【読書ノート】『モラル・エコノミー』第3章

第3章 道徳感情と物質的利害(p35-)

イントロ(p35-)

人々は物質的利害だけで動いているわけではない。たとえばスイス市民は、地域での核廃棄物処理施設建設の受け入れに関して、補償を提案されたらかえって抵抗が高まってしまった。

こういうことを、本章では様々な実験結果を紹介しながら考えていこう。

ホモ・ソキアリス(p37-)

囚人のジレンマで人々が裏切るのは、別に相手を出し抜こうと考えるからではない。そうではなく、自分自身の協力を相手に悪用されるのが嫌だから裏切るのだ。

人々は利己的ではない。社会的選好を持っている。

社会的選好:自分自身の富や物質的利得の最大化に忠実であるよりも、他者を助けるように人々に働きかけるような動機のこと。

つまり、人間って案外良い奴なんですよ。それなのに、インセンティブを与えると、そういう社会的選好が損なわれてしまうことがあるのだ。

クラウディングアウト(クラウディングイン)(p41-)

さて、社会的選好が人々の行動を動機付けるかどうかは、ケースバイケースだろう。

たとえば、ショッピングのときに社会的選好を働かせる人はたぶんいない。あなたはただ単に、財布と相談しながら自分が欲しいものを買うだけだ。

逆に、投票のときは社会的選好で動くものだろう。

では、公共財に拠出するときは? たとえば、ゴミをあまり出さないようにするとかだ。ゴミが減れば、その個人の便益は上がる。でも、コストもかかる。もしその人だけがゴミ削減に力を入ら、コストの方が大きくなるだろう。でも、みんながゴミ削減に力を入れてくれるなら、便益の方が大きくなるかも知れない。こういうとき、インセンティブを与えればそれでいいのだろうか? それとも、社会的選好にも配慮すべきなのだろうか?

さて、人々が「公共財に拠出するのは社会にとって良いことだ」と思っているのだとしたら、人々はそこに経験に基づく価値を認めていると呼ぼう。言い方はピンと来ないかもしれないが気にしないでくれたまえ。私は言語感覚があまり良くないんだ。

普通に考えると、こういう因果関係が成り立つ。

A. 社会的選好が強い → 経験に基づく価値を高く評価する → 公共財に拠出する

でも、こういう因果関係も成り立っているかもしれない。

B. インセンティブが与えられる → 経験に基づく価値を低く評価する → 公共財に拠出しなくなる

つまり、Aの因果関係が、Bの因果関係によって弱められてしまうことがありうるのだ。こういうのをクラウディングアウトと呼ぶ。逆に、下のような関係が成り立っていれば、インセンティブは社会的選好を補完することになる。これをクラウディングインと呼ぶ。

B'.インセンティブが与えられる → 経験に基づく価値を高く評価する → 公共財に拠出する

クラウディングアウトの効果がどれくらいなのか、どうやって評価すればいいだろう? それは、社会的選好を持たない人なら、インセンティブにどう反応するだろうかと予測を立てることだ。その予測とずれた反応が見られたら、それがクラウディングアウトの効果だ。

こういう実験をコロンビアの農村住民に対して行った。

共同利用資源ゲーム

  • 個々人は、森林伐採に何ヶ月費やすかを決める。
  • すべての村人が1年につき1ヶ月というペースで伐採するなら、グループ全体の総利得は最大化できる。
  • でも、ここからずれると総利得は下がる。

つまり、適正水準で伐採していればみんなが儲かるが、適正水準をこえて伐採すると、抜け駆けした奴を除いてみんなが損するということだ。

で、この実験をやってみると、最初は伐採水準は低かった。つまり、抜け駆けして自分だけ伐採しまくろうという奴らは出てこなかったのだ。

次に、実験の中に罰金を導入した。抜け駆けして伐採しまくってる奴に罰金を与えるのだ。そうすると、なんということか、かえって伐採量は増えてしまったのだ! 利己的な奴ならこれくらい伐採するだろう、という水準にかなり近づいてしまったのだ。この近づき具合がクラウディングアウトによる効果だ。

クラウディングアウト――立法者のための分類(p51-)

さて、クラウディングアウトについての理解を深めるために、クラウディングアウトを次の2つの分類してみよう。

カテゴリー的クラウディングアウトインセンティブの有無で発生するクラウディングアウト。
限界的クラウディングアウトインセンティブの大きさにリンクして効果の大きさが変動するクラウディングアウト

