【読書ノート】『制度とは何か』9章から10章

第9章 再帰性

自然科学と社会科学のちがいは、再帰性の問題に取り組んでいるかどうかだ、という考え方がある。

再帰性とは、たとえば予言の自己成就みたいなものだ。「あの銀行は潰れそうだ」という噂が立てば、本当にその銀行が潰れそうかどうかとは関係なく、不安になった預金者たちはどんどんお金を引き出していく。そして、本当にその銀行は潰れてしまうのだ。これは、予測に関する再帰性だ。「こうなるだろう」と予測するからこそ、本当にそうなってしまうということだ。

だけど再帰性はものごとの分類においても現れる問題だ。ピグマリオン効果というのがある。たとえば教師が「あいつはダメな学生だ」とレッテルを貼ったら、本当にその学生はダメな風に振る舞うになるのだ。これは、自分が期待されてないと知った学生が、教師によって貼られたレッテルの通りにダメ学生として振る舞うようになるからだ。このように、自然科学と社会科学の区別を考えるには分類における再帰性に着目した方がいいだろう。自然科学において、ものごとの分類はこんな風になっていない。学者がある生き物をアマガエルと名付けたからその生き物はアマガエルになるのではない。アマガエルは名付けられる前からアマガエルだったのだ。

さて、こういう再帰性の問題はゲーム理論で考えることもできる。ナッシュ均衡において、プレイヤーたちの信念は互いに整合的だ。つまり、あいつがこう来るなら俺はこうする、という風にどちらのプレイヤーも考えている。そして、「あいつがこう来るなら」というお互いの信念がちゃんとかみ合っているからこそ、お互いの信念の通りに相手が行動する。ようするに、予言の自己成就と同じように、「こうだろう」と信じたことが実際のその通りになるということだ。

ひとつ例を挙げよう。これは、ある組合でのストライキを扱ったゲームだ。組合員にはアフリカ系アメリカ人と白人がいる。彼らは、ストに参加するかどうか、あるいはほかの組合員をストに参加させるかどうかを決める。

アフリカ系アメリカ人
ストに参加する
アフリカ系アメリカ人
ストに参加しない
白人:
アフリカ系アメリカ人をストに参加させる
2, 2 0, 0
白人:
アフリカ系アメリカ人をストに参加させない
0, 0 1, 1

組合員がストに参加するかどうか意見対立するのが最悪の結果だ。だから、左下と右上は(0, 0)になっている。また、アフリカ系アメリカ人も白人も互いに協力してストをするなら、(2, 2)という望ましい結果になる。一方、白人がアフリカ系アメリカ人をストに参加させず、アフリカ系アメリカ人としてもストに参加する気がないのなら、ストはないけどお互いにもめなくてすむので(1, 1)というそこそこの結果になる。

このゲームでは均衡が左上と右下の2つだ。できれば左上(2, 2)であるといい。でも、白人たちが「アフリカ系アメリカ人たちはダメなやつらだからどうせストに参加しないさ」という風にレッテルを貼っていれば、アフリカ系アメリカ人たちとしても「どうせ白人たちは俺たちがストに参加しないと思ってるんだろうな。だから、俺たちをストに参加させないようにするだろう」と信じるようになる。その場合、アフリカ系アメリカ人としては、自分たちがストに参加すると(0, 0)の結果になると考えざるを得ない。だから、ストに参加しないことにする。白人としても、アフリカ系アメリカ人たちはどうせストに参加しないと考えているのだから、彼らをストに参加させないという選択をする。そして、結果的に、(1, 1)という結果になってしまう。

これは予言の自己成就と同じ状況だ。なぜなら、(1, 1)という結果になってしまったのは白人たちによるレッテルのせいだからだ。「どうせあいつらは」と信じているから、本当にそうなってしまったわけなのだ。

第10章 相互作用

さて、予言の自己成就の話をしたのは、あくまで科学の話がしたいからだ。

科学にとって重要なのは、「実在的な種類」だ。実在的な種類が科学にとって重要なのは、帰納的推論と一般化が可能だからだ。私がいう実在的な種類とは次のようなものである。

  • 諸性質は偶然によってクラスタ化されているのではない。
    • 諸性質がなぜ相関しているのかを示す因果メカニズムが存在する
  • 相関は比較的安定している
    • 小さな摂動があってもシステムをもとの状態に戻そうとするメカニズムがある

こう考えると、別に自然的な種類でなくても、社会的な種類についても実在論者の立場をとれることがわかる。たとえば「男性」という社会的な種類は実在するといっていいだろう。男性が持つ「男子トイレを使う」「ネクタイをする」「夫や父になることができる」といった性質は互いに相関していて、偶然寄り集まったものではない。また、ある男性が少女漫画を読んだからといって、いきなり男性という概念が崩壊してしまうことはない。「少女漫画を読む男性だっているよね」という風になって、また男性という概念は安定化する。

それでは、自然的な種類と社会的な種類との違いとはなんなのだろう? ハッキングは、社会的な種類は再帰性と関連するから自然的な種類とは違うのだと主張する(これは前章で議論したことだ)。だけど、再帰性と関連する自然的な種類は普通に存在する。たとえば、同じ自然的な種類であっても、それをわれわれが「犬」と呼ぶか「家畜」と呼ぶかで行動を変えるわけだから、再帰性と関連しているといえる。

社会的な種類を自然的な種類からきっぱりと分けようとするのが社会構成主義だ。社会構成主義は、「女性の本質」とか「男性の本質」みたいなものが存在することに断固として反対する。つまり、女性や男性といった社会的な種類は、「メス」とか「オス」といった自然的な種類とは別物だということだ。こうした考え方が妥当なのかどうかはケースバイケースだろう。包括的な評価は避けておいて、とりあえず、こうした社会構成主義の考え方がわれわれの考え方とどう関連しているかを見てみよう。

社会構成主義は、制度が変えられるものだと考えている。われわれの言い方でいえば、制度は複数均衡のあるゲームのコーディネーションを促すものなのだから、今現在の均衡は必然的なものではない、ということだ。

たとえば同性愛について考えてみよう。同性愛の人たちは「オカマ」とか「ニューハーフ」とか言われてさげすまれてきた。だけど「ゲイ」という言葉が登場して、ゲイを自称する人たちがゲイならではの面白い考え方や生活様式をアピールするようになったらどうだろう? つまり、レッテル貼りの仕方を変えるということだ。前章では、人々にレッテルを貼ることによって望ましくない均衡が達成されることをみた。しかし逆に、レッテルの貼り方を変えることで、望ましい均衡を達成することもできるはずだ。

コメント

個々のトピックは決して難解ではないのだけど、どうしてこういう議論が必要なのか見失いがちだなあ。自然的な種類と社会的な種類のちがいをどうして論じる必要があるのか、そして、筆者はそれについてどういう立場なのか、というのがたどりにくい。

第10章で、自然的な種類と社会的な種類を区別する必要はない、と言っておきながら、その後でそれらを区別する社会構成主義の考え方をどちらかといえば好意的に検討しているのは矛盾ではないだろうか。それとも、自然的な種類と社会的な種類の区別をせずとも、社会構成主義のように制度の変革を考えることはできるのだ、という風に議論を展開しようとしているのかな? 11章以降の内容はもう忘れちゃったよ。読まないと。でも、11章から議論がおそろしく抽象的になっていくんだよなあ。まとめられる自信がない。