【読書ノート】『ゲド戦記1 影との戦い』ラストまで

各章のあらすじとコメント

8 狩り(p219)

ハイタカは影を狩る旅に出た。海上でまた影に出会った。しばらく追っかけっこしたのだけど、波にさらわれて砂浜に打ち上げられた。

その小さな島にはボロボロの服を着た年老いたふたりの男女が住んでいた。なんだこいつらは。言葉もわからないみたいだ。だけどなんとなく世話してもらって、命拾いした。島を出るときに半分に欠けた腕輪をもらった。これは2巻につづく伏線なので覚えておいてくれたまえ。

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で、ここからハイタカは影から逃げるのではなく追うようになる。

あらすじにまとめると本当に内容がない。この作品で、ハイタカは基本的に影から追われたり影を追いかけたりしてるだけだ。他の登場人物も出てくるけれど、みんな物語の脇役に過ぎない。カメラは常にハイタカに焦点を合わせている。だから、どうしても物語としては単調になってしまう。

しかし、それでもゲド戦記シリーズの中ではこの1巻がいちばん好きだ。なんでかというと、ハイタカが徹底的に孤独だから。孤独といえば、2巻のアルハだって相当孤独だし、4巻に出てくるテルーも孤独だ。だけど、1巻のハイタカの孤独は、読んでて元気づけられるような孤独だ。美しい孤独だという言い方もできる。で、その美しさが輝き出すのが、自分の影に立ち向かうようになったこの8章あたりからだと思う。たとえばこんな描写。

ゲドはそのまま、南東の方角に舟を進めた。世界のこの東の端に夕闇が迫る頃、いったん浮かび上がった陸地はまた海のかなたに沈んで見えなくなった。波頭は残照を受けてまだ赤く輝いていたが、波間はすっかり暗くなった。ゲドは『冬の歌』や『若き王の武勲』などを思い出すまま、声に出してうたった。冬至の祭りの歌だったからだ。彼の声は澄んでいてよく通った。だが、海はしんとして、ただその声を吸いこんでいくばかりだった。あたりはあっという間に暗くなって、空には星がまたたきだした。
一年で一番長いその夜をゲドはほとんど一睡もせずに過ごした。左手から星がのぼり、頭上にまたたき、そして右手の黒々とした海のかなたに沈んでいった。冷たい北風は夜どおし吹いて、ゲドを南へ南へ押しやった。時折うつらうつらしたが、そのたびに彼はすぐはっとして目を覚ました。乗っている舟は、実のところ、とても舟などと呼べるしろものではなく、半分以上が魔法の産物で、残りも古ぼけた流木の板だったから、もし魔法の力が弱まりでもしたら、舟はたちまちばらばらになって、木っ端のように波に漂うことはあきらかだった。
p239-240

9 イフィッシュ島(p247-)

イフィッシュ島という島にたどり着くと、そこで旧友のカラスノエンドウに再会した。カラスノエンドウの家にやっかいになって、彼の妹のノコギリソウというかわいい女の子とちょっと良い感じになる。で、なんだかんだあってハイタカカラスノエンドウと旅に出る。

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改めて読み返すと結構説明臭い章だった。ハイタカカラスノエンドウのふたりで影についてあれこれ議論するのだけど、いかにも読者向きの説明という感じだった。

その一方で、ノコギリソウも交えた3人の会話は軽快だ。ちょっとハイタカが説教くさくなってて、魔法を簡単に使ったら均衡が乱れるのだよ、とか言うのだけど、そのくそ真面目さをノコギリソウが和らげてくれる。なぜ恋に落ちないのか!!! と言いたくなるけど、ハイタカは恋に落ちない。

次は、旅のために準備して作ったパンをかまどから取り上げたハイタカに対してノコギリソウが言った気の利いた台詞。で、これに続いてハイタカが言った台詞は「つきあってください!」ではなく、「均衡とは、こうして保たれるんだな。」なのだ。この野暮天め。

「そんなことして、やけどなさったでしょう。それに、今、そんなことなさったら、島影ひとつ見えない海の上で食べ物がなくなった時、きっと、そのパンのこと思い出して、ため息をつくことになるわよ。『あーあ、あの時パンを盗んでなきゃ、今頃、食べられたのになあ』って。――さてと、じゃあ、わたしも兄のぶんをひとつ減らしておきましょうね、兄もひもじさにお付き合いできるように。」
p269

10 世界のはてへ(p273-)

ハイタカカラスノエンドウとともにまた海に出る。そして影に出会い、相手の名を呼ぶ。ハイタカは影と一体化する。ハイタカは自由になった。

コメント
で、大団円となる。

ところで、なんでカラスノエンドウハイタカについてきたんだろう? いてもいなくても良かったような気がするんだけど…。いないと話が単調になりすぎるということかな。

全体感想

まとめのために改めて読み返すと、かなり単調な物語だと思った。また、あちこちに説明臭い記述やお説教がちりばめられていてかったるい。セレットやノコギリソウと良い感じになっても結局それ以上進展しないというのもストイックすぎる。

単調なのは、自分探しが物語のテーマだからだろう。つねにハイタカひとりに焦点が当たっていて、他の人たちはいてもいなくても良い感じになっている。とくに最終章のカラスノエンドウは、なんでいるんだろう? というくらい脇役感が強い。

決してできの良い小説だとは思わない。たぶん、これ1作で終わっていたら失敗作として片付けられていたんじゃないだろうか。でも、孤独なときに読むと気持ちがシンクロしてとても勇気づけられる。そういう点では、とても好きな作品でもある。山登りとかしないけど、ひとりで山に登って山頂でテントの中で読んだらすごく良いだろうなあ、と妄想してる。

で、1巻につづいて、2巻ではアルハという巫女の女の子の孤独が描かれることになる。で、それは構図的には、孤独なお姫様を王子様が助けに来てくれる、というような感じのものになるのだけど、やっぱりこのふたりはくっつかない。ゲド戦記では、男女がどんなに良い感じになっても、そう簡単にはくっつかないのだ。というか、フェミニスト作家のル=グウィンが、そんな「お姫様を王子様が救い出してふたりは結ばれました」みたいな前時代的な話を書くわけがない。どんなに良い感じになっても、そう簡単にくっつけてたまるものですか、というのがこの作家の矜持なのだろう。

追記

小説の読書ノートをつけたらもっと小説を楽しめるのではないか? と思ってやってみたのだけど、別にそんなことはなかった。

今回いろいろ検討してみて、ゲド戦記1巻はそんなに良い作品じゃないんじゃないか、という結論になった。でも、個人的にはこの作品は好きだ。で、客観的に見てダメであっても、主観的に見て良いのなら、別にそれでいいのではないか。わざわざ読書ノートをつける意味って何なのか。特に意味なかったような気もする。

改めて気づいたのだけど、わたしは小説が好きだ。たぶん、アニメはそんなに好きじゃない(嫌いでもないけれど)。で、好きじゃないからこそ、客観的に分析しないと良し悪しが判断できない。

だけど、小説は主観的に好きだし、それだけでもう十分だ。そこに客観的評価を付け足したところで主観的評価は変わらない。ゲド戦記1巻は、かったるいし、単調だし、説教臭いし、ときめきも足りない。だけど好きだ。別にそれで良いじゃん。

というわけで、たぶん小説での読書ノートはもうつくらないと思う。