【読書ノート】『制度とは何か』9章から10章

第9章 再帰性

自然科学と社会科学のちがいは、再帰性の問題に取り組んでいるかどうかだ、という考え方がある。

再帰性とは、たとえば予言の自己成就みたいなものだ。「あの銀行は潰れそうだ」という噂が立てば、本当にその銀行が潰れそうかどうかとは関係なく、不安になった預金者たちはどんどんお金を引き出していく。そして、本当にその銀行は潰れてしまうのだ。これは、予測に関する再帰性だ。「こうなるだろう」と予測するからこそ、本当にそうなってしまうということだ。

だけど再帰性はものごとの分類においても現れる問題だ。ピグマリオン効果というのがある。たとえば教師が「あいつはダメな学生だ」とレッテルを貼ったら、本当にその学生はダメな風に振る舞うになるのだ。これは、自分が期待されてないと知った学生が、教師によって貼られたレッテルの通りにダメ学生として振る舞うようになるからだ。このように、自然科学と社会科学の区別を考えるには分類における再帰性に着目した方がいいだろう。自然科学において、ものごとの分類はこんな風になっていない。学者がある生き物をアマガエルと名付けたからその生き物はアマガエルになるのではない。アマガエルは名付けられる前からアマガエルだったのだ。

さて、こういう再帰性の問題はゲーム理論で考えることもできる。ナッシュ均衡において、プレイヤーたちの信念は互いに整合的だ。つまり、あいつがこう来るなら俺はこうする、という風にどちらのプレイヤーも考えている。そして、「あいつがこう来るなら」というお互いの信念がちゃんとかみ合っているからこそ、お互いの信念の通りに相手が行動する。ようするに、予言の自己成就と同じように、「こうだろう」と信じたことが実際のその通りになるということだ。

ひとつ例を挙げよう。これは、ある組合でのストライキを扱ったゲームだ。組合員にはアフリカ系アメリカ人と白人がいる。彼らは、ストに参加するかどうか、あるいはほかの組合員をストに参加させるかどうかを決める。

アフリカ系アメリカ人
ストに参加する
アフリカ系アメリカ人
ストに参加しない
白人:
アフリカ系アメリカ人をストに参加させる
2, 2 0, 0
白人:
アフリカ系アメリカ人をストに参加させない
0, 0 1, 1

組合員がストに参加するかどうか意見対立するのが最悪の結果だ。だから、左下と右上は(0, 0)になっている。また、アフリカ系アメリカ人も白人も互いに協力してストをするなら、(2, 2)という望ましい結果になる。一方、白人がアフリカ系アメリカ人をストに参加させず、アフリカ系アメリカ人としてもストに参加する気がないのなら、ストはないけどお互いにもめなくてすむので(1, 1)というそこそこの結果になる。

このゲームでは均衡が左上と右下の2つだ。できれば左上(2, 2)であるといい。でも、白人たちが「アフリカ系アメリカ人たちはダメなやつらだからどうせストに参加しないさ」という風にレッテルを貼っていれば、アフリカ系アメリカ人たちとしても「どうせ白人たちは俺たちがストに参加しないと思ってるんだろうな。だから、俺たちをストに参加させないようにするだろう」と信じるようになる。その場合、アフリカ系アメリカ人としては、自分たちがストに参加すると(0, 0)の結果になると考えざるを得ない。だから、ストに参加しないことにする。白人としても、アフリカ系アメリカ人たちはどうせストに参加しないと考えているのだから、彼らをストに参加させないという選択をする。そして、結果的に、(1, 1)という結果になってしまう。

これは予言の自己成就と同じ状況だ。なぜなら、(1, 1)という結果になってしまったのは白人たちによるレッテルのせいだからだ。「どうせあいつらは」と信じているから、本当にそうなってしまったわけなのだ。

第10章 相互作用

さて、予言の自己成就の話をしたのは、あくまで科学の話がしたいからだ。

科学にとって重要なのは、「実在的な種類」だ。実在的な種類が科学にとって重要なのは、帰納的推論と一般化が可能だからだ。私がいう実在的な種類とは次のようなものである。

  • 諸性質は偶然によってクラスタ化されているのではない。
    • 諸性質がなぜ相関しているのかを示す因果メカニズムが存在する
  • 相関は比較的安定している
    • 小さな摂動があってもシステムをもとの状態に戻そうとするメカニズムがある

こう考えると、別に自然的な種類でなくても、社会的な種類についても実在論者の立場をとれることがわかる。たとえば「男性」という社会的な種類は実在するといっていいだろう。男性が持つ「男子トイレを使う」「ネクタイをする」「夫や父になることができる」といった性質は互いに相関していて、偶然寄り集まったものではない。また、ある男性が少女漫画を読んだからといって、いきなり男性という概念が崩壊してしまうことはない。「少女漫画を読む男性だっているよね」という風になって、また男性という概念は安定化する。

それでは、自然的な種類と社会的な種類との違いとはなんなのだろう? ハッキングは、社会的な種類は再帰性と関連するから自然的な種類とは違うのだと主張する(これは前章で議論したことだ)。だけど、再帰性と関連する自然的な種類は普通に存在する。たとえば、同じ自然的な種類であっても、それをわれわれが「犬」と呼ぶか「家畜」と呼ぶかで行動を変えるわけだから、再帰性と関連しているといえる。

社会的な種類を自然的な種類からきっぱりと分けようとするのが社会構成主義だ。社会構成主義は、「女性の本質」とか「男性の本質」みたいなものが存在することに断固として反対する。つまり、女性や男性といった社会的な種類は、「メス」とか「オス」といった自然的な種類とは別物だということだ。こうした考え方が妥当なのかどうかはケースバイケースだろう。包括的な評価は避けておいて、とりあえず、こうした社会構成主義の考え方がわれわれの考え方とどう関連しているかを見てみよう。

社会構成主義は、制度が変えられるものだと考えている。われわれの言い方でいえば、制度は複数均衡のあるゲームのコーディネーションを促すものなのだから、今現在の均衡は必然的なものではない、ということだ。

たとえば同性愛について考えてみよう。同性愛の人たちは「オカマ」とか「ニューハーフ」とか言われてさげすまれてきた。だけど「ゲイ」という言葉が登場して、ゲイを自称する人たちがゲイならではの面白い考え方や生活様式をアピールするようになったらどうだろう? つまり、レッテル貼りの仕方を変えるということだ。前章では、人々にレッテルを貼ることによって望ましくない均衡が達成されることをみた。しかし逆に、レッテルの貼り方を変えることで、望ましい均衡を達成することもできるはずだ。

