【読書ノート】『アダム・スミス 共感の哲学』

ちょいと時間に余裕が出てきたので、まとめないまま放置していた本をまとめてみよう。

本書は数ヶ月前に特急列車のなかで読んで、とても面白かった記憶がある。しかし例によって記憶容量に問題のある私は、何が面白かったのかも、特急列車でどこに向かっていたのかも、もう覚えていない。情けないことだ。

どこに向かっていたのかは永遠の謎だけど、Kindleで読んだ本にはあちこちにハイライトが塗ってあるので、当時の私が面白く感じたところはわかる。ハイライト部分を再読して、今でも面白いと感じられる部分を抜き出していこうと思う。

というのは、最近、『国富論』をちびちび読んでいるのだけど、どうして読んでいるのか、自分の動機を見失ってしまっているのだ。たぶん、本書で面白いと思ったから『国富論』に手を出しているのだと思うんだけど…。私はいったい何がしたかったんだ? 自分探しのために、まあ、せっせと抜き書きしていこうかではないか。

同書(『道徳感情論』)はまず何よりも道徳哲学の本であるとは言いがたく、まして利他主義の賛歌ではまったくない。『道徳感情論』は心理学と社会学の書と言うべきである。とくに、道徳原理に正当化や根拠を与えるといった初期のカント流のやり方をスミスが採用していない点は注目に値する。スミスは、道徳感情はそもそもどのように湧いてくるのかという心理学的な問題にまず取り組んだ。人間はいったいどのような個人的・社会的プロセスを経て道徳に目覚めるのか。普遍的な道徳原理は存在しうるのか。人間の本性といったものはあるのか、それとも時や場所によって変わるのか。このように、『道徳感情論』は単に道徳感情だけでなく、それに関連するありとあらゆる探求を網羅している。一言で言えば、人間はいかにして人間になるのかを解き明かす著作なのである。

p91-92

道徳感情論』はずっと前に読んだことがある。「共感」というのがキーワードなので、なんか人々がお互いに共感し合って助け合う微笑ましいお話なのかと思いがちだけど、そんなことない。スミスのいう「共感」は、いわゆる「冷たい共感」に近いやつで、「私がこういうことをしたらあの人はどう思うかな」という風に、相手の思惑を推測する一種の視点取得のことだ。

とはいえ読者はすぐに、『道徳感情論』の重要なキーワードは、憐れみという意味での同情ではないことに気づく。スミスが重視するのは感情移入すなわち共感という意味での同情なのである。(…)つまり遠く離れている自分とは全然違う人の立場に想像の中で自分を置いてみることのできる能力のことだ。となれば私たちは、他人の喜びのみならず、他人の不快な感情や敵対的な感情や自己満足など、ふつうの意味では共感と呼ぶとは言えないようなものにも共感できるし、想像の中で自分もそれを味わうことができることになる。

p96

人がなんか良いことをするのは、必ずしもその人が優しいからとかではなくて、そうしないと他の人にクソみたいな奴だと思われるのが嫌だからということもある。だから、この引用で出てくる「まして利他主義の賛歌ではまったくない」というのはその通りだと思う。むしろ、スミスの言う共感は、社会規範を成立させるための心理的土台と考えた方がいいと思う。

私たちは、自分が現実に行った行為ややりかねない行為と他人のそれとを比べることから、道徳的判断を下す。だから私たちの道徳的な原則は、広く社会で認められている規範によって、あるいは規範に対する反応に基づいて、変化する。

p100

社会規範は当然、社会によって違ってくる。ラーメンをずるずるすすったら眉をひそめられる社会もあれば、そうでもない社会もある。人殺しは厳禁の社会もあれば、隣の部族の人々の首を取ってくると褒め称えられる社会もある。

このようにスミスの理論は、社会的に有意義な規範のみならず、安易で不健全な規範が広まるしくみも説明している。

p102

カントみたいに普遍的な道徳原則を目指すのではなく、それぞれの社会で異なってくる社会規範に着目しているという点で、「『道徳感情論』は心理学と社会学の書と言うべきである」ということなのだろう。

