【読書ノート】Jacques Godbout(1998)The World of the Gift 第3章

抜き書きとコメント

Chapter 3 When the State Supplants the Gift

p51 福祉国家が贈与に取って代わる?

One might even contend that here the situation is reversed--where the mercantile system is the opposite of the gift, the development of the welfare state has often been cited as a happy substitute for the gift, one which limits injustice and restores dignity, unlike earlier systems of redistribution grounded in charity.

  • 福祉国家(welfare state)は不正を正し、人々の尊厳を回復させてくれる。だから、贈与にとって変わるんじゃないか、という考え。で、こういう考えがちがう、ということを主張するのがこの章だ。
  • ロールズの『正義論』を数年前に根性で読破したことがある。ひとつひとつの文がやたらと長くて複雑で、それが延々と何百ページもつづく悪夢のような読書体験だった。ほとんど忘れちゃったのだけど、ロールズが考えるような「正義」の実現された福祉国家は、友愛にもとづくものだみたいなことが述べられていたと思う。
  • ロールズは無知のヴェールという思考実験から正義の二原理を引き出す。そういうアプローチが有名だから、ロールズっていうとはいはい無知のヴェールと正義の二原理の人ね、という理解になりがちだけど、それは割と正義論の序盤の方で出てくる話で、その後は延々と、「反照的均衡」といって、正義の構想をいろんな角度から捉え直す地道でちっともクリアでない作業がつづけられる。その中で、正義にかなう社会を実現する上で、人々の間に友愛が大事なのだ的なことも述べられていたと思う。
  • 「友愛」と「贈与」って、かなり近い概念だと思う。友愛があれば贈与するだろうし、贈与があれば友愛が育まれる。だから、少なくともロールズ福祉国家観の場合、福祉国家が贈与に取って代わるなんて発想はないんじゃないかなあ、と思うけど。で、この章の結論としては、取って代わるのは無理、ってことになる。でも、筆者の贈与論がロールズ福祉国家観と結びつくかどうかはよくわからん。結びついた方が見通しがよくなってこちらとしては助かるのだけどね。

p52 国と贈与は別次元の話。あと、国は贈与に悪影響を及ぼすこともあるよ。

Without denying the importance of forms of giving that involve both the gift and the state, we will take the position that
-even if the state is often closely intertwined with the gift, it does not belong to the same world, but to a sphere based on quite different principles;
-not only does the state not belonging to the same sector as the gift, but it can often have a negative impact on the gift.

  • 贈与と国家の関係に対する著者の考えを示している。つまり、国家が贈与と関わるところは確かにあるんだけど、それでも贈与と国家は別次元の話なんだ、ということ。そして、場合によっては国家が贈与に悪影響を及ぼすこともあるよー、ということ。で、筆者はこの章でこのふたつの考えを検証していく。
  • 国家が贈与に悪影響を及ぼすということでちょっと連想したのがソーシャルキャピタルだ。行政が関わるとソーシャルキャピタルに悪影響を及ぼすんじゃないかなあ、みたいな議論を論文で読んだことがある。つまり、ソーシャルキャピタルってのは人々の間の信頼とか規範にもとづいた主体的な協力関係なのだから、そこに行政がからむと人々の主体性を損なってしまうんじゃないか、みたいな話だ。
    • たとえとして良いかわかんないけど、たとえば小学校のクラスで仲間はずれになってる子がいるときに、担任教師が「あなたたち、○○君がひとりでかわいそうじゃないの! 仲間に入れてあげなさいよ」と介入したって、事態が良くなるとは思えない。そんなような話だ。
  • 贈与についてもソーシャルキャピタルと同じように、国がからんでもろくなことにはならない。それは何となくわかる。

p54 献血は贈与のボーダーラインに位置づけられる。

In blood donation we are dealing with a borderline case. We might even wonder why we should consider this act a gift. ... Only one aspect of the gift remains: the voluntary and disinterested act on the part of the donor, who sees donating not as an obligation to the state, nor as a business transaction, but as a gift. Once the gift has been made and the blood handed on by the Red Cross, which is the first recipient, it then becomes a product much like any other.

