【研究ノート】道徳問題における感情の役割について

感情は道徳問題を悪化させるという議論

心理学や脳科学の観点から道徳について論じる議論の中には、感情は道徳問題を悪化させるものであるという主張が割と見られる。

なぜ感情が道徳問題を悪化させるのか? それは、感情は非合理なものであり、理性的な議論を抑制してしまうと考えられているからだ。

心理学者のジョナサン・ハイトは、感情と理性の関係を「象と乗り手」の関係の比喩で表現している。ここで「乗り手」は「象使い」ではなく、ただの「乗り手」だ。だから、象をコントロールすることはできず、ただ象に乗っているだけだ。象は自動的に動き、乗り手は象の代弁者として、象がたった今したことの根拠を後から考え出す。この比喩でハイトが言いたいことは、理性は感情をコントロールできない、むしろ理性は、感情に仕える従順な召使いなのだ、というのことだ。

そして道徳問題は感情に大きく左右される。ハイトは、「無害だが不快な物語」を被験者に聞かせ、彼らの反応をみる実験を行っている。ここでいう「無害が深いな物語」というのは、たとえば、「押し入れを整理していたら国旗が出てきたので、雑巾にした」というようなものだ。別に国旗を雑巾にしても誰にも害は与えられていない。しかし、この物語を聞かされた被験者の多くは、この物語の中で「害」が発生していると主張した。そしてその理由付けはひどいこじつけばかりだった(「国旗を雑巾として使った後、トイレに流したら、トイレが詰まってみんなが困るかもしれない」など)。これは、「国旗を雑巾にする」という行為に対して(愛国的な人が)不快を感じ、その感情に対して後付けとして、「国旗を雑巾にするのは悪いことだ」という道徳的判断がでっち上げられたということだ。道徳問題においてもまず感情(象)が動き、後から理性(乗り手)が適当な理屈をつける、というわけだ。

他にも、脳科学者・哲学者のジョシュア・グリーンも感情は道徳問題を悪化させるので、理性に基づく功利主義を道徳問題に対処する際の原則にすべきだという主張をしている。これに似た論点として、ヒースは、確かに理性は大事だけど理性はあまりに貧弱すぎるので、「外部足場」によって補強してやる必要があると言っている(つまり、理性を補うような社会制度をつくろうということ)。いずれにしても、感情は道徳問題に持ち込むべきでないというのが彼らの主張だ。1

感情は非合理?

一方で、感情が逆に問題解決に役立つという議論もある。囚人のジレンマのような社会的ジレンマ状況において、自己利益を合理的に計算する人は決して協力行動を選択しない。そういう状況では、自己利益の計算を放棄し、協力行動にコミットする主体の存在が必要だ。たとえば囚人のジレンマなら、「絶対に黙秘を貫く!」と自分の行動を決めてしまって、利益のことは一切考えないのだ。こういう人がいるなら、他の人だって協力しようという気になるかもしれない2

その人が何らかの行動にコミットするとき、そのコミットの原動力となっているのが「感情」だとされている。たとえば「義侠心」とか「怒り」とか「義憤」とか、そういう感情に突き動かされている人は、自分の利益を度外視して、自分の行動を固定してしまう。感情のおかげで人間は社会的ジレンマを克服できるというわけだ。

しかしこの議論もまた、感情は非合理だと考える点では同じだ。また、こうした感情的反応は進化上、小集団社会に適応するように進化してきたと考えられている。だから前出のグリーンは、感情による道徳問題の解決は小集団ではうまくいくが、より大規模な集団内の問題や、グローバルな問題の解決においては、かえって党派心を引き起こしてしまうことで問題を悪化させると指摘する。現代社会における道徳問題の解決には、感情ではなく、やはり理性が必要なのだ、というわけだ。

感情は道徳問題を考えるためのスタートポイント

ハイトは、道徳的な問題に関して人々の意見を変えるには、「乗り手」ではなく「象」に語りかけるべきだと主張する。つまり、理性に訴えかけても道徳問題に対する人々の意見は変わらないのだ。しかし、愛情や敬意を感じられる人から語りかけられれば、「象」はその人に耳を貸すようになる。

論争になると、人はほとんど考えを変えようとしなくなる。〈象〉は論争相手から遠ざかろうとし、〈乗り手〉は相手の挑戦を、むきになって論駁しようとするのだ。

しかし相手に愛情や敬意を持っていれば、〈象〉はその人に向かって歩み寄り始め、〈乗り手〉は相手の主張に真理を見出そうと努めることだろう。 ハイト(2014)『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

