【読書ノート】Philosophical Foundations of Climate Change Policy第6章

第6章 Positive Social Time Preference(正の社会的時間選好)

イントロ

気候変動の問題を考えるときに、「将来世代の厚生水準を高めてあげよう」などと利他的なことは考えなくて良い。しかしだからといって、将来世代をすっかり無視してしまって良いというということでもない。将来世代も現在世代もおなじ協力システムに参加しているからだ。温室効果ガスの排出というのは明らかに負の外部性であって、そうした負の外部性をわれわれが垂れ流しつづけるのは協力システムにおいてわれわれがフリーライドをしているからだ。だから、負の外部性を削減するために費用便益分析に基づいて政策を実施するべきなのだ。これが、私がこれまで主張してきたことだ。

しかし、ここで問題が生じる。というのは、気候変動による損失は時間軸上の異なる時点で発生するからだ。費用便益分析をするにしても、そのとき炭素の社会的コスト(SCC: social cost of carbon)を異時点間でどう評価するかが問題になる。つまり、割引率をどう設定するかだ。

多くの国では、公共プロジェクトについて費用便益分析を用いるにあたり割引率が用いられている。割引率をどう設定するかはアドホックなものだ。それでもどうせ評価対象の期間はせいぜい数十年程度だからたいした問題にはならない。しかし気候変動の場合、その影響は何世紀にもわたる。そうなると、割引率をどう設定するかというのが非常に重要な問題になってくる。

割引率は、何らかの形で時間選好を考慮するものだ。つまり、現在より遠い未来に発生する便益や費用を低く見積もるのである。割引率の設定には道徳的な正当化が必要であり、そのことは経済学者たちもわかっている。それなのに、哲学者や環境倫理学者たちがやってきた提案ときたら、「将来世代が被る損失を、現在世代が見積もる損失よりも低く見積もるのはとうてい許せない!」というものなのだ。つまり、「割引率はゼロにせよ!」というのが彼らの提案だ。だけど、もし割引率をゼロにしたら馬鹿げた結論が生じてしまうのは自明だ。そのため、哲学者たちの言うことは政策論議の場ではまったく相手にされてないのである

「便益をもたらす出来事や害をもたらす出来事は、それがいつ起ころうと、良いものは良いし、悪いものは悪い」。そうした考えから、哲学者たちは割引は許容できないという結論にあまりに性急に辿り着いてしまう。本章での私の目的は、厚生の割引は許容可能なのだと示すことだ。

6.1 The Case for Temporal Neutrality (時間中立性の場合)

政策がいくつかあって、そこからどれを選ぶべきかが問題となっているとする。このとき、それぞれの政策が人々の厚生水準にどう影響するかは重要な判定基準のひとつだろう。しかし、そうした影響が異なる時点で発生するとき、厚生水準への影響の違いをどうやって比較すればいいのかは明らかでない。

義務論的なやり方だとこの問題に対処できない。どんな政策だって誰かの権利に抵触してしまい、何も判断を下せなくなってしまうからだ。それでもう少し義務論的立場を緩め、権利侵害の程度をトレードオフするのを認めたとする。しかしそうしたとしても、異時点間での権利侵害をどうやってトレードオフするかという問題は残る。

さて、割引についてこれまでどんな議論が成されてきたか振り返ってみよう。まず、次の式を見てほしい。これはいわゆるラムゼイ式というやつだ。

 v_{p}=(\frac{1}{1+r})^t v

vpは現在価値、rは割引率、tはそれが価値が実現するまでの経過期間の数で、vはそれが実現したときの価値だ。

たとえば、割引率が5%だとしよう(r=0.05)。そして、価値が実現するまでの経過期間が5期間(t=5)、そして、5期間後に発生した価値が100ドルだ(v=100)。すると、さっきの式に代入して、現在価値は次のように求められる。つまり、5期間後に発生する100ドルは、現在価値に直すと78.32ドルだ。


v_{p}=(\frac{1}{1+0.05})^5 \times 100 = 78.32

これを理解するには、100ドルの小切手を受け取った状況を想像してみるといい。この小切手は5年後でないと現金化できないとする。このとき、この100ドルの小切手は、100ドルの現金よりも価値が低いといえるだろう。なぜなら、これは78.32ドルで購入した利率5%の5年債と同じ価値(つまり78.32ドル)だからだ。この5年債は、5年後には100ドルの価値を持つことになる。つまり、5年後に100ドルになるという点では、5年後にならないと現金化できない100ドルの小切手と同じなのだ。それでは、この小切手は100ドルの現金に比べてどれだけ価値が割り引かれているのか? もちろん、5%だ。