  • つまり、普通の贈与って、友だち同士とか、恋人同士とか、ご近所同士とかの間で直接行われるものだ。だけど献血って、血の余ってるAさんが流血の止まらないBさんに対して直接行う行為ではない。間には赤十字みたいな仲介者が入っている。それでも、献血というのは国への義務でもないし、商取引でもない。自発的に、無私の思いから行われているのだから、やっぱり献血は贈与だ、というのが筆者の考え。
  • で、なんでいきなり献血の話がでてきたかというと、著者がTitmussという学者の説を批判的に検討したいため。Titmussは献血という現象を取り上げて、これは贈与ではない、と考えている。むしろ血という商品を扱う商行為みたいなものだというのがTitmussの考え方だ。贈与というものが無くても血というモノのやりとりは行われているのだから良いではないか、というTitmussの発想は、福祉国家があれば贈与なんていらない、という発想とも通底している。それを批判しようというのが著者の狙いだ。

p57  公的サービスを補完する贈与ネットワーク

The gift plays an important role for many employees, particularly those whose are in direct contact with the clientele--those at the far end of the chain of intermediaries that begins with the tax collector. Even if the services are provided by paid employees supplement these right-driven services with services whish are more closely related to those in the gift network. This is contrary to what happens with the donation of blood, in that the gift here is found not at the beginning of the chain but at the end, where money, raised through taxation, is transforming into services.

  • ここの引用だけだとよくわからんけど、つまり、公的部門が何かサービスを提供しようとするとき、私的部門における贈与ネットワークで補う必要があるということだ。
    • ここでは、どこで贈与が行われるか、というのが献血の場合と対照的になっている。献血の場合、まずAさんが献血をするというところで贈与が発生して、それが赤十字などの組織や人の手を介して、最終的に血を必要としているところに行き着く。しかしここで言ってる公的サービスの場合、一般市民が税金を払って、それを行政が使って公的サービスを実行するのだけど、その末端のところで私的部門における贈与ネットワークが活躍することになる。つまり、献血の場合、贈与の連鎖の一番最初のところで贈与が行われるのに対し、公的サービスの場合、一番最後のところで贈与が行われるわけだ。
  • 公的サービスを私的部門の贈与ネットワークが補完する、というのは日本だったら町内会みたいなものじゃないかな。たとえば、ゴミ回収という公的サービスは、ゴミ捨て場を管理する町内会の存在が無いと上手く機能しない。で、町内会も確かに贈与関係によって成り立っているといえるかもしれない。ゴミ捨て場の管理をしても報酬はないのだし、経済合理的に考えるなら管理なんてさぼるべきということになる(そしてゴミ捨て場が荒れ放題になるという社会的ジレンマに陥る)。贈与ネットワークがあるからこそ社会的ジレンマを脱することができるわけだ。でも、こんな風に考えると、贈与ネットワークとソーシャルキャピタルはほとんど区別つかなくなると思うけどな。
  • うーん。いまいち、贈与というのが本当に新しい考え方なのかどうかわからない。前章の、家庭における贈与というのは、ケア論でも説明することができると思う。そして、本章における議論も、ソーシャルキャピタルで説明できそうな気もする。わざわざ「贈与」を持ち出すことの意義ってなんなのかな。

p58-59 国が贈与ネットワークを損なう例(未遂)

A public institution in Montreal asked an association that helps out the elderly (home visits, accompanying them to doctors, etc.) to work with it in providing services. The state institution gave the voluntary association a list of its clients and asked it to provide the people on the list with the same services it provides for its members. After a few trials, the association president refused to carry on. "Let them take care of their clients; we have our own old people," she says. "I'm going to work for their clients, but for my members I would do anything; they're like my children."