だから、道徳問題に関して意見の合わない人を前にしたら、まずは相手との共通点を見つけたりして信頼関係を築くべきだということになる。

異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったらな、次のことを心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する賞賛の気持ちや誠実な関心に表明を忘れないようにしよう。ハイト 前掲書

確かにそうなのだろう。でも、これでは感情は「進化上の厄介な遺産」という消極的な位置づけしか与えられていないように思う。道徳問題に対処する際、理性は感情の顔色をうかがいながらうまいこと説得しないとならないよ、というのがここでハイトが言っていることの趣旨だ。

ハイトの本の中には、感情という動力源がないと理性も働かなくなるから感情もやはり大事、という風な指摘もいちおうはある。脳に損傷を受けて感情が働かなくなった患者は判断能力を失い、生活は混乱を極めたという。それでも全体としては、道徳問題を解決するときにはやはり感情は否定的な位置づけしか与えられていないように思う。

一方で、倫理学では道徳問題における感情の役割が見直されてきているように思う。感情は、道徳問題について議論を始めるためのスタートポイントになりうるのだ。

センは不正義の解消において、公共的討議の役割を重視している。つまり、偏りのない視点から理性的に討議し、正義の問題を精査するということだ。ロールズのように「完全な正義」を構想しようとする議論では、完全な正義をどのようにすればゼロから立ち上げることができるのかがわからなくなる。完全な正義を一挙に実現しようとするのではなく、公共的討議を通して相対的な不正義を少しずつ解消していくことが、本当に現実を変えることにつながる。もちろん公共的討議によって必ず全員の意見が一致するということは考えにくい。それでも、奴隷制のような明らかな不正義についてはほとんどの人が合意できるだろう。そういう明らかな不正義を解消していくために、公共的討議を行うべきだ、というのがセンの正義論の骨子だ。

このようにセンもやはり理性を重視しているのだけど、一方で、センの分厚い正義論の本(『正義のアイデア』)の第1章では、感情の役割の重要性がはっきりと述べられている。たとえば奴隷制のような不正義の問題に対し、ある人は嫌悪感を持つだろう。あるいは今の時代なら、肉を食べることを残酷だと感じる人がいるかもしれない。そうした感情的反応は、そのままでは道徳になり得ない。「肉を食べるのは私は残酷だと感じる。だから肉を食べるあなたは悪だ!」という風にはならない。それでも、「肉を食べるのは残酷だ」という感情的反応があるからこそ、そこに何らかの問題があることに気づくことができる。そうした感情的反応の妥当性を理性によって精査することは必要だ。もしかしたらそこで残酷さを感じるのはただの偏見であって、よくよく考えてみたら植物を食べる方が残酷だという結論になるかもしれない。だけれど、ともかくも感情が働くからこそ、そこになんらかの不正義の問題があるのではないかという気づきにつながる。ここでは、感情はむしろ道徳問題を考えるためのスタートポイントという積極的な役割を与えられている。3

感情も立派な「理由」である

センの議論をより明確にしてくれるのが、Tappoletによる議論だ。もっとも、かなりややこしい議論なので、以下ではエッセンスだけを紹介する。うまくかみ砕けなくて原文をそのまま訳したところも多いけど我慢してくれ。

感情は評価的特性に対する知覚経験である

Tappoletによれば、感情は知覚(perception)経験に似ている。もっと正確に言えば、感情は評価特性に関する知覚経験である。

感情は知覚そのものではない。あくまで知覚経験だ。知覚と知覚経験はちがう。あなたは灰色の猫が黒猫であるという誤った「知覚経験」を持つことがある。一方、あなたが猫を灰色猫と「知覚」するとしたら、その猫が灰色猫だということになる。つまり、知覚は間違わないが、知覚経験は間違うことがあるのだ。ということは、感情には正しい感情と間違った感情があることになる。適切な対象に適切な感情を抱くのなら、その感情は正しいといえる。

感情は評価的特性に対する知覚経験である。たとえばヒグマが「恐るべきである」という評価的特性を持つのなら、それに対して「恐ろしい」という感情が生じる。しかし、不適切な感情というものもある。たとえばヒグマのぬいぐるみを見て「恐ろしい」と思う人は、「恐るべきでない」ものに「恐ろしい」という不適切な感情を抱いたことになる。

感情は実践的理由を教えてくれる

人が自律的主体性を持つためには、その人が批判的反省を行えることが必要だと考えられている。そして、批判的反省を行うためには、理由に反応する能力が必要だ。

ここで問題になるのは、感情と自律的主体性の関係だ。感情に影響されて行動する人は、理由に反応しているといえるだろうか? それとも、理由に反応しているのではなく、単に感情に突き動かされて盲目的に行動しているだけなのだろうか?

