【読書ノート】『集合的選択と社会的厚生』6章

第6章 コンフリクトとジレンマ

有名なセンの「リベラルパラドックス」が登場する章。ただ、数理的な「第6*章」の方はたった3ページしかないし、証明もすごく簡単だ。それよりも、その含意を普通の言葉で論じた「第6章」の方が長くて難しい。なので今回も「*」無しの章の方をまとめていく。

6.1. 匿名性と中立性への批判

自由市場は匿名性も中立性も満たしていない。自由市場において、AさんとBさんが次のような選好を持っているとする。

  • Aさん:カツ丼が食べたい
  • Bさん:親子丼が食べたい

このとき、社会的帰結は「Aさんがカツ丼を食べ、Bさんが親子丼を食べる」となる。当たり前だ。お金を出して自分が食べたいものを食べるのはその人の自由だ。

もしここでAさんとBさんの選好を入れ替えたら「Aさんがカツ丼を食べ、Bさんが親子丼を食べる」という社会的帰結が「Aさんが親子丼を食べ、Bさんがカツ丼を食べる」に変わってしまう。だから匿名性を満たしていない。自由市場において「私が買う」ことと「あなたが買う」ことは全然違うできごとなのだ(選挙だったら「私が投票する」と「あなたが投票する」は同じことなので匿名性が成り立つ)。

また、AさんとBさんが壁の色に対して次のような選好を持っているとする。

  • Aさん:Aさんの壁の色は青の方が良い
  • Bさん:Aさんの壁の色は白の方が良い

このとき、自由市場ではAさんの選好が通り、「Aさんの壁の色は青」という社会的帰結がもたらされるだろう。当たり前だ。自分ちの壁の色は自分で決められる(外部性を考えなければの話だけど)。このとき、「Aさんの」と「Bさんの」を入れ替えてみる。

  • Aさん:Bさんの壁の色は青の方が良い
  • Bさん:Bさんの壁の色は白の方が良い

中立性に従うなら、社会的帰結は単に「Aさんの」を「Bさんの」に形式的に入れ替えたものになるだろう。従って、「Bさんの壁の色は青」となるはずだ。だけど自由市場だと「Bさんの壁の色は白」という社会的帰結になる(だって、自分の家の壁の色はBさんが決めることだから)。だから自由市場は中立性も満たしていないことになる。特定の選択肢を特別扱いしないことが中立性ということの意味だけど、この場合は、「Aさんの」「Bさんの」という部分が特別扱いされていることになる。

このように、自由市場において個人の選択の自由は大事なものだ。そしてそうした自由は、自由市場に限らず、もっといろんな場面で重要なものでもある。そのことについて考えてみよう。

6.2. 自由主義の価値観と不可能性の帰結

自由市場において、私が何を買おうと私の自由だ。それと同じように、たとえば私が夜、仰向けで寝るかうつ伏せで寝るかも私の自由だ。そのことについて誰かが「あなたは仰向けで寝た方が良い」と選好を持っていたとしても知ったこっちゃない。それは「大きなお世話」というものだ。

自由主義社会において、すべての人々はそういう「これだけは自分が自由にできる」という選択肢対を少なくとも1組は持っていると仮定し、これを「自由主義の条件」としよう。これはとても弱い条件だから、たいていの自由主義者ならこれは妥当な条件だと考えるだろう。何ならもっと条件を弱めて、そういう自由な人が社会に少なくとも2人しかいない、という条件にしてもいい(1人だと独裁者になってしまうので2人としている)。これを「最小自由主義の条件」としよう。

残念なことに、この自由主義の条件は定義域の非限定性、(弱い)パレート原理とコンフリクトを起こす。これは、自由主義の条件を弱めて最小自由主義の条件にしても同様だ。これがリベラル・パラドックスという奴だ。

これを具体例で説明してみよう。

チャタレイ夫人の恋人』という昔のエロス小説がある。どれくらいエロスかというと画像検索してみるとエロい中年男女がアヘ顔してるのが何枚も出てくるのでそんなもんだと思って欲しい。

