ずっと積ん読になっていたピケティの『21世紀の資本』を昨年末から読み始めて、数日前にやっと読み終わった。ああ長かった。あと、縦書き読みにくい。数字がたくさん出てくる本は基本、横書きにしてほしいと思う。簡単な数式も序盤の方で少し出てくるけど、数式を縦書きってのはちょっとキツいです。
概要は解説本がたくさん出ているようなのでそういうのを読めばいいんじゃないかなあ(私は読んでないです)。あと、訳者の人がわかりやすい解説を書いてくれているので、これを読めば十分という気もする。
で、私は経済は素人なので、もうちょい倫理学よりの視点から感想みたいのを書いていきたいと思います。いや、倫理学だって素人に毛が生えた程度なので、あくまで素人の感想です。
今回は「そもそも格差って悪いものなのか?」という割とありがちな話題について考えてみたい。
格差はなぜ問題なのか? 哲学者のフランクファートなんかは「問題じゃない」と書いていた気がする。理屈はほぼ忘れたけれど、まあ、お金持ちの人たちが貧乏人たちを搾取したとかでない限り、格差が悪だみたいなことを言うのは難しいだろう。むしろ、稼いだお金に文句をつける方が悪だ、という理屈の方がずっとつくりやすいと思う。
ロールズの『正義論』だと、社会の安定性のために極端な格差は解消すべきみたいなことを書いてた気がする(例によって覚えてない)。確か、社会とは「協働の冒険的企て」なのだから、格差があまりに激しいと協働関係がうまく成り立たなくなって、社会が不安定になってしまうみたいなことだったと思う。
ピケティも基本はロールズと同じような考え方みたいだ。たとえばこんな感じの記述があちこちに見つかる。
こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富より圧倒的に大きなものとなるし、資本の蓄積はきわめて高い水準に達する――潜在的には、それは現代の民主社会にとって基本となる能力主義的な価値観や社会正義の原理とは相容れない水準に達しかねない。 p52
ここは相続財産に限定した話だけど、ともかく、格差が大きすぎると民主社会の価値観や原則とは相容れなくなるかもしれないよ、ということが問題視されている。
19世紀フランスにおける所得と富の格差はきわめて大きく、最も裕福なフランス人たちの生活水準は、労働所得だけで実現できる水準を大幅に上回っていた。そのような状況で、働くなんて馬鹿らしいだけだ。道徳にしたがって行動するなんてまるでくだらない。社会格差それ自体が不道徳かつ不当なんだから、とことん不道徳に徹し、どんな手段に徹し、どんな手段であろうと資本を独り占めしてしまえばいよいではないか? p364
ここだけ抜き出すと、「ピケティは道徳を否定している!」と誤解されかねないけれど、そういうことじゃなくて、これは、バルザックの『ゴリオ爺さん』に出てきたヴォートランという登場人物の思考パターンを解説しているくだりだ。いずれにしても、格差が大きすぎると社会の道徳が揺らいでしまうよ、というピケティの考え方はここに示されていると思う。
ただ、こういう「格差があると社会が揺らぐ」式の主張には、こうした小説からの引用くらいしかエビデンスが示されていないことには注意が必要。で、そのことは10年くらい前のThe Economistの記事で指摘されている。この記事には、これまでの民主主義国家では格差が発生したとしても必ずしも社会が不安定になったりはしてないぞ、ということが書いてある(ただ、こちらも具体的にデータを示しているわけではない)。
いずれにしても、抽象的な理論だけで格差の善し悪しを判断するのは難しいと思う。その国の文化とか歴史とかもちゃんと見ていけないのだろう。
ピケティ自身は、「格差=悪」と言っているわけではない。たとえばこんな記述がある。
重要なのは、格差の大きさそのものではなく、格差が正当化されるかということなのだ。 p395
たとえば、ある社会では「格差は金持ちが貧乏人よりもより勤勉で効率的に働いた結果」(p395)とかいう理屈で格差を正当化するかもしれない。逆に、別の社会ではそういう格差は正当化されないかもしれない。
