【読書ノート】『啓蒙主義2.0』第2章

第2章 クルージの技法――あり合わせの材料から生まれた脳について

理性は莫大なクルージの集積(p87-88)

クルージとは、根底にある問題を解決せずに、とりあえず表面的に解決してしまう方法のことだ。

たとえば、プログラムを作っていて、どうしてもある数字をインプットしたときにバグってしまうのだとしたら、「この数字を入れたときはこういうアウトプットを出す!」という風に固定してしまうようなやり方。解決策としては美しくないし、根本的な解決になってないけど、当座はしのげる。

で、合理的思考というのもクルージの集積によって可能になっている。たとえば、人間は記憶力が悪い。だから、「記憶術」を活用する。あるいは人間は計算能力が低い。だから紙とペンを使って計算する。「記憶力を上げる」「計算能力を上げる」という根本的な解決をしてないからクルージというわけだ。

認知システムの外部足場(p96-97)

こうやって紙やらペンやらを使うのは、単に記憶装置として使っているだけではない。これらを使って合理的思考をしているのだ。ここで、紙やペンは人間の認知システムにとっての外部足場として機能している。

こういう外部足場もまたクルージなのだ。

人間のCPUはスケジューラで管理されてない(p98-)

理性は直列処理システムだ。だから、マルチタスクに向いてない。

コンピュータだったらCPUがスケジューラで管理されてるから、タスクの優先順位に応じてCPU時間を調整することができる。だけど人間にはそんなスケジューラはついてない。だから、どうでもいいものに注意がそらされてしまったりする。試験勉強を死ぬ気でやらないと明日死ぬのに、選挙カーがうるさくて全然集中できないとか。

それで、家ではなく図書館で作業するとか、眠たかったらちょっと仮眠をとるとか、小腹が空いてたら食うとか、スマホにアプリを入れてエロサイトに接続できないようにするとかして、気をそらすものをなるべく身近から遠ざける。そういう工夫もまたクルージだ。

啓蒙思想1.0は失敗した。保守主義の方がマシ(p107)

理性はこんな風にいろんなクルージに頼らないと機能しないポンコツだ。それなのに、啓蒙思想1.0の人たちは理性を過信して、外部足場の多くをうっかり外すことになってしまった。

理性の力を過大評価すると、社会の進化プロセスの力を過小評価することにもなる。たとえば伝統的な農法は、よそから来た人には非合理に見えるかもしれない。でも、だからといって「ボクの考えた合理的な農法」を押しつけたらだいたい失敗する。伝統の力を甘く見ちゃいけない。今はうまくその伝統農法の良い理由を説明できなくても、じっくり検討していけばちゃんと理由があるかもしれないのだ。

だから、保守主義にも良いところはある。だけど、かといって「伝統に帰れ」なんてことを私は言いたいわけじゃない。保守主義については、次の章でもうちょいときちんと検討してみよう。

コメント

前の章と同じような話が続いているような印象でもある。ただ、「外部足場」というのは新しい話題。本書は確か後半の方でナッジみたいな合理性をサポートするものがあれこれ提案される。ただ序盤の段階でもそういう「合理性をサポートするもの」については取り上げられていて、前章だったら言語、本章は外部足場が出てくる(言語も外部足場だけど)。

保守主義は意外と良いよ、というのも新しい話題だけど、これは本章の話題というより、次章の話題だろう。

【読書ノート】『啓蒙主義2.0』第1章

読む動機

何年か前に読んだのだけど、例によってほぼ忘れてる。

センの『正義のアイデア』では、理性的な公共的討議によって不正義を発見することで、少しずつ正義を実現していくことが大事だよ、ということが繰り返し語られている。とにかく理性というのが大事だ。不正義を発見するときは、「残酷な事態を目の当たりにして心を動かされる」みたいな感情の働きも大事だけど、その感情が妥当なものかどうかも理性によって精査されなければならないとセンは主張する。

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確かに理性は大事だ。たとえば今の時代、インパクトのある写真や動画によって人々の善悪の判断が大きく左右されてしまうという、困った事態が頻発している。そういう写真や動画を見ると心が動かされるし、「悪者」に石を投げつけたくもなる。だけど、よくよく事情を調べて理性的に判断してみると、実はその「悪者」はぜんぜん悪者ではなかったとか、そもそもの写真や動画で示されている出来事自体が社会的にはたいした問題ではなかった、ということも結構ある。

だけどその一方で、理性的に物事を判断するというのは難しい。それは、SNSでよく見かける陰謀論にはまってしまった人たちを見ればわかる。「あなたの判断は間違っている」と、いくら根拠を挙げて反論しても、「ははは、あんたの言ってることこそフェイクですね」の一言で「論破」されてしまう。

センの言うように、確かに理性は重要だ。だけど、理性を使いこなすことは思いのほか難しい。「理性を使いこなす」という課題をクリアしないと、センがいくら良いことを言っても、それを現実社会で活用するのは不可能だ。

で、ヒースによる本書は、そういうなんだか頼りない理性を補うためのアプローチをいろいろ提案してくれるものだ(確かそうだったと思う)。センの議論に本書の議論をつなぎ合わせることで、センのいう公共的討議という奴を実行可能にすることができるんじゃないか。そういうもくろみで本書を読み返していきたい。

なお、文庫で再版されたばかりの本なので、あんまり詳しく要約すると著作権的に良くない気がするから、ある程度雑な感じにまとめます。

第1章 冷静な情熱 理性――その本質、起源、目的

合理的思考の重要な特徴は、理由を説明できること(p46-47)

ヒースのここの議論はブランダムを参照したもの。何かを主張するのならその理由を説明できないとならない。

「あいつマジ死んだ方がいいよね」「なぜですか?」「むかつくから」「なぜむかつくのですか?」「いや、顔が」「顔がなんですか?」「うぜえな。お前キモいよ」「何が キモいのですか?」「顔が」「顔がなんですか?」「アアアア!! もう寝るッ!」という感じで、理由が説明できないのならその人は合理的とはいえない。

合理的思考の特徴をもっと詳しく(p50-)

ヒースは、簡単な論理パズルをひとつ紹介したあとで、このパズルを解くのに必要な合理的思考の特徴を5つ挙げる。それは、明示的な言語表現と、脱文脈化、ワーキングメモリの利用、仮説に基づいた推論、そして、その難しさ・時間がかかること、だ。

直観に頼って「うまく言えないけど、俺のゴーストがささやくんだよね」とか天才ぶってないで、ちゃんと言語化すること。そして、具体的な文脈は省いて、問題を抽象的に捉えること。こういう合理的思考は脳のワーキングメモリを消費する。でも、そうやってワーキングメモリを使うことで、仮説に基づいた推論が可能になる。ただ、そうやっていちいち言語化したり、文脈を丁寧に取り除いたり、ワーキングメモリを消費したり、仮説を立てたり、ということをやるわけだから、合理的思考は難しい。時間がかかる。

二重過程論(p56-57)

人間には、ヒューリスティック(経験則)に基づく直感的認知と、論理的思考に基づく認知の2つがある。

直感的認知は領域固有のものであり、モジュール性を持つ。たとえば、顔を認識するのに特化してるとかだ。特化してるから認知は一瞬で行われる。でも、他の領域に流用ができない。たとえば、顔を認知するためのモジュールでギターを弾くことはできない。

