【読書ノート】『集合的選択と社会的厚生』1章

合理性ってなんなんだろう、というのを勉強しようとして、サイモンの『人間活動における理性』を読み直してみたけれど、最初の1章だけまとめてみて、ちょっとこちらの考えているのと方向性がちがうなと気づいた。

たぶんサイモンは、あらかじめ何らかの問題が定まっているときにその問題をどういう風に解決するか、という状況を想定して合理性について論じている。つまり、その問題がそもそもどんな風に成り立っているのかを理解するとか、使えそうな選択肢を探すとか、そこから良さそうなものをどう選ぶかとか、そういう状況だ。そしてそういう状況において、人間は能力的には割とポンコツなのだけど、でもそこそこうまくやることもできるんだぜ、という風に限定合理性の話を進めている。

だけど私がいま関心を持っているのは、人々の考え方が錯綜していてそもそもどういう風に問題を立てればいいのかわからないような状況に対する合理性だ。ようするに道徳的ジレンマみたいな状況のことで、トロッコ問題を功利主義的に考えるべき問題なのか、義務論的に考えるべき問題なのか決めがたいときに、合理性をどういう風に使えばいいのか、というようなことに関心がある。

サイモンだったら「ナチズムに対する防波堤は理性ではなく価値観だ」みたいなことを言ってて、価値観の話は理性(合理性)で扱う問題じゃないという風に考えているみたい。だけど、センの場合はむしろそういう場面でこそ理性は重要な役割を持っていて、理性によってものごとを精査することで世界から少しずつ不正義をなくしていくことができるのだ、という風に考えている(だから、センは人々が理性をうまく働かせることができるように、報道の自由とか教育とかをとても重視している)。

だからやっぱりサイモンじゃなくてセンをきちんと勉強した方がいいんだろうなあ、と考えている。『正義のアイデア』でもちょこちょこ言及されるけれど、センの合理性に対する考え方は、社会的選択理論から強く影響を受けている。社会的選択理論というのは、個々人が社会について「こうだったらいいのにな」と考えていること(つまり選好)を、どういう風に社会的決定に落とし込むか、というプロセスについて考える学問だ。

それで今は、社会的選択理論におけるセンの代表作である『集合的選択と社会的厚生』をチマチマ勉強している。数理的に議論が展開されていて、「定義」→「補題」→「証明」の繰り返しなので疲れる。一週間で一章くらいしか進められない。でもパズルみたいで楽しい。数理的なところを紹介したら丸写しになってしまって著作権的にまずそうなので、面白いと思ったところだけなるべく普通の言葉でまとめていきたい。

ところで、この本の各章は数理的なパートと、その内容を普通の言葉で説明したパートの2つで構成されている。つまり数理的なパートが「第1*章」で、普通の言葉のパートが無印の「第1章」となっている。ただ、個人的には、普通の言葉のパートに書かれていることはこれまでセンが別の本で書いてきたことの焼き直しみたいな感じもしてあまり読みたくないので、数理的なパートの方を意識してまとめていきたいと思う。数理的なパートを自分なりの言葉でかみ砕いて、自分なりの無印「第1章」を書く、という感じになるのかなあ。

第1章 選好関係

社会的選択理論は、個人の選好を集約していって、社会的決定を下すまでのプロセスを数理的に検討する学問だ(と思う)。それで本書では、個人の選好が持つ性格とか、個人の選好を社会的決定に変換するルールの持つべき性質とかについてあれこれ議論している。

第1章では、まずは個人の選好が持つ性格についてあれこれと検討している。それをどうやって社会的決定に落とし込むかはまだ先の話になる。

この章では、個人の選択の合理性を考えるにあたって、「選択関数」という概念が提示される。で、その選択関数が持つべき条件について考えることで、合理性が備えるべき条件について考えているのだと思う。ただ、その「選択関数」に行き着くまでの議論が割と長くて、なんでこういう細々とした議論をしているのだろうと筋道を見失ってしまいそうになる。大幅にはしょって、要点だけまとめていこう。理解が間違っているところがあるかもしれないけれど、あくまでこれは自分用の勉強ノートなのでご勘弁を。へんだなあ、と思ったらセンの本をご購入ください。

選択関数とは?

