【読書ノート】『人間活動における理性』第1章

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サイモンの『意思決定の科学』を2章までまとめて、サイモンが人間の意思決定や問題解決プロセスをどんな風に考えているのかが大体わかった。ただ、その前提にどういう合理性観があるのかはあまり詳しく書かれてなかった。今私が興味があるのはむしろ「合理性とは何か」という話なので、サイモンのこの本も勉強してみようと思う。前に読んだけど、脳が悪いので、内容はほとんど覚えてない。

すでに訳者自身が要約をつくってくれているけれど、勉強なので、自力でまとめてみたい。

第1章 合理性のいろいろな見方

18世紀のころは、理性でなんでも解決できるさ、という楽観論がはびこっていたけれど、そういう楽観論には根拠がない。わたしが検討したいのは、人間の活動における理性の活用と、その限界だ。

1.1 理性の限界

公理と推論規則があれば真実にたどりつけるさ、ということはない。だって、公理も推論規則も根拠のないものなのだから。それらを根拠づけようとしたら論理の無限後退に陥ってしまう。

つまり、理由づけというのは恣意的なものなのだ。そこから次のふたつの影響がもたらされる。

  1. 何らかの事実から、まちがいのリスクなしに確実な一般法則を推論できるような、そんな完璧な導出原理はありえない。そもそも、その「何らかの事実」自体が理論に感染しているので中立的なものではない。
  2. 「こうである」という記述的な入力から、「こうするべきだ」という規範的な主張を導き出すことはできない。つまり、理由づけの有用性は限られているのだ。理性は目的に到達するための手段を探すのには役立つけれど、目的そのものは何も教えてくれない。

1.2 価値観

狂気の手法

理由づけの有用性が限られていることを考えるためには、ヒトラーの『わが闘争』を分析的に読んでみるといい。

まず、ヒトラーの主張する「事実」はまちがいだらけだ。だから、もっとまともな事実に基づく前提による理由づけで対抗する、というのは良いやり方かもしれない。

だけど問題は「事実」だけではない。もっと重要なのは、ヒトラーの述べる目標がおかしなものであることだ。だから、ヒトラーを批判するのなら、ヒトラーによる「理由づけ」よりも、彼の主張するメチャクチャな価値観について批判した方がよい。

そう考えると、ナチズムに対する防衛手段は、理性ではなく、信念とか価値観なのだ、ということになる。というのも、理由づけを駆使しても、「である」から「べき」は導出することはできないからだ。

蓼食う虫も好き好き、ではない

「べき」というのは絶対的なものではない。たとえば「人は収入の範囲内で生活するべきだ」というのは妥当なように思える。でも、もしその人が大学生なのなら、人から金を借りてでもとにかく今は勉強するべきだ、ということになるかもしれない。

それじゃあ、どういう「べき」が妥当なのかをどうやって判別すればいいのか。残念なことに、価値観に関する理由づけには、あんまり頼りになる規則が構築されていない。

そういう価値観の問題に深入りする必要を無くしてくれるのが、主観的期待効用(SEU)理論だ。この理論だと、どんな価値観も単一の効用関数に押し込めるので、いろんな価値観をどう比較するか、という面倒な問題を回避できるのだ。

1.3 主観的期待効用(SEU)

理論

SEUモデルの主要構成部品は以下の4つだ。

  1. 意思決定者は基数的な効用関数を持っている
  2. 意思決定者は代替戦略集合を持っていて、そこから戦略を自由に選べる
  3. 意思決定者は将来のあらゆるできごとについて同時確率分布を割り当てられる
  4. 意思決定者は期待効用を最大化するように戦略を選ぶ

理論の問題点

で、もちろん人間の意思決定においてこんな仮定を置くのは非現実的だ。だから、SEUを実際の人間の意思決定に使うのは絶対に不可能だ。だけど、こういう理論を大真面目に応用しようとする人たちは多いのだよ。

近似としてのSEU

私もSEUを使った研究をしたことはあるけれど、それは、現実の状況のほんの小さな断片をきわめて単純化した形で表象したものに適用しているだけだ。で、SEUなんか使わなくても、別の意思決定手順の方がよい意思決定を生み出すことな十分にありうる。トベルスキーなんかの研究でも、人間行動はSEU理論の処方箋とはかけ離れたものになることを示しているよ。