「追跡テーゼ(Tracking Thesis)」という考え方がある。これは、「感情はわれわれに対し、自分たちの実践的理由を教えてくれる」というテーゼだ。感情が実践的理由をわれわれに教えてくれるというのは、何もその感情に介入しないという条件のもとで、つまり、感情が正確に評価的事実を表すという条件のもとで成りたつ。

感情が教えてくれる実践的理由は「阻却可能」なものだ。つまり、後で自分の感情が不適切だったことに気づき、「やっぱり間違ってた。これは実践的理由にならないよ」と取り消すことができるのだ。それでも、阻却されるまではそれは立派な実践的理由だ。ロールズの「反照的均衡」という考え方があるが、Antti Kauppinenの言うように、感情に基づいた信念は、「反照的均衡を目指すプロセスにおける、最初の信頼できるスタートポイント」を構成すると見なすことができるのである。

それでは、阻却可能かどうかはどうやって判別すればいいのだろう? デヴィッド・ヒュームが強調したように、何が阻却要因(defeater)として重要であるかを判別することは、他者とともに取り組む企てなのである。ヒュームが主張しているのはこういうことだ。相互理解の可能性は、ヒュームのいう「共通の観点」または「一般的な観点」をわれわれが採用することを前提としている。一般的観点とは、空間的または時間的距離によるバイアスのような、視点による効果を補正するものだ。このアイデアによると、何が阻却要因として重要であるかを決めるためには、様々な時間や状況におけるわれわれの経験だけでなく、他者の経験も考慮に入れる必要がある。

主体的徳

Jonesによれば、感情に基づいて行為することは、その行為が彼女が「統制的ガイダンス」と呼ぶものに対する主体のコミットメントを表している場合には、真正な主体性を意味することがある。統制的ガイダンスとは、「私たちの実践的・認識論的主体性に関する反省的自己監視の習慣を継続的に養成し、実践すること」を指す。

極めて一般的にいえば、理由反応性に求められるのは、よく調整された認識論的・実践的習慣、つまり広義には「主体的徳(agential virtues)」とも言えるものの実践である。よく調整された自己監視の習慣を実践しているのなら、怒っている主体は理由に反応しているといえる。そのように言えるのは、たとえば、もし自分の怒りが自分を誤った方向に導いていると信じるべき理由があった場合には、その怒りに任せて行動しないという習慣を実践している場合である。

ここでグッドニュースがある。私たちの感情的傾向には改善の余地があるのだ。感情が直接的に意志に従うものではないとしても、私たちはそれに間接的な影響を与えることができる。私たちの感情的傾向性は狩猟採集生活を送っていた遠い過去の役立たずな遺物に過ぎず、ステレオタイプに基づいた行為や不適応な行為を強いるものである、と主張されることがあるが、そういう訳ではない。情動に関する神経科学上の新しい発見に基づいてPeter Railtonが主張するように、私たちの感情的システムは、これまで考えられてきたよりもずっと適応性が高いのである。Railtonの言葉を借りれば、「広義の感情的システムは経験を基礎とした柔軟な情報処理システムであるという認識がますます一般的になってきている」のである。

また、Railtonが強調するように、人間はネズミと違い、事態から一歩身を引いて、自らの直観的な反応を精査することができる。彼が示唆しているのは、感情が価値の適切な表現を構成し得るだけでなく、「行為を‘正しい方向’へ導き、理由反応性を実現する実践的知識の構成要素」とさえもなり得るということである。

理性が「本当の自己」であるわけではない

それでは、理性的判断と感情とが衝突した場合はどうだろう? 道徳的ジレンマ状況ではそうした問題が発生する。たとえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』では、主人公のハックが黒人奴隷のジムに出会う。ジムは逃亡してきた奴隷であり、彼を助けることは犯罪だし、宗教上のタブーでもある。そんなことをすれば自分は地獄に落ちるのではないかとハックは苦悩する。しかし逡巡した末、「地獄に落ちてもいい」とハックは考え、ジムを助ける。

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「理性こそが本当の自己だ」と考える人は、ハックの決意は間違っていると考えるだろう。しかし、別の考え方もできる。そもそも、理性は「本当の自己」ではないのだ。ハックの本当の自己が「ジムを警察に突き出すべし」と考えるハックの理性だという主張をするとしたら、その主張は明らかに間違っているだろう。

もちろん、感情的反応が常に正しいわけではない。だとしても、理性を常に感情より優位において、理性に判断を任せるのもおかしい。だから、もしあるできごとに対して私たちの感情的反応にズレがあるのなら、そうしたズレについてまず話し合うべきなのだ。

自らの徳を高め、他者に耳を貸すこと

感情が概念的に構築された中身を伴わないとしても、評価的事実への気づきにおける感情の役割は、感情を主体性にとって本質的なものにする。 というのも、適切に理由に反応するためには、私たちは自らの感情に耳を澄ませなければならないからだ。