で、こういう発想なのだとしたら、『道徳感情論』と『国富論』の間には整合性がとれると思う。よく、『道徳感情論』のスミスは利他的な人間像を描いているのに、『国富論』のスミスは利己的な人間像を描いていて、ぜんぜん矛盾してるじゃんみたいなことが言われる。だけど、『道徳感情論』においてスミスが言っていることは、人は利他的だということではなくて、人は社会規範に従うということだ。で、社会規範に従う人が、市場において利己的に振る舞うのは別にぜんぜん矛盾しない。なぜなら、市場も社会規範の一種であって、そこでは人々が利益を求めることが正当化されているからだ。こう考えると、現在の「制度の経済学」ともつながってきそうな議論だと思う。個々の国や文化での制度の違いは、共感に基づく社会規範の違いによるものなのだ、という風に。

だが、『国富論』で論じた商取引の秩序には社会的・道徳的な価値観は適用されないとスミスが考えたという証拠はどこにもないし、もしそう考えたとしたら『道徳感情論』と矛盾を来すことになる。それに、市場は規範と信頼に基づいて運営され司法と法の執行という法的メカニズムに従うとするスミスの包括的な理論とも矛盾する。あるものと別のものとの「公正で計画的な」交換ができるのは人間だけである。なぜなら公正さの観念が共有され、またどんなものが交換に適しているか、どんなものなら相手に受け取ってもらえるかを考える能力が備わっていなければ交換は成立しないからだ。もちろん場にふさわしい規範というものがあり、人間心理を考えれば、匿名の取引環境では一般に規範の圧力は弱まるだろう。だからと言って、商業社会がそれ自体として不道徳なものだとはスミスは考えていなかった。

p244-245

制度の経済学と同様に、各社会の歴史性を重視する発想もスミスにはみられる。ここらへんはヘーゲルっぽくもあるな。以下の引用では「進化」という言葉も出てくるけれど、制度の経済学でもボウルズとギンタスが進化論の枠組みで道徳の発生を説明しようとしてるし、すごく似てる。というか、制度の経済学はアダム・スミスへの先祖返りを目指しているのだとも解釈できるかな?

社会の外に何か合理主義の足場があって、そこから社会全体を俯瞰してつぶさに吟味できるとか、アルキメデスのようにテコでもって動かせるわけではない。社会は多元的なもので、人々の複雑に絡み合う利害関係や相互の恩義と好意の結びつきを調整する役割を社会規範や道徳律が果たしている。 / これがスミスのダイナミックな社会観である。言語と同じで、人々の道徳観は絶えず変化し続け、発展し、新しいものが付け加えられる。始まりもなければ終わりもない。共感は助け合いなどの相互関係を生み、この相互関係あるいは互助関係が商業を発展させ、互いの安全を保証し、社会の徳を育み、それが広がり、自己増殖する。特定の状況において新たに生まれる規範に従うべく、道徳的判断が絶えず下され、適切な行動を選び、そうでない行動を罰する。となれば、スミスの理論は真の進化論だと言うこともできよう。ただし、自然選択ではなく社会選択のプロセスによる進化論である。この理論は、人間同士の無数の相互作用が膨大な数の予期せぬ結果を生むというスミスの重要な洞察に基づいている。 p103

ここらへんの話に関連する記述として、スミスは「予測」をほとんどしていないとある。つまり、人間は複雑すぎて、ビリヤードの球の軌跡を予測するみたいに人間の行動を予測することはできないということだ。ミクロ経済学とかゲーム理論の教科書だとあたかも人間の行動を予測できるかのように書かれていることが多いけれど、スミスはそんな単純には考えていない。

