【研究ノート】環境倫理学について考える(もう考えたくない)
私はこのブログの中で環境倫理学の悪口を何度か書いてきた。別に個人的に関係者に恨みがあるとかではなくて、単純に、勉強しても面白くないと感じるからだ。関連する本を読んでみても、あまり知的好奇心が刺激されない。「あんな問題もある」「こんな問題もある」と、環境にまつわるいろんな倫理問題は紹介されている。でも、それが問題提起で終わってしまっていて、「あ、そんな考え方があったんだ!」という意外な提案が何もないのだ。
だったら環境倫理学なんか放っておけばいいのに、とも思うのだけど、自分の研究テーマが少し絡んでいるので、完全に無視することもできない。で、仕方なく勉強する。でもつまらない…。
このつまらなさの原因はどこにあるのかということを整理してみたいと思う。そうすれば、もう少し面白い環境倫理学のあり方を考案することができるかもしれないから。
環境倫理学の3類型
環境倫理学には少なくとも次の3つのタイプがある。
環境プラグマティズムもアメリカ産なのだけど、とりあえず「アメリカの環境倫理学」とは分けておく。
ここでいうアメリカの環境倫理学というのは、1980年代くらいまでのアメリカの環境倫理学のことだ。「内在的価値」とか「人間非中心主義」が中心的なテーマだった。自然が破壊されているのは、人間が自分たちの利益を求めて自然を道具として利用してきたからだ。だから、そうした「道具的価値」に還元されない、自然それ自体の価値である「内在的価値」を根拠づけなければならない。そうすれば、人間は自然を自分の思いのままに利用することをやめるだろう。人間中心主義的な考え方を我々は捨てなければならない。これからは「人間非中心主義」でやっていくべきなのだ。アメリカの環境倫理学はそんなふうなことを主張していた。
環境倫理学に疎い人が環境倫理学について言及する時、彼らが想定しているのはこのアメリカの環境倫理学だ。そして、大体は「馬鹿馬鹿しい主張」というので切り捨てられてしまうことになる。内在的価値と言われても、そもそも価値というのは人間が評価するものなのだから、価値は全て人間のための価値に決まっている。それに、仮に人間の評価と独立に「自然の価値」というものがあるのだとしても、それを人間が尊重しなければならない義務はどこにもない。世間知らずの環境倫理学者が哲学論文の中で内在的価値を根拠づけたところで、それにどうして一般の人々が従わなければならないのか?
こんな風に、アメリカの環境倫理学はボロカスに批判され、90年代くらいの段階では環境倫理学内部からも「環境問題解決に全く役立ってないじゃないか」という声が出てくる。そうして生まれたのが環境プラグマティズムだ。環境プラグマティズムは、「内在的価値」「道具的価値」の二者択一を迫る問題設定をしたことがアメリカの環境倫理学の誤りだと考えた。そして、多様な価値を前提とした上で、多様な価値観の人々がいかに合意できるかという方向に議論をシフトさせた。たとえばある森に棲む絶滅危惧種のフクロウを守りたい人が「内在的価値」をどれだけ訴えても、その森を開発して利益を得ようとする人には届かない。それなら、むしろフクロウを目玉にした観光施設の建設を提案したらどうだろう? そうすれば、フクロウを守りつつ、開発者側にも利益が入る。価値のレベルで争わなくても、多様な価値に配慮した提案をすれば、合意することはできるのだ。このように、「内在的価値か道具的価値か」という二者択一を迫らず、多様な価値観を認める環境プラグマティズムのアプローチは、「多元論的アプローチ」と呼ばれる。
一方、日本では環境倫理学は独自の進化を遂げた。アメリカの環境倫理学のように自然の内在的価値を尊重する立場では、手付かずの自然(いわゆる原生自然)が称揚されることになる。しかし、日本はアメリカに比べ国土が狭く、手付かずの自然なんてそもそも残っていない。むしろ里山のように、人間が手入れして維持する自然の方が当たり前だ。だから、原生自然ではなく、里山のような「手入れされた自然」を守るための環境倫理が必要だ。そこで、地域における人と自然の歴史的・文化的関わりを守ることこそが自然保護なのだ、という考え方が提唱されるようになった。
君はどのあたりに不満があるのだね?
