそんなになかったのに。睡眠時間は毎日6時間くらいしかとれなかったなあ。それが今は毎日7時間眠っている(亀が暴れて早朝に起こされることもあるけれど)。
何が変わったのだろうか? 単純にスライド作りに慣れたとか、講義のネタが頭の中にいろいろ蓄積してきたというのもあると思う。でも、それだけでなくて、スライドの作り方が前よりずっと効率的になったのだと思う。ちょいとそのスライド作りの手順を示してみよう。
手順1:Workflowyでスライドのアウトラインを雑に作る
別にWorkflowyでなくてもいいけど、動作が滑らかなのでこの方がストレスがたまらない。
アウトラインを作ることで、どんな知識が必要なのかがわかってくる。こういう感じの本を読んでおいた方がいいなあ、とか。そういうのをちゃんとメモっておく。
この段階でのアウトラインはかなり雑でいい。あくまで、必要な資料を特定するための作業なので。
手順2:Obsidianに読書ノートを作っていく
手順1で必要な資料が見えてきたら、その資料の読書ノートをせっせとまとめていく。私がこのブログによくアップしているようなやつだ。
読書ノートを作るのはいろいろ試したけどObsidianが一番良いと思う。ノート同士のリンクを張ったり、ノートにタグをつけたりできるので、必要な情報に後からアクセスするのがすごく楽。
手順3:手順1で作ったアウトラインに手順2の読書ノートの内容を次々とコピペしていく
コピペするだけだと読みにくいので、全体の流れが見えるようにあちこち調整してアウトラインを整形していく。
これで大体アウトラインが出来上がる。この段階でアウトラインをあまりきっちり作る必要はない。アウトラインの清書は次の手順でやる。
手順4:アウトラインをWordにコピペして、アウトラインの清書をする
腹立たしいことに、WordにコピペするとWorkflowyでのアウトライン構造が崩れてしまう。見た目上はそんなふうに見えないけど、Wordでアウトライン表示にしてみると、アウトラインのレベルが全部なくなって、ただたくさんの項目が同じレベルで並んでしまうのだ。ここはWordの仕様上いかんともしがたいみたいだ。アウトライン表示の状態でちまちまタブキーを押して、アウトライン構造を清書していく。
ここで、各スライドの見出しに使いたいところをアウトラインのレベル1に設定することを忘れずに。
手順5:アウトラインをPowerPointで読み込んで、スライド清書
アウトラインをPowerPointで読み込むと、アウトラインのレベル1の部分を見出しにしたスライドがいっぺんに作れる。これでほぼスライドは完成したと言ってもいい。あとは、文字が多すぎたり少なすぎたりするところを調整したり、必要に応じて図表を挿入したりすればいい。
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なお、スライドデザインは細かいことにこだわりすぎると無限に時間が溶けていくので、適当でいい。デザインのテンプレを適当に設定し、スライドマスターでフォントとかフッターとかを良い感じにいじっておく。それ以上のデザインは求めない。俺はデザイナーではないのだと開き直るといい。
また、PowerPointでスライドを読み込むとき、なぜかスライドマスターで設定したフォントではなく、Wordファイルで設定していたフォントが利用されてしまう(こういうわけわかんない仕様が多いのでOfficeは嫌いなのだけど仕方ない)。だから、フォントは前もってWordで設定しておく必要がある。
今回示した手順で一番大変なのは手順2の読書ノート作り。結局、読書ノート作っちゃえば講義スライドはできたも同然なのだ。極端なこといえば、このブログにアップした読書ノートを見せながら講義したって良いわけだしね。
ただ、読書ノートを作るのは私の場合、決して仕事という感じはしないのだよ。ブログ記事書いてるのと実質的に同じだから、趣味の延長のような感覚でやれてる。だから土日に自宅で読書ノート書いてても苦痛を感じない。これが、土日も大学に行ってパワーポイントいじるとかだったらかなり苦痛だと思う。自分が苦痛を感じない作業を切り出して、そこにウェイトを置くような仕事の仕方にした、というのが今回のやり方のポイントなのだと思う。
あとついでにもう一つ補足。どうしてこんなにアウトライン機能を多用するのかというと、アウトラインを使うと、コピペした読書ノートをあれこれ整形しているうちにスライドを作ってしまうことができるから。いきなり読書ノートをPowerPointにコピペすると、すごくたくさんの文字で埋め尽くされたスライドページができてしまう。こいつを手直ししてまともなページにするのは結構面倒な作業だ。例えば2つのページに分割した方がいいなあ、と思ったらいちいち空のページを作って元のページの内容をコピペしないとならないとか。これが、アウトライン機能を使うとタブキーでアウトラインレベルをいじってるだけでページの分割や統合が簡単にできる。
あと、Wordを間に挟まずに、PowerPointをアウトライン表示にしておいてそこにWorkflowyのアウトラインを貼り付けるというやり方もあると思うけど、やってみると結構使いにくい。PowerPointのアウトライン機能はおまけみたいな貧弱なものなので、やっぱり間にWordを挟んでおいた方がいろいろ便利だと思う。
【用語集】共有知識
知識を共有している、というのはどういう状況だろう?
たとえば、AさんとBさんの2人がいる。そして、2人とも「太陽は東から昇り西に沈む」ということを知っているとする。こういう状況を「AさんとBさんは知識を共有している」といっていいだろうか?