コメント

個々のトピックは決して難解ではないのだけど、どうしてこういう議論が必要なのか見失いがちだなあ。自然的な種類と社会的な種類のちがいをどうして論じる必要があるのか、そして、筆者はそれについてどういう立場なのか、というのがたどりにくい。

第10章で、自然的な種類と社会的な種類を区別する必要はない、と言っておきながら、その後でそれらを区別する社会構成主義の考え方をどちらかといえば好意的に検討しているのは矛盾ではないだろうか。それとも、自然的な種類と社会的な種類の区別をせずとも、社会構成主義のように制度の変革を考えることはできるのだ、という風に議論を展開しようとしているのかな? 11章以降の内容はもう忘れちゃったよ。読まないと。でも、11章から議論がおそろしく抽象的になっていくんだよなあ。まとめられる自信がない。

【読書ノート】『制度とは何か』7章から8章

第7章 読心

コーディネーションが成功するためには、全員が同じ行動ルールに従うだけでは不十分だ。というのは、ほかの人たちもその行動ルールに従うのだと確信が持てなければ、自分だけ真面目に行動ルールに従って馬鹿をみるかもしれないからだ。だから、お互いにどう動くかを信じられなければコーディネーションは成功しない。つまり、「相手の心をどうやって読むか?」ということが問題になってくるわけだ。

みんなが行動ルールに従うということを、みんなが信じている。こういうとき、なぜ「みんなが信じる」という事態が成り立つのだろうか? ひとつの説明の仕方は、その信念が公的事象に基づいているからだというものだ。たとえば、「今までもみんなその行動ルールに従ってきた」という事実(公的事象)があれば、「これからもみんな行動ルールに従うだろう」と信じられる。

だけど、この説明は不十分だ。なぜなら、その公的事象があることから、みんなが行動ルールに従うだろうと信じることを保証するためには、また別の公的事象が必要になってくるからだ。となると、その別の公的事象もまた、さらに別の公的事象によって保証されなければならない…という風に、無限後退になってしまうのだ。

どうすればこの無限後退を回避できるのだろう? それは、他人の視点に立ってみること(シミュレーションすること)だ。つまり、他人が目の前の状況についてどう推論するかを複製するのだ。コーディネーション問題においては次のようなステップでシミュレーションが行われる。

  1. Sはコーディネーション問題の自明な解である(と私は思う)
  2. あなたもまた、Sはコーディネーション問題の自明な解であると考えている(と私はあなたをシミュレーションする)
  3. Sを達成するために、私はXを、あなたはYをしなければならない(と私は思う)
  4. あなたもまた、私がXを、あなたがYをしなければならないと考えている(と私はあなたをシミュレーションする)

いや、そんなこと言ったってシミュレーションが外れたらどうするの? と思われるだろうか。もちろん、外れる可能性は排除できない。だけど、お互いにそうやってシミュレーションしあっていれば、とりあえずはうまくいくだろう。当たっても外れてもそのときはそのとき、と雑にやっているからこそ、公的事象の無限後退が回避できる。そして結果的に、コーディネーション問題が解決できるのだ。

第8章 集合性

前章の議論だと、人々は個人レベルで推論を行うことでコーディネーション問題を解決するのだということになる。だけど、サールみたいな社会的存在論の人たちは、「私」という個人じゃなくて「私たち」という集団レベルの心的状態が社会性にとって重要なのだと主張している。「私たち」という集団レベルの意図があるからこそ、人々の「協力」という概念が成り立つからだというのだ。

だけど、別にそんなことを考える必要はないように思う。というのは、多くの社会的制度が、そういう集団レベルの意図によってつくられるものではないからだ。たとえば、黒人差別が行われている社会では、黒人が白人と同じカップを使ってはいけないみたいな規範があるかもしれない。でも、そういう規範をつくろうと黒人と白人が共同の意図を持っている、なんてことはありえないだろう。黒人はそういう規範に従わないと殴られるから、いやいや従っているだけだ。

まあどっちにしても、「私」だろうが「私たち」だろうがたいした問題ではないよ。そこにこだわることの意義はあまりないと思う。

コメント

シミュレーションの話はちょっと面白いな。シミュレーションが正しいという保証なんて何もないのだから、シミュレーションに基づいて行動するのは経済学やゲーム理論が想定する合理性から逸脱した振る舞いだ。だけど、そうやって合理性を捨てて非合理性を取り入れるからこそ、無限後退が回避できてコーディネーション問題が解決できる。

同じような議論が積ん読中の下記の本でも出てくる。こっちも、計算能力に限界のある限定合理的なプレイヤーを想定すると囚人のジレンマでパレート効率的な結果を達成できるようになる、みたいなことが第1章の終わりに書いてある。個人が非合理だからこそ社会はうまく回る、というのは直観的にも納得しやすい。細かい屁理屈を延々と垂れる人ばかりだったら物事は何も動かないしなあ。

【読書ノート】『制度とは何か』5章から6章

第5章 構成

サールは、制度を次のように定義している。

制度は、「XはCにおいて、Yとみなされる」という形式の構成的ルールの体系である。

たとえば、「貝殻はウコチャヌプコロ国において貨幣と見なされる」とか、「全裸は日本国において変態と見なされる」とかだ。

こういう意味でのルールを構成的ルールと呼ぼう。

ところで、実はこの定義は次のように書かなくては不正確だ。

もしPならば、CにおいてXはYである

なぜなら、XがYと見なされるための条件(P)がないと、そもそもXがYといえるかどうかが判断できないことがあるからだ。

たとえば、「もしそこが公共スペースならば、全裸は日本国において変態と見なされる」とかだ。この場合、「そこが公共スペースである」という条件が不明であれば、変態であるかどうかは判断できない。風呂の中なら全裸でもOKだ。

だとすれば、次のように書いてもいいだろう。

もしCならば、XはYである

つまり、PもCもどちらも「充足条件」としてひとまとめにしてしまったということだ。「もしそこが日本の公共スペースならば、全裸は変態と見なされる」と考えてくれればいい。

ところで、これは前章でやった相関均衡と同じ形式だ。「以前からその部族が放牧していたのなら、そこではその部族が放牧する」というやつだ。

こういう形式のルールは、サールの用語でいえば統制的ルールだということになる。つまり、人々は「この貝殻を貨幣とみなそう!」という風にルールを意識的に構成しているのではなく、とくに意識せずにそういうルールに従って振る舞っているということだ。

