【読書ノート】『集合的選択と社会的厚生』5章

第5章 価値と選択(匿名性、中立性、反応性)

今のところ、だいたい1週間に1章くらいのペースで進んでる。全部で11章だから、野暮用が入ってもなんとか年内には終わらせられるかな…。

この本は「第○章」と「第○*章」が交互に配置されていて、「*」付きの章では数理的な議論が展開され、「*」無しの章ではその含意が普通の言葉で説明されている。このブログ記事では基本的に「*」付きの章を自分なりに普通の言葉で説明する、というまとめ方をしてきた。

しかし、今回の章は「*」無しの章の方がずっと内容が充実している。一方、「*」付きの章はぱっと見かなりマニアックな内容で、現実の集合的選択問題とどういう関わりがあるのか理解しにくい(証明の展開は理解できるけど、その含意が理解できない)。なので、今回は「*」無しの章を中心でまとめていって、必要があれば「*」付きの章にも言及していきたい。

5.1. 厚生経済学と価値判断

厚生経済学は「社会状態xとyのどちらを選択するべきか?」という問題に答えを出すための方法を探求している。だから厚生経済学が価値自由でありえないことは明らかだ。だって、「どちらを選択すべきか」ってのは明らかに価値判断を含むのだから。

パレート原理は価値判断に依存しない客観的なものだと思われている。つまり、みんなの価値判断が一致しているという「事実」があるのなら、社会としてもそれに従うべきなのは疑う余地のないことだ、というわけだ。だけど、だからといってそれが価値自由だというわけではない。それは「パレート原理」という価値判断の仕方をみんなが受け入れているということなのであって、それもまた価値判断の一種なのだ。そしていずれにしても、パレート原理にばかりこだわっているのもへんな話だ。

5.2. 厚生経済学の内包:あるジレンマ

政策提言には次のような要素が必要だ。

  1. 事実にかんするいくつかの前提
  2. いくつかの価値判断
  3. 演繹のために必要ないくらかの論理

このことに関して、次のような考え方がある。1は実証経済学の担当分野だ。3は論理学が担当する。2は科学的議論の対象になり得ない。だとしたら、厚生経済学はいったい何を担当すればいいのだろう? 用なしだからゴミ箱に捨ててしまえばいいんじゃないか?

上記のような考え方には次のような問題がある。

  • 3について。論理は論理学だけが担うものではなく、厚生経済学にだって論理はある。
  • 2について。人々の価値判断を社会としての価値判断に移し替えるアプローチにはいろんなものがあるし、それはまさに厚生経済学が一生懸命考えてきたことだ。決して、社会としての価値判断は所与のものであって議論の余地がない、というわけではない。
    • また、関連して、事実と価値の二分法は疑わしい。ところが厚生経済学者自身もそういう問題をきちんと考えてこなかった。つぎはこの点について検討してみよう。

5.3. 基本的および非基本的な判断

価値判断をつぎの2つのクラスに分類してみよう。

  • 基本的な価値判断:考えられるすべての状況でその判断を適用しうる
  • 非基本的な価値判断:基本的な価値判断でない価値判断

たとえば、「あらゆる状況で人を殺すべきではない」という人にとって、それは基本的な価値判断だということになる。

一見基本的と思われる価値判断でも、よくよく考えると非基本的ということはありうる。たとえば「雨の日は傘を持つべきだ」という価値判断は、「傘市場が極度のインフレに見舞われていて1本3,000万くらいするんですけど」という情報がもたらされたら「じゃあ濡れていきます。春雨ですし」となるかもしれない。

あと、論理的に矛盾した価値判断というのもありうる。「全国民の年収は平均以上であるべきである」とか。つまり、論理的に突き詰めて行ったら「基本的な価値判断」とはいえない、ということはありうる。

5.4. 事実と価値

2人の人がいるとして、彼らがある価値判断をめぐって真っ向から対立しているとする。そんなときは、そのような価値判断をする理由、しない理由を議論すればいいだろう。でも、「理由」って具体的にどういうこと?

彼らの価値判断が非基本的なものなら、その価値判断の前提となる「事実」や「仮定」を「理由」と見なして議論すればいい。たとえば次のような場合を考えよう。

  • Aさん:「Xというワクチンを打つべき」
  • Bさん:「Xというワクチンを打つべきではない」

このとき、Xというワクチンを打つことのリスクはどれくらいあるのかとか、逆に打たないことで病気になるリスクはどれくらいなのか、といったことを「理由」とすることで議論することができるだろう。こういう議論は「科学的」なものになりうる。

じゃあ逆に、両者の価値判断が基本的なものだったら? 昔の偉い経済学者であるライオネル・ロビンズは次のような物騒なことを言っている。

もしも、われわれが目的にかんして一致できないとすれば、事態は汝の血を流すか我が血を流すか、すなわち争点の重大さや相対的な相手の強さに応じて共存できるかどうかというものになる。