1.4 行動主義的な代替案

じゃあ、現実の人間はどんな風に意思決定をしているんだろう? たぶん、こんな風にやっているんじゃないだろうか。

  1. 何か意思決定するときは、他のことは考えてない。たとえば、車を買うときは、翌週の夕食のメニューのことは考えてない。
  2. 何か意思決定するときは、未来の詳細なシナリオを考えたり、代替案ごとの条件つき確率分布を考えたりはしない。
  3. 何かを買おうとするとき、特定の価値観だけ想起して、他のものは無視される。たとえば、車を買おうとするとき、ステレオで音楽を聴くのは楽しいなあ、なんてことは考えない。
  4. 意思決定にかける努力の相当部分は、事実を集めたり、関係ありそうな価値観を想起するのに費やされる。

限定合理性

ようするにこれは限定合理性ということだ。こういう限定合理性に基づく人間選択のモデルを、「行動モデル」と呼ぼう。

SEUだと人間はあらゆる物事を見渡すような超人として描かれるけれど、そんな超人を仮定しなくてもこの世界で生きていくことはできる。というのは、この世界でわれわれが出会う問題は、ほぼ別々の問題へと因数分解できるからだ。お腹が空いているときは食べることを考えれば良いのであって、眠たいとか寒いとかは先送りできる。

限定合理性のための仕組み

筋の通った限定合理性を行使するには、生命体はどんな特性を必要とするだろうか?

  1. 対処すべきものに関心を集中させることができること。たぶん情動が一役買ってる。「お腹が空いたなあ」という情動が起きたら食べ物を手に入れることに関心を集中させるとか。
  2. 代替案を生み出せること。
  3. 自分の置かれた環境についての事実を獲得する能力と、その事実から類推を行うためのそれなりの能力を持っていること。

限定合理性のメリットは、まず、実際にそういう風に人間が行動しているという証拠がたくさんあることだ。そして、人間が生きるためにそんなに大それた計算能力を仮定しなくても良い、というのも良いところだ。

限定合理性の帰結

限定合理性だと最適化は行われないし、意思決定に一貫性があることも保証されない。

だけど、この複雑すぎる世界を人間がどうやって生き延びているのかはうまく説明してくれる。

直感的合理性

SEUでもない、限定合理性でもない、第3の合理性モデルとして、直感モデルが挙げられる。これは、人間の思考の相当部分や、正しい意思決定に到達できるという人間の成功の相当部分は、人間がよい直感やよい判断力を持っているおかげだ、と主張するものだ。

脳の両側

直感とか言ったら、ああ、右脳のことね、と思われるかもしれない。でも、左脳が論理で右脳が直感だ、というのはどうもガセみたいだ。

人間の脳がどうなっているかはさておき、ここで重要なのは、人間には分析的な思考と直観的な思考という全くちがう思考形態があるのか、そして創造性は直観的な思考に依存しているのか、ということだ。

直感と認識

直感というのは、チェス名人みたいな一部の人だけが持っている特別なものだというわけではない。あなただって、たくさんの友人の顔を一瞬で見分けることができるだろう?

直感というのは、友人を識別し、記憶の中からその相手と知り合いだった年月の間に学んだことすべてを記憶から引き出せる能力なのだ。

直感と判断の獲得

認知メカニズムによって「アハ!」体験は説明できるのだ。というのも、有効な「アハ!」体験は、適切な知識を持った人にしか起こらないからだ。

どんな分野でも、だいたい10年くらいは訓練を積まないと世界クラスのパフォーマンスを生み出すことはできないものなのだ。モーツァルトだってそれくらい頑張って訓練を積んでいたのだよ。

まとめ:直感モデルと行動モデル

思考の直感モデルと行動モデルは矛盾するものではなくて、お互いに補い合うものだ。

直感と感情

直感は感情と結びつきやすい。

感情と注目

環境の中で注目すべきものを選び出すのに感情は重要な役割を持っている。たとえば環境問題について人々の感情をかきたてれば、人々は環境問題に関心を持つ。

こんな風に、行動理論の立場からは、感情も合理性において重要な役割を持っているのだ。

教育における感情

さて、ちょっと寄り道して、教育における感情の役割について考えてみよう。

人文学なんて無用だ、という批判がある。そういう批判に対する反論としては、小説みたいに感情を込めた文脈で歴史とか社会について示した方が人々に深い印象を与えることができるから、というのがあるだろう。