まず、アメリカの環境倫理学がどうしようもない代物だというのは広く認められているところだ。ヒースが気候変動本の第1章で述べているけれど、アメリカの環境倫理学は内在的価値と道具的価値のトレードオフを認めていないので、価値同士が対立した時に機能不全に陥ってしまう。そのため、アメリカの環境倫理学は現実の問題解決には役立たずになってしまうのだ。
次は環境プラグマティズムについて。確かに、この立場は価値同士が対立した時でも機能不全に陥らないという点では、アメリカの環境倫理学よりも優れているといえる。でも、これが環境問題について何か新しい提案をしているかどうかというと、かなり微妙だと思う。「価値が違うときは妥協しあって合意点を探りましょう」なんて、倫理学者に言われなくたって誰でも知ってることだろう。結局これも現実に対して意味のある提案はできない。やれることはせいぜい、そうした合意がうまくなされた事例を探してきて、「ここでは環境プラグマティズム的な発想が活用されている」と後付けで説明することくらいだ。
では、日本の環境倫理学は? 問題点は2つあると思う。
まず、日本の環境倫理学は里山保全をモデルにしているのだと思うけれど、そのために、グローバルな環境問題に対しては何も提案できなくなってしまっている。たとえば気候変動への取り組みについて里山モデルから何かを言うのは難しいだろう。環境倫理学を日本の風土に適応させた結果、適用範囲がローカルな範囲に狭まってしまった。そのため、気候変動のような多くの人が関心を持つ環境倫理の問題について何も応えられなくなってしまっているのだ。環境倫理学に期待を寄せる人々からしたら、これはかなりがっかりさせられることだろう。
次に、ローカルな問題をめぐって価値の対立が発生した時、どのように対処するべきかがわからない。たとえば、日本の環境倫理学の枠組みでは、捕鯨は人と自然との歴史的・文化的な関わり方であり、守られるべきである生業であるということになるだろう。でも、捕鯨に反対する海外の保護団体は、知的な生命体である鯨を殺すのは残酷であると非難する。彼らの非難は、「苦痛を感じる生き物に対してはその苦痛を軽減するよう配慮するべきだ」という功利主義的立場によって倫理学的に根拠づけることもできるだろう。こういう時、どちらの判断を優先するべきなのか。アメリカの環境倫理学と同じで、価値が対立するときにそれらをどのようにトレードオフするかについて、日本の環境倫理学ではほとんど議論されていないと思う。
日本の環境倫理学に関する本を読んでみても、「こういう地域ではこんな風な形で人と自然が関わってきた」という歴史記述ばかりで、環境倫理学としての積極的な提案が見られない。環境プラグマティズムと同じで、単なる現実の後追いになってしまっているのだ。
どうして環境倫理学はつまらなくなってしまうのか
トレードオフという発想が欠如していることが、環境倫理学がつまらなくなってしまうことの大きな原因であるように思う。まず、アメリカの環境倫理学の主張する「内在的価値」は「道具的価値」とトレードオフができないので、これらの価値が対立すると機能不全になってしまう。それに対し、環境プラグマティズムは多元論の立場を取り、価値が対立していても合意できればいいと主張する。でも、その合意に至るためのトレードオフの基準が何も示されていないから、現実の環境問題に関わる人にとっては何の指針も得られない。日本の環境倫理学はローカルな問題に集中し過ぎているので、ローカルな価値とそうでない価値をどうトレードオフさせるかという発想が希薄だ。
価値と価値のトレードオフに関する方針がないと、現実の環境問題に対して意味のある提案が何もできなくなってしまう。せいぜい「多様な価値観に配慮しましょう」くらいのことしか言えないのではないか。だけど、問題解決に使えるリソースは限られている。SDGsはまさに多様な価値観に配慮することで「誰1人取り残さない」ことを目指すものだけれど、それぞれのゴールの費用便益分析がなされていなかったため、どのゴールに優先的に予算を使えばいいかが不明確だ。そのため効果的な投資が行われず、SDGsの2030年の達成はもはや絶望的だと言われている。「多様な価値観に配慮しましょう」式のアプローチでは問題解決の役に立たないのだ。
環境倫理学がつまらなくなってしまうのは、「みんなが気づいていない価値に配慮しましょう」という主張にこだわってきたからだと思う。それは、アメリカの環境倫理学であろうと環境プラグマティズムだろうと日本の環境倫理学だろうと同じだ。しかし、現実の問題解決を進める上で、その主張はあまりに控えめすぎる。「結局どうすればいいのさ!?」という疑問に答えられないから、環境倫理学はつまらなくなってしまうのだ。
環境経済学を勉強しよう
そして、環境をめぐる価値と価値のトレードオフについてきちんと指針を示してくれる学問はすでにある。環境経済学だ。もちろん、環境経済学も万能ではない。たとえば生態系の価値の貨幣評価はあまり信憑性がないと言われている。また、土地に対する所有権関係が曖昧な国では環境経済学の提案する政策がうまく機能しない可能性もある。それでも、価値と価値が対立しているときに問題解決の方向性をきちんと示してくれているという点では、環境倫理学よりずっと役に立つだろう。
環境倫理学は環境経済学をサポートするような学問として位置付けた方が良いのではないだろうか。たとえばヒースの気候変動本は、環境経済学の提案する炭素税の倫理学的根拠を議論するものだ。環境倫理学自体が何かを提案するのではなく、環境経済学の提案を倫理学の観点からチェックする学問として環境倫理学を位置付けなおした方がいいのではないだろうか。価値のトレードオフに関して何も言えないのなら、何か言うことは環境経済学に任せてしまった方が良いと思う。環境倫理学は環境経済学の裏方に回るのだ。
だけど、環境倫理学の人が環境経済学について何か論述しているのを見たことはほとんどない。環境倫理学に関する本を100冊紹介するというブックガイドがあるけれど、そこにも環境経済学の本は1冊も入っていない(環境社会学や環境法学の本は入っているのに。なんで?)。環境倫理学の人たちは環境経済学を勉強しないのだろうか? ヒースの気候変動本でも、環境倫理学者など、環境について論じる哲学者たちは経済学的な発想を嫌悪する傾向があると書かれている。でも、やっぱりちゃんと環境経済学を勉強した方がいいと思うよ。