「制度」というのは一見、地味なテーマだ。
「制度って、ようするに法律とかルールとかの話なんじゃないの?」。そういう風に受け取る人はたぶん多いと思う。だけど、実は制度は社会の至るところに現れる。というか、社会そのものが制度の集合体みたいなものだ。
たとえばこうしてここに書いている「言葉」だって制度だ。言葉には文法があるし、適切な言葉遣いもある。そうした文法や言葉遣いの適切さを無視して、「うえぽいjらいだじおpふぁうろい@」と突然書き出したら言葉は言葉として機能しない。「言葉はこう使わなければならない」というルールが明文化されているわけではない。辞書や文法書はあるけれど、普通の人はそんなものなくても言葉を使うことができる。制度とは、必ずしも法律のように明文化されているわけではない。暗黙的な制度だってたくさんあるのだ。
言葉だけじゃない。人前では服を着なければならないというのも制度だ。知ってる人と会ったら挨拶しなければならないというのも制度だ。周りの人に対して不義理なことをしているとだんだん冷たくあしらわれるようになるというのも制度だ。そしてお金を使えば物を買えるというのもかなり大事な制度だ。
こんな風に、社会は何から何まで制度だといっても過言ではないだろう。だからこそ、社会科学者や社会哲学者にとって、制度というのは最重要の研究テーマであり続けてきたわけだ。しかしそれにも関わらず、「制度とは何か」という基本的なことについて、実は社会科学者と社会哲学者の理解はたがいに食い違っている。そして、これらの人々は相互にあまり交流しない傾向があるので、その食い違いはほとんど埋められることなくこれまで残存してきた。
そうした「制度」をめぐる理解の食い違いを解消し、制度に関する統一的な見解を提案しよう、というのが本書の目的だ。
なお、以下は単純な要約というよりも、自分なりにかみ砕いた理解を書いているだけです。内容をきちんと知りたかったらお金出して本を買ってください。
第1章 ルール
制度に対する理解には次の2つがある。
- ルールとしての制度
- 均衡としての制度
ルールとしての制度とは、たとえば「赤信号では横断してはいけない」というルールだ。この場合、なぜ人々が赤信号で横断しないのかといえば、「そういうルールだから」ということになる。しかし、これでは人々がなぜそういうルールに従うのかわからない。車がほとんど通らないのであれば、赤信号でも横断する方が普通だろう。また、車を運転するとき、制限速度40キロの道を律儀に40キロで走っていると、後ろが詰まってしまうことがある。40キロであれば50キロ、50キロであれば60キロ、という風に、制限速度を10キロくらいオーバーして走るのが普通なのだ。これもまた、ルールとしての制度という理解では説明できない現象だ。
均衡としての制度とは、制度とは行動の規則的パターンだという理解の仕方だ。地域によって、エスカレーターで左側に立つか右側に立つかはちがってくる。駅員からすればどちらも間違いだということになる。エスカレーターでは片側に立たないで両側に人が立つように利用してもらいたい。しかし、そういう風に利用すると、急いでいる人が先に行けなくて詰まってしまう。エスカレーターを歩く人の方が悪いのだけど、だからといってぼんやり立ってたら、場合によっては後ろで舌打ちされることもある。舌打ちされたくなかったら片側に立った方がいい。左でも右でもいいのだけど、地域によって均衡が変わってくる。左が均衡である地域では左に立つし、右が均衡である地域では右に立つ。これが均衡としての制度だ。ゲームの利得表で表すとこんな感じになる(実際にはプレイヤーは2人だけじゃないので、以下は厳密なものではなくてイメージみたいなもの)。
左 | 右 | |
---|---|---|
左 | 1, 1 | 0, 0 |
右 | 0, 0 | 1, 1 |
ところで左に立つか右に立つかという問題はゲーム理論でいうコーディネーション問題にあたる。つまり、均衡が複数あるとき、そのうちのどれをみんなが選ぶように調整するか、という問題だ。ひとつの解決策は、フォーカルポイントをつくることだ。つまり、ある選択肢だけがほかの選択肢に比べて目立っていたら、みんなはそれを選ぶ傾向を持つだろう。それはただ「目立つ」というだけのことでいい。「どの均衡も区別できない」という状況を変えることができる。そして、その目立つ選択肢が均衡になるのだ。
制度はルールではなく、均衡として理解されるべきだ。そうでないと、「なぜ遵守されるルールとそうでないルールがあるのか」ということがわからない。ルールは、コーディネーション問題を解決するためのフォーカルポイントとしての役割を果たすと考えた方がいいだろう。
第2章 ゲーム
均衡としての制度を研究するためにはゲーム理論が役に立つ。
ゲームによっては均衡が複数あることがある。たとえばさっき挙げた利得表には、(左、左)と(右、右)の2つの均衡がある。この場合、どちらの均衡であっても特に問題はない。いずれにしても(1, 1)という利得が達成できるからだ。しかし、次のような利得表の場合はどうだろう?