確かにそうなのだけど、そこには危険性もある。小説を教育に使いたいのなら、それが事実関係について語るときの科学的な有効性についても評価しないとならない。たとえば今の文学にはフロイト理論がはびこっているけれど、フロイト理論は科学的には全然ダメだ。それはむしろ学生に悪影響を与えるだろう。

結論

(章全体のまとめ。省略)

感想

サイモンの限定合理性という考え方自体は有名だけれど、どういう文脈で出てきた議論なのかはあんまりよく分かってなかった。

「期待効用理論がダメだから限定合理性だ」という流れなのだけど、実はその期待効用理論のさらに前に、「価値観の問題を理性で扱うのは難しいから期待効用理論だ」という流れがある。全体を整理するとこんな風になる。

  1. あらゆる問題は理性で解決できるという楽観的な18世紀的発想
  2. しかし理性には限界がある。価値観の問題もクリアできない
  3. 期待効用理論を使えば価値観の問題を考えなくてすむ
  4. しかし期待効用理論もあれこれ問題がある
  5. だから限定合理性に基づく行動理論だ

期待効用理論にしても、限定合理性による行動理論にしても、価値観の問題は扱わないという点では共通しているみたいだ。つまり、価値観の問題は理性の扱う範疇から外してしまっているということだと思う1。サイモンが『意思決定の科学』でモデル化した問題解決プロセスには、「問題を理解する」というステップは含まれるけど、「問題を発見する」というステップは入っていない。それは、理性では価値観を扱えないという想定が背後にあるのかもしれない。つまり、何を問題と感じるかというのはその人の価値観に基づくものなのだ。サイモンからすれば、そういうのは理性で扱えるものではないから、問題解決プロセスに含めてもあまり意味がないと考えたのかもしれない。

ただ、センの『正義のアイデア』なんかを読むと、価値観も理性でコントロールできるという風に考えているように思う。人々が相対的に良い正義を探求していくプロセスをセンは公共的討議と言っている。で、そういう公共的討議を有効に進めるために必要なのが理性だ。正義と価値観はイコールではないけれど、正義が変わるのなら、価値観だって変わるのではないか。サイモンは価値観の問題を示すときにヒトラーの話を持ち出して、ナチズムに対する防衛手段は、理性ではなく、信念とか価値観なのだということを言っているけれど、本当にそうだろうか? 理性にもとづく公共的討議の方が、ナチズムに対する防衛手段として有効なのでは? 

サイモンは、目的達成のための手段を決めるための道具として理性を位置づけているのだと思うけれど、公共的討議という概念を持ってくれば、理性は目的を決めるときにも大事なものだということになると思う。


  1. で、なんでサイモンが価値観を理性から切り離してしまうかというと、様相論理学という、価値も扱えるようなタイプの論理学がまともなものじゃないと考えているからみたいだ(本文の注2に様相論理学に対して私は反対だみたいなことが書いてある)。だけど、価値の問題を理性で考えるときに、必ずしも形式論理が必要なわけではないと思う。たとえば推論主義なんかでは、形式論理ではなく実質論理(つまり語の意味を考慮した論理)という考えを導入して、理性的な推論のあり方について論じられている。推論主義を導入すると、サイモンの考えの足りないところがいろいろ見えてくるんじゃないか。たとえばヒースなんかも『ルールに従う』の中で、推論主義の議論に基づいて、人々の選好や欲求は理性で変えることができるみたいなことを言ってたと思う。これもまた、価値観の問題を扱うのに理性が役立つことを示す議論ではないだろうか(議論の詳細を忘れてるのでまた読み返そうかなあ)。 → ちらっと見てみたらこんな風に書いてあった。《欲求は合理的な熟慮とコントロールの領域の完全に外側にあるという主張は、日常的な直観と明白に矛盾している。この問題に関するより常識的な見解は、われわれが自分の動機と格闘しているというものである》ヒース『ルールに従う』p222