論理的思考に基づく認知は領域に縛られず、いろんな領域に使える。冷蔵庫の中の食材をどんな順序で使えばいいかを計画するとかにも使えるし、新型iPhoneの設計のためにも使える。だけど、時間がかかる。直列処理システムになっているのだ。だから、マルチタスクというのは人間には不可能だ。「フフ、これからのビジネスパースンはマルチタスクがトレンドさ」とか言っている人は単に集中力が低くて、複数の仕事にあれこれ目移りしてるだけなのだ。

古い心は進化の産物(p62-64)

で、直感的認知というのは、古い心がやるものだ。古い心は進化の産物だ。

進化というのは保守的なものだ。だって、自然選択というのは、環境に相対的に適応している者が残っていくものなわけだから。「あ、進化の方向をまちがえた!」と途中で気づいて、5億年分進化を逆戻しして、またそこから進化をやり直す、なんてことはできない。まちがってても、そのままの方向に進化していくしかないのだ。

「しゃっくり」って人間には必要ない機能だよね、というのがわかったとしても、自然選択ですぐに無くなるとは限らない。進化は保守的だからだ。人間の脳には、そんなガラクタが山ほど詰まっている。

人間の脳は合理的思考用にデザインされていない(p72-75)

たとえば目の前にボールがあって、それが1つか2つか3つかを一瞬で判別するくらいのモジュールならある。また、片方にボールが20個あって、もう片方にボールが30個あるときに、どっちが多いかを一瞬で判別するモジュールもある。だけど、虚数とは何かを一瞬で理解するためのモジュールなんてあるわけがない。「虚数モジュール」なんてものが自然選択によって生まれるなんて考えられないでしょう?

だから、合理的思考というのはあくまで自然選択の副産物に過ぎないのですよ。

言語があるから合理的思考ができる

進化したのは合理的思考ではなく、言語の方だ。

言語を使えるようになることくらいなら、古い心でもなんとかなる。だけど、言語の文法構造のシステムが発達していくと、それが合理的思考の基礎になっていったのだ。言語によって他人に対して指図することもできるけれど、自分に対して指図することもできる。で、自分に指図するときに、幼児はいちいち声に出すけれど、大人は声を出さないで抑えることができる。ようするに、合理的思考とは内言語の一形態なのだ。

合理的思考は明示的なものだ、と最初の方で書いたけど、それは合理的思考というのがもともと言語だからだ。幼児みたいにいちいち思考過程を声に出さなくて良いけれど、声に出そうと思えばできるのだ。

で、言語というのは公的なものだから、合理的思考も公的なものになる。つまり、私にとって納得のいく理由は、他人にとっても納得がいく理由である、ということだ。

システム1とシステム2(p82-83)

直感的な認知システムをシステム1、合理的な認知システムをシステム2としよう。それぞれの特徴を思い出したかったら本書の該当ページを開いてくれ。

啓蒙思想1.0の人たちはシステム1を無視してたけど、われわれのように啓蒙主義2.0に取り組もうとする人たちは、システム1を理解し、さらにシステム2の強みと弱みをきっちり理解する必要がある。

コメント

本章は同著者の『ルールに従う』の要約みたいな内容。そもそも合理的思考とはどういうものなのかをブランダムの推論主義をベースにして特徴づけた上で、進化論の議論にからめていって、合理的思考は進化の副産物に過ぎないからいろいろポンコツなところがある、ということを論じている。

後半になってまた言語に関する議論が出てくるのだけど、これも『ルールに従う』だとブランダムやヴィトゲンシュタインに関連づけられていたと思う。進化論や心理学を使って人間の認知や思考の特徴を論じていくという議論は割と多いと思うけど(ボウルズとかギンタスとかヘンリックとか)、ヒースの独特なのは、何もかも進化論や心理学に還元してしまうのではなく、言語哲学を絡めてくるところ。それによって、「である」という事実に関する領域だけでなく、「べき」という規範に関する領域を論じることが可能になっている。そしてそれにより、言語という規範的現象によって根拠付けられる合理的思考を扱えるわけだ(ボウルズの『モラル・エコノミー』なんかは、「市民」とか「リベラル」というのをキーワードにしているのに、合理性の話がぜんぜん出てこないという、かなりアンバランスな議論展開になっている)。科学的議論に哲学議論を接ぎ木することに抵抗を覚える人も多そうな気がするけれど、個人的には、そういう風に接ぎ木しないで人間についてあれこれ言ってもなんか物足りない気がしてしまう。

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【読書ノート】『モラル・エコノミー』第7章(ラスト)

第7章アリストレレスの立法者の使命

イントロ(p181-)

インセンティブそのものが問題なのではなくて、インセンティブがもたらすメッセージが問題なのだ。だから、罰金にせよ補助金にせよ、インセンティブをつける倫理的理由をきちんと説明すれば、クラウディングアウトは回避できるかもしれない。

取得と構成(p185-)

(取得と構成に関する話がだらだらつづく。あまり議論が進展してるように思えないので省略)

懲罰付きの公共財ゲームでは拠出額が高い水準で推移する。つまり、みんな協力的になる。これは、懲罰付き公共財ゲームでは、懲罰を下すという行為が倫理的なものだという理解が人々の間で共有されているからだ。

どういうことか? つまり、懲罰をするのにはコストがかかる。にもかかわらず懲罰をするのならそれは倫理的だということになる。だから、懲罰を受けた人も納得して恥を知り、拠出額を増やそうとするのだ1。これは一種のクラウディングインだと言えるだろう。 

道徳的教え――インセンティブが悪いのか(p194-)

道徳的メッセージをちゃんと伝えればクラウディングインが起こることがある。アイルランドで少額のレジ袋税を導入したところ、ビニールのレジ袋の利用は94%低下した2。これは、課税実施前に広報活動とか公開審議をきちんとやっていたからだ。

ハイファの託児所だって、いきなり罰金設定するんじゃなくて、なんで罰金を設定するのか、道徳的意義を説明するべきだったのだよ。インセンティブと道徳的メッセージというのは補完的なのだ。

アリストテレスの立法者の使命(p198-)

でも、そもそも利己的な人だったら道徳的メッセージなんて真面目に聞かないよね。現実社会には、道徳的メッセージを真面目に聞く人もいれば、聞かない人もいる。それを区別することはできない。

さて、これまで人々のタイプ分けをあんまりきちんとやってなかったけど、次の3タイプがいるとしよう。

  • 利他的主義者

  • 互恵主義者

  • その他

実は懲罰付き公共財ゲームにおいて、プレイヤーが利他主義すぎると拠出額は逆に下がってしまう。というのは、利他主義者は相手にとって利益になることを求めるので、懲罰を実行しようとしないから。優しすぎるということだ。むしろ、互恵主義者の方がきちんと懲罰を実行してくれるので、拠出額は上がる。

こういういろんなタイプの人々が混ざり合って社会は構成されている。だとすると、どういう風に政策を立てればいいのかもわからなくなってくるんじゃないだろうか?