こういうわけで、経済学者たちは長期利子率を公共政策の割引率として使ってきた(普通は5%だ)。これは、そのプロジェクトが10年とか20年とかであれば問題ない。だけど、影響が何世紀にわたるようなものについて割引率を適用すると、複利による効果が蓄積することで割引率の影響がとんでもないものになってしまう。

そういうわけで、気候変動政策は割引率の設定に対して非常に敏感なものになるのだ。たとえば、2006年に公開された「スターンレビュー」は、政策論議において考えられているよりもずっと高い水準の炭素税をかけるべきだと主張している。なぜそんなことになったかというと、スターンが割引率を5%ではなく1.4%に設定したため、将来世代が被る損失がかなり大きく見積もられてしまったからだ。

しかしスターンの考えは多くの人々にとって納得のいくものでもある。というのは、利子率とは突き詰めてみれば、消費を1年先延ばしするたびにどれだけ補償されるかを総計として測るものだからだ。人々は無限に生きられるわけではないので、先延ばしはほどほどにして、さっさと消費してしまいたいと考える。だから、彼らは遠い将来の価値を大きく割り引くことになる。しかし個々人がそんな風に将来を割り引くとしても、「社会」としてどういう割引率にするべきかはまた別の話だ。利子率は、「社会」として設定すべき割引率に比べて高めに設定されているのである。

それでは、社会として割引率をどう設定すべきなのだろうか? ラムゼイは、現在における費用と便益の価値はいくつかの要因によって割り引かれるべきだと考えた。


r = \delta + \eta g

gは成長率、ηは消費の限界効用の弾力性だ(つまり、経済成長が進展するほど消費の限界効用がどれくらい小さくなるかを示す指標)。δは、リスクと時間選好という2つの見方のできる変数だ。

もっとも議論を呼ぶのはこの「時間選好」の部分だ。シジウィックなんかは、幸福は今だろうが未来だろうが同じだと主張して、時間選好という考え方を批判している。彼によれば、「我慢できない」のは非合理なことなのである。一方、そういう批判は経済学者たちにとって受け入れがたいものだ。なぜなら、「我慢できない」ということもまたその人の選好のあり方であり、それを認めないことこそがむしろ非合理だからだ。

しかし、このような経済学者たちの反論は、個人に関しての時間選好を想定したものであることに注意しよう。つまり、彼らはAさんがお金を今使いたいか、預金して10年後に使いたいかという状況を想定しているのだ。しかし時間選好は個人だけの問題ではない。個人がそうした時間選好を持つからといって、社会全体でも時間選好を採用すべきかどうかは明らかでない。それで、哲学者たちは「時間選好」ではなく「時間中立」を提唱するのだ。

ところが時間中立は問題含みの主張だ。ちょっと検討してみよう。

6.1.1. Temporal Discrimination (時間差別)

時間選好に反対する人々は、人間の「平等」に訴える。時間選好を認めてしまったら、それは将来世代を差別することになるというわけだ。

しかし、時間選好という考え方は、将来世代の厚生を現在世代の厚生よりも軽視しようというものではない。時間選好とは、将来世代の厚生の現在価値が、実現時の価値より低く見積もられる、というものに過ぎないのだ。厚生が実現する時点においては、その価値はまったく割り引かれない。それは、100ドルの小切手が、換金時には100ドルぴったりの価値をもつのと同じ事だ。

「いや、それは詭弁でしょ。やっぱり将来世代を差別してるわけじゃん」とお思いだろうか? じゃあこう考えるといい。どの時点に生きていようと、われわれは皆、過去から見れば厚生が割り引かれているのだ。つまり、われわれが100年後の人々の厚生を割り引くのと同じように、100年前の人々はわれわれの厚生を割り引く。そこに差別はない。

似たような問題として「年齢差別」というのを考えてみよう。すべての人は65歳になったら定年退職を迎えなければならない、という制度があったとする。これは、65歳の人に対する差別だろうか? ちがう。なぜなら、この制度はすべての人に平等に適用されるからだ。時間の流れの中のある時点で特定の人々が他の人と異なる扱いを受けたとしても、他の人々もやがては同じ扱いを受けることになるのなら、そこに差別はないのだ。差別があるように見えるのは、あなたがある時点だけをスナップショットで見ていて、時間の流れを見ていないからだ。