しかし、このままだと2人は相手も「太陽は東から昇り西に沈む」ということを知っているかどうかわからない。だから、たとえばAさんがBさんに太陽のことを話題に出すときは、「あなたは知らないかもしれないけど、太陽は東から西に沈むんだよね」と言うことになるかもしれない。こういうとき、AさんとBさんが知識を共有しているという風に言うのはちょっとへんだろう。だって、本当に知識を共有しているのなら、そんな回りくどい話しかけ方はしないはずだからだ。
となると、2人が知識を共有しているとは、「2人が同じ知識を持っていて、かつ、そのことを2人とも知っている状態だ」ということになるだろう。
これで話は終わりだ、と言いたいところだが、そうではない。それは、この2人がゲームをしている状況だ。それは将棋でもチェスでもいいし、五目並べでもいい。相手の行動を読んだ上で自分の行動を決めなければならないようなゲームならなんでもいい。
ゲーム理論における共有知識とは、お互いがお互いを完璧に読み合っているような状況のことだ。たとえば将棋で、「こういう風に駒を置いたら相手に王手されて絶対にこちらが負ける」という状況がある。そういう状況で、プロの棋士なら絶対にちがうところに駒を置くだろう。対戦相手もそう考えて、「あいつがああいう風に駒を置くことはないだろうな」と予測した上で自分の手を決める。しかしそのこともまた、こちらは予測した上で自分の駒を置くのだ。プロ棋士たちはそういう風に相手の手を読み合って、相手を少しでも出し抜こうと神経を張り詰めているわけだ。
具体的な利得表を出そう。次のようなゲームがあるとする。
L | R | |
---|---|---|
U | 2, 2 | 1, 3 |
M | 1, 1 | 0, 0 |
D | 0, 0 | 2, 1 |
このゲームで、行プレイヤーの戦略Mは、戦略Uによって強く支配されている。つまり、列プレイヤーがどの戦略をとろうと、戦略Mよりも戦略Uの方が大きな利得が得られるということだ。こういうとき、列プレイヤーは次のように考えるだろう。
「行プレイヤーは合理的なやつだから、戦略Mを選ぶなんてことは絶対にしないだろう」
だから、このとき列プレイヤーの頭の中では、元の利得表は次のように書き換えられているはずだ。つまり、行プレイヤーの戦略Uが消去されているのだ。
L | R | |
---|---|---|
U | 2, 2 | 1, 3 |
D | 0, 0 | 2, 1 |
↑ 列プレイヤーの頭の中の利得表
さてこのとき、行プレイヤーはどう考えるだろう? 元の利得表を見る限り、列プレイヤーの戦略には強く支配されている戦略がない。つまり、列プレイヤーがLを選ぶのかRを選ぶのか、このままではわからないということだ。
しかし、行プレイヤーは元の利得表ではなく、列プレイヤーの頭の中の利得表を元にして列プレイヤーの戦略を予測するはずだ。なぜなら、行プレイヤーは次のように考えるからだ。
「列プレイヤーは合理的なやつだから、「行プレイヤーは合理的なやつだから、戦略Mを選ぶなんてことは絶対にしないだろう」と考えて、俺の戦略Mを消去した利得表を元に自分の戦略を決めるだろう」
列プレイヤーの頭の中の利得表をみると、列プレイヤーの戦略Rは戦略Lを強く支配していることがわかる。だから、列プレイヤーは戦略Lを選ばないはずだ。すると、行プレイヤーの頭の中には次のような利得表があることになる。
R | |
---|---|
U | 1, 3 |
D | 2, 1 |
↑ 列プレイヤーの頭の中の利得表を前提にした、行プレイヤーの頭の中の利得表
さて、こう考えると行プレイヤーは戦略Dを選べば利得を最大化できることになる。だから、結局、均衡は次のようになる。
R | |
---|---|
D | 2, 1 |
↑ 最終的な均衡
この均衡にたどり着くプロセスで、両プレイヤーは相手の思考を読んだ上で自分の戦略を決め、そのことも相手は読んでいるだろうとさらに相手の思考を読んで自分の戦略を決め……という風に入れ子状の思考をしていることがわかる。まるでマトリョーシカみたいに。こういうのが、ゲーム理論でいう共有知識だ。
ここで共有されている知識とは何だろう? それは、「お互いが合理的である」ということに関する知識だ。
「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」
「「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」ことをAは知った上で合理的に振る舞う」
「「「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」ことをAは知った上で合理的に振る舞う」ことをBは知った上で合理的に振る舞う」
……
この入れ子は、ゲームが複雑になるほど層が深くなる。もし最下層までこの読み合いを続けることができるのなら、わざわざそのゲームをプレイする必要はなくなるだろう。なぜなら、プレイしなくてもどちらが勝つのか、頭の中だけでわかってしまうからだ。逆に言うと、今でも将棋やチェスがプレイされているのは、この読み合いを最後まで続けることがそうしたゲームの場合あまりに難しすぎるから、ということなのだろう。
コメント
ゲーム理論の勉強をしていて、共有知識ってようするにどういうことなの? というのがいまいちわかった気がしないので、かなり自己流でかみ砕いて書いてみました。なので、どっかまちがったこと書いてるかも。参考にしたのは下記の本。