同様にスミスのニュートン主義もけっして単純ではない。原子や惑星やビリヤードの球のように人間がふるまうとは考えていないし、人間の行動が科学の法則に基づいて予測できるとも考えていない。それどころか第一部で取り上げたように、人間の行動はチェスの駒のようにコントロールできると思い込む「主義の信奉者」のドグマをきっぱりと否定する。「一つひとつの駒は独自の……運動の法則に従う」のであり、変化する状況に対して各人がダイナミックに予想外の仕方で対応することによって、今日で言うフィードバック・ループを形成する。(…)いずれにせよ注目に値するのは、スミス自身が著作の中で予測をほとんどしていないことである。これは決して偶然ではなかろう。このことから、スミスは人間の行動の予測不能性を念頭に、自分の研究対象が複雑で不確実であることを十分に認識していたのだと考えられる。

p227-228

よく、ビジネスの人たち向けに書かれたゲーム理論の本だと、「これで相手を出し抜けるぞ!」みたいな売り方がされているように思う。それじゃあゲーム理論の専門家が社会的に大成功しているかというと、そんなことはない。私の師匠は社会工学の人なのでとうぜんゲーム理論もきちんとわかっていたのだけど、お人好しで、むしろ人から出し抜かれることの方が多かった。それは当たり前で、そもそもゲーム理論で人の行動を予測なんてできないのだ。だって、実験ゲームをやってみると、理論とぜんぜん食い違った結果がガンガン出てくるのだから。師匠も、ゲーム理論はただの後付けの説明であって、予測にはぜんぜん使えないと言ってた気がする。人間は複雑だから予測できないって、当たり前のことなのだけど、そういう当たり前のことをちゃんと言ってくれる人は少ない。でもそれは、スミスが200年以上も前に考えていたことなのだ。

さて、『道徳感情論』でのスミスは、人々の共感を通してボトムアップで道徳とか社会規範が生まれてくるということを主張していた。そういう「ボトムアップで秩序が生まれる」というアイデアは、『国富論』では「見えざる手」として応用されている。なんか複雑系の元祖みたいな人だったんだね。

ここから、スミスの「人間の科学」がどういうものかがわかってくる。人間の科学は、単に守備範囲が広いだけではない。スミスは言語、個人心理学と社会心理学倫理学、政治経済学(おそらくは法と統治も)を関連づけ、一貫性のある形で統合しようと試みたのだった。そのような学問は、動的で進化する性質を備えていたはずであり、人間の自由な相互作用とコミュニケーションを前提とした人類の知の理論といったものになっていただろう。このように理解すると、スミスの死から二世紀以上が経ち、当時とは大きく隔たった条件と状況にある現在でさえ、人間の科学は驚くほど現代的な学問だと感じられる。

p236

進化論やゲーム理論を使って学問を統合していこうという議論がある。たとえば、以下のようなの。

この人たちは、最先端の進化論や社会科学を使って、スミスの「人間の科学」を実現しようとしているのだ、という風にも言えるかもしれない。

さて、制度の経済学の論者であるボウルズが、市場経済がうまく機能している社会ほど人々が市民として振る舞うようになる「市場の市民化効果」というのがあると主張している。

odmy.hatenablog.com

スミスも似たようなことを考えていたみたいだ。

だが商業が重要なのは、単に富を生むからではなく、人々を従属や戦争から解放し自由を生み出すこともできるからである。「商工業が発達すれば、秩序と善政が徐々に確立し、それとともに個人が自由と安全を得られるようになって、農村の住民もほぼいつも近隣の農村と争っている状態、領主に隷属していた状態から抜け出せるようになる。この点はほとんど指摘されてこなかったが、都市の発達がもたらした好影響のなかで、飛び抜けて重要である」(第三編第四章)。こうして自由が得られると、人々は強制によらずに道徳的判断を下すようになるため、徳が涵養される。そうした道徳的判断の積み重ねの上に正義の規範が形成され、正義と法によって市場と商業の円滑な維持が可能になるのである。

p310

ボウルズはデータを元に「市場の市民化効果」を主張しているのだけど、そうしたデータが無いのにスミスはこういうことをきちんと言えているわけで、やっぱりただ者じゃない、っていうか大天才でもうひれ伏すしかないぜ1