つまり、相撲で勝負をつけようじゃないか、ということだ。

だけどこの主張はおかしい。だって、そもそもどういう価値判断が基本的なのかはそんな簡単に決められるものではないからだ。

基本的な価値判断は「考えられるすべての状況でその判断を適用しうる」ような価値判断だ。しかしその「考えられるすべての状況」を想像するのは現実的には無理だろう。

逆に、その価値判断が非基本的であることはある程度容易に立証できる。その価値判断が適切でないケースをひとつでも挙げれば良いのだ。「絶対に人を殺すべきでない」と言っている人には「あなたがその人を殺さないと地球がアレなことになって80億人近くの全人類がすさまじい苦痛を味わったあげくに爆裂し陰惨な死を迎えるとしても?」とでも聞けばいい。

だからこそ、「お互い基本的な価値判断がちがうんだからもう相撲で決めようじゃないか! 相撲しようよ相撲!!! 相撲大好き!!!!」と服を脱いでぶつかり合うよりも、きちんと議論をした方がいい。基本的な価値判断でぶつかり合っていると思っていても、議論してみたら実は非基本的だったとわかるかもしれない。

5.5. 個人的順序および選択ルール

Aさんがyよりもxを選好するとする。でも、何らかの集合的選択ルールに従って社会的決定を導き出すと、xよりもyを優先するという決定が出てくくるかもしれない。

この場合、Aさんの価値判断と、集合的選択ルールによる価値判断のあいだにはコンフリクトが生じているように見える。つまり、いずれか(あるいは両方)が非基本的だということになるだろう。

でも、だからといって、Aさんが自身の価値判断を放棄する必要はないし、逆にAさんが社会としての価値判断をひっくり返すためにクーデターを起こす必要もない。Aさんにとっては残念な結果だとしても、Aさんは社会としての価値判断を甘受することができる。こういう風に、個人としての選好と社会としての決定を区別して考えることは大事であって、両者のあいだの違いを必ずしもコンフリクトと見なす必然性はない。

5.6. 選択ルールに課される条件

さて、こうした「コンフリクト」は、集合的選択ルールに課せられる条件間にも発生しうるものだ。たとえばアローの不可能性定理が言っているのは、4つの条件(定義域の非限定性、パレート原理、無関係選択肢からの独立性、非独裁制)がコンフリクトを起こすということであった。

「定義域の非限定性」というのは、人々がどんな選好を持っていてもそれを認める、というものだ。そのため、アローの不可能性定理の証明では、かなり特殊な選好順序を想定して、4つの条件が満たされないということを示した。だけど、そういうごく特殊なケースで問題が生じるからといって、それ以外のケースではうまくいくような集合的選択ルールを捨ててしまうのはもったいないことだ。この問題は10章あたりでまた考えよう。

さて、集合的選択ルールに課されるべき条件は、上の4つ以外にもいろいろ考えられる。そして実は、かなり穏当な条件を設定してもコンフリクトは生じうるのだ。

多数決決定法

多数決決定法というのは、社会として状態xを状態yより優先するかどうかを、状態xを状態yより好む人の数で決める集合的選択ルールだ。まあ、これは特に説明するまでもないだろう。

で、実はこの多数決決定法は、次の4つの条件を満たす集合的選択ルールだということが証明されている。

  • 条件1:無関係選択肢からの独立性
    • 社会としてxとyのどちらを優先すべきかは、個々人がxとyの間について持つ選好のみに基づいて決める
  • 条件2:匿名性
    • 私の選好とあなたの選好を入れ替えても社会としての優先順位は変わらない
  • 条件3:中立性
    • 選択のルールは選択肢の間で差別をしてはいけない
      • (わかりにくいので補足説明)個々人のある選好パターンの元で、社会としてxをyより優先しているとする。このとき選択肢が総入れ替えになって、x→w、y→zになったとする(個々人の選好順序は変わらない。つまり、xをyより選好する人は、wをzより選好する、という風に総入れ替えする)。このとき、社会的決定もwをzより優先しなければならない。1
  • 条件4:正の反応性
    • 個人的選好と社会的選好の間には正の関係がなくてはならない。つまり、個人の選好がxをより選好するように変化するのなら、集合的選択ルールもxをより優先するように変化する

多数決決定法がこれらの条件を満たすのは何となくわかるだろう(証明は略)。たとえば、選挙で候補に投票するとき、AさんはX候補に、BさんはY候補に投票しようとしているとする。このとき、お互いに投票先を交換して、AさんがY候補に、BさんがX候補に投票しても、選挙結果にはまったく影響しないのは明らかだ(匿名性)。そして、多数決決定法は単にこの4つの条件を満たすというだけではない。この4つの条件を満たす集合的選択ルールは多数決決定法以外にあり得ないのだ(つまり同値)。