サールは、制度とは構成的ルールだと考えている。しかし、今やってみせたみたいに、構成的ルールを読み込んでいけば、それは実は統制的ルールに還元できるのだ。そして、構成的ルールなんてものを考える必要はないのだ。

第6章 規範性

さて、制度を統制的ルールとみなすと、制度は役に立つものだ、ということになる。次の利得表をみてほしい。

赤なら止まる、青なら進む 赤なら進む、青なら止まる
赤なら止まる、青なら進む 1, 1 0, 0
赤なら進む、青なら止まる 0, 0 1, 1

これは信号機ゲームだ。それぞれのプレイヤーの戦略が統制的ルールと同じ形式になっていることに注意してほしい。両者が同じ制度を共有することで、(1, 1)というよりよい利得が達成できる。制度がバラバラだったら交通事故が多発して大惨事になってしまう。このように、統制的ルールとしての制度は役に立つものなのだ(コーディネーションゲームを解決するという意味において)。だけどここで、構成的ルールは何の役割も果たしていない。

ここで義務の問題はどう考えられるのだろうか? サールの構成的ルールは、「守らなければならないもの」というニュアンスがある。つまり、一種の規範なのだ。そういう、規範としてのニュアンスは、統制的ルールにはあまり感じられない。たとえば、「赤なのに進んでしまったことで罪の意識にさいなまれる」みたいなニュアンスは今のところ入っていないのだ。

でも、そういうニュアンスを統制的ルールに含めることは可能だ。たとえば囚人のジレンマを考えてみよう。

協力 裏切り
協力 2, 2 0, 3-x
裏切り 3-x, 0 1, 1

x=0なら、これは普通の囚人のジレンマだ。でも、もしプレイヤーが「相手が協力してくれたときに裏切るのは人でなしなことだ」と罪の意識を感じるのなら、xが1とか2とかの値をとり、裏切った人の利得を減らすことになるだろう。仮にx=3だと次のようになる。

協力 裏切り
協力 2, 2 0, 0
裏切り 0, 0 1, 1

これは「協力、協力」と「裏切り、裏切り」の2つの均衡を持つゲームだ。これでとりあえず「裏切り、裏切り」という均衡を避けられる可能性はできたといえる。このように、ルールの義務論的な力は人々がプレーするゲームを変え、新たな規則性を創出するものとして統制的ルールに組み込むことができるのだ。

コメント

ここらへんから難しくなってくるんだよなあ。あんまり本の内容通りに書きすぎると著作権がアレなので、かなりかみ砕いているけれど、かみ砕き過ぎで別物になってる可能性も否定はできない。

規範の話はいまいちピンとこなかったな。確かに規範を統制的ルールに組み込むことはできるのだけど、そもそも規範の義務論的な力がどこからやってくるのか、というのは不問に付されてしまってるのではないだろうか。ヒースだったら「規範同調性」といって、とにかく規範に同調しないといけないという習性がヒトという生物にはあるのだ、という風に説明してたな。

「規範の義務論的力の源泉なんて考える必要はなくて、とにかくそういう力があるのだと示せば、制度が役に立つものだということは示せるのだ」ということかな? 倫理学にあまり興味がないのだろうか。ヒースの場合、倫理学は日常の道徳判断の構造を明確化するための表出語彙なのだ、とか言ってた。

odmy.hatenablog.com

新しい制度をつくるときはそれまでの倫理を見直す必要も出てくるだろうし、そういうときに、「なぜこうした倫理に従わなければならないのか?」という倫理学的な議論は必要になってくると思う。そういう観点がグァラの主張ではスッポリ抜け落ちている気がしてモヤモヤするのだけど。やっぱり最終章を精読せよってことか。

【読書ノート】『制度とは何か』1~4章

「制度」というのは一見、地味なテーマだ。

「制度って、ようするに法律とかルールとかの話なんじゃないの?」。そういう風に受け取る人はたぶん多いと思う。だけど、実は制度は社会の至るところに現れる。というか、社会そのものが制度の集合体みたいなものだ。

たとえばこうしてここに書いている「言葉」だって制度だ。言葉には文法があるし、適切な言葉遣いもある。そうした文法や言葉遣いの適切さを無視して、「うえぽいjらいだじおpふぁうろい@」と突然書き出したら言葉は言葉として機能しない。「言葉はこう使わなければならない」というルールが明文化されているわけではない。辞書や文法書はあるけれど、普通の人はそんなものなくても言葉を使うことができる。制度とは、必ずしも法律のように明文化されているわけではない。暗黙的な制度だってたくさんあるのだ。

言葉だけじゃない。人前では服を着なければならないというのも制度だ。知ってる人と会ったら挨拶しなければならないというのも制度だ。周りの人に対して不義理なことをしているとだんだん冷たくあしらわれるようになるというのも制度だ。そしてお金を使えば物を買えるというのもかなり大事な制度だ。

こんな風に、社会は何から何まで制度だといっても過言ではないだろう。だからこそ、社会科学者や社会哲学者にとって、制度というのは最重要の研究テーマであり続けてきたわけだ。しかしそれにも関わらず、「制度とは何か」という基本的なことについて、実は社会科学者と社会哲学者の理解はたがいに食い違っている。そして、これらの人々は相互にあまり交流しない傾向があるので、その食い違いはほとんど埋められることなくこれまで残存してきた。

そうした「制度」をめぐる理解の食い違いを解消し、制度に関する統一的な見解を提案しよう、というのが本書の目的だ。

なお、以下は単純な要約というよりも、自分なりにかみ砕いた理解を書いているだけです。内容をきちんと知りたかったらお金出して本を買ってください。

第1章 ルール

制度に対する理解には次の2つがある。

  • ルールとしての制度
  • 均衡としての制度

ルールとしての制度とは、たとえば「赤信号では横断してはいけない」というルールだ。この場合、なぜ人々が赤信号で横断しないのかといえば、「そういうルールだから」ということになる。しかし、これでは人々がなぜそういうルールに従うのかわからない。車がほとんど通らないのであれば、赤信号でも横断する方が普通だろう。また、車を運転するとき、制限速度40キロの道を律儀に40キロで走っていると、後ろが詰まってしまうことがある。40キロであれば50キロ、50キロであれば60キロ、という風に、制限速度を10キロくらいオーバーして走るのが普通なのだ。これもまた、ルールとしての制度という理解では説明できない現象だ。