懲罰付き公共財ゲームみたいのを現実世界でも実現してしまうというのが一つの解決策だ。利己的な人と互恵的な人をペアにする。で、利己的な人を先手にする。利己的な人は、「自分が利己的に振る舞えば相手も利己的に振る舞うだろう」と予想できる。なぜなら相手が互恵的だからだ。で、両方が利己的に振る舞うと利己的な人にとっても利益が減る。だから、利己的な人は利他的に振る舞う。それに対し互恵的な人は同じように利他的に振る舞う。3

ポイントは、みんなが利他的な人だったり互恵的な人だったりしなくてもいいということだ。利己的な人が社会に一定数いても構わない。善き市民がある程度いる社会なら協力は可能だ。逆に、善き市民がゼロだと、どんなにインセンティブを与えたとしてもその社会では協力は不可能だ。その意味で、本書の副題にも示したように、「優れたインセンティブでも善き市民に取って代わることはできない」のである。

ありうべき市民のためのありうべき法律(p207-)

(これまでに出てきた議論の繰り返しみたいな内容なので省略)

コメント

第1章をまとめるとき、「ボウルズの考える「市民」には(…)理性をあまり働かせない昔のムラ社会の住民みたいなのまで含まれてしまうと思う」と書いてたんだけど、全部読み終わった後でも同じような感想。特に、最終章で懲罰付き公共財ゲームみたいなのを現実世界でもやってみたらどうか? というのを提案してるあたりは、もろに相互監視的な伝統的ムラ社会を現代によみがえらせてしまうような議論につながりかねないと思う4

odmy.hatenablog.com

ボウルズは「リベラル」というのを制度のレベルだけで捉えている。つまり、市場が整備されていて、法律がきちんと施行されて、人権が保証されているような制度を指して「リベラル」と言っている。だけど、そうやって制度のレベルにばかり目を向けるのは、人々の具体的な生き方から目をそらせてしまうものだ、とセンなら言うだろう。

センなら、「リベラル」というのであればまずは人々の自由が重要だと考えると思う。その上で、彼らが理性的な公共的討議の場に参加し、社会における不正義を発見していくプロセスを重視する。ボウルズみたいに人々の自主的で相互監視的な「懲罰」で社会を維持するのは理性的対話を放棄する発想のようにも思える。あるいは、「道徳的メッセージ」が重要だとしても、それを政府が一方的に人々にアピールするだけならそれはただの「お説教」だ。道徳的メッセージを人々が受容するにも、やはりその妥当性を検討するための公共的討議が必要だ。センならそう言うだろう。

センの公共的討議という発想が重要なのは、今の時代、そもそも何が道徳的なのかがわかりにくいことが多いからだ。たとえばハイファの託児所の例で問題なのは、遅刻そのものではなく、「なぜ遅刻するのか?」ということを託児所側と親とできちんと話し合っていない点ではないだろうか? 親たちはもしかしたら他にも仕事を抱えすぎていて、時間通りに子どもを迎えに行くのもかなり無理していたのかもしれない。そういう状況で罰金が設定されたら、罰金を払うことで少しでも自分の負担を減らそうとするのは無理もないことだ。その場合、親の道徳性を問題にするよりも、迎え時間について託児所側がもう少し柔軟に対応できないか考えることも必要だし、さらには国の子育て支援政策を見直すというもっと大きなレベルでの対応も必要かもしれない。しかしボウルズの議論だと、「遅刻するのは悪いことだ」という風に、道徳が最初からきっちり決まってしまっているように思える。そしてそのあたりが、リベラルを標榜しているにもかかわらず、ボウルズの議論がぜんぜんリベラルに見えない原因になっていると思う。

あと、翻訳はかなり良くない。前回もちょっとケチをつけたけど、他にも問題がある。

原文にダッシュ(――)があるからといって、日本語文でも馬鹿正直にダッシュを使ったりしている。たとえばp210では「市長モックス――数学者であり哲学者――は」と訳してる。でもこれは、「市長モックス(数学者であり哲学者)は」とか「数学者であり哲学者でもある市長モックスは」という風に処理した方が日本語文としては自然だ。

あと、英語だと同じ意味の言葉をわざわざ言い換えることがあるけど、それも日本語に訳すときは無視してひとつの言葉で統一した方がわかりやすい。たとえば「モックス」「市長」という風に同一人物が複数の呼び方をされていたら「モックス」と統一する。p210で「市長が職に就いたその年は」というのがあるけど、「モックスが市長の職に就いたその年は」と訳した方が意味が明確に伝わる(「市長が職に就く」って、「妻が結婚する」というのと同じくらいへんな表現だと思うけど。職に就いてない市長はいないし、結婚してない妻もいない)。

日本語チェックもちゃんとやられてないみたい。次のp211だと「同様に効果的だっただのは」という変な表現がある。その2ページ先のp213には「ヒュームの原則いに従う」というのもある。ここらへんは編集者とか校正の人がちゃんと仕事してください。


  1. で、これはゲームのメンバーを頻繁に入れ替える条件でやっても同じ結果になる。メンバー固定だと、その懲罰者が「今罰を加えて拠出額を増やさせて、長期的な利益をゲットしてやるぜ」という利己的動機で動いている可能性を排除できない。だけどメンバーを頻繁に入れ替えることで、そういう「長期的な利益」をゲットできなくしてるのに懲罰をする人がいるとしたら、その人は倫理的動機で懲罰をしてるだなあ、と他のメンバーたちが納得してくれる。

  2. これ、「少額」って言ってるけど、「アイルランドのレジ袋税」という論文によると、2002年時点で1枚約20円、2007年になると約30円になっているそうで、日本に比べたらかなり高額だ。重要なのは、結構な額の課税をしているのにアイルランド国内で大きな混乱がなかったという点だと思う。日本だと1枚2円だか3円だかでもブーブー文句言う人が多いのにね。日本の問題は、レジ袋の利用をなぜ控えないといけないのかという道徳的メッセージを政府が国民に対してほとんど発信してなかったことだろう。レジ袋に限らず、日本は道徳的メッセージ抜きで突然政策を進めることが多いのではないか。農水省の「2050年までに有機農業の農地面積を25%に!」というのも国民にぜんぜん説明がないまま唐突に出てきた。政策そのものではないけど、SDGsも「これがグローバルスタンダードだから」というので深く考えずにあちこちでかけ声だけ増殖させて、結果的に一般人レベルではほぼ形骸化していると思う。こういう悲惨な現状だからこそ本書を政治家や官僚どもに読んで欲しいのだけど、読みにくいし、そもそも絶版だし…。

  3. ここらへんで話についていけなくなった。具体的に何をどうすればいいというわけ? 国勢調査で人々のタイプを確認した上で、人々を強制移住させて3タイプがバランス良く含まれたコミュニティをいくつもつくろう、みたいな話なの? お話としては面白いけれど、それはリベラルでもなんでもないと思う。あと、懲罰の実施権を個人に与えてしまうというのも怖い。懲罰といっても別に暴力的なものではなく、「協力しない」とか「村八分にする」とかいうものだと思うけれど、なんか昔の農村社会に逆戻りしてしまいかねないアイデアだと思う。本書のあちこちでボウルズは「リベラル」というのを強調している。でも、具体的に政策を提案する段階になると「道徳的メッセージ」という一種の「お説教」に頼ろうとしたり、「現実世界で懲罰付き公共財ゲームを」という無茶なことを言い出したりして、あんまりリベラルっぽくない。公共的討議による正義の地道な実現を重視するセンからしたら、ボウルズの議論はあまりに乱暴なものに見えると思う。