鹿 | ウサギ | |
---|---|---|
鹿 | 2, 2 | 0, 1 |
ウサギ | 1, 0 | 1, 1 |
これは鹿狩りゲームという奴だ。2人の狩人が協力して鹿を捉えるなら、(2, 2)という望ましい利得を達成できる。だけど、どちらかの狩人の持ち場をたまたまウサギが横切ったとき、その狩人が我慢できずに手を出してしまえば、その狩人はウサギを捕らえられるが、鹿狩りは失敗してしまう。この場合、ウサギを捕らえた狩人が利得1を達成し、ウサギに手を出さなかった狩人は利得0となる。
この場合、均衡は(鹿、鹿)か(ウサギ、ウサギ)だ。しかし、エスカレーターで左に立つか右に立つかという問題と違って、(鹿、鹿)の方が望ましい結果であることは明らかだ。こういう場合、(鹿、鹿)が達成されるようなんとかコーディネーションする必要がある。こういう問題をコーディネーション問題という。そして、制度が問題になってくるのはこうしたコーディネーション問題においてなのだ。
(鹿、鹿)を達成できるようにするなんらかのルールがあるとする。この場合、「ルールは人々がコーディネーション問題を解決するのに役立つという理由で存在する」という風に機能的に説明できるだろう。制度を均衡と捉えるアプローチでは、このように制度を機能面から説明することができるのだ。
第3章 貨幣
貨幣はコーディネーション問題の均衡解だ。
貨幣はただの金属だったり紙切れだったりするものだ。これがなぜ貨幣として通用し、商品と引き換えに他の人に受け取ってもらうことができるのか? 説明の仕方は2つある。いずれも、人々の信念が相互に整合的であるからだ、という均衡タイプの説明に訴えるものだ。つまり、「他の人たちがこれを貨幣だと信じているから、私もそう信じるし、だから他の人もそう信じる…」というものだ。
- 説明1
- 人々がこれまでずっと、そうした金属や紙切れを交換手段として用いてきたという過去の行動の規則性があるから
- 説明2
- 国家は公務員にバウチャーで給料を支払い、国家は全市民にこれらのバウチャーを使って納税するよう強制する。この場合、権力の源泉としての国家の信頼性が、バウチャーが貨幣であるという人々の信念を保証している
第4章 相関
次のような「放牧ゲーム」を考えよう。
放牧する | 放牧しない | |
---|---|---|
放牧する | 0, 0 | 2, 1 |
放牧しない | 1, 2 | 1, 1 |
これは、2つの部族の行動によって帰結が変わるゲームを意味している。同じ場所で放牧すればお互いに殺し合いになるので利得は最悪の(0, 0)だ。だけど、相手が妥協して放牧しなければ、こちらはその土地を独り占めできるので2の利得が得られる。一方、放牧しないで別の土地で放牧することもできる。ただ、その場合、あまり豊かな土地ではないので、利得は1しか得られない。
これは一種のチキンゲームだ。均衡は、(放牧しない、放牧する)と(放牧する、放牧しない)の2つだ。つまり、片方が放牧して、もう片方の部族は別の土地で放牧するというものだ。複数均衡があるので、これはコーディネーション問題だといえる。
さて、なんらかのフォーカルポイントがあればこうしたコーディネーションはうまくいくだろう。たとえば、そこがもともと片方の部族が以前から放牧していた場所だった、という状況だ。今の状況では、私有財産という制度がまだ存在しない原始的な社会を想定しているので、片方の部族が以前から放牧していたとしても、そこに外部から侵入することには何の問題もない。しかし、片方の部族が以前からそこで放牧していたということがフォーカルポイントになることで、コーディネーション問題が解決されるのだ。
これはいわゆる「相関均衡」という奴だ。私有財産制度のない社会において、片方の部族が以前からそこで放牧をしていたとしても、ゲームの利得構造にはなんの影響も及ぼさない。それでも、「以前からその部族が放牧していたのなら、そこではその部族が放牧する」という風に、もともとのゲームにない外的事象に条件付けて、コーディネーション問題を解決するようにプレイヤーの行為を指示するのだ。
こうした均衡は、一種のコンヴェンション(慣習)だ。この状況を外的観察者の視点からみれば、コンヴェンションは人々の行為の規則性として見える。一方、プレイヤーたちの視点からみれば、それは「この土地ではわれわれは放牧すべきでない」といったようなルールとして見える。つまり、制度は均衡でもあり、ルールでもあるのだ。
これまでの論者たちは、制度は均衡であるか、ルールであるか、というので意見が対立していた。しかし私の考えでは、制度とは均衡したルールなのである。
コメント
久しぶりのブログアップ。大学教員に復帰するので授業準備にしばらく夢中になっていたけど、なんか違うんじゃないかなあ、とそろそろ思い始めていた。もちろん自分は教員として雇われているわけで、授業することが本業なのだけど、そこにとらわれているとどんどん不自由になっていくなあ、と思い始めた。研究中心でいいんじゃないかと思うんだよ。そしてそれが、結局は教育にもプラスに働いてくると思う。大学の授業って、わかりやすいとかためになるとかよりも、「学問をこんなに楽しそうにやっている人がいるんだ!」ということを知ることに意義があるんじゃないかと思う。自分の学生時代をふりかえっても、学生置いてけぼりで突っ走ってく先生の方が好きだったなあ。
で、本書について。以前読んだヘルマン=ピラートの本だと、制度とは人々の相互承認によって生み出されるものだ、という風なことが書いてあったと思う。でもこれは、本書では否定される考え方なのではないだろうか? もっとも、「相互承認」という概念が、単にみんなが話し合って合意するというのではなく、本書のいうような均衡という要素も含まれたものなのなら、必ずしも否定されるものにはならないと思うけど。あと、制度を改革するときにはやっぱり討議が必要になってくるし、その際に相互承認は意味を持ってくるのではないだろうか?
なんで相互承認にそんなにこだわっているかというと、本書の主張に従うと、倫理や道徳はすべて「たまたま」なのだということになってしまうのではないかと思うのだよね。たまたまそういう相関均衡になっていたから、ということだ。ここらへんは、制度の改革について論じた最終章のあたりを検討したら見えてくるかもしれない。