図で考えた方がわかりやすい。

たとえばたくさんの果物の集合があって、これらが選択対象だとする。選択関数という奴があると、この集合をどんな風に分割しても、必ず最良集合を選ぶことができる。ようするに、目の前に果物を並べられて、「どれが好きなの?」と聞かれたら、その果物の組み合わせがどんなものであってもちゃんと答えられるということだ。

最良要素というのは、「他のどんな選択肢よりもましなもの」だ。これは、「他のどんな選択肢よりも優れているもの」ということとは限らない。たとえば目の前の果物をすべて同じくらい好きだというとき、すべての果物はそれぞれ「まし」だけど、他の果物より優れているわけではない。

なんで選択「関数」というめんどくさい言い方をしているか。そこはちょっとよくわからんのだけど、ようするに「その人独自の選択ルール」という意味で「関数」と言ってるんじゃないかなあ、と思う。その人の選択ルール次第では、今示したみたいにたくさんの選択対象の中から最良要素を選ぶことができない。たとえば、「選択肢の中にイチゴが入っているときは常にメロンを選ぶけど、イチゴが入ってないときは常にブドウを選ぶ」みたいな変な選択ルールを持っている人もいるかもしれない。そういう人の場合、イチゴもメロンもブドウも選択対象に含まれていなければ何も選択できなくなるので、最良要素を選べないことになる。

選択関数が定義できるとはどういうことなのか?

これを示しているのが補題1*l(エル)

補題1*l:もし二項関係Rが反射的かつ完備的ならば、選択関数が有限集合X上で定義されるための必要十分条件は、RがX上で非循環的であることである。

二項関係Rが反射的かつ完備的」とはどういうことか。

二項関係R」というのは、二つの選択肢をとりだしたとき、その二つの間の関係がどんな性質を持っているかということ。

「反射的」とは、たとえばスイカはスイカ自身よりましだということ。なんのこっちゃ? という感じだけど、ようするに、「私はスイカよりスイカの方を好みます」とか「私はスイカよりスイカの方が嫌いです」みたいな変な選好を持ってないということ。まあ、これは普通は成り立つだろう。

「完備的」というのは、「スイカとブドウでは、スイカの方がましです」みたいに任意の選択肢対でちゃんと比較ができるということ。「ええと、スイカとブドウだと、どっちがましかわからないです」「それは、スイカとブドウが同じくらい好きってこと?」「いや、そうでもなくて、とにかくわかんないんです」みたいな人の場合、完備性が成り立っていない。ここらへんは、人によっては成り立たないかもしれないけど1、ここの補題では「成り立つ」ということにしている。

で、反射性と完備性が両方満たされているとき、次の同値関係が成り立つというのがこの補題が言いたいことだ(証明は略)。

二項関係Rが非循環的である ← 同じこと → 選択関数が定義できる

つまり、もし選択関数を定義できることを「合理的」だと考えるのなら、合理性とは、反射的かつ完備的かつ非循環的な二項関係Rを持っていることだということになる。

「非循環的」というのは、「私はブドウよりもバナナの方が好きだし、バナナより桃の方が好きなんだよね」という人がいたとして、その人が「だけど桃よりブドウの方が好きなんだよね」なんてことを言わないということ。もしその人が桃よりブドウの方が好きだとしたら、「ブドウ→バナナ→桃→ブドウ→...」で選好順序が循環してしまう。こういう人はブドウとバナナと桃を目の前に並べられて、この中から一番マシなものをどれか選べと言われても、何も選べなくなるだろう。たしかに、そういう人は合理的でないようにも思える。

選択関数の性質

それじゃあ、選択関数が存在すれば、つまり、その人の選択が反射的かつ完備的かつ非循環的であれば、その人は合理的と断言してしまっていいのだろうか?

そうとも限らない。たとえばこういう人を考えよう。

  • 「ブドウとバナナと桃ではどれが一番まし?」 → 「桃!」
  • 「じゃあ、バナナと桃ではどっちがまし?」 → 「バナナ!」

この人は[ブドウ、バナナ、桃]という集合からも最良要素を選べるし、[バナナ、桃]という部分集合からも最良要素を選べる。だから選択関数が存在する。でも、なんかへんだ。なぜ、「ブドウ」という要素があるか無いかで、桃とバナナのどっちがマシかという判断がひっくり返ってしまうのか。今、ブドウ関係ないじゃん。

こう考えると、選択関数が「存在」するかどうかだけでなくて、その選択関数がどういう「性質」を持っていれば合理的と言えるのかまで考える必要が出てくる。そこで、次の性質αと性質βが紹介される。

性質αとは、「無関係選択肢からの独立性」ということと同じだ。つまり、その選択に関係ない選択肢が減ったとしても、選択は変わらない。

たとえば、ある子どもが「私が世界で一番好きなのはお母さん!」と言うとしたら、その子は「私が日本で一番好きなのはお母さん!」ということでもある、ということだ。比較対象が日本だけになることで、たとえばアメリカに住んでるおばあちゃんとかは考慮から外れることになるけど、それで最良要素が変わることはない。もしこの子が「世界で一番好きなのはお母さんだけど、日本で一番好きなのはお父さん」とか言ってたら、ちょっと何を言っているのかわからない、ということになるだろう。だから性質αは合理性の条件としてそれなりに妥当なように思える。