均衡としての制度とは、制度とは行動の規則的パターンだという理解の仕方だ。地域によって、エスカレーターで左側に立つか右側に立つかはちがってくる。駅員からすればどちらも間違いだということになる。エスカレーターでは片側に立たないで両側に人が立つように利用してもらいたい。しかし、そういう風に利用すると、急いでいる人が先に行けなくて詰まってしまう。エスカレーターを歩く人の方が悪いのだけど、だからといってぼんやり立ってたら、場合によっては後ろで舌打ちされることもある。舌打ちされたくなかったら片側に立った方がいい。左でも右でもいいのだけど、地域によって均衡が変わってくる。左が均衡である地域では左に立つし、右が均衡である地域では右に立つ。これが均衡としての制度だ。ゲームの利得表で表すとこんな感じになる(実際にはプレイヤーは2人だけじゃないので、以下は厳密なものではなくてイメージみたいなもの)。

1, 1 0, 0
0, 0 1, 1

ところで左に立つか右に立つかという問題はゲーム理論でいうコーディネーション問題にあたる。つまり、均衡が複数あるとき、そのうちのどれをみんなが選ぶように調整するか、という問題だ。ひとつの解決策は、フォーカルポイントをつくることだ。つまり、ある選択肢だけがほかの選択肢に比べて目立っていたら、みんなはそれを選ぶ傾向を持つだろう。それはただ「目立つ」というだけのことでいい。「どの均衡も区別できない」という状況を変えることができる。そして、その目立つ選択肢が均衡になるのだ。

制度はルールではなく、均衡として理解されるべきだ。そうでないと、「なぜ遵守されるルールとそうでないルールがあるのか」ということがわからない。ルールは、コーディネーション問題を解決するためのフォーカルポイントとしての役割を果たすと考えた方がいいだろう。

第2章 ゲーム

均衡としての制度を研究するためにはゲーム理論が役に立つ。

ゲームによっては均衡が複数あることがある。たとえばさっき挙げた利得表には、(左、左)と(右、右)の2つの均衡がある。この場合、どちらの均衡であっても特に問題はない。いずれにしても(1, 1)という利得が達成できるからだ。しかし、次のような利得表の場合はどうだろう?

鹿 ウサギ
鹿 2, 2 0, 1
ウサギ 1, 0 1, 1

これは鹿狩りゲームという奴だ。2人の狩人が協力して鹿を捉えるなら、(2, 2)という望ましい利得を達成できる。だけど、どちらかの狩人の持ち場をたまたまウサギが横切ったとき、その狩人が我慢できずに手を出してしまえば、その狩人はウサギを捕らえられるが、鹿狩りは失敗してしまう。この場合、ウサギを捕らえた狩人が利得1を達成し、ウサギに手を出さなかった狩人は利得0となる。

この場合、均衡は(鹿、鹿)か(ウサギ、ウサギ)だ。しかし、エスカレーターで左に立つか右に立つかという問題と違って、(鹿、鹿)の方が望ましい結果であることは明らかだ。こういう場合、(鹿、鹿)が達成されるようなんとかコーディネーションする必要がある。こういう問題をコーディネーション問題という。そして、制度が問題になってくるのはこうしたコーディネーション問題においてなのだ。

(鹿、鹿)を達成できるようにするなんらかのルールがあるとする。この場合、「ルールは人々がコーディネーション問題を解決するのに役立つという理由で存在する」という風に機能的に説明できるだろう。制度を均衡と捉えるアプローチでは、このように制度を機能面から説明することができるのだ。

第3章 貨幣

貨幣はコーディネーション問題の均衡解だ。

貨幣はただの金属だったり紙切れだったりするものだ。これがなぜ貨幣として通用し、商品と引き換えに他の人に受け取ってもらうことができるのか? 説明の仕方は2つある。いずれも、人々の信念が相互に整合的であるからだ、という均衡タイプの説明に訴えるものだ。つまり、「他の人たちがこれを貨幣だと信じているから、私もそう信じるし、だから他の人もそう信じる…」というものだ。

  • 説明1
    • 人々がこれまでずっと、そうした金属や紙切れを交換手段として用いてきたという過去の行動の規則性があるから
  • 説明2
    • 国家は公務員にバウチャーで給料を支払い、国家は全市民にこれらのバウチャーを使って納税するよう強制する。この場合、権力の源泉としての国家の信頼性が、バウチャーが貨幣であるという人々の信念を保証している

第4章 相関

次のような「放牧ゲーム」を考えよう。

放牧する 放牧しない
放牧する 0, 0 2, 1
放牧しない 1, 2 1, 1

これは、2つの部族の行動によって帰結が変わるゲームを意味している。同じ場所で放牧すればお互いに殺し合いになるので利得は最悪の(0, 0)だ。だけど、相手が妥協して放牧しなければ、こちらはその土地を独り占めできるので2の利得が得られる。一方、放牧しないで別の土地で放牧することもできる。ただ、その場合、あまり豊かな土地ではないので、利得は1しか得られない。

これは一種のチキンゲームだ。均衡は、(放牧しない、放牧する)と(放牧する、放牧しない)の2つだ。つまり、片方が放牧して、もう片方の部族は別の土地で放牧するというものだ。複数均衡があるので、これはコーディネーション問題だといえる。

さて、なんらかのフォーカルポイントがあればこうしたコーディネーションはうまくいくだろう。たとえば、そこがもともと片方の部族が以前から放牧していた場所だった、という状況だ。今の状況では、私有財産という制度がまだ存在しない原始的な社会を想定しているので、片方の部族が以前から放牧していたとしても、そこに外部から侵入することには何の問題もない。しかし、片方の部族が以前からそこで放牧していたということがフォーカルポイントになることで、コーディネーション問題が解決されるのだ。

これはいわゆる「相関均衡」という奴だ。私有財産制度のない社会において、片方の部族が以前からそこで放牧をしていたとしても、ゲームの利得構造にはなんの影響も及ぼさない。それでも、「以前からその部族が放牧していたのなら、そこではその部族が放牧する」という風に、もともとのゲームにない外的事象に条件付けて、コーディネーション問題を解決するようにプレイヤーの行為を指示するのだ。

こうした均衡は、一種のコンヴェンション(慣習)だ。この状況を外的観察者の視点からみれば、コンヴェンションは人々の行為の規則性として見える。一方、プレイヤーたちの視点からみれば、それは「この土地ではわれわれは放牧すべきでない」といったようなルールとして見える。つまり、制度は均衡でもあり、ルールでもあるのだ。