同じような誤解は年金システムに対しても見られる。年金システムは若い世代から年寄り世代への再分配システムだというのだ。これも、ある時点だけをスナップショットで見ることによって生じる誤解だ。

人々を平等に扱うのなら、人々の厚生をすべての時点で平等に割り引けばいい。だから、平等を持ち出して「時間差別」などと騒ぎ立てても、それは割引率を否定したことにはならないのだ。

6.1.2. Space-Time Analogy (空間と時間のアナロジー

哲学者のデレク・パーフィットはこんなことを言っている。

木の下のあたりにガラスのかけらをまき散らしておいて、100年後にそれを子供が踏んで怪我したとする。子供が踏んだのが100年後だろうといつだろうと、私が子供に怪我をさせたという点では変わらない。だから、時間的な「遠さ」は全く重要ではないのだ。それは、空間的な「遠さ」が全く重要でないのと同じ事である。

道徳とは、私がした行為とその結果に関わるものであって、「いつ」「どこで」とは何の関係もない。だから、道徳において時間的に近いとか遠いとかは重要でない。それは、道徳において空間的に近いとか遠いとかが重要でないのと同じ事だ――というのがパーフィットの主張だ。

だけど、時間的な距離と空間的な距離にはやっぱり違うところがある。空間的にどんなに離れていても、その人は実際に存在する人間だ。だけど、時間的に離れていると、その人は存在していないことがある。たとえば「ナポレオンは過去に生きている」という言い方はへんだ。だって、ナポレオンは死んでいるのだから。死んだ人が私たちと同様に道徳的地位を持っていると主張したりしたら、それは奇妙な主張だろう。私たちが死んだ人にしてあげられることは何も無いのだから。

ただ、ここにはもうちょっと微妙な論点がある。まだこの世界に生まれていない人(つまり将来世代)は、現在生きている人よりも圧倒的に多いだろう。となると、もし「今生きている人」と「今はまだ生きていない人」を区別しないとなると、「今はまだ生きていない人」の利益や関心の方が相対的に優先されて、「今生きている人」の利益や関心にはほとんど考慮が払われないことになる。これは明らかに倒錯した結論だ。つまり、「時間中立性」の立場を功利主義に組み合わせたら、われわれは将来の人々のほんのささいな便益を高めるために、自分たちが飢えなくてはならなくなるのだ。

これまで議論してきた通り、われわれが将来世代の便益を高めるのは、自分たちの消費をいくらか控え、それを投資に回すことによってだ。ところが、割引率をゼロにすると、現在世代は消費を一切せず、すべてを投資に回すべきだということになる。なぜなら、投資による便益は無限の未来にわたって発生するからだ。だから、すべてを投資に回して自分たちの消費分は一切残さないのがわれわれの義務ということになってしまうのだ。

空間とのアナロジーで時間を考えることは間違っている。空間は有限だが、時間は無限だ。両者をごっちゃにして正の割引率を拒んでしまうと、われわれは未来の無限数の人々に対して責任を負うことになってしまう。パーフィットのガラスの例は正の割引率に対する決定的な反証として扱われているけれど、実は誤ったアナロジーに基づいているのである。

6.1.3. Parfit’s Nonindentity Problem(パーフィットの「非同一性問題」)

第1章でも触れたけど、シンガーは道徳の「輪を広げる」という議論をしている。その輪の中心にいるのは人間で、輪を人間以外にも広げていこう、というような話だ。シンガー自身はこの輪を「感覚を持つ生き物」にまで広げようと提案している。論理的にはこれを「将来世代」にまで広げることも可能だ。

だけど、ここにパーフィットの「非同一性問題」がからんでくると面倒になる。これは、われわれの現在の意思決定によって、将来誰が存在するかが変わってくるという問題だ。たとえば、のび太しずちゃんと結婚すればいずれは孫のセワシが生まれるが、ジャイ子と結婚すればセワシは生まれてこないだろう。

これと、さっきの「輪を広げる」という議論を組み合わせるとこういうことになる。道徳の輪に将来世代が含まれるとしたら、われわれは将来世代に害を及ぼさないように配慮しつつ現在の意思決定をする義務がある。すると、その配慮によって、将来誰が生まれてくるかが変わってくるのだ(セワシは生まれてこないかもしれない)。逆に、配慮しなければ配慮しないで、配慮したときとはまた別の誰かが生まれてくるだろう。すると、そもそも私たちは将来生まれてくる人を「害する」などということができるのだろうか?

