【読書ノート】Philosophical Foundations of Climate Change 第1章

第1章 False Starts (間違った出発点)

イントロ

「山のように考えよ」というレオポルドの言葉は有名だ。しかし、そうした環境哲学の知恵は具体的な問題に指針を与えてくれない。

それで、まもなく新しい世代の理論家たちが登場した。彼らは政治哲学の分野で育った人々だ。ロールズの影響を受けてきた彼らは、環境倫理学者たちが取り組んできた形而上学的な問題を脇において、気候変動を正義の問題として扱おうとした。

しかし、分配的正義の問題を考えるよう訓練された哲学者たちは、気候変動を「ケーキを切り分ける」式の分配問題とみなしがちだ。つまり、効率性の問題をほとんど考えてないので、気候変動政策が最適化問題を含んでいるという事実を無視してしまうのである。

本書は、哲学的言説と政策的言説のあいだの和解を促すことを目的としている。そのために、哲学者たちが政策論議に参加するのを阻んできた障害を整理していく。そのような障害は次の5つだ。これらはいずれも環境哲学者たちが忌み嫌う考え方だが、いずれも合理的で擁護できるものだと思う。

  1. 政策に関する論議ではリベラルな中立性が前提である。環境に対する特定の価値観を優遇したりはしない。
  2. 経済成長は前提である。
  3. 気候変動は集合行為の問題であり、分配的正義の問題ではない。
  4. 費用便益分析は炭素排出がもたらす社会的費用に対する最良の推定に基づくべきだ。
  5. 費用便益分析において、将来の見積もりを割り引くことは許される。

これらは政策の世界では当然の前提条件であり、論争の対象にすらなっていない。だから、これらが単なる偏見だと誤解されないように、きちんと哲学的に擁護していこう。

結論として出てくるものは、結局は経済学者たちの考えを擁護するようなものになる。だけど、こういう考え方が正しいということについて、私は彼らとは異なる理由を示したい。私の目的は、論争にきちんとした枠組みを与えるようなやり方を擁護することなのだ。

1.1. Traditional Environmental Ethics (伝統的な環境倫理学)

環境倫理学者たちは内在的価値(intrinsic value)と道具的価値(instrumental value)を対比させる。つまり、人間の利益に関わるのが道具的価値で、それがそれ自体で価値があるというのが内在的価値だ。

人間中心主義とは、内在的価値を持つのは人間だけであって、自然は道具的価値しか持たないという考え方だ。こうした人間中心主義を打破するためには、自然が内在的価値を持つことを示さなければならない。そうすることで、道徳的配慮の輪を人間以外のものにも広げていける…というわけだ。

だけど問題は、そういうやり方では人間中心主義を克服できるとは限らないということだ。環境倫理学者たちが依拠しているピーター・シンガーの議論も同様に、人間にとっての価値付けの範囲内で動いているだけだ。彼の議論のパターンはこういうものだ。

  • まず性質Pを取り上げる。これは、従来の道徳的基準に照らしてある対象に価値を与えることのできる性質だ。
  • 次に、その性質Pをある種の存在X(状況やできごとなど)に与えることに問題はないことを示す。
  • 次に、Yという種を取り上げる。これは、あらゆる道徳的に重要な点においてXと似ている。だから整合性を取るためには、性質PをYという種にも与えなくてはならなくなる。
  • こうして、認められた対象に対する価値判断が、それまで認められていなかった対象にも拡張されることになる。

こういう風にしてシンガーは、「人間の苦しみは悪いことだ」→「動物は人間と同じように苦しむ」→「感覚を持つすべての生き物の苦しみは悪いことだ」という風に推論する。これは明らかに人間中心主義的なやり方だ。というのは、結局のところ出発点は人間の価値であって、それを外側に広げているだけだからだ。

また、こういう風な「拡張主義」的なやり方には歯止めがない。動物への配慮を重視しなければ「種差別」と非難されるだろう。そこでシンガーは、感覚を持つ生き物すべてに道徳の輪を拡張した。しかしそこで留まれば、今度は「感覚差別」と非難されるだろう。そうなると、どんどん道徳の輪を拡張して生態系全体にまで広げ、最終的には宇宙全体にまで拡張するという、どうかんがえても馬鹿げたことになる。

また、やっかいなことに、環境倫理学者たちは内在的価値と道具的価値のトレードオフを認めていない。そして、環境問題に関する議論は内在的価値にのみ焦点を当てるべきだと主張する。これは、環境政策の場面ではまったくどうしようもない役立たずな考え方だ。それではその内在的価値がどんなに些細なものであっても絶対に優先しなければならないことになる。