この小説を誰が読むか? という状況を考える。Aさんはクソ真面目な人で、Bさんはエロい。Aさんは次のような選好を持つ。

  • クソ真面目なAさんの選好:
    • 「誰もエロス小説を読まない」方が「Aさんがエロス小説を読む」より良い
    • 「Aさんがエロス小説を読む」方が「Bさんがエロス小説を読む」より良い

Aさんはクソ真面目なので、誰もエロス小説を読まない清らかな世界を好む。しかしただでさえエロいBさんがエロス小説を読んでエロすぎる堕天使になるくらいなら自分がエロス小説を読んだ方がマシだと考えている。

これに対し、Bさんはこんな選好を持っている。

  • エロいBさんの選好:
    • 「Aさんがエロス小説を読む」方が「Bさんがエロス小説を読む」より良い
    • 「Bさんがエロス小説を読む」方が「誰もエロス小説を読まない」より良い

Bさんはエロいので、エロスが満ち満ちているエロい世界を好む。だからAさんがエロス小説を読んでエロスに目覚めてくれるのが最も好ましい結果だ。一方、誰も読まないくらいなら自分が読んだ方がマシだと考えている。

  • 次の選好に関してはふたりとも同じだから、パレート原理より、社会的決定もこのようになる。

    • 「Aさんがエロス小説を読む」方が「Bさんがエロス小説を読む」より良い・・・①
  • 自由主義の条件より、AさんBさんのそれぞれの次の選好も社会的決定に反映される。

    • 「誰もエロス小説を読まない」方が「Aさんがエロス小説を読む」より良い (Aさんの選好)・・・②
    • 「Bさんがエロス小説を読む」方が「誰もエロス小説を読まない」より良い (Bさんの選好)・・・③
  • しかしこれら①②③の選好は循環してしまっている。だから社会として何を選択するべきか決められなくなってしまうのだ。

6.3. 非循環性への批判

じゃあ自由主義の条件とかパレート原理を捨ててしまうべきなんだろうか? それとも循環してもOKということにしちゃえばいいんだろうか?

循環してもOKにしてしまうのはあまり良いやりかたでないかもしれない。

循環性を認めてしまうということは、何と何を比較するかで結果がコロコロ変わってしまうということだ。でもそれは遠い昔に議論した性質αに違反してしまうということでもある。

6.4. 自由主義の価値観への批判

じゃあ、自由主義の条件を削除してみたらどうだろう?

こういう風に考えることはできる。つまり、その人の選好はその人だけの個人的な問題だとは限らない。たとえばAさんの壁の色はBさんをムカつかせるかもしれない。あるいはBさんがエロス小説を読むことはAさんをドブみたいな気持ちにさせるかもしれない。だから自由主義の条件のように、その人が自分の選好だけでものごとを決めるのを許すのはおかしなことなのだ、と。

でも先に示した自由主義の条件はとても弱いものだ。それさえも認められない社会のどこに自由があるだろう? また、もしこの条件が認められないとしたらプライバシーも侵害されることになる。たとえば、あなたが家族に隠れてこっそりエロス小説を読むなんてこともできなくなるのだ。なぜなら、あなたがエロス小説を読むことはあなたが勝手に決めて良いことではなく、他の人たちの選好も踏まえて社会的に決めることになってしまうからだ。つまりあなたはまず「私はエロス小説が読みたい!」と社会に向かって宣言してお伺いを立てなければならなくなるのだ。でもそんなの狂ってるでしょう? だから自由主義の条件を削るのは無理なのだよ。

6.5. パレート原理への批判

削除すべきなのはパレート原理だ。もう一度エロスの話に戻ろう。

  • 「Aさんがエロス小説を読む」方が「Bさんがエロス小説を読む」より良い・・・①

パレート原理はこの部分に適用されている。

でも、そもそもAさんはエロス小説を読みたくないのだ。「Bさんが読むくらいなら自分が」という選好は持っているけれど、積極的に読みたいというわけではない。たしかに①において、両者の選好順序は一致している。だけどだからといってエロス小説を読みたくないAさんにむりやり読ませるのはへんだろう。パレート原理を適用すると、その人の選好の背後にある微妙なニュアンス(積極的に読みたくないけどあいつが読むくらいなら俺が読んだ方がまだマシ)が無視されてしまうのだ。