「輪を広げる」式の議論と「非同一性問題」に整合性を持たせるには、次のような馬鹿げた状況を考えてみるといい。アメリカでは、妊娠中絶の割合は5分の1だという。つまり、4人の子供たちはちゃんと生まれてくるが、1人の子供は妊娠中絶のため生まれてこない。ここで魔法の杖を使って、4人の子供が生まれてくる前の時点で、そのうち1人を、妊娠中絶で生まれてこない子供と入れ替えるのだ(入れ替えに使われた子供は魔法の力で消滅するとする)。妊娠中絶で生まれてこなかったはずの子供にはこうしてチャンスが与えられることになる。しかしここには副作用があって、チャンスが与えられた子供の期待余命は思いっきり低いものになるのだ。このとき、チャンスが与えられた子供には「害」が与えられたとはいえない。なぜなら、チャンスが与えられなければ妊娠中絶でそもそも生まれてこないことになるからだ。しかし、だとしてもこれが正しいことのようには思われない。したがって、問題が生まれることになるのだ。

将来生まれてくる人を「実在する人」として扱うことは、さっきの思考実験のような馬鹿げた状況でしか成り立たない。だから、将来生まれてくる人を「実在する人」として扱うことはできないのだ。

6.2. Reflective Equilibrium(反省的均衡)

時間選好にゼロを割り当てると非常識な結論が出てきてしまう。これを回避するためには、ラムゼイ式にある経済成長の項(g)に頼るしかない。だけど、そういうやり方には反発を覚える人もいるかもしれない。なぜなら、経済成長が本当に達成できるかどうかは確実ではないからだ。だから、ゼロ成長、あるいはマイナス成長であっても通用するようなフレームワークが必要だと考える人たちもいる。

スターンは不確実性を考慮して割引率を考えている。彼は、人類滅亡という不確実性を考慮に入れて、0.1%を時間選好(δ)に割り当てている。彼の割引率を採用するのは、実質的に、これから生まれる1,385億人分の人に、現在世代と同等のウェイトを与えるのと同じことになる。でもこれだと、まだ生まれていない人々への配慮のために、現に生きている人々の利益は無視されることになってしまうだろう。つまり、スターンの考えるδは小さすぎるのだ。

割引に関するジレンマとは次のようなものだ。

まだ生まれていない将来の人々の厚生に低いウェイトしかおかないのは道徳的に許されない。でも、すべての人々の厚生を同じウェイトで考えるのも同じくらい問題含みだ

この手の問題に関して、われわれの道徳的直観はあまり当てにならない。だから先入観を持たずに取り組んだ方がいい。Koopmansのいうように、結果がどうなるかをあれこれ比較衡量して決めるべきことなのだ。Koopmansの提案に従うなら、ロールズが考えた反省的均衡のアプローチを使うべきだろう。これは、抽象的な原則(この場合は割引率)を設定しておいて、それを様々なケースに適応してみたときに具体的にどんな結果がもたらされるかを検討し、均衡に達するまで抽象と具体の間を行ったり来たりする、というアプローチだ。

割引率に道徳的直観を適用することはほとんど意味が無い。なぜならどんな割引率が妥当であるかに関して人々は道徳的直観を持ってないから。4.5%と5%の違いは誰にだってピンと来ないのだ。だけど、そのわずかな違いが、長い時間が経つと大きな違いを生むことになる。

社会的割引率には様々なものがある。そこから貯蓄率を導きだそうというのがアローの提案だ。単純な経済成長モデルに基づいて、どの時点でも総消費の割引価値が等しくなるように貯蓄率を変化させるのだ。スターンのように時間選好に低い値を割り当てると、アローによれば、GDPの97%強を貯蓄に回さなければならなくなる。もちろんそんなことは実行不可能だ。アローはこう提案する。割引率にかんしては直観がうまく働かない。貯蓄率みたいにもっと人々にピンとくる問題から手を付けて、そこから時間選好を求めた方がいい。