これまでの論者たちは、制度は均衡であるか、ルールであるか、というので意見が対立していた。しかし私の考えでは、制度とは均衡したルールなのである。

コメント

久しぶりのブログアップ。大学教員に復帰するので授業準備にしばらく夢中になっていたけど、なんか違うんじゃないかなあ、とそろそろ思い始めていた。もちろん自分は教員として雇われているわけで、授業することが本業なのだけど、そこにとらわれているとどんどん不自由になっていくなあ、と思い始めた。研究中心でいいんじゃないかと思うんだよ。そしてそれが、結局は教育にもプラスに働いてくると思う。大学の授業って、わかりやすいとかためになるとかよりも、「学問をこんなに楽しそうにやっている人がいるんだ!」ということを知ることに意義があるんじゃないかと思う。自分の学生時代をふりかえっても、学生置いてけぼりで突っ走ってく先生の方が好きだったなあ。

で、本書について。以前読んだヘルマン=ピラートの本だと、制度とは人々の相互承認によって生み出されるものだ、という風なことが書いてあったと思う。でもこれは、本書では否定される考え方なのではないだろうか? もっとも、「相互承認」という概念が、単にみんなが話し合って合意するというのではなく、本書のいうような均衡という要素も含まれたものなのなら、必ずしも否定されるものにはならないと思うけど。あと、制度を改革するときにはやっぱり討議が必要になってくるし、その際に相互承認は意味を持ってくるのではないだろうか?

なんで相互承認にそんなにこだわっているかというと、本書の主張に従うと、倫理や道徳はすべて「たまたま」なのだということになってしまうのではないかと思うのだよね。たまたまそういう相関均衡になっていたから、ということだ。ここらへんは、制度の改革について論じた最終章のあたりを検討したら見えてくるかもしれない。

アウトラインプロセッシングを使いこなせていないから使いこなせるようだらだらする

文章を書き出すのはおっくうなものだ。何を書きたいのかは書き出すまでわからないし、その一方で、書くのに必要な知識やアイデアが自分にあるかどうかはわからない。 苦労して書いても結局支離滅裂なものになったらどうしようと不安になって、「ああ、もうなんかいいやあ」となって飲めもしない酒をあおるのだ。

「そういう人にこそアウトライナー!」という評判を聞いて、2年くらい前からアウトライナーを使ってる。使ってるツールはWorkflowyだ。これがあちこちで勧められてるし、実際、使いやすいと私自身感じている。 1

アウトライナーの伝道師の人はこんな風に言ってアウトライナーを褒め称えている。

「書くこと」そして「考えること」に、アウトライナーは絶大な威力を発揮します。一度その考えを理解し、馴染んでしまうと手放せなくなります。アウトライナーを知らなかった人が何かのきっかけでアウトライナーに触れ、熱狂的なユーザーに変貌していく様子を何度も見てきました。私にとって、文章を書いたり考えを整理する上で、アウトライナーを使わないことはもはや考えられません。 p2

でも、私の使い方が悪いのか、せっかくアウトライナーを使っていても、普通にメモアプリで書いてるのとあまり変わらない印象を持っている。熱狂的なユーザーにはほど遠い感じだ。そこで、私のアウトライナーの使い方を見直そう、というのが今回の趣旨だ。

なお、アウトライナーってどんなものなの? というのは面倒なので説明しない。Workflowyの紹介記事はたくさんあるので勝手に見てください。ここらへん参照。

www.specializedblog.com

どうしてアウトラインプロセッシングを活用できてない?

私はこういうパターンでいつも失敗してる。

  • とにかく書き出してみる

  • ひとつひとつの項目の文章がすごく長くなる

  • 項目の内容が一目で把握しにくいので、アウトラインの全体が見通せなくなる

  • わけわかんなってきてキーってなって、いったん全部メモアプリにコピペして清書する

  • だったら最初からメモアプリで書けばいいじゃんとなる

うん。いかにも私らしい頭の悪い失敗だ。それでは、伝道師の人はアウトライナーをどう使っているのだろう?

シェイクせよ → シェイクできません

どうやら、シェイクというのがアウトライナーで一番重要なテクニックだそうだ。でも、それが私にはいまいちよくわからない。理屈はわかるけど、具体的に何をどうすればいいかわからないのだ。

実践的なアウトライン・プロセッシングは、トップダウンボトムアップを行き来する形で行われます。トップダウンでの成果とボトムアップでの成果を相互にフィードバックすることで、ランダムに浮かんでくるアイデアや思考の断片を全体の中に位置付け、統合していきます。本書ではこのプロセスを〈シェイク〉と呼びます。行ったり来たりしながら揺さぶるからです。 p74

シェイクは具体的にはこういう風にやる

  • まず、雑にアウトラインを書いてみる

  • アウトラインに収まらなかったアイデアが出てきたら「未使用」という項目に入れておく

  • 「未使用」に入った項目を眺めて、似たものをグルーピングして新しい項目をつくる

  • 新しい項目をアウトラインに組み込む

つまり、最初にアウトライン全体を構築する作業が「トップダウン」で、新しく項目をつくる作業が「ボトムアップ」というわけだ。

それでは、シェイクするとどういういいことがあるのか? 伝道師の人の本にはこういうことが書かれている。

  • 構造を考えることとディテールを考えることを分離することで、頭の負荷を減らすことができる。

  • そもそも、人の思考はトップダウンボトムアップを行き来するのが自然だ。

理屈はわかる。しかし私はその理屈を実践にうまくつなげられていないのだ。問題点と解決案を考えてみよう。

  • 各項目の文章を長く書きすぎるとアウトラインを制御できなくなる

    • → 短く書こう
  • 「未使用」の項目の中身を後から確認してもちょっとしか入ってなくてがっかり

    • イデアは、アウトラインを書いているときよりも、だらだら文章を書いているときに思いつきやすい

    • → だらだら文章を書く場面をシェイクの中に取り入れないといけないのでは?