で、経済学の教科書だと、「市場」という何か抽象的なものが宙にぽわーんと浮いて存在しているかのように描かれがちだけど、そんなことはない。市場は人間が作るものだ。

市場は人間の活動が作るものであるから、自然の限界がないし、科学的にこれと決定できる範囲もない。市場に限界というものがあるとすれば、それは究極的には市民として、また参加者としての私たちが定めるものしかない。 / このことと関連するが、現実の市場に関する限り、歴史や人間の価値観から切り離された体系や理論は存在しない。市場を適切に扱えるのは、経済現象を社会の構造や制度、文化、政治など広い視野から分析する学問としての政治経済学だけである。

p319

さて、本書の後半の方では、スミスのアイデアを使って著者が現在の問題への取り組み方をいくつか提案している。グローバル経済についてはこんな風な提案がある。負け組に対して単に所得分配をすればいい、というのではなく、彼らの「存在意義」を重視しなければならないという主張だ。ここは、人々が労働して他者から承認されることを市民社会の条件として重視したヘーゲルの発想とかなり近い。現在の経済学ではほぼ無視されている論点であると思う。

そして第三に、スミスはグローバル化をめぐる議論の多くで見落とされている側面に光を当てている。それは倫理面である。グローバル化の勝ち組から負け組への所得分配を行うだけでは十分ではない。重要なのは単にお金ではなく、存在意義である。すなわち仕事をまっとうし、尊厳と他者への敬意を失わず、持てる能力を存分に発揮して意味のある人生を送ることだ。権力、地位、情報の不平等性が蔓延し、市場支配力が次第にテクノロジーのベールの背後に隠れて行使されるようになると、実効性のある公的機関や規範の重要性が高まるとともに、企業であれ国家であれ公共心を備えたリーダーの存在がますます大切になってくる。市場の失敗やグローバル化や資本主義そのものについて、ひたすら経済学的な分析をするだけでは、問題の診断も解決の処方箋も見誤りかねない。最終的に重要なのは、次章で論じるように、文化でありアイデンティティであり存在意義である。取り残された人々のための政策対応を考えるうえで、これらを外すことはできない。

最後に、スミスの政治経済学にもとづいて、現在の経済学に対する厳しい批判がなされている。

新しい経済学、いや政治経済学を提示するには知性と思考が必要だ。まず経済学者は、経済学そのものについて、またその限界について理解を深め、経済学の実践者に対して謙虚になり、経済学は客観的な科学だなどと大言壮語することをやめなければならない。とりわけ、経済学を価値判断とは無縁の科学にするという合理主義者の夢は無益だと認識するべきだし、政治学社会学倫理学から切り離す試みは、たとえ原理的にもけっして成功しないとわきまえるべきだ。

p424

で、こういうスミスの考え方(というかスミスにもとづく著者の考え方)は、まだメジャーではないけれど、少しずつ復活してきているのではないだろうか。たくさん抜き書きしながら、経済学を「政治学社会学倫理学」に再び接続しようという試みとして、ヘルマン=ピラートやヒースの議論を思い出していた。

ただ、これらの議論はいずれも異様に難解で、腹くくらないととても読む気にはなれない。一方で、スミスの著作は(翻訳がまともなら)一般人でも普通に読めるものだ。で、一般人でも読めるからこそ、その内容が社会に対して影響を持ちうる。今の経済学は少しずつスミスの考えていた政治経済学に関心を持ち始めているようだけれど、まだ専門家向けのものに留まっていると思う。次に経済学者がアダム・スミスから学ぶべき事は、普通の人に読んでもらう文章の書き方だろうか? 「新しい経済学」は、「頭のいい経済学者」がその成果をどこか人々の知らないところでこっそり社会に注入するようなものではないと思う。スミスが「ボトムアップ」にこだわったのなら、その考えを広い範囲の人々に理解してもらって、あれこれ議論を重ねていく、ということが必要なんじゃないだろうか。その点でいったら、『ルールに従う』という難書を書いて終わらせないで、そのエッセンスを『啓蒙思想2.0』という一般書で再構成したヒースはやっぱりいい線行ってるのかもしれない。


  1. あれ? でもこれはスミス独自のアイデアと考えていいのかな?p378ではモンテスキューが「温和な商業(doux commerce)」という概念で、「商業は野蛮な習俗を和らげる効果があるとした」とある。スミスよりモンテスキューの方が古い時代の人だ。