ただ、アローの考えている成長モデルは単純すぎる。貯蓄率だけで成長が決まると考えているのだ。また、貯蓄というのは慈善目的で行われるものではないし、将来世代に対する正義にコミットするから行われるものでもない。アローの提案よりもっといいやり方は、割引率をいろんな政策領域に適応してみて、それがどの領域でも一貫して通用するものかどうかを検討することだ(たとえば、医療費助成の分野に時間選好ゼロを適用したらどうなるだろうか?)。

いろんな政策領域に時間選好ゼロを適用してみれば、他の膨大な数の政策判断と矛盾することがわかるだろう。繰り返すけど、複利計算がもたらす結果は、専門家にとっても直観的に扱うのが難しいものなのだ。それくらいならアローの提案の方がまだマシだ。

6.3. Institutionalized Responsibility (制度化された責任)

シンガーのような功利主義的な「恩恵の原則」は、人々に膨大な認知資源を要求するものだ。なぜなら、恩恵を施すことのできる相手は何十億人もいるからだ。誰に最優先して恩恵を施すべきかを決めるのはたいへんだ。このことからもわかるように、誰が誰に対して何を負っているかについてルール体系をつくるのはとても大事なことだ。そうしたルール体系において、「空間的な近さ」、「時間的な近さ」は重要かもしれない。

道徳と行動ルールは同じものではない。だから、道徳的に重要でないものでも、行動ルールにおいては重要性を持つかもしれない。たとえば「空間的な位置」だ。こういう行動ルールの利点は、誰が誰に対して義務を負うかという制度を発展させることができることだ。たとえば、貧困者への食料援助は、輸送の困難さを考慮すると、なるべく空間的に近い位置にいる人々に課せられるべきかもしれない。

世界をいくつかの「ゾーン」に分けたとしよう。そして、各ゾーンに住む人々は、自分たちのゾーン内のすべての人々に食料を提供する責任があるとする。この場合、各ゾーンの人々は、隣のゾーンに住む人に対してよりも、自分のゾーン内の人々に対してより強い義務を持つことになる。このように制度化を通して、空間は道徳的に重要な意味を持つようになる。国境の違いによって道徳的な結果が変わってくる。それを「道徳的に恣意的ではないか」と批判するのは簡単だ。でも、そんな風に潔癖すぎるのはロールズのいうように「間違ったことにこだわること」かもしれない。道徳的な恣意性のコストを、それによって責任をきちんと割り当てることの利益が上回るという状況はいくらでもある。

ゾーンの例は、「近さ」が何かを決定するときにいかに重要になるかを示したものだ。空間的な近さだけでなく、時間的な近さについても同じような事がいえる。世界がゾーンではなく蜂の巣のようになっているとしよう。各セルの中にいる人々は、自分のセルから外に出られない。セルの外の人に食料援助をするには、隣のセルとの境界線まで行かないとならない。このとき、そのセルに住む人々の義務は、自分たちのセルの内部の人々と、そのセルに隣接するセルに住む人々に対して生じる、という風に考えることができる。

もちろん、この蜂の巣モデルは、時間割引の問題のアナロジーだ。各セルは期間を表している。この比喩で考えると、時間割引に関してもっともらしい原則はこういうものだろう。人々はまず自分たちの面倒をみるべきであり、将来世代に対する義務は、時間(つまりセル)が離れるほど一定の割合で減少する、という原則だ。逆に、こういうものにしないとかなり奇妙な結論が出てきてしまうだろ。自分のセルの中で飢饉が起こってもそれを放置して、ひたすら他のセルに食料を送り込まなければならないなどと主張する人がいたらどう思う?

こう考えると、気候変動に関して時間選好を導入することが許容可能なのは明らかだ。

6.4. Thinking Politically (政治的に考える)

パーフィットが持ち出す例はどれも個人的な道徳を問題にするものだ。割れたガラスを森の中に放置するのは、確かに個人的な道徳の観点からは不道徳かもしれない。しかし違法ではないだろう。割引に関しても同じ事がいえるかもしれない。個人レベルで時間選好を示すのが不道徳だとしても、政府が税収の使い道や外部性の規制を扱う際にはやはり適切なのである。

割引をすることを正当化するためにはロールズの議論が使える。第1に、道徳の領域では人々の考え方が一致するとは限らない。しかし、政府の決定には拘束力があり、誰もが従わなければならない。第2に、コミットメントの問題だ。正義の概念は、常識的な人間の性質を考慮した上でも実行可能なものでなければならない。たとえば功利主義の問題は、それがあまりにも極端な結果をもたらすため、現実には実行不可能なものである点にある。