  4. ボウルズが例として紹介しているのは、コロンビアのボゴタ市で1990年代半ばから2000年代はじめにかけて市長を務めていたアンタナス・モックス。経済学101にも関連記事がある。いろいろユニークな政策を実施していた人で、市民に「いいね!」マークと「ブーイング」マークが印刷されたカードを配って、他の人が良いことをしていたら「いいね!」を出して、よろしくないことをしていたら「ブーイング」を出す、という風に使ってもらったらしい。これだけ見ると、相互監視のヤバいシステムを導入したような印象もあるけれど、市民からは好意的に受け止めてもらえたみたい。この記事とか元ネタの英文記事をみると、他にも奇抜な政策を次々実施して、暴力や汚職に満ち満ちていたボゴタ市を改革した素晴らしい市長のようだ。ただ、それはこの人のバランス感覚が並外れて優れていたからというのもあると思う。別の人が同じようなことをしようとしたらへんなことにならないかな、という懸念はある。

【読書ノート】『モラル・エコノミー』第6章

第6章立法者のジレンマ

イントロ(p145-)

カニズム・デザインなんかを使ってインセンティブを市場の中にうまく組み込めばパレート効率を達成できるんじゃないか。これまで経済学者たちはそう考えてきた。

経済学はアリストテレスを発見する(p146-)

だけどクラウディングアウトがあることからわかるように、経済学者たちの考えはまちがいだ。ただ、最近の経済学者たちもクラウディングアウトにだんだん気づいてきたみたいだけどね。感心なことだ。

カニズム・デザイン――価格は倫理の任務を果たせるか(p150-)

市場において見えざる手がうまく機能してないときに、それを補完しようとするのがメカニズム・デザインだ。

カニズム・デザインが満たさないとならないのは次の3つの条件だ。

条件1: 効率性
結果としてもたらされる資源配分はパレート効率的でなければならない。

条件2:自発的参加
カニズム・デザインへの参加を政府が強制してはいけない。

条件3:選好中立性
人々がどんな選好を持っていてもOKとする。つまり、選好のあり方に関して政府は強制しない。

もしメカニズム・デザインがうまくいくのなら、社会的選好やらクラウディングアウトなんてものを考える必要はない。人々が利己的だろうとなんだろうと、メカニズム・デザインによって見えざる手をうまく機能することになる。

(リベラルな)悪党のための立法(p154-)

さて、利己的なメンバーだけで構成されたチームを動かすという状況を考えてみよう。

普通に考えれば、このチームを動かすのは無理だ。

自分ひとりが働いても、周りの人も働いてくれないと、生産される利益はわずかだ。そして、その利益はメンバー間で分配されて、一人当たりの見返りは微々たるものになってしまう。だとしたら、誰も真面目に働かないだろう。

でも、働いた人にはそれなりの見返りを上げる、という風にもうちょっとがんばってみたらどうだろうか? そういう風にシステムを工夫することもできないわけじゃない。

だけど、災害とかが発生して、その総分配額自体が減少してしまうこともある。場合によっては、各メンバーは見返りをもらうどころか、むしろお金を払わないとならないという変なことになってくる。こんなアホなシステムに普通の人は参加しない。だから、自発的参加の条件は満たされないことになる。

リベラル・トリレンマ(p159-)

実は、メカニズム・デザインはさっきの3つの条件を同時に満たすことができないことが明らかになっている。

たとえば、メカニズム・デザインの一種としてダブルオークションというのがある。売り手はその商品を手放す最低価格を告げて、買い手はその商品を買うのに出してもいい最高金額を告げる。もし、[売り手の示した価格 <買い手の示した価格]なら、取引が成立する。

でも、そもそもこの売り手と買い手が嘘をついていたらどうだろう? たとえば、売り手はぼったくりをしようとして、金額を高めにつける。逆に買い手は値切ろうとして、金額を低めにつける。彼らが利己的なのなら、そうするのがむしろ当たり前だろう。

普通ならそこで交渉が始まるのかもしれないけれど、ダブルオークションには交渉なんて仕組みはない。それで、交渉すれば成立したかもしれない取引が、ダブルオークションでは成立しなくなってしまう。つまり、パレート効率が実現できなくなってしまうということだ。

じゃあ、嘘をつかないことが最適反応になるようなインセンティブを導入したら? そういうのもできないわけじゃない。だけど、「だったらダブルオークションなんか参加しないでヤフオクに行くよ」という人が出てくるだろう。そっちの方が儲かるかもしれないのだから。彼らを止めようとしたら、「自発的参加」という条件が満たされなくなってしまう。

3つの条件を同時に満たすことはできない。これをわたしはリベラル・トリレンマと呼ぶ。

だから、3つ同時に満たすのは諦め、どれか1つの条件を削除した方が良いだろう。じゃあ、どれを削除すればいいだろうか?

それは条件3の選好中立性だ。具体的にいうと、人々の選好をそこそこ利他的なものにすることによって、条件1と2を守るのだ1

次善の世界(p165-)

市場を完璧にしようという試みは逆効果になって終わるかもしれない。たとえば、「独占」と「環境破壊」という2つの市場の失敗を同時に解決しようとする。このとき、独占を解消しようとすると、大量の小規模な生産者が市場に入ってくることになる。彼らは独占企業みたいに生産を制限して価格をつり上げようとなんて考えずに、限界費用が市場価格と等しくなるまで生産を拡大するだろう。しかしそうすると社会全体で生産が増えることによって、環境破壊が進展してしまうかもしれない。

スミス 対 スミス(p170-)

市場において信頼が生じる、という考え方がある。で、それは完備契約が実現されているような完璧な市場においてではなく、むしろ、不完備契約でなんとかなっているポンコツ市場においてなのだ。

ある市場実験の結果がこのことを示唆している。この実験は、完備契約条件と不完備契約条件で行われた。実験の結果、完備契約条件では被験者たちの取引関係は短期間で終わってしまうことが多かったが、不完備契約条件だと長期間持続することが多かった。つまり、不完備契約による市場では、人々は互いに信頼し合うことを学ぶのだ。

不完備契約の市場において、人々は信頼という形の社会的選好を学ぶ。また、そうした社会的選好によって、不完備契約の市場は効率的に機能する。そういう好循環があるのだ。

このことは、共有地の悲劇が現実にはあまり見られないというのとも関係しているだろう。小さなコミュニティにおいて、人々は長期にわたって関係を持ち、互いに信頼するようになる。もし共有地を私有地化したら、そうした関係が形成されにくくなってしまう。

私有化 対 協力(p175-)

で、実際に、ペルーの高地を対象とした調査だと、人々に個人の責任で耕作するよう土地を割り当てるやり方だと労働日数が減ってしまっていた。

立法者のジレンマ(p178-)

とまあこんな風に、市場を完璧なものにしようと経済学者が頑張るほど、効率性から遠ざかっていくこともあるのですよ。

コメント

リベラル・トリレンマというのが本書で一番重要な主張だと思う。単に「クラウディングアウトがありますよー」というだけだと、じゃあ、クラウディングアウトが起こらないように市場をもっと改善すればいい、という風に経済学者たちは頑張るだろう。そういう頑張りがそもそも見当違いであり、方向性が間違っているのだ、というがボウルズの主張だ。

