【読書ノート】『正義のアイデア』第18章

ずっと前に途中まで読書ノートをつくっていたけど、同じような議論が延々とつづくので疲れてストップしてた。最終章である第18章は全体のまとめになってるので、ズルしてここだけ要約して、読書ノートを完成させたふりをしよう。

第18章正義と世界

かつてリカードは、旱魃で食料不足が発生したとき、「政府は何をやっているんだ!」と訴える社会運動家たちに対して軽蔑の気持ちを表した。食料が足りないのはどうしようもないことだ。それなのにそれをどうにかできるかのように貧しい人々の感情を刺激するのは残念なことだ、というわけだ。

だけど、私はこうしたリカードの非難には反対する。

まず、感情は大事だ。不正義の感覚は間違うこともあるけれど、ともかく検討することが必要だ。不正義の問題を精査するために、まずは感情を出発点とするのだ。怒りが議論に取って代わってしまってはいけないが、議論の動機として用いるのは構わない。

それから、別に食料不足はどうしようもない問題ではない。それは単に、人々が食料にアクセスできないだけであって、食料が本当にないわけではないのだ。

だから、自分とちがう意見がどんなに未熟で粗雑にみえようと、まずは公共的討議をしてみるべきなのだ。

激怒と理性

不正義に対する怒りはわれわれを動機づけてくれる。でも、そうした怒りの根拠をきちんと理性的に精査することは必要だ。

たとえば、18世紀におけるフェミニスト思想家のウルストンクラフトの著作には怒りのレトリックが見られるが、そうしたレトリックの後にはかならず理性的な議論がつづく。それは、彼女が、自分の議論の反対者にもきちんとその問題を考えてほしいと思っているからだ。

そんな風に理性にもとづいて議論することで、すべての対立を解消し、合意に至ることができるという保証はない。しかし、完全な解決は、理に適った社会的選択をするために必ずしも必要ではないのだ。

正義が行われるのを見ること

でも、どうして理に適った合意が、正義の問題を考える上で重要なのだろうか?

まず、理に適った合意であるということは、人々の信頼と承認が得られているということだ。そういう決定はスムーズに実施することができる。

でも、そういう便宜的な理由だけではない。もし、理に適った合意ではないことを実践に移すとしたら、それは健全なものではないだろう。理由として大事なのはむしろこっちの方だ。

理由の複数性

評価に対して理由の複数性を取り入れるのは重要なことだ。しかし、そういう風に複数の理由を取り入れてしまったら物事が決められなくなってしまうのではないだろうか? 

そんなことはない。たとえばリンゴとオレンジの価値は様々な次元で様々に異なるだろう。味の次元、値段の次元、栄養の次元、見た目の次元…。こんな風に次元がたくさんあるからといって、「ああ、味基準だとリンゴだけど、見て目基準だとオレンジだし…。こんなの選べないよ!」なんてことにはならない。

正義の問題も同じだ。正義について判断するためには、さまざまな理由を調和させなければならない。そうやって複数の理由を考えていって、選択肢を完全に順序づけすることはできないかもしれない。でも大丈夫。部分順位しか決められなくても物事は決められるのだ。

不偏的推論と部分順位

もちろん、笛を求めて争う三人の子どもの例のように、どうしても公正な選択肢を決められない状況はありうる。全ての問題が必ず解決できるわけではない。でも逆に、全ての問題が全く解決できないわけでもない。

判断基準によって、どれを選ぶべきかちがってしまう場合だって、よくよく見たら、どの判断基準でも共通している順位付けが見つかるかもしれない。たとえば、「どんな評価基準を使っても、奴隷制は明らかに悪い選択肢だ」となるかもしれないのだ。

部分的決定の及ぶ範囲

たとえば、選択肢yとzのどちらが良いか順位が決められない状況を考えてみよう。こんなときでも、選択肢xがこのいずれよりも良い選択肢であれば、xを選べば良い、ということになる。

x P (y ? z) → x を選べばいい!

あるいは、こういう状況は?

(x ? y) P z → zを選ばなければいい!