このように道徳と政治を区別すると、より現実的な考察をすることができる。人々が何を犠牲にするかということに無関心になることはできない。なぜなら、それ次第で、法が求めるものを実行するのに必要な強制の程度が決まってくるからだ。割引率の選択は、道徳的な問題ではなく政治的な問題なのだ。

6.5. Discounting for Deontologists (義務論者にとっての割引)

具体的な割引率をどう決めればいいか? 反省的均衡は万能ではない。政策領域間で割引率に大きな矛盾が発生しうるからだ。ではどうする?

第3章で、世代が世代が重なり合う世代間協力モデルを示したが、これを使うのは手かもしれない。人口のうち一部(年寄りなど)はそんなに長く生きられない。だから、すべての人口に対して責任があるとするのは合理的でない。だから、たとえば「今」の世代は「1年後」の世代に対する義務を少し軽くすることができる。そして「1年後」の世代もまた「2年後」に対してやや軽い義務だけを負うことになる。こう考えると、時間選好の根拠に死亡率を使うと良いということになるだろう。現在の世界の死亡率は1,000人当たり8人だから、時間選好は0.8%になる。

スターンは1人当たり実質成長率は1.3%(g=1.3)、消費弾力性は1(η=1)としている。死亡率を反映した時間選好(δ)は0.8%なので、社会的割引率(r)は2.2%になる。ηの値をより現実的な1.5にすると社会的割引率は2.8%になる。これは、カナダやオバマ政権時代のアメリカで求められた社会的割引率の中央値の3%に近い値だ。

6.6. Conclusion (結論)

契約主義者は正義はわれわれの制度が持つ特徴であると考える。この協力システムにおいて、我々は将来世代に対して義務を負うのだ。しかしこれでは義務が付随的なものになってしまうため、直観に反すると考えるひともいる。

Tim Mulganは正義の理論の妥当性を検証するための「最小限のテスト」を考案している。これは、「カゲロウ族」という人々が住む惑星を想定した思考実験だ。次がそのシナリオだ。

  • カゲロウ族の星は100年かけて太陽の周りをまわる。
  • 四季は25年ずつで、冬は住めない(みんな死ぬ)。
  • 春先にになると繭から新しいカゲロウ族が誕生する。
  • 前の世代は自分たちの知識を次の世代に伝えるために、コンピュータを残している。
  • 新しい世代は75年の人生で文化や知識をコンピュータに蓄積する。

カゲロウ族の社会では、次の世代にたいして現在世代はどんな義務を負うだろう? Mulganによると、「まともな政治理論なら、現在世代が次の世代に何の義務も負ってないなどということは言えない」のだそうだ。

一方、契約主義において義務は協力システムと結びついている。でも、協力システムと結びつかない義務は何も無いというわけではない。たとえばシステムの外にいる人に害を及ぼしてはならない。だから、最小限のテストは楽々クリアできてしまう。また、Mulganの例でも協力システムの存在は示唆されている(コンピュータを通して文化的遺産が継承される)。だから、契約主義の立場からいっても、次の世代に何も継承しないのは義務違反となるのだ。

コンピュータがなかったら? このとき、もしカゲロウ族の考古学者が過去の世代の存在を知ったとする。そのとき、カゲロウ族は将来世代に対して義務を負うのだろうか? たぶん、道徳的義務は生まれないはずだ。別の例で考えてみよう。もし人類がカゲロウ族の星を発見したら? (ちょうど、カゲロウ族の考古学者が自分たちの祖先の痕跡を発見したときのように) このとき、われわれはカゲロウ族に対して道徳的義務を持つだろうか? そんなことはないだろう。

こうした思考実験は、制度が存在しない状況での道徳的義務を考えるためのものだ。つまり、制度よりも道徳が根本的だと前提しているのだ。しかし、制度は人間の社会生活に広く浸透しているので、制度と道徳を切り離すことは難しい。むりやり切り離せば、われわれが知っている社会生活とは似ても似つかぬものを扱うことになる。それで何かを明らかにしたところで、現実に対して何か影響力を持つことはありえないだろう。