もちろんそれは、その時たまたま感じているあらゆる感情にただ従えばいい、ということではない。私たちは自らの耳を、適切な感情だけを聞くように訓練することはできない。だから、私たちに必要なのは、自らの感情的傾向性を養うこと、もっと一般的に言えば、私たちの主体としての徳を涵養することだ。 そしてそれだけでなく、私たちには、他者に耳を貸すこともできるのだ。

おわりに

Tappoletの議論は徳倫理学の一種なのかな? 徳倫理学をちゃんと勉強したことがないのだけど、たぶんそうだと思う。徳を高めよって言われても、具体的にどうすればいいのだよという問題はある。他者の意見をちゃんと聞くというのも、その他者にバイアスがかかってたらどうなのか、という批判もできる。でも、言いたいことはなんとなくわかる。

センの議論では、不正義に気づく上で感情は重要という議論だった。Tappoletの議論でもロールズの反照的均衡において感情がスタートポイントになるという話が出てくるので、いずれにしても、感情的反応にそのまま従って社会的決定をするのはまずいけど、スタートポイントに感情を使うのはよい、という点では同じだ。

一方、Tappoletの議論では、「なぜ感情なのか?」というセンの議論に欠ける部分を補ってくれている。感情は評価的事実に気づかせてくれるものであり、実践的理由を教えてくれるものなのだ。そして、そうした感情の「精度」をどうやって上げるか、という方法も教えてくれる。ようするに、徳を積むことだ。そうすれば感情は評価的事実に対する良いセンサーとして働く。だから、道徳問題において感情を無視してはいけない、ということだ。そしてこれは、感情は非合理的なものだという従来からの批判への反論にもなっている。感情は非合理的なのではなく、むしろ合理的判断に必要な実践的理由を教えてくれるものなのだ。

あまりに抽象的で現実には役立たない議論のようにも見えそうだけど、実はとても重要な論点だと思う。環境倫理学のような応用倫理学分野は、いわば「新しい倫理」を提案しようとしているわけだけど、別に倫理学者たち自身がそうした新しい倫理を発見したわけではない。ソローとかレオポルドとかレイチェル・カーソンのような感性の鋭い人たちがいて、環境問題が騒がれるずっと昔に、自然環境の状況に対して違和感を覚え、本を書いたり、社会に向けて発言したりしてきたのだ。だから彼らの本を読むと、理屈よりもまず、自然に対する敬意とか、驚きとか、あるいは自然の異変に対する不安とかが表現されていることに気づく。彼らはいわば徳を積んだ人たちで、自然に対する感情の精度が異様に高かったのだ。レイチェル・カーソンは晩年、『センス・オブ・ワンダー』という本を出しているけれど、これは、自分の親戚の子どもと一緒に自然の中を探索しながら自然の驚異を発見していくという内容の本だ。こういうセンスのある人だから、自然の異変にいち早く気づき、『沈黙の春』で環境汚染の実態を社会に向けて訴えることができたのだろう。

もちろん、環境保護論者のなかには感情に突き動かされておかしなことばかり叫ぶ人たちもいる。だから感情が万能などとは言わない。でも、感情を無視するのもおかしい。センサーの精度が100%じゃないからといってセンサーを捨ててしまうのは非合理だ。


  1. そして、こうした主張の根拠になっているのが行動経済学が主張する「システム1」「システム2」という脳の処理システムだ。感情はシステム1に該当し、理性はシステム2に該当する。システム1は素早く動き判断を下してしまうが、システム1を制御する立場にあるシステム2は動きがにぶいし疲れやすいので、しばしばシステム1が非合理なことをやらかしてしまう、というのが行動経済学では指摘されてきた。
  2. もちろん「正直者が馬鹿を見る」ということはあって、そういう「絶対に黙秘を貫く!」という人を搾取しようとする人はいるだろう。本当はここは、囚人のジレンマではなく集合行為問題を例としてあげた方が適切だ。集合行為問題の場合、協力者の人数が閾値を超えれば集団全体が「協力」を選択するようになる。だから、自己利益を度外視して協力行動にコミットする人が一定するいれば、利己的な人たちも協力せざるを得なくなる。ただ、集合行為問題をいちいち説明するのがめんどくさいので、ここでは囚人のジレンマを例に挙げた。
  3. 同じような発想は、倫理学におけるケアと正義の関係をめぐる議論でもみられる。その辺りは品川哲彦『正義と境を接するもの』で整理されているけど、ややこしいので今回はこれ以上深入りしない。いずれ読書ノートをつくらないとなあ。