  • 伝道師の人のやり方だと最初にアウトラインががっちり決まってしまって、「シェイク」というほどのものにならない

    • アウトラインを書いているときに思いつくようなことは、そのままアウトラインに入れてしまえばいい。「未使用」の項目にわざわざ入れるようなことはあまりない(だから「未使用」項目はいつも空っぽ)

    • → やっぱりだらだら文章を書こう。

となると、アウトラインプロセッシングの改善の方向性はこういうことになるだろう。

  • アウトラインをつくるときはとにかく短い文章を書く

  • ボトムアップの局面では、文章をだらだら書く

    • アウトラインをつくるときにだらだら書くと、項目の文章が長くなりすぎてアウトラインを制御できなくなるので注意

だらだら式アウトラインプロセッシング

  • ①アウトラインver.1の作成

    • 各項目の文章はなるべく短く

      • 2行以上になったら注意!
  • ②アウトラインver.1を推敲

    • 言葉足らずのところを補う

      • 各項目に下位項目を追記する
    • 文章全体を推敲

  • ③アウトラインver.2が完成

  • ④アウトラインver.2の修正

    • アウトライン全体を眺めて、議論が不十分なところや面白くない項目を探す

      • このとき、そのテーマに関連する本を流し読みしてみるのも効果的。人の考えと比較することで、自分に足りないところが見えてくる
    • その項目にフォーカスして、下位項目に問題点を書き込んだり改善案を書き込んだりする

      • ここはとにかくだらだら書く。だらだら書いてるうちにアイデアが出てくる
    • 書き込んだ内容を参照しながら、項目のタイトルを手直しする

  • ⑤アウトラインver.2の推敲

    • 修正した項目が浮いてしまっているようなら、前後に新たな項目を入れるなどして調整
  • ⑥アウトラインver.3の完成

    • これでもまだ不満なら、④~⑤の作業を繰り返す

おわりに

という感じのやり方を考えてみた。今回の記事もこのやり方で書いている。今のところ、なかなか悪くない感じだ。

今回のはあくまで自分用メモだ。別にアウトラインプロセッシングの伝導をしたいわけじゃない。道具の使い方というのは人それぞれだ。私はだらだら書いてるときにアイデアが出やすいので、だらだらを強調したやり方を考えてみたということです。


  1.  Obsidianにもアウトライナーの機能をプラグインで入れられるけれど、動作があんまり気持ちよくないので私は使ってない。

ゲーム理論を勉強するとどんな御利益があるの?

ゲーム理論は役に立たないかも?

大学でもゲーム理論がよく教えられるようになってきた。でも、ゲーム理論の授業が人気科目だという話はあまり聞いたことがない。また、ゲーム理論をふだんの問題解決に活用している人もそれほどいないようだ。ゲーム理論なんてなくたって、世の中は普通に回っている。

ゲーム理論は役に立つ」と主張する人は多いのだけど、一方で、どう役に立つのかというのはよくわからない。「役に立つ」派の人たちは、ゲーム理論で分析できる現実の事例をたくさん挙げることで、「ほうら、現実を理解するにはゲーム理論がこんなに役に立つでしょ?」と言ってくる。たとえばこんな感じに。

PK戦は混合戦略のナッシュ均衡だ!」

「気候変動はN人囚人のジレンマだ!」

「繰り返しゲームではしっぺ返し戦略が最強だ!」

そうなのかもしれない。でも、それがわかったからといって何がどうなるというのだろう?

サッカー選手はゲーム理論を勉強してもPK戦に勝つことはできない。気候変動が囚人のジレンマだとわかっても、それで気候変動が防げるわけではない。しっぺ返し戦略だって、うまくいくかどうかはケースバイケースだろう。結局、現実を後付けで説明してるだけであって、ゲーム理論を問題解決に使うことなんて無理なのではないだろうか。

ゲーム理論が何の役に立つのかいまいちよくわからない。これが、人々が(というか私が)ゲーム理論を学ぶモチベーションを大きく下げてしまっているのではないかと思う。そこで、ゲーム理論が何の役に立つのかを改めて考えてみたいと思う。

ゲーム理論の研究者たちの言い分

それでは本職のゲーム理論の研究者たちはどう言ってるだろう? まずは『ゲーム理論入門の入門』にどう書いているかみてみる。「入門の入門」というくらいだから、私のように入門前につまずいている人にも「それはね」と優しく説明してくれることだろう。

と期待してたけど、実はこの本ではゲーム理論がどう役に立つかについてほとんど何も書いてない。「入門の入門」なのに。「入門の入門」って、入門するモチベーションを持たせるためのものなんじゃないかなあ。マリコ様がどうしたこうしたとかいろんな事例を挙げてゲーム理論で解釈しているだけで、「なんでそんな風に考えないといけないの?」というところはよくわからなかったよ。

それでも、それっぽいことが「はじめに」のところでちょっとだけ述べられているので引用してみよう。

もしあなたが重要な戦略決定(たとえば、新商品の価格設定や、新規市場への参入戦略の策定)に携わるビジネスパーソンなら、ゲーム理論の基礎を理解していることは欠かせないだろう。

でも、これはかなり疑わしい主張だ。ゲーム理論を知らない優秀なビジネスパーソンなんていくらでもいるだろう。イーロン・マスクビル・ゲイツスティーブ・ジョブズ松下幸之助本田宗一郎ゲーム理論を勉強していたなんて話、聞いたこともない。どうもこの本はゲーム理論が現実に役立つということについて、ほとんど説明できていないみたいだ。がっかりだよ。

続いて、『活かすゲーム理論』もみてみる。「活かす」ということにこだわっている本書なら、ゲーム理論が何の役に立つのか、きちんと説明してくれるだろう。

私たちは生きている中で、多くの社会問題に直面します。社会問題とまではいかなくても、学校や会社、あるいは家庭など、日常の中で解決が難しい問題に直面することも少なくないでしょう。「なんでこんなことになるんだ」などと戸惑うこともあると思います。そのとき、ゲーム理論という手法をあてはめて考えることで、考えを整理し、その原因を解明していけるかもしれません。 p3

この本の中で強調されているのは、複雑な現実を抽象化してシンプルな「モデル」をつくることだ。そして、モデルをつくるための方法としてゲーム理論が位置づけられている。

モデル化をした後は、ゲームの結果を予測することになります。何が起きるかわからない複雑な事例であっても、簡略化をして本物の「ゲーム」のようにモデル化していくことで、プレーヤーのインセンティブを知ることができ、結果を簡単に予測できるようになってきます。p12

ゲーム理論を活かす』の方が、ゲーム理論を勉強する意義についてきちんと考えていると思う。つまり、現実が複雑すぎるからまずモデル化しよう。そのためにゲーム理論を学ぶのだ、ということだ。

しかし、それでは「モデル化」するとどんな良いことがあるのか。複雑なものを単純化したら、何か良い解決策が出てくるものなのだろうか。そこで、「モデル化」するとどんな良いことがあるかをもう少し考えてみよう。

モデル化するとなんかいいことあるの?