気候変動はわれわれの協力システムから内生的に生まれる問題なのだから、それに対応する政策も、協力システムにおける規範的原則に基づくべきだろう。

感想

気がつけば最終章だった。この後、10ページくらいの結論がつづくのだけど、どうしよう。新しい論点があったらまとめるけど、ただの復習だったらやめとこう。

【追記】読んでみたけど、やっぱりこれまでの要約みたいな内容だったので、記事にまとめるのはやめます。一番最後のところに、「炭素税は誰もが合意できる解決策だけど、それを実行できるかどうかは政治の問題だ。そこに関して哲学者はあまり役に立たない」というようなことが書いてあった。こういう結論だと、炭素税の導入が良い解決策だと最初から思っている人からしたら、本書の議論自体がたいして意味のないもののように思えるかもしれない。しかし、そういう人たちはそもそもヒースの想定する読者ではないのだと思う。むしろ、炭素税の導入に対して懐疑的な哲学者たちや環境思想家たちが対象読者なんじゃないだろうか。そういう意味では、内輪向けのマニアックな本だともいえる。

日本ではヒースはピンカーの仲間みたいな位置づけで扱われているんじゃないかなあ、という印象を持っている。つまり、「合理性」とか「啓蒙」とか「科学」を重視して、社会正義に関わる情緒的な議論をたしなめる人、という位置づけだ。

だけど私がヒースに関心を持っているのはそこじゃなくて、政治哲学の立場から倫理問題を捉えようとしているところだ。つまり、「功利主義が良いか義務論が良いか」みたいな堂々巡りの問題に関わらないで、「そもそもそれは政治的に実行可能なのか?」という契約主義の立場から倫理問題を捉え直そうとするやり方に魅力を感じている。

そして、それは実はヒースのオリジナルじゃなくて、本章でも出てくるロールズの功績だ。過去の遺物だと思われていた契約主義を現代の正義の問題に対処できるように構築し直したのがロールズだ(と思う)。

前に、日本の偉い倫理学者の本のなかで「ロールズは本質的には功利主義者に過ぎない」というようなことが書かれていたのを読んだ記憶があるけれど、その解釈は大間違いだと思う。「功利主義」とか「義務論」とかの社会的に実行可能かどうかかなり怪しい倫理理論に拘泥するのを回避して、政治的な問題として正義の問題を捉え直したのがロールズの最大の功績だと私は理解している。で、私の好きなアマルティア・センも「3本の笛をめぐる子供の争い」みたいな寓話を通して「功利主義」だの「義務論」だのにこだわることの不毛さを示し、「実現ベースの比較」という、相対的正義の是正に焦点を当てる独自の正義論を提案している。それもまた、ロールズの切り開いた議論を継承するものだ。というわけで、本当に偉いのはヒースでもセンでもなく、やっぱりロールズなのですよ。

ヒース自身はすごいアイデアマンだと思うけれど、よく読んでみると、ヒース自身のオリジナルのアイデアはじつはそんなに無いことに気づく。本書や『Morality, Competition, and The Firm』において倫理を政治哲学の視点から考るアプローチはロールズが元ネタだ。『ルールに従う』で合理性の根拠に道徳を置くアイデアは、ブランダムの推論主義やらリチャーソンとボイドの文化進化論やらの議論をくっつけて生み出したものだ。いろんな偉大な学者たちのアイデアを手際よく組み合わせる能力の高さがヒースの独自性なんだと思う。ヒース自身も、『私の考えを一変させるに至った10冊』という記事の中で、「今のところ、世界中を見渡しても、ここで挙げた10冊を全て読み込んでる人はいないようなので、これ幸いなことに、独自性を打ち出すことにも成功しているかもしれない」と書いてるけれど、実際そうなんだろうなあと思う。

ジョセフ・ヒース『私の考えを一変させるに至った10冊』(2015年7月5日) – 経済学101

ヒースの面白さの正体がなんとなくわかったので、ヒースはそろそろ打ち止めにしようかなと思う。次はこの10冊の中から選んで何かを読もうかなあ。『合意としての道徳』が積ん読で家の押し入れに眠ってるから、それでもいいかもしれない。それを言うならハーバーマスの本も積ん読だからそろそろ片付けたいけど…。ローマーは『分配的正義の理論』という数式だらけの難物が一冊うちにあるんだけど、これを読める自信はまだ無い。読みたくて読めない本がまだまだこの世界にあるというのは、ある意味、幸福みたいなものだよなあと思う。