実は多数決決定法は推移性を満たさない。たとえば次のような状況を考える。

  • xとyで多数決 → xが勝つ
  • yとzで多数決 → yが勝つ
  • zとxで多数決 → zが勝つ

推移性が成り立つとすると、[xとyで多数決 → xが勝つ]と[yとzで多数決 → yが勝つ]という結果から、xとzではxが勝つはずだ。だけど、実際にはxとzで多数決をするとzが勝っている。これは矛盾だ。だから推移性が成り立っていないことになる。

だから、もし推移性を大事な条件だと考えるのなら、先に挙げた4つの条件のどれかを捨てなければならない。でも、さっき挙げた4つの条件はどれもそれなりにまともなものに思える…。これもまたひとつのコンフリクトだ。

パレート拡張ルール

さて、実はさっき挙げた4つの条件のうち「正の反応性」をちょっと弱めて「非負の反応性」にすると、非循環性(推移性をもう少し弱めたもの)までは満たすことができる(非負の反応性というのは、個人のxに対する選好が悪化しないのなら、集合的選択ルールもxに対する選好を悪化させない、というもの)。

実はこのように多数決決定法の「正の反応性」条件を「非負の反応性」条件に弱めた集合的選択ルールは「パレート拡張ルール」であることが証明できる(証明は略)。これはつまり、yがxに対してパレート優位でないならば、社会的にはxはyと少なくとも同じくらい良い、というものだ。

パレート拡張ルールはパレートルールと同様に、分配に関する判断を完全に避けている。だから、こんなの集合的選択ルールとして使い物にならないよ、と考える人は多いだろう。しかし、このパレート拡張ルールの正体は、「無関係選択肢からの独立性」「匿名性」「中立性」「非負の反応性」といういずれも否定しがたい条件の組み合わせなのだ。どれを否定するかは悩ましい。これもまたコンフリクトだといえるだろう。

感想

数理的な「第5*章」の内容は、実はこの「第5章」の5.6節にしか反映されていない。だから数理的な章の方だけ読んでも、証明プロセスは理解できるけどけっきょくセンが何を言いたいのかよくわからん、という風になってしまう。わたしは先に数理的な章を読んだので、なんで多数決やらパレート拡張ルールやらをいくつかの条件に分解できることがそんなに大事なのか「第5章」の方を読むまでよくわからなかった。

ようするに集合的選択においては様々な「コンフリクト」が生じるよ、ということが言いたかったのかなあと理解している。個々人の価値判断の間にもコンフリクトが生じるし、集合的選択ルールに課された条件間にもコンフリクトが生じる。さらには、パレート拡張ルールが分配を扱えないことへの不満と、パレート拡張ルールを成り立たせる条件の穏当さとの間にもコンフリクトが生じる(分配を取るか、穏当さを取るか)。

ただ、「コンフリクトが生じるよねー」で終わるのではなく、コンフリクトは理性的に議論することで解消できるかもしれないみたいなことも主張されているところが面白い。それが、「基本的な価値判断」「非基本的な価値判断」のくだりだ。何が「基本的」であるかに最終決着をつけるのは困難だから、価値判断はどれも「非基本的」だと見なすことで理性的に議論することができる。「俺たちは基本的な価値判断をめぐってコンフリクトを起こしていてもう理性的な対話なんて不可能だからもう相撲しかないよねッ!」ということにはならないのだ。こういう理性的な対話を重視する姿勢は後年の『正義のアイデア』にまで引き継がれ、アダム・スミスの「公平な観察者」の概念を取り入れることで「公共的討議」というアイデアに結実することになる。『正義のアイデア』を読んだときは、センが社会的選択理論の話をやたらと持ち出すのがなんかこじつけっぽく感じたのだけど、そんなことはない。『集合的選択と社会的厚生』は『正義のアイデア』を数理的に厳密化した内容だともいえると思う。


  1. 中立性ってイマイチ理解できてない。具体的に考えてみようか。あるグループで卒業旅行にどこ行きたいかを決めるとする。最初は、熱海に行くか、北海道に行くかというので考えていた。で、そこに集合的選択マシーンみたいなブリキでできた四角くて黒光りする奴を持ってきて、そこにみなさんの選好をぶち込むと、「熱海に行くべし」という結果が出てきたとする。しかしその後、神が現れて人々の脳細胞のうち「熱海」細胞を「ロッテルダム」細胞に、「北海道」細胞を「アルジェリア」細胞に入れ替えたとする。脳細胞が入れ替わっただけなので、人々の選好順序は変わらない。このとき、黒光りするブリキの四角いあいつは「ロッテルダムに行くべし」という結果を出すことだろう。つまり、ロッテルダムに行くべきかアルジェリアに行くべきかは純粋に人々の選好だけに基づいて決まっているのであって、黒光りマシーンが何か介入しているわけではない(中立的だ)ということを言っているのかな? 知らん。