環境倫理学は気候変動政策において建設的な役割を果たしてこなかった。それは、その根底にある道徳的拡張主義が懐疑論によって推し進められているからだ。それで、環境倫理学は価値の候補をひたすら増殖させて人々を困惑させる一方、それらの価値同士が対立したときに裁定することができず、結果的に機能不全に陥っているのだ。

1.2. Liberal Environmentalism (リベラル環境主義

リベラリズムとは、人々の求める価値がばらばらであったとしても、人々が協力することで互いに利益が得られるという観察に基づく考え方である。第2世代の環境哲学者たちはみな政治哲学出身なので、リベラルな中立性の大前提を受け入れている。そのため、初期の環境哲学者が頭を悩ませていた形而上学的な問題に彼らは関心を示さない。

ただし、彼らのあいだには多くの点で内部的な不一致があり、次の3つの主要な学派がある。

  1. 厚生主義的リベラリズム:パレート効率を重視する。

  2. リベラル公平主義:パレート効率原理を補うのは平等原則である。

  3. リバタリアニズム:個人の権利を強調する。

気候変動において政策論争を支配してきたのは厚生主義的リベラリズムだ。この考え方によれば、気候変動の最も根本的な問題は、それが非効率的であることだ。負の外部性の存在は、集団行為問題を引き起こす。

根本的な問題は、化石燃料が燃やされて温室効果ガスが発生していることではない。コストの一部が外部化されているために、化石燃料の燃焼によって生み出されている利益に対して、化石燃料が燃焼され過ぎていることが問題なのである。したがって、第一の政策課題は、我々が燃やすべき化石燃料の量を決定し、次に実際の排出量をその目標に一致させる方法を決定することである。

このように問題が提起されると、経済学の立場から問題を扱えるようになる。温室効果ガスの削減は、削減を進めるほどに限界費用が大きくなり、限界利益が減少する。そして、限界費用限界利益が等しくなる水準まで温室効果ガスを削減すれば良いということになる。

しかし多くの哲学者は、このような問題提起の仕方に抵抗してきた。伝統的な環境倫理学者だけでなく、リベラルな政治哲学者たちもだ。これはひとつには「経済主義 」に対する彼らの肥大化した嫌悪感によるものだ。そのため多くのリベラルの哲学者たちは、義務論的なアプローチでこの問題を展開しようと努めてきたのだ。

1.2.1. Climate Justice (気候正義)

ロールズ以降の政治哲学者たちには、何もかもを分配的正義の問題として解釈する傾向がある。それで、多くの哲学者や政治理論家が分配的正義の枠組みを使って気候変動問題にアプローチしてきた。これは、「気候正義」という言葉でしばしば示されるものだ。 この考え方からすると、大気は過放牧の状態にある牧草地のようなものであり、今すぐ分割して世界の国々に割り当てていかなければならないということになる。

分配的正義のアプローチによれば、排出許可は財産権と同等である。すると、排出許可量の一人当たりの割り当てを等しくすることが当然だということになる。しかし、これには様々な立場から反論が出てきた。

反論1:これまでの排出の歴史についてどう考えているのか? 大気中にある過剰な二酸化炭素のほとんどは、ごく少数の国がかつて工業化の過程で排出したものだ。排出量を平等に割り当てるのではなく、むしろそうした国に住む現在の世代の排出権をいくらか減らすべきではないだろうか?

反論2:個々の状況の違いはどう考えるのか? 例えば、北方の気候に住む人々は家を暖めるために化石燃料をより多く消費せざるを得ない。その場合はどうすればいいのか?

反論3:排出削減能力についてはどう考えるのか? 排出削減は、ある国にとっては他の国よりも達成しやすい。例えば、ダムでせき止めて水力発電ができるところもあれば、そうでないところもある。

もし、これらの問題のうち1つ以上が個人の権利に影響することを認めるならば、分配的正義の問題はたちまち極めて複雑なものになってしまう。

気候正義の議論はへんな前提に立っている。つまり、個人または国家には一定量の排出権が割り当てられていて、割り当てられた排出許可量の限界に達したら四の五の言わずに排出を止めなければならなくなる、という前提だ。しかし実際の排出制御システムはそういう風に機能しているのではない。排出許可証は常に取引可能なものなのだ。

なぜ取引をするかというと、削減の限界費用は国によって大きく異なるからだ。ある量の炭素削減はどこで行われても同じ利益を生む。だから、各国が自国の排出量を1人当たり同じレベルまで削減することを主張するのは意味がない。気候変動問題の深刻さを考えると、こうした効率化を見送るような政策提案はとても信頼できないものだ。

気候変動を分配的正義の問題として捉えようとする「気候正義」は、この問題に対する根本的な誤解の上に成り立っているのである。 この混乱は、集団行為問題と分配的正義問題との明確な線を引いてこなかった点に一因がある。

