第5章 構成
サールは、制度を次のように定義している。
制度は、「XはCにおいて、Yとみなされる」という形式の構成的ルールの体系である。
たとえば、「貝殻はウコチャヌプコロ国において貨幣と見なされる」とか、「全裸は日本国において変態と見なされる」とかだ。
こういう意味でのルールを構成的ルールと呼ぼう。
ところで、実はこの定義は次のように書かなくては不正確だ。
もしPならば、CにおいてXはYである
なぜなら、XがYと見なされるための条件(P)がないと、そもそもXがYといえるかどうかが判断できないことがあるからだ。
たとえば、「もしそこが公共スペースならば、全裸は日本国において変態と見なされる」とかだ。この場合、「そこが公共スペースである」という条件が不明であれば、変態であるかどうかは判断できない。風呂の中なら全裸でもOKだ。
だとすれば、次のように書いてもいいだろう。
もしCならば、XはYである
つまり、PもCもどちらも「充足条件」としてひとまとめにしてしまったということだ。「もしそこが日本の公共スペースならば、全裸は変態と見なされる」と考えてくれればいい。
ところで、これは前章でやった相関均衡と同じ形式だ。「以前からその部族が放牧していたのなら、そこではその部族が放牧する」というやつだ。
こういう形式のルールは、サールの用語でいえば統制的ルールだということになる。つまり、人々は「この貝殻を貨幣とみなそう!」という風にルールを意識的に構成しているのではなく、とくに意識せずにそういうルールに従って振る舞っているということだ。
サールは、制度とは構成的ルールだと考えている。しかし、今やってみせたみたいに、構成的ルールを読み込んでいけば、それは実は統制的ルールに還元できるのだ。そして、構成的ルールなんてものを考える必要はないのだ。
第6章 規範性
さて、制度を統制的ルールとみなすと、制度は役に立つものだ、ということになる。次の利得表をみてほしい。
赤なら止まる、青なら進む | 赤なら進む、青なら止まる | |
---|---|---|
赤なら止まる、青なら進む | 1, 1 | 0, 0 |
赤なら進む、青なら止まる | 0, 0 | 1, 1 |
これは信号機ゲームだ。それぞれのプレイヤーの戦略が統制的ルールと同じ形式になっていることに注意してほしい。両者が同じ制度を共有することで、(1, 1)というよりよい利得が達成できる。制度がバラバラだったら交通事故が多発して大惨事になってしまう。このように、統制的ルールとしての制度は役に立つものなのだ(コーディネーションゲームを解決するという意味において)。だけどここで、構成的ルールは何の役割も果たしていない。
ここで義務の問題はどう考えられるのだろうか? サールの構成的ルールは、「守らなければならないもの」というニュアンスがある。つまり、一種の規範なのだ。そういう、規範としてのニュアンスは、統制的ルールにはあまり感じられない。たとえば、「赤なのに進んでしまったことで罪の意識にさいなまれる」みたいなニュアンスは今のところ入っていないのだ。
でも、そういうニュアンスを統制的ルールに含めることは可能だ。たとえば囚人のジレンマを考えてみよう。
協力 | 裏切り | |
---|---|---|
協力 | 2, 2 | 0, 3-x |
裏切り | 3-x, 0 | 1, 1 |
x=0なら、これは普通の囚人のジレンマだ。でも、もしプレイヤーが「相手が協力してくれたときに裏切るのは人でなしなことだ」と罪の意識を感じるのなら、xが1とか2とかの値をとり、裏切った人の利得を減らすことになるだろう。仮にx=3だと次のようになる。
協力 | 裏切り | |
---|---|---|
協力 | 2, 2 | 0, 0 |
裏切り | 0, 0 | 1, 1 |
これは「協力、協力」と「裏切り、裏切り」の2つの均衡を持つゲームだ。これでとりあえず「裏切り、裏切り」という均衡を避けられる可能性はできたといえる。このように、ルールの義務論的な力は人々がプレーするゲームを変え、新たな規則性を創出するものとして統制的ルールに組み込むことができるのだ。
コメント
ここらへんから難しくなってくるんだよなあ。あんまり本の内容通りに書きすぎると著作権がアレなので、かなりかみ砕いているけれど、かみ砕き過ぎで別物になってる可能性も否定はできない。
規範の話はいまいちピンとこなかったな。確かに規範を統制的ルールに組み込むことはできるのだけど、そもそも規範の義務論的な力がどこからやってくるのか、というのは不問に付されてしまってるのではないだろうか。ヒースだったら「規範同調性」といって、とにかく規範に同調しないといけないという習性がヒトという生物にはあるのだ、という風に説明してたな。
「規範の義務論的力の源泉なんて考える必要はなくて、とにかくそういう力があるのだと示せば、制度が役に立つものだということは示せるのだ」ということかな? 倫理学にあまり興味がないのだろうか。ヒースの場合、倫理学は日常の道徳判断の構造を明確化するための表出語彙なのだ、とか言ってた。
新しい制度をつくるときはそれまでの倫理を見直す必要も出てくるだろうし、そういうときに、「なぜこうした倫理に従わなければならないのか?」という倫理学的な議論は必要になってくると思う。そういう観点がグァラの主張ではスッポリ抜け落ちている気がしてモヤモヤするのだけど。やっぱり最終章を精読せよってことか。