とはいえ、そういう微妙なニュアンスにまできめ細かく配慮してくれる集合的選択ルールなんてあり得ないだろう。それよりも、「おせっかい式の選好」をどうにかした方がいい。つまり、そもそも「あいつに読ませたい」とか「あいつに読ませたくない」とか、他人に対しておせっかいを焼くような選好まで社会的決定において考慮に入れることがへんなのだ。パレート原理は「おせっかい式の選好」には適用されるべきでない。

とはいえ、何が「おせっかい」なのかを判断するのわりかし難しい。たとえば酔っ払ったBさんが車道に飛び出していったとき、Aさんが「Bさんは轢死しない方が良い」と選好することまで「おせっかい」かといったら、それは微妙なところだろう。

6.6. 定義域の非限定性への批判

もちろん、あらゆる状況において自由主義の条件とパレート原理がコンフリクトを起こすわけではない。しかし人々の選好パターン次第ではコンフリクトが発生しうるのだ。

集合的選択ルールにはいろんな条件をつけることができる。で、そうした条件にコンフリクトが起こりうるかは人々の選好パターン次第だ。ある選好パターンの元ではXという集合的選択ルールがうまく使えるかもしれない。でも別の選好パターンではYという集合的選択ルールの方が適切かもしれない。そしてそれらの選好パターンの中には共通部分があってそこに関してはXもYも機能するかもしれない…。そんな風に選好パターンと集合的選択ルールの両方を検討することで、コンフリクトを抜け出すことができるかもしれないね。

感想

「*」無し章の方がずっと難しい。数理的な「*」付き章は単に式を追っていけばいいだけなので慣れれば割と楽だ。一方、「*」付き章は抽象的なことを日常的な言葉で説明しようとしているのでかえってわかりにくい。セン特有の「ああでもないし、こうでもないし、こういう可能性もあるし」というウネウネした議論展開も「けっきょくてめえ何言いたいんだよ!」と文句言いたくなる。けっこう端折って要約した。

チャタレイ云々の議論で思い出したのは、新聞広告におっぱいの大きい漫画キャラをつかったことを「けしからん!」と一部の人が怒ったという、ちょっと前にあった案件だ。そういう怒りが自由主義的に正当なのかどうかは、それが他人の選好に対する「おせっかい」と言えるのかどうなのか、というところで決まってくる。「おせっかいだ!」という人たちは表現の自由を主張するし、「おせっかいじゃない!」という人たちはポルノと性犯罪の因果関係を匂わせる。で、結局のところ「おせっかい」かどうかというのは、外部性の有無ということに還元されるんじゃないだろうか。たとえばおっぱいキャラを出すことで性犯罪が顕著に増えるとしたら外部性があるということになるだろうし、表現の自由に抵触してでもおっぱいキャラの使用は控えるべきだということになるかもしれない。別のタイプの外部性として「ああいう漫画を読んでニヤニヤしてる男どもがいると思うだけで反吐が出る!」とか「これを全国紙の広告に出すことは女性差別を固定化することにつながる!」とか「漫画キャラにも人権がある!」とかもありそうだ。で、そういう外部性がそもそもあるのかどうかは、前回やったみたいに、理性にもとづく対話によって解決するべきだということになる。

センの議論ではいろんな価値が提示され、それぞれいろんな形でコンフリクトを起こすことが示される。だから表現の自由だって絶対に守られるべき価値とは見なせないだろう。センはリベラルな思想家ということになるのだと思うけど、自由や人権を絶対視しない柔らかさがある。だからウネウネした論述になりがちなのだ。そして、そういうウネウネした思考こそが正義の問題を考える時には大切なのだと思う。