下図はこの区別を図示したものだ。

現状から北東に向かう動きはパレート改善を意味する。なぜなら、両プレイヤーの利益が向上するからだ。したがって、点aへの移動は効率性の増加となる。線分Uは功利主義的な無差別曲線を表している。この線より上側の点は、現状よりも総効用が増加したことを意味する。 したがって、点bに移ることは「功利主義的な」再分配を意味する。一方、点cは、プレイヤー2が得をしプレイヤー1が損をしているので、「純粋な」再分配である。この場合、損失の大きさが利益の大きさを上回っている。このような再分配を擁護する唯一の論拠は、分配的なものでなければならない。つまり、プレイヤー2は現状より多くもらい、プレイヤー1は少なくもらう理由がある、というものだ。 b点、c点はともに、現状に対してパレート的な意味で比較できないので、効率性の規範はこれらの再分配について何も言うことはない。

気候変動の問題を解決するには、現状から北東への移動(aのような点まで)が必要だ。ここで、効率性の規範が結果の選択において重要になってくる。したがって、気候変動問題を「気候正義」の問題として特徴づけることは、実は非常に誤解を招きやすいのだ。

1.2.2. Climate Rights (気候権利)

気候変動に対応するための適切な規範的枠組みとして、他者危害禁止の義務論的な立場をとる理論家もいる。具体的には、個人の権利と、権利侵害の禁止という観点を取るのである。

ケイニーは気候変動によって脅かされる3つの権利を示している。

人権1(生命に対する人権):すべての人は恣意的に生命を奪われないという人権を有している。

人権2(健康に対する人権):すべての人は、他人が自分の健康に対する深刻な脅威を生み出すような行動をとらないという人権を有する。

人権3(生存に対する人権)すべての人は、他人が自分から生存手段を奪うような行動をとらないという人権を有する。

ケイニーはこう主張する。「温室効果ガスを排出することがこれらの権利の侵害につながるのであれば、それはやめるべきだ。それが高くつくとしても、それはこの主張に対する反論とならない」。

政策的観点からすると、コストに注意を払うことなくシンプルに温室効果ガスの排出を止めなければならないという考えは、あまりにも極端であり、真剣に考える資格を失っている。

また、ケイニーの分析にはより微妙な哲学的な問題がある。

1.道徳的立ち往生:彼の権利システムでは、不作為を含むあらゆる行為が禁止されるため、道徳的立ち往生を生み出す。 なぜなら、あらゆる選択肢が誰かの権利を侵害するからだ。

2.権利は切り札ではない :たとえば健康に対する権利(人権2)は、明らかに切り札として機能し得ない。人権2が切り札なのなら、伝染病の人を隔離して、他の人に感染させないよう、もっと徹底的にやるべきだということになるだろう。しかしコロナのとき、多くの国では病人の利益と他の人々の健康に対する権利のあいだでバランスをとるのに配慮していたはずだ。

3.適応による対応:ケイニーは、洪水によって農場を失う可能性のあるバングラデシュの農民たちを例として挙げている。ここで問題となるのは、海面上昇を抑えたり堤防を建設したりすることで彼らの農場を守るか、あるいは農民を高台に移転させたり食糧支援を行ったりした上で農場が浸水するがままにしておくか、ということになる。人権3の立場からすれば、これらはすべて同等の戦略である。したがって権利による枠組みではこれらを選択する根拠が何も得られないのである。

ヘンリー・シューは、ケイニーと同様の主張を展開している。シューは、温室効果ガスの排出を、数十年後に爆発する地雷を趣味として作るのが好きな人の話になぞらえている。この人が、地雷が爆発するのと同じ時期に満期を迎える年金を寄贈し、爆発の犠牲者に金銭的補償を行うとする。これは許されないことだ。なぜなら、身体的安全の侵害は補償できるものではないからだ。気候変動も同じだ、と彼は言う。将来の世代の身体的安全を侵害しているのだから、いくら補償しても許容されないのだ。

しかし、地雷のシナリオと気候変動では問題の性質がちがう。先ほどの地雷のシナリオでは、傷害は爆弾製造者の行動の意図した結果として発生する。しかし、気候変動は明らかに副産物的な効果であり、私たちの意図した行動の結果ではない。

人々は身体的な安全性に対して様々な脅威にさらされているが、その多くはある程度のコストをかければ回避できる。もし、経済成長を優先し、それに比べて気候変動を軽視した場合、身体的安全性に対するある種のリスク(例えば、洪水による死亡)は増加するが、他のリスク(例えば、地震による死亡)は減少する。ある原因で将来世代が死亡するリスクを高める一方、別の原因で彼らが死亡するリスクを減らすとしたら、どのような意味で彼らの「権利」が侵害されたことになるのか、明らかではない。

