【読書ノート】『制度とは何か』7章から8章

第7章 読心

コーディネーションが成功するためには、全員が同じ行動ルールに従うだけでは不十分だ。というのは、ほかの人たちもその行動ルールに従うのだと確信が持てなければ、自分だけ真面目に行動ルールに従って馬鹿をみるかもしれないからだ。だから、お互いにどう動くかを信じられなければコーディネーションは成功しない。つまり、「相手の心をどうやって読むか?」ということが問題になってくるわけだ。

みんなが行動ルールに従うということを、みんなが信じている。こういうとき、なぜ「みんなが信じる」という事態が成り立つのだろうか? ひとつの説明の仕方は、その信念が公的事象に基づいているからだというものだ。たとえば、「今までもみんなその行動ルールに従ってきた」という事実(公的事象)があれば、「これからもみんな行動ルールに従うだろう」と信じられる。

だけど、この説明は不十分だ。なぜなら、その公的事象があることから、みんなが行動ルールに従うだろうと信じることを保証するためには、また別の公的事象が必要になってくるからだ。となると、その別の公的事象もまた、さらに別の公的事象によって保証されなければならない…という風に、無限後退になってしまうのだ。

どうすればこの無限後退を回避できるのだろう? それは、他人の視点に立ってみること(シミュレーションすること)だ。つまり、他人が目の前の状況についてどう推論するかを複製するのだ。コーディネーション問題においては次のようなステップでシミュレーションが行われる。

  1. Sはコーディネーション問題の自明な解である(と私は思う)
  2. あなたもまた、Sはコーディネーション問題の自明な解であると考えている(と私はあなたをシミュレーションする)
  3. Sを達成するために、私はXを、あなたはYをしなければならない(と私は思う)
  4. あなたもまた、私がXを、あなたがYをしなければならないと考えている(と私はあなたをシミュレーションする)

いや、そんなこと言ったってシミュレーションが外れたらどうするの? と思われるだろうか。もちろん、外れる可能性は排除できない。だけど、お互いにそうやってシミュレーションしあっていれば、とりあえずはうまくいくだろう。当たっても外れてもそのときはそのとき、と雑にやっているからこそ、公的事象の無限後退が回避できる。そして結果的に、コーディネーション問題が解決できるのだ。

第8章 集合性

前章の議論だと、人々は個人レベルで推論を行うことでコーディネーション問題を解決するのだということになる。だけど、サールみたいな社会的存在論の人たちは、「私」という個人じゃなくて「私たち」という集団レベルの心的状態が社会性にとって重要なのだと主張している。「私たち」という集団レベルの意図があるからこそ、人々の「協力」という概念が成り立つからだというのだ。

だけど、別にそんなことを考える必要はないように思う。というのは、多くの社会的制度が、そういう集団レベルの意図によってつくられるものではないからだ。たとえば、黒人差別が行われている社会では、黒人が白人と同じカップを使ってはいけないみたいな規範があるかもしれない。でも、そういう規範をつくろうと黒人と白人が共同の意図を持っている、なんてことはありえないだろう。黒人はそういう規範に従わないと殴られるから、いやいや従っているだけだ。

まあどっちにしても、「私」だろうが「私たち」だろうがたいした問題ではないよ。そこにこだわることの意義はあまりないと思う。

コメント

シミュレーションの話はちょっと面白いな。シミュレーションが正しいという保証なんて何もないのだから、シミュレーションに基づいて行動するのは経済学やゲーム理論が想定する合理性から逸脱した振る舞いだ。だけど、そうやって合理性を捨てて非合理性を取り入れるからこそ、無限後退が回避できてコーディネーション問題が解決できる。

同じような議論が積ん読中の下記の本でも出てくる。こっちも、計算能力に限界のある限定合理的なプレイヤーを想定すると囚人のジレンマでパレート効率的な結果を達成できるようになる、みたいなことが第1章の終わりに書いてある。個人が非合理だからこそ社会はうまく回る、というのは直観的にも納得しやすい。細かい屁理屈を延々と垂れる人ばかりだったら物事は何も動かないしなあ。