それはさておき、読みにくい。とにかく読みにくい。これ、訳も問題あるんじゃないかな。たとえばp151の次のくだりは日本語になってないと思うんだけど。「たとえ」って書いたら普通は「~としても」とつづくものではないでしょうか。

しかし、現実主義と個人のプライバシーの尊重の両者は、たとえ諸個人に関する情報が私的にのみ知られ、したがってメカニズム設計者によって、インセンティブ、制約、あるいは提案される政策の他の観点を実行するのに使用されることはできないことを要求する。

あと、「挑戦」って言葉がやたらと出てくるけど(p178とか)、challengeのことなのかな? 英語でchallengeっていうのはissueとかと似た意味で、要するに「解決するべき課題」ってことなんだけど。複数名で協力して翻訳するのなら、学者さんだけでやらないで、プロの翻訳者を一人くらい(せめてチェッカーでいいから)入れた方が良いと思う。そういうのに科研費を使ったらダメなのかなあ? 翻訳者としても、印税とか部数とか気にせずに翻訳収入が得られるのでありがたい話だと思うんだけど。


  1. 条件1や2を削除したらどうなるのかな。条件1を諦めるということは、効率性を諦めるということだ。でも、リバタリアンだったらそれでも良いって良いって言いそうな気がする。市場に参加するかどうかも、利他的な選好を持つかどうかも、どちらも個人の自由であって、政府に介入の権利はない、とか言って。条件2を削除する場合はどうだろう? 市場への参加を強制するということ。なんか問題ありそうな気がする。市場への参入・市場からの退出が自由でないということは、そもそも完全市場になってないということだから、パレート最適も達成できないことになると思う。というわけで、条件2を削除するのは無理。条件1を削除するのはリバタリアンならOKと言うかもしれないけれど、そうでなかったら受け入れがたい。だから削除するなら条件3が妥当、ということかな。

【アニメ感想】「輪るピングドラム」ラストまで

やっと見終わった。しんどかった。

この作品は、この作品世界の中でしか通用しないシステムで成り立っている。で、そのシステムを構築する要素として、運命とか、贈与とか、罪とかがある。で、そのシステムをちゃんと理解しないとこの作品を見たことにならない。『けいおん!』だったら、「あずにゃん今回もかわいかったよね!」という感想でも構わないけど、ピングドラムに関しては、誰でもいくらかは批評家っぽい姿勢になる必要がある。「なんかよくわかんないけど、電車ん中で苹果がマイケル・ジャクソンみたいなポーズとったのエモかったよねッ!!」みたいな感想を持つ人はたぶんいないと思う。

システムを理解しないと作品を見たことにならないわけだから、見る側もかなり頭を使うことになる。だからしんどい。で、見終わった今もちゃんとシステムを理解してる自信がないから、考えながらまとめていこうと思います。

何者にもなれない者たちの分類表

下表のような分類を考えてみた。見当違いかもしれないけれど、たいしてアニメを見慣れているわけでもない素人の戯言なので、気にしないでください。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬) 多蕗、ユリ
運命肯定派 苹果 真砂子

左上のセル:冠葉と晶馬は「運命という言葉が嫌い」とはっきり言ってるので、「運命否定派」になるだろう。陽毬は自分の過去を思い出してからはだんだんこの分類自体から脱却していくので、括弧に入れている。この三兄弟は、自分たちは血がつながっていないという過去を顧みずに家族を続けていこうとするので、「未来志向」となる。

左下のセル:苹果は「運命という言葉が好き」とはっきり言っているので「運命肯定派」。で、運命日記の内容を未来の予言の書と考えて、それを実現していこうとするので、「未来志向」。

右上のセル:多蕗とユリは運命に復讐したい人たちなので「運命否定派」。で、未来に向かって何かを実現しようという考えはさらさら無くて、ひたすら過去にとらわれ続けるので「過去志向」となる。

右下のセル:真砂子は微妙だけど、「運命肯定派」になると思う。つまり、この人は「本当はわたくしが冠葉の妹なのだ」ということを主張しているのだから。運命から目を背けて「家族ごっこ」をしようという試みをすり潰して、「本当の血のつながった家族という運命を直視せよ」というのが真砂子の言い分だと思う。とはいえ、それはやっぱり過去へのとらわれでもあって、「過去志向」ということになる。

で、こういう分類を作ってみて思ったのだけど、やっぱり苹果の位置づけがすごく面白い。「運命を肯定し、かつ、未来志向」というのは普通はあり得ないと思う。だって、運命を肯定するということは、「すべては運命によって決まってしまっていて、どうあがいたって未来は変えられない」という諦観に至るのが普通だから。つまり、運命を肯定する人は基本的に過去志向だ。だけど、桃果の運命日記というものが存在するために、苹果は「何としても運命を実現させるために死に物狂いであがく」という、諦観とは全く真逆の、極度にアグレッシブなキャラになっている。

この苹果の類型に比べると、他の3類型というのはたぶん現実世界にも普通にいる人々の類型になっていると思う。苹果の類型だけが、現実世界ではあり得ない類型になっている。

何者にもなれない者たちに対する桃果の贈与

実は、桃果はこの分類表のすべてのセルに関与している。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬)
→ ペンギン帽1
多蕗、ユリ
→ 桃果の思い出
運命肯定派 苹果
→ 運命日記
真砂子
→ ペンギン帽2

これが、何者にもなれない者たちに桃果が贈与したものの初期配置。

で、これによって、一応彼らは生きていくことができる。ペンギン帽のおかげで陽毬とマリオさんは命をつなげるし、苹果は運命日記の中身を成就させるという生きる目標を持つことができる。で、多蕗とユリは桃果の思い出を宝物みたいに抱えて生きている。

でも、桃果の能力というのは完璧じゃない。陽毬とマリオさんは完全に治ったわけではないし、苹果はひとりでは運命を成就できない。多蕗とユリは桃果の亡霊を追い続ける。それで、運命日記の奪い合いが起こり、配置が変わる。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬)
→ ペンギン帽1
多蕗、ユリ
→ 桃果の思い出+日記半分
運命肯定派 苹果
→ (なし)
真砂子
→ ペンギン帽2+日記半分

これで、苹果は完全に持たざる者になってしまったのだけど、それはむしろ、桃果から解放されたという見方もできる。運命日記を奪われた後、苹果はかなり普通の女の子になって、晶馬に恋したりする。苹果の場合、桃果からの贈与が、逆に呪いになっていたのかもしれない。

桃果の贈与がなんで不完全なのかというと、贈与が一回きりで終わってしまうからじゃないだろうか。贈与というのは連鎖しないとその効果を持続できない。一方、運命の果実は、冠葉→晶馬→陽毬→冠葉という順序で贈与の輪が閉じられる。桃果の場合、人々は桃果から贈与されたものにしがみつくので、贈与が連鎖していかない。じゃあ、なんでそうなるかというと、桃果が神様みたいな存在になっているからじゃないだろうか。キリストは人々に一方的に贈与するけど、人々がキリストに贈与することはない(ここらへんは、神学とかちゃんと勉強してないのでよくわからんけど)。

