知識を共有している、というのはどういう状況だろう?
たとえば、AさんとBさんの2人がいる。そして、2人とも「太陽は東から昇り西に沈む」ということを知っているとする。こういう状況を「AさんとBさんは知識を共有している」といっていいだろうか?
しかし、このままだと2人は相手も「太陽は東から昇り西に沈む」ということを知っているかどうかわからない。だから、たとえばAさんがBさんに太陽のことを話題に出すときは、「あなたは知らないかもしれないけど、太陽は東から西に沈むんだよね」と言うことになるかもしれない。こういうとき、AさんとBさんが知識を共有しているという風に言うのはちょっとへんだろう。だって、本当に知識を共有しているのなら、そんな回りくどい話しかけ方はしないはずだからだ。
となると、2人が知識を共有しているとは、「2人が同じ知識を持っていて、かつ、そのことを2人とも知っている状態だ」ということになるだろう。
これで話は終わりだ、と言いたいところだが、そうではない。それは、この2人がゲームをしている状況だ。それは将棋でもチェスでもいいし、五目並べでもいい。相手の行動を読んだ上で自分の行動を決めなければならないようなゲームならなんでもいい。
ゲーム理論における共有知識とは、お互いがお互いを完璧に読み合っているような状況のことだ。たとえば将棋で、「こういう風に駒を置いたら相手に王手されて絶対にこちらが負ける」という状況がある。そういう状況で、プロの棋士なら絶対にちがうところに駒を置くだろう。対戦相手もそう考えて、「あいつがああいう風に駒を置くことはないだろうな」と予測した上で自分の手を決める。しかしそのこともまた、こちらは予測した上で自分の駒を置くのだ。プロ棋士たちはそういう風に相手の手を読み合って、相手を少しでも出し抜こうと神経を張り詰めているわけだ。
具体的な利得表を出そう。次のようなゲームがあるとする。
L | R | |
---|---|---|
U | 2, 2 | 1, 3 |
M | 1, 1 | 0, 0 |
D | 0, 0 | 2, 1 |
このゲームで、行プレイヤーの戦略Mは、戦略Uによって強く支配されている。つまり、列プレイヤーがどの戦略をとろうと、戦略Mよりも戦略Uの方が大きな利得が得られるということだ。こういうとき、列プレイヤーは次のように考えるだろう。
「行プレイヤーは合理的なやつだから、戦略Mを選ぶなんてことは絶対にしないだろう」
だから、このとき列プレイヤーの頭の中では、元の利得表は次のように書き換えられているはずだ。つまり、行プレイヤーの戦略Uが消去されているのだ。
L | R | |
---|---|---|
U | 2, 2 | 1, 3 |
D | 0, 0 | 2, 1 |
↑ 列プレイヤーの頭の中の利得表
さてこのとき、行プレイヤーはどう考えるだろう? 元の利得表を見る限り、列プレイヤーの戦略には強く支配されている戦略がない。つまり、列プレイヤーがLを選ぶのかRを選ぶのか、このままではわからないということだ。
しかし、行プレイヤーは元の利得表ではなく、列プレイヤーの頭の中の利得表を元にして列プレイヤーの戦略を予測するはずだ。なぜなら、行プレイヤーは次のように考えるからだ。
「列プレイヤーは合理的なやつだから、「行プレイヤーは合理的なやつだから、戦略Mを選ぶなんてことは絶対にしないだろう」と考えて、俺の戦略Mを消去した利得表を元に自分の戦略を決めるだろう」
列プレイヤーの頭の中の利得表をみると、列プレイヤーの戦略Rは戦略Lを強く支配していることがわかる。だから、列プレイヤーは戦略Lを選ばないはずだ。すると、行プレイヤーの頭の中には次のような利得表があることになる。
R | |
---|---|
U | 1, 3 |
D | 2, 1 |
↑ 列プレイヤーの頭の中の利得表を前提にした、行プレイヤーの頭の中の利得表
さて、こう考えると行プレイヤーは戦略Dを選べば利得を最大化できることになる。だから、結局、均衡は次のようになる。
R | |
---|---|
D | 2, 1 |
↑ 最終的な均衡
この均衡にたどり着くプロセスで、両プレイヤーは相手の思考を読んだ上で自分の戦略を決め、そのことも相手は読んでいるだろうとさらに相手の思考を読んで自分の戦略を決め……という風に入れ子状の思考をしていることがわかる。まるでマトリョーシカみたいに。こういうのが、ゲーム理論でいう共有知識だ。
ここで共有されている知識とは何だろう? それは、「お互いが合理的である」ということに関する知識だ。
「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」
「「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」ことをAは知った上で合理的に振る舞う」
「「「Aが合理的に振る舞うとBは知った上で合理的に振る舞う」ことをAは知った上で合理的に振る舞う」ことをBは知った上で合理的に振る舞う」
……
この入れ子は、ゲームが複雑になるほど層が深くなる。もし最下層までこの読み合いを続けることができるのなら、わざわざそのゲームをプレイする必要はなくなるだろう。なぜなら、プレイしなくてもどちらが勝つのか、頭の中だけでわかってしまうからだ。逆に言うと、今でも将棋やチェスがプレイされているのは、この読み合いを最後まで続けることがそうしたゲームの場合あまりに難しすぎるから、ということなのだろう。
コメント
ゲーム理論の勉強をしていて、共有知識ってようするにどういうことなの? というのがいまいちわかった気がしないので、かなり自己流でかみ砕いて書いてみました。なので、どっかまちがったこと書いてるかも。参考にしたのは下記の本。