モデル化すると論理的に考えられるようになる

以下、参考にするのは『思考の方法学』という本だ。

本書でいう「モデル」とは、考える対象となる事物を吟味して大切な要素のみを選び出し(それ以外は捨て去り)、選び出された要素(部品)同士の関係性を記述することによって、現実の真似事(模型)をこしらえたもののことです。その際、モデルを、当事者の目的を達成するための「思考の枠組み」として上手く機能するようにこしらえることができれば、大変に役立つツールとなります。 p3

モデル分析は、現実への対処法を考えるときに不可欠の技術です。モデルを作成して用いるからこそ、私たちは論理的な思考に基づいて物事を理解したり、適切な計画を立てることができます。p4

ここでいう「モデル」は、必ずしもゲーム理論のモデルに限定されない。自然科学、工学、社会科学を問わない、あらゆる学問分野におけるモデルに共通した議論だ。

「論理的な思考に基づいて」というのがポイントだ。論理的な思考が必要なときにモデルが役に立つ。逆に、サッカー選手がPK戦でどう動くか、みたいなときは直感の方が重要だろうし、モデル思考はあまり役に立たないだろう。

もうちょっと具体的に、モデル思考とはどんなものかをみてみたい。そこで、リボ払いを例に、モデル思考とはどんなものかを考えてみよう(ここは『数字であそぼ。』第8巻のエピソードを参考にした)

クレジットでモノを買うとき、リボ払いなら月々同じ金額を払えばいい。利用者側としては、毎月の負担額が一定なのでなんとなく気が楽だ。だからリボ払いをする人はそれなりにいるのだろう。

しかし、これはただの分割払いではなく、実質的に借金なのだ。とうぜん利子がつく。しかもかなり大きな利子だ。だから、毎月払っていてもなかなか借金の残額は減らない。

100万円のモノをリボ払いで買うとしよう。深く考えない人は、月々5万ずつ払っていけば20ヶ月で完済するな、と考える。

しかし、これは100万円の借金なのだ。金利が15%なら(リボ払いの金利はべらぼうに高い)、1年で15万円の借金がプラスされる。だから、年間に5×12=60万円返済しても、残額は40万円ではなく、40万+15万=55万円だ。そして2年目はこの55万円にまた15%の金利がついて(複利というやつだ)、8万円程度の借金がプラスされる。残りの借金は約63万円だ。月々5万円ずつ1年返済しても、まだ3万円借金が残る。つまり、20ヶ月で返済できるはずだったのが、24ヶ月以上かかってしまうということだ。返済総額は、5万×24ヶ月=120万以上となり、20万以上も余計にかかってしまうことになる。これが、リボ払いをすることのコストだ。

真面目にこういう計算をする人なら、リボ払いなんてことはしない。あまりに割に合わないからだ。サラ金金利が18%くらいだというから、リボ払いを利用することはサラ金でお金を借りることとたいして変わりない。リボ払いを使うのは、多くの場合、こうした計算をしていない人たちだろう。

このような金利の計算をすることも一種のモデル思考だ。これはシンプルなモデルであり、次のパラメーターでできている。これにより、「いつ完済できるか」という予測ができるわけだ。

  • 初期時点での借金総額 100万
  • 金利 15%
  • 月々の返済額 5万

確かに、「考える対象となる事物を吟味して大切な要素のみを選び出し(それ以外は捨て去り)、選び出された要素(部品)同士の関係性を記述する」というモデルの要件はこれで満たしていることがわかる。

初期時点での借金総額、金利、月々の返済額は「大切な要素」だ。逆に、「リボ払いの勧誘員の誘い文句や笑顔」「月々の返済額が固定であることの安心感」といった要素は捨て去られている。それらは、リボ払いを選択する動機にはなっても、リボ払いで実際にいくら払うことになるかを説明する要因にはならないからだ。

このように、本質的でない要素を捨て去ることで、複雑な現実をシンプルに考えることができる。シンプルに考えることができるということは、論理的に考えることができるということだ。

論理的に考えるためには言葉や数式を使わなくてはならない。しかし現実が複雑すぎると人間の言葉や数式ではうまく捉えられなくなる。たとえば「渋谷のスクランブル交差点を渡る人たち全員の歩き方や表情や互いの位置関係を言葉や数式だけで説明しなさい」と言われても、そんなことは無理だろう。だから、なるべく無駄な要素はそぎ落とさなくてはならない。そうすることで、現実を言葉や数式で扱えるようになり、論理的に考えることができるようになるのだ。

もちろん、人はつねに論理的に考えるわけではないし、論理的に考えることが常に有効なわけでもない。たとえば有能な経営者は論理よりも「野生の勘」に頼っているかもしれない。PK戦のときのサッカー選手はその場の「空気」のようなものに反応して体を動かしているのかもしれない。あるいは、天才的なアーティストの「ひらめき」のようなものもあるだろう。

だけど、そうした勘(直感)が常に有効に働くとは限らない。勘が鈍るということもあるし、人間にはさまざまなバイアスがあるからだ。だからこそ、直感に頼る前に、冷静にモデル分析をして、自分の直感が正しいかどうかをチェックすることは重要なことなのだ。

モデル化すると他人の「断言」に惑わされなくなる

現在のようにSNSで様々なあやふやな情報や感情的な意見がやりとりされている時代では、現実をモデル分析することは特に重要だといえる。

さっきの本には、モデルを学ぶことのこういう効用も述べられている。

モデル分析の本来の有りようを学んでおけば、こうした世間に満ちあふれる断言に対して、「いったい、どのようなモデル分析によって導かれたのだろう?」という疑問を持つことができます。p23

たとえば、コロナパンデミックを例に考えてみよう。パンデミックの初期には、PCR検査の数を増やせ、という主張がよく聞かれた。日本の検査の数はあまりにも少なすぎる、というのだ。

しかし医療関係者たちは、検査をやみくもに行うのは良くないと主張していた。なぜかというと、感染者が少ない時点で検査をやみくもに行うと、本当は感染していないのに「感染者」と判定される人(偽陽性者)の数があまりに多くなってしまうからだ。

たとえば、人口1億1,000万人の国で、感染していない人が1億人いるとする。この検査法で、間違った検査結果が出てしまう確率が0.1%だとする。 すると、この1億人にPCR検査をすると、1億×0.001 = 10万人もの人々が、本当は感染していないのに感染者扱いされることになってしまう そういう人は、本当は感染していないのに感染者扱いされることで、生活を大幅に制限されることになる。そんな人を10万人も出してしまうのは、あまり好ましい事態とはいえないだろう。