贈与から「分け合う」へ

ところで、冠葉→晶馬→陽毬→冠葉という順序で贈与されたものは、運命の果実だ。運命の果実を食べることは罪だ。神様は罪を犯さない。だから運命の果実の贈与は、神様(桃果)ではなく、人間(冠葉と晶馬と陽毬)の間で行われることになる。

で、これがただたんに順々に贈与されて冠葉の元に戻ってくる、というだけなら、罪を冠葉がひとりで引き受けるだけ、ということになる。ポイントは、贈与の過程で運命の果実を分け合っていること。冠葉は晶馬と、晶馬は陽毬と、陽毬は冠葉と、それぞれ運命の果実を半分ずつに分け合っている(確か)。だから、3人が3人、罪を引き受けることになる。たぶん、その状態が「ピングドラム」ということなんじゃないか。

運命の果実そのものはピングドラムではないと思う。プリンセスなんたらは「ピングドラムを探すのだ」と言っていた。運命の果実自体は3人とも、すでに過去に贈与されていた。3人がやっていなかったのは、それを「分け合う」というループを閉じることだ。陽毬が自分の罪を引き受けて、冠葉と運命の果実を分け合うこと。そうして、円環が閉じる。それが「輪るピングドラム」ということではないか。だから、「運命の果実を一緒に食べよう」が、ピングドラムの実現を妨げようとするサネトシを滅ぼす呪文となる。

輪る自己犠牲

運命日記が奪われてからの苹果はかなり普通の女の子になってしまうのだけど、物語から退場したりはしない。持たざる者になった苹果は、電車の中で「運命の果実を一緒に食べよう!」と叫び、炎に包まれる。桃果と同じように、苹果は自己犠牲という形でしか誰かに贈与することができない。

その炎を晶馬が引き受ける。桃果の場合、贈与の代償は桃果がひとりで引き受けなければならなかった。しかし、苹果には晶馬がいたので、炎は晶馬たちの「分け合う」ループの中に取り込まれることになる。

冠葉と晶馬も自己犠牲をすることで、陽毬と苹果を救う。しかしこの自己犠牲は、95の事件を止めようとした桃果による自己犠牲とは性質がちがう。桃果の自己犠牲はひとりで自己完結したものだったので、サネトシという亡霊を未来に残してしまう。

この作品には、孤独な自己犠牲によってでは問題を根本的に解決することはできないという前提があるように思う。冠葉も陽毬を救うために自己犠牲的にテロ活動にのめり込んでいくけれど、それは結局は陽毬を救うことにならない。自己犠牲さえも分け合うことで、本当に誰かを救うことができる。

罪には罰が伴うわけだから、進んで罪を引き受けることは、進んで自己犠牲という罰を引き受けることでもある。罪と罰を分け合うループを閉じることが、「輪るピングドラム」だという言い方もできるかもしれない。

何者でもないこと

運命乗り換え後の世界で、陽毬と苹果はテレビでダブルHの姿を見ている。こっちの世界では、陽毬とダブルHは何の関係もない赤の他人だ。陽毬はもう「もしかしたらアイドルになれたかもしれない女の子」ではない、本当に普通の女の子になっている。ある意味、「何者でもない」。でも、こちらの世界の陽毬は、「何者にもなれない」ことを少しも気にしていない。

「何者にもなれない」ことは、前の世界で陽毬が自分で選んだ罰でもある。ただし、ひとりで引き受けたのではなく、冠葉と晶馬と分かち合った罰だ。だから、ふたりの残したメモを見て、それが誰のメモなのかもわからないのに、陽毬は涙が止まらなくなる。忘れてしまっても、忘れられてしまっても、何者でもないことは孤独ではない。このシーンがあることで、この作品はフィクション世界から少しはみ出す。この作品を観ている人も、たぶん何者でもない人たちだ。何者でもない自分の罰は誰と分け合ったのか、思い出せないとしても、ありえないとは誰にもいえない。

【読書ノート】『モラル・エコノミー』第5章

第5章リベラルな市民文化(p107-)

イントロ(p107-)

資本主義は卑しいものだみたいに思う人が多いかもしれないけれど、そんなことない。

たとえば、ニューヨークで外交官による駐車違反の件数を調べると、資本主義国のしっかり根付いた国の外交官はほとんど駐車違反をしないことが明らかになっている。つまり、資本主義社会というのは、協力的で寛大な社会的選好をもつ市民文化を維持してきたのだ。そのことを本章では見ていこう。

で、そういう市民文化はリベラルな社会秩序に依存している。ここでいう「リベラルな社会」というのは、こういうことだ。まあようするに、資本主義が機能していて、人権が保障されていて、法律がちゃんと機能しているような社会ってことだね。

リベラルな社会:経済的な財やサービスの配分を広範囲に市場に任せること、政治的権利の形式的平等、法の支配、公共的な寛大さ、職業上の、そして地理的な移動性に関する人種、宗教、あるいは他の生来の偶然的なものに基づく障壁の低さによって性格付けられる社会。

リベラルな社会の例:スイス、デンマーク、オーストラリア、アメリカ、イギリス

リベラルでない社会の例サウジアラビア、ロシア、ウクライナオマーン、狩猟採集や低技術の農業を行っている小規模社会

経済は人々を生産する(p110-)

ここで、インセンティブと選好の関係を考え直してみよう。なぜそうするかというと、ある種の選好はリベラルな社会でこそよく育つものだからだ。そのことをこの先の章で明らかにしていくことで、リベラルな社会というのがなぜ大事なのかがわかっていくはずだ。

前章まで、私は、インセンティブは社会的選好を掘り崩すとしつこく指摘してきた。クラウディングアウトという奴だ。でも、これはちょっと不正確な言い方だ。というのは、インセンティブが選好に与える影響はもっと複雑だからだ。

選好を「状況依存的選好」と「内生的選好」の2つに分けて考えてみよう。

状況依存的選好インセンティブがあるかどうかという状況の違いで選好が変わる。クラウディングアウトが直接関わるのはこっちの選好。

内生的選好:人々が長期的に学習することで形成した選好。

内生的選好というのは学習されるものだ。たとえば、自立した仕事をしている人は、プライベートでも自立を重んじる。

インセンティブと選好の進化(p113-)

インセンティブは内生的選好にどんな影響を与えるんだろう?