性質βはちょっとわかりにくいけど、頑張ってかみ砕いてみよう。

たとえば、ある子どもが「私が日本で一番好きなのは、お母さんとお父さん! どっちも同じくらい好き!」と言うとする。で、ある人が「じゃあ、世界で一番好きなのは?」と聞くと、その子は「やっぱりお母さん!」と答えるとする。それに対し相手が重ねて「じゃあ、お父さんのことも世界で一番好きなの?」と聞く。もしこの質問にその子が「うん!」と答えるとしたら、その子は性質βに従っていることになる。性質βも、合理性の条件として妥当なように思える。

だけど、実は選択関数は、性質αは満たすけれど、性質βは必ずしも満たすとは限らない。たとえばこういうケースを考えよう。

  • 「お母さんもお父さんも同じくらい好き」
  • アメリカに住んでるおばあちゃんよりもお母さんの方が好き」
  • 「お父さんよりもアメリカに住んでるおばあちゃんの方が好き」

この場合、日本国内だけで考えるとお母さんとお父さんが最良要素として選ばれる。

しかし、アメリカも含めて考えると、この子はお父さんよりもアメリカに住んでいるおばあちゃんの方が好きで、アメリカに住んでいるおばあちゃんよりもお母さんの方が好きなので、お母さんだけが最良要素として選ばれる。したがって、性質βが満たされていないことになる。

しかし、そもそもこういう選好順序を持っていること自体がへんなのかもしれない。「お母さんもお父さんも同じくらい好き」なのだとしたら、「お母さん」と「お父さん」を入れ替えてもいいのではないか。だとすると、「アメリカに住んでるおばあちゃんよりもお母さんの方が好き」は「アメリカに住んでるおばあちゃんよりもお父さんの方が好き」と書き換えられる。しかし、それは「お父さんよりもアメリカに住んでるおばあちゃんの方が好き」と矛盾している。

こういうへんな選好順序を封じるために、PI-推移性というのが導入される。つまり、「XとYが同じくらい好き」というのと「Xの方がZより好き」というのが成り立っているとき、XとYを入れ替えて「Yの方がZより好き」ということも成り立つ、ということだ。PI-推移性が成り立っていると、性質βも満たされることになる。で、証明は省略するけれど、性質βが満たされるというのは、二項関係Rが順序であること(反射性と推移性と完備性が成り立つこと)と同値である。つまり、性質βが満たされるという意味で合理的な選択関数を持つ人は、反射性と推移性と完備性を満たすような選択をする人であるともいえる、ということだ。

感想

実はこの本の第1章を読むのはこれで3回目くらい。野暮用が入ったりして読むのをしばらく休むととそれまでの議論展開をすっかり忘れてしまって、ついていけなくなってしまう、というのを繰り返してきた。今回はきちんとノートをとって適度に復習しつつ、ブログの方にも概要やコメントをまとめることで、なんとか完走したい。

注にもちょっと書いたけど、完備性って合理性の条件として結構きびしいんじゃないだろうか。道徳的ジレンマというのは、まさに選択肢対のあいだの選択が困難で完備性が成り立たない状況だという風にも言えると思う。そういうケースもこれから扱われるのだろうか?2

高校のころは理数系だったのでこういう数理的な話は苦手じゃないのだけど、独学だとけっこう大変。授業があるとテストがあるから単元ごとにきっちり理解してから次に進む、というやり方ができるけど、独学だとなんとなくの理解で次の単元に進もうとしてちんぷんかんぷんで挫折するというパターンになりがちだ。今のところ、下記のような工夫をしている。時間はかかるけど、1週間で1章読めるとしたら、この本は全部で11章あるから3ヶ月くらいで読み終われる。もっとかかりそうな気もするけど、地道にがんばる。

  • めんどくさがらずにきちんとノートを取る。証明もきちんと書き写して確実に理解する。
  • 次の単元に進む前にちゃんと復習する。
  • わかりにくいところは図を描く。図にしにくくてもむりやり図にする。
  • 具体例を自分で考える。
  • かみ砕いて説明し直す(このブログでやってること)。

  1. それこそ、トロッコ問題で「レバーを引くか引かないか」という選択をするとき、判断不能になってしまう人もいるんじゃないだろうか。「判断不能」とは、「どっちでもいい」ということではなくて、本当に「わからない」ということ(一種の抵抗回答)。ここの議論は抽象的なものなので、選択対象は果物であってもいいし、トロッコ問題でレバーを引くか引かないかといったものでもいい。

  2. 無印「1章」の方を読んでみたら、完備性に過度にこだわるのはよろしくない、というようなことが書いてあった。たとえば、桃とリンゴについて比較できないという人がいるとする。この人は、桃とリンゴに関しては不完備だけど、もしかしたら桃とリンゴのどちらよりもパイナップルの方が好きかもしれない。だとしたら、桃とリンゴが不完備だということは無視してパイナップルを選べば良い、ということになる。うーん。たしかにそうなのだけど、まさにその桃とリンゴとどっちにするか、ということが問題になっているときはその論法は通じなくなってくると思う。