気候変動という問題の性質上、利用可能な政策オプションのそれぞれについてトレードオフを検討する以外に選択肢はないように思われる。 このようなトレードオフを考慮できない規範的な枠組みは、最初から真剣な検討の対象から除外されるのだ。

地球温暖化に害悪について一般論を述べる以上のことをしたいのなら、こうしたトレードオフを評価する方法を提供しなければならないし、セカンドベストやサードベストのシナリオの相対的なメリットを判断する方法も提供しなければならない。帰結主義はこうした文脈において優れている。一方、義務論者は、政策に関連する規範的な指針を示すよう迫られると、自らの見解のより厳格な定式化から手を引かざるを得ないのだ。

1.3. Conclusion (結論)

哲学者は同時代の常識的な見解を額面通りに受け入れないことを誇りとしてきた。 そのために、哲学は問題を解決する能力よりも、問題を創造する能力をより高く評価する学問へと発展した。

第2世代の環境哲学者たちは、政策的な麻痺状態をもたらす哲学的見解にはまっている。そうした彼らの見解の大部分を生み出したのは、経済主義のにおいがするものに対する誇張された嫌悪感であり、気候変動政策に関わる難しいトレードオフについて真剣に熟考することを避けたいという強い願望である。気候変動は集合行為の問題であり、何よりもまず効率と最適化の問題なのだ。

感想

環境倫理学フルボッコの回。とはいえ、環境倫理学はこれまでいろんな人たちにすでにボコられているので、これ自体は珍しいものではない。日本でも20年近く前に環境倫理学(今回ヒースが指摘している、形而上学に拘泥する第1世代の環境倫理学)を徹底的にやっつける本が出ている。

ただ、批判の仕方は新しい。つまり、政治哲学出身の第2世代の環境哲学者たちは気候変動を分配的正義の問題と捉えがちだけど、それは間違った捉え方だという批判。炭素排出権を平等に分配するというのは根拠としていろいろ問題があるし、「気候正義」みたいに人権に訴える立場をとると、気候変動問題をめぐるさまざまなトレードオフから手を引くことになってしまう。そして、結果的に環境倫理学も環境哲学も政策において役立たずなものになってしまっている。「効率」という視点から「分配的正義」というアプローチを批判するやり方は、ヒースのオリジナルだと思う。

ただ、排出権取引市場をどうやってつくるか、というのはまた別な問題としてあると思う。いちおう、今も形式的には排出権取引をやってはいるけれど、それは国と国のあいだ(しかも先進国間だけ)の取引だ。岩田・飯田『経済政策入門』によるとこれは良くないやり方だ。というのは、限界削減費用と排出権価格の比較ができるのは企業であって、政府ではないから。国と国のあいだの取引において、政府はそうした比較をすることができない。

国家は他国から排出権を税金で購入することになりますから、地球温暖化ガスを排出する企業は排出権の購入負担を納税者に押しつけることになります。これでは、地球温暖化ガスを排出する企業はただで排出権を得て排出するのと同じですから、「自ら費用をかけて削減する」インセンティブはまったくありません。

『経済政策入門』p142-143

イギリスとか一部の国では、国内限定で企業が排出権取引をするようにしてるらしいけれど、いずれにしてもそれは一部の国の国内限定の話だ。

こういう排出権市場を全世界で、しかも国同士の取引ではなくて、企業間の取引が行われる市場として構築するのは、まだまだ実現の目処が立っていないのだと思う。はたしてヒースの言うような「効率」基準だけで、排出権市場の創設に向けて合意を進めることができるのかどうかはよくわからないと思う。なぜなら、「効率」が達成できるのは市場があるからなのであって、そもそも市場が成立していない時点では「効率」の達成は保証されないからだ。

もし、温暖化を確実に緩和するために、排出権市場で扱う排出権の総量をかなり厳しめにとったとしたら、排出権価格はかなり高くなるだろう。すると、途上国にとっては排出権は高すぎてとても手が届かないものになってしまう。一方で、排出権がある程度ないと経済発展は難しい。だから、そうした総量設定をすることは途上国にとって不公平な取り決めだということになる。すると、じゃあどの程度の総量に設定すればいいのか? 「効率」基準ではなく、やはり「分配的正義」が必要になってくるのではないだろうか。

いや、ヒースの言ってることを私が勘違いしてるだけなのかもしれないけれど、少なくとも、本章を読んだ限りだとあまり納得のいく議論ではなかった。そもそも排出権市場がきちんと整備されていない現状で、グローバルな排出権市場が成立している状況を前提にして議論を進めるのはおかしいのでは?