インセンティブがあると、他人の行動をなんでもかんでも「利己的」と見なしてしまう偏見が生まれがちだ。たとえば、環境保護運動をしている人がいたら、「どうせどっかから金もらってるんだろ」とか卑しいことを考えてしまうのだ。

で、人々は他人に同調しやすい傾向を持っている。他の人が利己的に行動してるんだったら、俺だって利己的に行動して何が悪い、と考えてしまう。こんな風にして、インセンティブは人々の内生的選好を利己的なものにしてしまうのだ。

インセンティブの持続的効果(p116-)

内生的選好は、状況が変化しても長期的につづくものだ。だから、インセンティブが無くなってもクラウディングアウトによる影響は持続する。

たとえば、ハイファの託児所では、罰金を取りやめた後でも遅刻の頻度は元に戻らなかった。で、実験室実験でも、インセンティブを取り除いた後もクラウディングアウトによる影響が持続するのが確認されている。

市場と公正な心性(p125-)

市場にさらされている社会ほど、実は人々が市民として振る舞うようになる。市場の市民化効果って奴だ。

最後通牒ゲームというのを様々な社会の人々を対象にしてやってみた。すると、あまり市場にさらされていない社会の方が、人々が利己的に振る舞う傾向が観察されたのだ。

協力と懲罰における文化的差異(p128-)

懲罰を伴う公共財ゲーム実験というのをやってみた。これは、「懲罰オプション」という選択肢のついた公共財ゲームだ。つまり、プレイヤーは自分の利得をいくらか消費することで、拠出をしないずるいプレイヤーに対して懲罰を与えることができる(懲罰を与えられたプレイヤーの利得は減る)。

懲罰オプションを選択するかどうかは各プレイヤーの自由だ。むかついたら使ってもい。だけど、その分自分の利得も減るという諸刃の剣だ。本当に利己的な人ならそもそも使わないだろう。

このゲームをいろんな文化圏の人たちを対象にやってみた。どの国でやっても、懲罰オプションなしだと拠出額はだんだん減っていく。だけど、懲罰オプションがあると一定水準の拠出額がキープできる。

そして、その国で「法の支配」「民主主義」「個人主義」「社会的平等」のポイントが高いほど、懲罰オプションがあるときに拠出額が大きいことが明らかになった。つまり、リベラルな社会ほど、人々は利他的に振る舞っているわけだ。

懲罰オプションを使う人が利他的だ、というのはピンと来ないかもしれない。でも、そういうものじゃないかね? ずるい奴を叱るなんて、普通は嫌なものだ。怖い人だと思われたくないし、叱る時間があったらスマホで猫動画でも見てた方が楽しい。だけど叱らなきゃならないときは叱る。そういう人は、利他的に振る舞っているのだ。

リベラルな社会と他の社会における持続的な社会秩序(p131-)

実験では、「反社会的懲罰」というのも観察された。つまり、懲罰した奴に仕返して懲罰する、というものだ。個人的な恨みで懲罰を下すわけだから、それは利他的というよりも、「反社会的」だということになる。

で、実はさっき挙げた「法の支配」とか「民主主義」のポイントが低い国(つまりリベラルでない社会)ほど、こうした反社会的懲罰が観察されやすかった。

そういう国において、懲罰を受けた人は「恥」ではなく「怒り」を感じたのだろう。「俺がずるいことしたから懲罰を受けたんだなあ。ああ、恥ずかし」じゃなくて「懲罰受けてむかつく!」となったわけだ。だから反社会的懲罰という愚行に及んだのだ。そうした国では、懲罰というのは正当性のあるものとして受け止められていないのだろう。懲罰ではなく、ただの「攻撃」と見なされてしまったのだ。

でも、そういう社会において「懲罰」というものが存在しないというわけではない。ただ、そういう社会では懲罰というのは「血族集団の中」みたいな狭い範囲限定で行われるものなのだ。その範囲を超えて、血族でもないのに懲罰をしようとすると「攻撃」と見なされる。子どもがいたずらしたときに親が叱るのはOKだけど、先生が罰を与えたら親が怒鳴り込んでくる、みたいなのかな1

逆に、リベラルな社会だと、むしろ道徳規範というのはそういう縁故を持たない人たちによって維持されている。教師とか警察とか裁判官とかだ。だから、そういう社会において懲罰は正当なものであり、個人的な「攻撃」とは見なされない。だから反社会的懲罰が観察されにくいのだろう。

穏やかな商業とは?(p135-)

じゃあ、なんだって市場にさらされた社会だと人々は寛大に振る舞うようになるんだろう? 市場の市民化効果はなぜ起こるのか?

市場だと人々は評判を気にするから、というのがアダム・スミスの考えだ。市場で商人が好き勝手に振る舞ってると、「あいつはマジでクソ野郎だ」という評判が立ち、その商人はもう商品を買ってもらえなくなるだろう。

でも、その説明だとちょっと不十分だ。だって、市場だと知らない人同士で取引することも多い。評判を気にせずに大もうけすることもできるわけだ。

リベラルな市民文化(p138-)

リベラルな社会というのは、人々のリスクを低減するものだ。たとえば好き勝手に暴力を振るうような奴は警察に抑えられるし、ずるした奴は裁判官に裁かれる。

そうすると、血族による結びつきみたいな家族的・家父長的絆が無くても社会が機能するようになってくる。逆に、リベラルな制度の方が有利になってくる。で、そういうリベラルな制度がしっかりしていれば、社会的選好を持っていてもつけ込まれるリスクが減る。

法がしっかりしていれば、他人につけ込まれるリスクが減るので、人々は協力的に行動するようになる。で、そうなれば人々は安心して市場で取引することができる。で、市場で安心して取引できるわけだから、法を犯してまで利益を得ようとする人もあんまり出てこなくなる。こんな風にして、法と市場が相互に強化し合い、人々の市民としての社会的選好も強化される。これぞリベラルな市民文化だ。

となると、本来、市場がしっかりしているリベラルな社会であれば、インセンティブはクラウディングアウトではなく、クラウディングインを引き起こすはずだ。次章では、そういう風にインセンティブをうまいこと使いこなす立法者のあり方を考えていこう。

コメント

ああ、今回もわかりにくかった。話の脈絡がよくわかんないまんまに次のトピックに移ってしまうことが多い。本文にない例を入れたりして補足したけれど、適切な補足になってるかはよくわからん。

さて、ボウルズの今回の議論を踏まえると、ボウルズの考える市民というのは、単に社会的選好を持っている人というのではなくて、市場や法のしっかりした、リベラルな社会において社会的選好を持っている人ということになるみたいだ。

だけど、こういう「市民」の捉え方だと、リベラルな社会に住んでる人はみんな市民だということになってしまわないだろうか? 注でモンスターペアレントにちょっと触れたけれど、リベラルな社会にだってモンペみたいに「懲罰」というものの正当性が理解できない人はいる。つまり、リベラルな社会の中にも、市民と呼べる人と、市民とはとうてい呼べない人が入り交じっていると思う。

センやヘーゲルだと、公共的討議ができる理性的な人たちが市民として捉えられていると思う。つまり、個人ベースで市民を捉えている。だけどボウルズは社会ベースで市民を捉えている。つまり、リベラルな社会に住んでいる人はみんな市民だ、ということだ。だけどその捉え方はあまりに雑すぎるのではないだろうか?