比較の枠組み

正義に関する論争をもっと実用的なものにするには、完璧な正義を追い求めるのではなくて、「どの選択肢を選べば正義を促進できるのだろう?」という比較をしてものごとを考えなくてはならない。

正義と開放的不偏性

不偏性は、国や地域の中だけではなく、グローバルに展開しないといけないものだ。

なぜか? 一つには、われわれの世界は相互に依存していて、自分たちの正義や不正義が他国や他の地域にも影響してしまうからだ。たとえば、アメリカ発の金融危機は他国にも大きな影響を与えた。また、ある国で人々が不正義に苦しんだり憤ったりすれば、その不満は他国にも影響を与えることになるだろう。

もう一つの理由は、グローバルに考えることで、自分たちの偏狭さから逃れることができるからだ。

正義の要件としての非偏狭性

アダム・スミスの「公平な観察者」という思考実験は、偏狭主義を回避するのに役立つ。彼は、われわれは自分の感情を「自分自身から遠く離れて」見なければならないと主張する。そうすることで、伝統や習慣にとらわれることなく自由に物事を考えることができるのだ。

もちろん、そうやって遠くの声を聴くからといって、すべての声を尊重しなければならないということではない。ずいぶんおかしな声だってあるだろう。でも、最初は奇妙に思える議論だって、よくよく検討すれば、私たちの考えを豊かにしてくることもあるんじゃないか。

正義、民主主義、グローバルな推論

グローバル政府は、しばらくは実現しないだろう。でも、だとしてもグローバル民主主義が実現できないということではない。国連や市民組織、NGO、あるいはメディアなどを通して、様々な「声」を他国や他の地域に届けることができるのだ。

社会契約と社会的選択

社会契約にかかわる議論はいろいろためになるものだが、それでも私は社会的選択アプローチの方を推す。

差異と共通点

哲学は、世界中の人々の苦しみについて深く考えるために役立つのだよ。

コメント

なぜ今さら本書に手を付けたかというと、「感情」と倫理の関係についてこのところ考えているから。

ジョナサン・ハイトみたいな道徳心理学における議論だと、感情は道徳的な偏見を生み出すものだとされているように思う。

あるいは、トロッコ問題をネタにたくさん実験をやった末に功利主義をメタ道徳に据えようと提案するジョシュア・グリーンも、感情は小集団での道徳問題を解決するための進化の産物であり、小集団の枠を越えたグローバルな道徳問題の場合、かえって問題をこじらせる原因になるというようなことを言っている。

あと、読んでないけど「共感」なんてダメ! みたいな議論もあるそうだね。

だけど、今回まとめた最終章では、不正義に対する怒りや憤りのような感情的反応は、正義の問題を考えるためのとっかかりだという位置づけがされていると思う。そして、リカードみたいに感情的な人々を冷たく突き放す姿勢を批判している。

センによるこうした議論は、感情の役割を否定しようとする論者たちに比べると、ずっと「大人」であるように感じる。人間は感情を持つ生きものであるし、感情を無視してデータや屁理屈を他人に押しつけようとするやり方は、何と言うか、「ガキっぽい」という感じがしてしまう。たとえば、原発事故やコロナパンデミックやらで不安に暮らしている人々に、「データによるとリスクはそれほど大きくないから、あなたが不安に感じるのは間違ってますよ」と言う人がいたら、それは人として何かまちがったやり方のように思う。

もちろん、その感情が妥当かどうか精査することは必要だ。だけど、そうした精査は学者が勝手にやることではなくて、当事者が自らやらなくてはならないことだろう。それは、当人任せにすればいいということではなくて、不安を感じている人が冷静さを取り戻せるように、ケアしてあげることは必要だ。理性主義者の人たちは「ケア」とか「共感」という考え方を嫌う傾向があるけれど、理性的に考えるためにも、まずはケアと共感が必要なのだと思う。

倫理や正義にかかわる問題に最終的に決着をつけるのは理性の役割だ。だけど、そもそもそうした問題に気づいたり、あるいは理性をうまく働かせて問題を考えるためには、まずは感情の役割が重要になってくる。だから、倫理や正義の問題において感情の役割にもっと注目しよう、というのが最近の私が考えていることだ。

で、前もちょっと触れたこの本をさっさと読み終えたいのだけど、なかなか読み進められないなあ。