一方、モデル思考が身についている人なら、「そもそも検査の精度はどれくらいなんだろう?」とか、「症状からみて感染の可能性が高い人をある程度絞り込んだ方がいいのではないだろうか?」という風に問うことができる。そうして、本当に検査をたくさんするべきなのかを疑うことができるわけだ。つまり、他人の「断言」に惑わされずに済むわけだ。

ただしこういうモデル思考をすることでいつもうまくいくわけではない。たとえば、ヤンデル先生というお医者さんは、noteにこんな記事を書いている。

note.com

ヤンデル先生はパンデミックのころ、PCR検査をやみくもにやってもしょうがないよ、ということをネット上で主張していた。そのときの動画も丁寧に上のリンク先で見られるようになっている。

その主張の根拠はさっき述べたようなことだ。つまり、感染している可能性のある人をある程度絞り込めていないうちに検査をやみくもにやってしまうと、偽陽性の人がたくさん出てきてしまうよ、ということ。

動画の説明はとてもわかりやすい。それこそ小学校高学年でも理解できるような内容だ。これはヤンデル先生の「意見」というよりも、科学的推論を淡々と述べているだけだ。つまり、「感染者数」「検査の失敗率」「検査対象者数」といった変数を使ってモデルを組み、「感染者数が多いときに闇雲に検査対象者を広げると、偽陽性の人が多くなる」という結論を引き出しているのだ。

でも、このようなモデルに基づいた主張をしたことを、さっきのnote記事では謝罪している。その趣旨は、PCR検査を受けたい人たちが何を求めているかをよく考えていなかった、というものだ。

考えてみれば、世の皆さんは、別に、PCRが大好きであるとか、PCRをやらないと生きていけないとか、no PCR no LIFEとか、そういったことは一切おっしゃっていません。 ただ安心したいだけなんですよね。 ただ不安・不満をなんとかしたいだけなんですよね。……

ぼくは、みなさんの「本当に欲しいもの」に対して、あまり真剣に向き合おうとしてこなかったのだと思います。

モデル思考の話に引き寄せれば、現実をシンプルにモデル化する過程で、「人々が本当に欲しいもの」に対する配慮までそぎ落としてしまったということだ。

モデルは完璧ではない。現実を単純化するわけだから、その過程で必ず何かがそぎ落とされる。そのため、不安な人に対してモデル思考をする人が「それはね、こういうことだから別に何の問題もないんですよ。安心してくださいね」と言っても相手の不安がまったく収まらないことがあるのだ1

確かにモデル化すると他人の「断言」には惑わされなくなる。でも、気付いたら自分の方がモデルに基づいて他人に傲慢な「断言」をしてしまっていることもあるのだ。だからモデルをつくる人は現実に対してもっと謙虚でなくてはならない。そして、モデルと現実がうまくかみ合わなければ、自分がつくったモデルを壊して作り直す勇気も必要だ。先に紹介した『思考の方法学』にも、こんなことが書かれている。

モデルというものは一通りつくり終えたらそれで終わりではありません。人間による営みを、伝統主義に陥ることなく正面から観察し、変える勇気を持つことが大切です。……新事実を部品として取り入れ、古きを捨てて新しきをこしらえることに努力を注ぐのです。これが、人間の幸せの実現を目指す研究の本質かもしれません。 p251

まとめ

  • モデル化すると、複雑な現実を論理的に分析することができるようにな
  • すると、人間が持っている偏見や感情的なバイアスを排除して、冷静にものごとを捉えたり、解決策を考えたりすることができる
  • しかし、反面、モデル化の過程で大事なものが排除されてしまうこともある(人の心に対する配慮など)
  • だから、モデルをつくって終わりじゃなくて、モデルが現実とどんな風に関係しているのか、モデルが排除したものは何なのか、どこにモデルの限界があるのか、ということをきちんと意識しないとならない
  • ゲーム理論は人間社会をモデル化するとても便利で面白いツールだ。だけど、当然、ゲーム理論でうまく説明できない事例もある。そこは謙虚にならないとならない。
  • かといって、卑下することもない。論理で説明できるところは頑張って説明してみよう。そうすることで、現実に対する見方を変えることができるし、ひょっとしたら、解決策のヒントくらいは見つかるかもしれないのだ。

あとがき

毎日ブログを書こうという誓いが風邪(というかインフルエンザ)で挫折してしまい、このブログをどうしたものかわからずしばらくほったらかしにしていた。

4月からの授業資料をいろいろ作らないとならないのだけど、非公開の読書ノートをひたすらため込んでいてもそこからどうやって授業スライドにつなげていくのかいまいちイメージがつかない。やっぱりブログで自分の考えを書いていった方が授業にもつなげやすいのかな、と思って復活した。また挫折するかもしれないけど、とりあえず第1弾です。


  1. これに対して、物理学者の早野龍五氏は福島の原発事故後、「科学的に意味がない」赤ちゃん向けの被爆調査をしていたという。科学的に意味がないというのは、大人の方が放射性物質代謝が遅いから、調査するのなら大人の方だけ調査すれば十分だからだ(大人が大丈夫なのなら、赤ちゃんも大丈夫)。だけど、親としては子どもの被爆がどうしても心配になるわけだから、むしろ子どもの方を調査してもらいたいと思う。《「この子を測ってください」って、必ず言われるんです。ですからやはり、たとえ科学的には必要なくても、ベビースキャンは必要なんです。》(早野龍五・糸井重里『知ろうとすること』より)

風邪だもうだめだ

ここのところなんとなく調子が悪かったのだけど、アパートの階段を登って吐き気がしたところで悪い予感がした。熱はグングン上がり、平熱36度の人間が39度。風邪か? コロナか? 原因がわかっても、なんの慰めにもならねえ。とにかく私はぶっ倒れている。スマホより重いものが持てないくらいだ。

ブログ毎日更新と見栄を切ったが、早くも頓挫してるな。

まあ、急な引っ越しやらシラバス準備やらでストレスが溜まっていたのかもしれない。普段人と全然話さない非社交的な人間があちこちに電話したりメールしたり発送したり訪問したりで手続きを進めなくてはならなくなって、思ったよりキてたみたいだ。

病気になると、世界が病気中心になるな。人はいつか死ぬ。死ぬ時は世界が死中心になるのだろうか。たぶん、ほとんどの人が普段あくせく頑張ってることは、病気になったり死が迫ったりすると、全部どうでもよくなる。でも本当は、もともと全部どうでもよかったのだろう。その、どうでもいい、というニヒリズムを乗り越えるために宗教や芸術はあるのだろう。そういう意味で言ったら、宗教や芸術より大事なものなんて何もない。熱い風呂入って寝よう。