「雑」というより見方が「マクロ」なのだ、という言い方もできるけどね。つまり、ボウルズのようにマクロな見方をするからこそ、市民としての社会的選好がどのようにして形成されてきたかを文化進化論的な枠組みで理解することができる。だけど、あまりにマクロすぎると役に立たないということも言えると思う。たとえば、むやみに市場を拡大していけば人々は市民になります、という単純な話ではないだろうし。進化論はあくまで後付けの説明であって、これからどうするべきかという指針にはなりにくいんじゃないか。


  1. これは、わかりにくいから勝手に入れた例だけど、今の日本でよく見られる現象でもあると思う。日本はリベラルな社会でないということなのかな。それとも、モンスターペアレントというのは欧米でも見られる現象なんだろうか。

【読書ノート】『モラル・エコノミー』第4章

第4章 情報としてのインセンティブ(p73-)

イントロ(p73-)

そもそもなんでクラウディングアウトが発生するんだろうねえ。

実験から選好について学ぶ(p74-)

人々の本当の動機を観察するのは実はけっこう大変だ。一見利他的に行動しているように見えても、実は自分の利得を最大化するために利他的に振る舞っている場合があるからだ。

でも、その人が本当に利他的に行動しているかどうかを判別する方法はある。つまり、利己的な人ならどういう戦略をとるだろうかというのをベースラインとして、そのベースラインからどれくらいズレているかで、その人が利他的に振る舞っている程度を評価できるのだ1

で、そういう風に実験してみると、やっぱりインセンティブを与えると経験に基づく価値に負の影響を与える影響が大きいのがわかってきた。それは前章でもいろいろ見せたよね。でも、じゃあなんでそういう負の影響が生まれるんだろう? というのを本章では考えていこう。

インセンティブの意味(p78-)

インセンティブというのは「意味」を持つ。たとえば同じ50万円でも、「給料」と「賄賂」では意味が違う。

で、その「意味」に応じて、状況が違った風に性格付けられる。そして、その状況の性格付けの違いに応じて、その人の選好も変わってくる。たとえば、それが「ショッピング」という状況であれば、利己的に振る舞っても全然問題ないだろう。でもそれが「被災者への募金」という状況であれば、利己的に振る舞う(つまり一銭も払わない)のには躊躇する。

つまり、選好とは状況依存的なのだ。

悪いニュース(p80-)

インセンティブを設定する人は、インセンティブに対して何らかの「意味」を込めている。たとえば、ボストンの消防局の例でいえば、病欠が多いと給料を減らすという負のインセンティブに「ずる休みはよくないことだ」という意味を込めているわけだ。

でも、そういうインセンティブの意味を、インセンティブを課される側はちがった風に読み取るかも知れない。たとえば「上司は消防士たちを信頼してない」という風に。その場合、消防士たちは自分たちを信頼しない上司に対し、「もっとずる休みをする」という形で報復することになるだろう。

これが「悪いニュース」効果だ。つまり、インセンティブから読み取られる意味が、インセンティブを設定する側と、インセンティブを課される側とで食い違っているために、インセンティブが設定者の意図通りに機能しないのだ。これが、クラウディングアウトの原因の1つめだ。

道徳的束縛からの解放(p83-)

クラウディングアウトの2つめの原因は、「道徳的束縛からの解放」だ。つまり、インセンティブの設定によって「この状況は一種の市場だ」と認識されてしまったら、人々は道徳を忘れて、純粋に利己的な消費者として行動するようになってしまうということだ。

こんな実験がある。まず、学生にネズミの世話を任せるのだ。しばらくしてから、学生にこんな風に言う。「君が世話してるネズミを殺処分しようと考えてるんだ。認めてくれるかい? 認めるなら君に10ユーロをあげよう。さあ、どうするね?」

10ユーロがほしい学生はさっさと殺処分を認める。でも、ネズミに情が湧いてしまっている学生の場合、躊躇する。半分くらいの学生が、殺処分に10ユーロ以下で賛同した。

そこで、別のパターンの実験もやってみる。同じように学生にネズミを世話させるのだけど、しばらくしてから、学生に対してこんな風に言うのだ。「君が世話してるネズミを殺処分しようと考えてるんだ。認めてくれるかい? いや? そう。じゃあ、そのネズミを別の学生に売ることもできるよ。まあ、そいつは殺処分に賛成してくれる奴だと思うけどね。さあ、どうするね?」

この場合、70%くらいの学生が、別の学生にネズミを10ユーロ以下で売ることにした。

ネズミの殺処分にその学生自身が賛同するのだろうと、殺処分に賛同するであろう他の学生にネズミを売るのだろうと、結局そのネズミが殺処分されるという点では同じだ。それなのに、ネズミを売るという条件だと多くの学生が、売るという判断になってしまったのだ。

これは市場的な状況設定によるクラウディングアウトだといえる。

コントロール――インセンティブは自律性を失う(p91-)

インセンティブというのは、「人々を思い通りにコントロールする」という使われ方をするものだ。つまり、馬の目の前にニンジンをぶら下げるみたいなことだね。

でも、人間は馬ではない。ニンジンをぶら下げるなんてことを露骨にやられたらやる気を無くす。

たとえば、お片付けを手伝った幼児にご褒美としておもちゃをあげる、という実験がある。この場合、ご褒美をあげるよ、と言われた幼児はお片付けをあまりやらなくなるそうだ。なぜかというと、幼児立ちはご褒美をもらうまでは「おかたづけたーのしー!」とか思ってやってたからだ。お片付けしたいからお片付けしたいという「自律性」がご褒美によって浸食されてしまったのだ。

という風に、インセンティブによって自律性が損なわれてしまうのが、クラウディングアウトの起こる3つめの理由だ。

情動、意識的思考およびクラウディングアウト(p97-)

(グリーンの二重過程論を持ち出して、インセンティブがクラウディングアウトを引き起こす原因をあれこれ考察してるけれど、単純な対応関係はないみたいだ、という結論。だったらなんでその話持ってきたの?)

難題(p103-)

市場ベースの社会だとインセンティブがガンガン使われるので、クラウディングアウトがかなり発生しやすいはずだ。だけど、実際にはクラウディングアウトがそこまで頻発しているわけではない。

なぜだろう? 私たちはクラウディングアウトの問題を誇張しすぎているのだろうか? あるいは、クラウディングアウトを防ぐような市民文化があるということなのだろうか?

コメント

今回も読みにくい。二重過程論のところとか、せっかく頑張って読んだのに「単純に、意識的思考・情動の区別と社会的選好を結びつけることはできない」(p103)とか書いてあって、ざけんなと思った。そういう話は普通、注に回すものなんだよ。何でもかんでも本文に書くんじゃないっつうの。

インセンティブが何らかのメッセージを持つことがクラウディングアウトの原因だ、ということを論じるのがこの章。で、章末では、そうしたクラウディングアウトが現実にはあまり起きていないということを指摘して、次章の市民文化の話につながっていく。

さて、この本で今のところ気になっているのは、ボウルズの言っている「市民」というのが、センとかヘーゲルが言うような、理性的に対話して正義を実現していく主体としての市民というのとちょっとずれているんじゃないかということだ。前近代的な農漁村の住民なんかも「市民」に含まれてしまっている気がする。そこがどうなのか、というのに気を付けて次章もまとめていきたい。


  1. たとえば、1回限りの信頼ゲームで、受託者がかなりの金額を投資家にキャッシュバックする場合だ。このゲームを1回限りやる場合、参加者は「評判」というものを気にする必要がない。だから、受託者は1円もキャッシュバックしないのが一番利益を高める選択になる。逆に、ゲームを何回か繰り返す場合、そういう外道な振る舞いをしていると誰からも投資してもらえなくなるので、たとえ受託者が利己的な人であってもいくらかキャッシュバックするはずだ。しかしそれがたとえ1回限りのゲームでもキャッシュバックするのだとしたら、その受託者は利他的に行為しているのだといえる。