カテゴリー的クラウディングアウトの場合、インセンティブを大きくすればうまく対処できるかもしれない。つまり、インセンティブの大きさに関わらずクラウディングアウトの大きさが一定なわけだから、その一定の大きさを超えるような効果をもたらすインセンティブを与えれば相殺できるのだ。

だけど限界的クラウディングアウトの場合、インセンティブを大きくしたらクラウディングアウトの大きさも大きくなってしまう。もちろん、そのクラウディングアウトの大きさは、インセンティブへの人々の感度次第だ。感度次第で、インセンティブを大きくすればちょっとずつだけど公共財への拠出を大きくしてくれるというのもあるだろうけれど、逆にどんどん公共財への支出が減っていくということもありうる。

カテゴリー的および限界的クラウディングアウトを測る(p55-)

さて、同じようなゲームをドイツ人学生相手にもやってみた。ここでも、最初、プレイヤーたちは、自分の利益を最優先するような振る舞いはせず、それなりの量の公共財を拠出していた。つまり、社会的選好を持っていたわけだ。

さて、ここでインセンティブを与えてみた。つまり、拠出額の大きい人にボーナスを与えることにしたのだ。で、ボーナスの金額を変化させて反応を見てみて、カテゴリー的クラウディングアウトと限界的クラウディングアウトを推測してみた1

立法者の驚き(p60-)

補助金によってクラウディングアウトが発生する場合、補助金の金額をかなり大きくしないと、目標の拠出水準は達成されない。

実験室とストリート(p64-)

でも、実験室で見られた結果をそのまま現実世界に応用するのは間違いだ。というのは、実験室環境というのは日常生活とはぜんぜん違うからだ(研究者に観察されてる、他の参加者とコミュニケーションできない、実験参加者はたいていの場合学生)

だから、実験室での結果と現実世界での行動とのリンクを見ないとならない。

たとえば、日本のエビ漁師を対象とした研究だと、実験室でより多く拠出した人は、現実世界では漁協組合員になる可能性が高かった。つまり、実験室内で協力的な人は、現実世界でも協力的だったわけだ。

あるいは、エチオピアの羊飼いを対象とした研究もある。実験室でより多く拠出した人がたくさんいるグループは、エチオピアでの共同的な森林プロジェクトで成功する可能性が高かった2

道徳感情と物質的利害の相乗効果(p69-)

こういうクラウディングアウトの問題をきちんと理解しないと、インセンティブの使いどころは見えてこないものだよ。

コメント

読みにくい…。なんだよ「経験に基づく価値」って。ネーミングの根拠がぜんぜんわかんねえ。

要するに、人はインセンティブに対して複雑に反応するものなので、その複雑さを理解しておかないとインセンティブをうまく使いこなせないよ、ということだろう。で、それ自体は前章から議論としてあまり進展してるとは思えない。

新しい議論は、クラウディングアウトに2種類あるということと、あと、実験室内で見られることと現実世界での行動にはそれなりにリンクが見られるということかな。

ただ、その知見を現実世界にどう応用すれば良いのか、というのはあんまりイメージが湧かない。結局、実際にインセンティブを設定してみないと、人々がどう反応するかはわからないのでは? もちろん、実験室の中でいろいろ反応パターンを確認してみることはできるだろうけれど、それが当てになるかどうかはわからない。

現実的には、「実施しようとする政策の意義を根気よく国民に説明する」+「インセンティブを設定する」の二段構えでやる、という以外にやりようはないんじゃないかな。つまり、政策の意義を説明することによって人々の社会的選好に訴えかけて、クラウディングアウトを最小化しようということ。で、反応が芳しくなかったら、説明を追加した上でさらにインセンティブを上乗せする。


  1. ちょっと、ここは要約するのが無理です。というか、読んでもよくわからん。

  2. ところでこの本では「社会的選好を持つ人=市民」みたいな前提で議論が進められていると思う。で、こういう途上国の第一次産業を例にあげて、人々の協力関係がうまく成り立っているよ、というのが説明されているわけだ。だけど、こういう途上国の農村・漁村というのは差別的な慣習が残っていたり、人々の自由な議論が抑制されたりしていることが多い。日本の農村でも女性の発言力が弱いというのは報告されているし。たとえば『農村女性の社会学』という本でも、日本の農村で女性が意思決定になかなか参加できてない現状が指摘されている。そういう、差別が普通に温存されているような社会の人々を「市民」と呼ぶのはかなり違和感がある。単に社会的選好を持っているというだけでは「市民」と呼ぶには足りないと思う。センやヘーゲルの言うような、人々の間で自由な理性的な対話が行えるような社会というのが市民の存在の前提として必要なんじゃないだろうか?