  • モントリオールで、高齢者支援団体に対して行政が「俺らに協力してサービスを提供して」と要請し、リストを渡して「このリストに載ってる顧客にサービスを提供してほしい」と依頼した。すると、支援団体のボスはその依頼を断った。自分たちのメンバーのためなら何でもするけど、あんたらのいう「顧客(client)」のことは、あんたらがどうにかしてくれ、と。
  • 行政からしたら、どっちにしてもその団体は(たぶん)無償で高齢者福祉をしているのだから、サービスの提供相手が誰だろうと問題ないと考えたのだろう。でも、この団体からしたら、自分たちのメンバーは「子どもたちみたいなものだ(they're like my children)」。だから、誰でもいいというわけではない。
  • 多分これが、国が贈与を損なう事例だろう(この事例では未然に終わっているけれど)。確かに国の役割を贈与ネットワークが補完することもあるのだけれど、そうではなく、国が介入することで贈与ネットワークが損なわれることもある。それはなぜなのか? というので次の引用。

p61 贈与は人と人がやるものです。国はそれがわからないのですよ。

In the gift system, even if it's a matter of relations between strangers, there is still a tendency to personalize the contact, at least symbolically, and to make the stranger less unknown, a logic that is utterly opposed to that of the state. The state system tends to make decisions independent of personal relations and characteristics, on the basis of abstract criteria derived from rights. As a result, the intermediaries impose their logic on both donor and recipient, who become at one extremity the "taxpayer," and at the other the "client," each with their particular rights. Between the two is a series of intermediaries on whom the principle of the gift has no hold.

  • 贈与における関わり合いでは人というのが意識される(personalize the contact)。たとえ見知らぬ人のあいだの贈与(献血とか)でも、単なる財の再分配という風には受け止められない。だけど、国というのはそういう「人」という観点ではなく「権利」という観点から物事を捉える。そうすると、人々は「納税者」とか「顧客」といったラベルで捉えられてしまうことになる。
  • さっき引用したモントリオールの事例で、支援団体のボスが行政への協力を断ったのは、そういう風にラベルで人々を捉える態度に反感を持ったからだろう。支援団体の人々にとって、支援対象というのは自分たちの「子ども」のような存在だ。決して、「顧客」ではない。そういう心の機微がわからない行政が下手を打ったわけだ。

今日はここまで

  • 筆者がstateという言葉で表現しているのって、「官僚組織」とか「お役所」というニュアンスが強いんじゃないかな。確かに、そういう場合、stateが贈与ネットワークを損なうということはあると思う。
  • だけど、stateは「国」と訳されるのが普通だろう。筆者が使っているwelfare stateという用語だって「福祉国家」としか訳せないと思うし。
  • 僕は、国が贈与ネットワークを損なうものだとか、それぞれが全く別次元のものだとは必ずしも思わない。すでに述べたように、ロールズ福祉国家観と贈与というのは相性が良いと思う。また、今、ウクライナでは人々がそれぞれ自分にできることをして、ロシアから自分たちの国を守っているのだけど、それはまさしく贈与だと思う(国民から国民への贈与)。俺たちは税金を納めてるんだから政府がなんとかしてくれよ、みたいな他力本願ではないはずだ。だからこそ大統領は高い支持率を得ているのだろう。贈与ネットワークがしっかりしてないと、国そのものが成り立たないのではないだろうか。
  • 今、思いつきでウクライナの例を出したけど、「祖国を守る」というイメージは、ソーシャルキャピタルよりも贈与の方に結びつきやすいと思う。今回の章を読んでいて、ソーシャルキャピタルと贈与ネットワークで何が違うのかイマイチよくわからなかったんだけど、贈与には何か切実な倫理性みたいなものが入ってくる気がするのだよね。手塚治虫の『ブッダ』で、飢えた獣のために自分を犠牲にして食べられた人のエピソードが出てくるけど、それは明らかにソーシャルキャピタルではなく贈与の領域におけるできごとだ。

今回引用した本

ロールズ本。分厚くて難しくてひたすら苦行。これを読破したときはもう無敵だった。これも引っ越しで捨てちゃったよう。

人々がなぜ協力するのか、というのをゲーム理論をあれこれ使って検討した結果、結局、経済合理性だけでは人々がなぜ協力するかわかりません、だからソーシャルキャピタル大事、という議論展開の本。カバーしてる議論の範囲が異様に広くて深くて役立つ。