じゃあ、そういう正当化はどういう風にして行われるのか? 役員報酬がやたらと高くなってますよという問題を論じる部分では、こんな風に書かれている。
社会規範と受容という観点から役員報酬にアプローチするのは一見もっともらしいが、実際には問題を別のレベルに移したにすぎない。今度は、社会規範はどこから生まれ、どのように発達してきたかを説明しなければならないが、それはもちろん経済学の問題であるだけでなく、少なくとも社会学、心理学、文化史、政治史、そして信念と認知に関する研究の問題でもある。格差問題は、社会科学一般の問題であって、その中のひとつの領域にかぎった問題ではない。 p499
ということで、どんな格差が正当なのかというのはピケティひとりで答えが出せる問題ではない、という風になるみたいだ。
もうちょい後の方のページに行くと、今度は「熟議」の重要性についても主張されるようになる。以下は、所得の再分配について論じる節で、1789年のフランス人権宣言の解釈をしているところ。
(フランス人権宣言第1条第2文は)平等性が基本であり、格差が認められるのは、それが「共同の利益」に基づく場合のみ、というのだ。(…)ひとつの解釈として考えられるのは、社会的不平等が容認できるのは、それが万人の利益になるとき、特に最も恵まれない社会集団の利益にかなうときだけ、というものだ。(…)純粋理論的な水準だと、たしかに社会正義の抽象的な原理については、ある種の(一部かなり不自然な)コンセンサスがある。こうした社会的権利や格差にちょっと中身を肉付けして、具体的な歴史的文脈においてみると、意見の相違点がもっと明確になる。(…)こうした問題は、抽象的な原理や数式なのでは決して答えが出ない。これに答える唯一の方法は、民主的な熟議と政治的な対立だ。 p716
つまり、社会として正当化しうる格差は「民主的な熟議と政治的な対立」で決めていくべきだ、ということだと思う。
ここらへんはセンの公共的討議という発想を思い出す。センは、ロールズの正義論を「完璧な正義を追い求める現実性のない考え方だ」と批判して、相対的な不正義の解消を漸進的に進めていく実現ベースの比較という考え方を提案する。実現ベースの比較を推進するために必要なのが公共的討議だ。つまり、理性的な対話をすること、そして、なるべくいろんな人の立場に立ってみること。ピケティは言ってないけれど、「どんな格差が正当化されるのかは公共的討議を通して決めるべきだ」という風に解釈してもそんなにズレてないと思う。
ただ、公共的討議の考えに基づくと、討議の展開次第ではかなり大きな格差であっても社会的に容認されることになるだろう。「そもそも格差って悪いことなんですか?」「きちんと働いてお金を稼いで、そのお金を子どもに残して、何が悪いんですか?」という主張の方がより説得的だと人々に受け入れられることは普通にあり得ると思う。
どんな主張が一番説得的であるかは実際に討議してみないとわからない。たぶん、文化的なものはかなり強く影響するだろうから、国によって格差に対する考え方はぜんぜんちがってくるはずだ(もちろん国の中でもかなり意見が分かれると思う)。
その場合、ピケティの主張するグローバル累進資本税に関して世界全体で合意するのはかなり難しくなってくると思う。たしかに、理屈的にはグローバル累進資本税しかないのだろう。一国で税制をいろいろいじってもタックスヘイブンに逃げられたら意味ないわけだから、世界のどこにも逃げ場がないようにしなければならない。理屈としてはそうなのだけど、そもそも格差に対する道徳観が国によっても人によってもぜんぜん違ってくるのだとしたら、合意に至るのはかなり難しい。つまりある国は「格差は悪!」と考え、別の国は「格差の何が悪いの?」だったら、議論の前提がちがうので話がかみ合わなくなってしまう。とにかく公共的討議をやってみれば格差に対する考え方は必ず収束する、というわけでもないだろうし。
私はぜんぜん現実を知らないのだけど、国家間で何か新しい制度をつくって協力していくというのはとてつもなく難しいことなのだと思う。たとえば気候変動だって全然足並み揃わないわけだし。SDGsみたいな拘束力の無いものだったら合意できるのかもしれないけれど、拘束力がないので、結局はただのスローガンで終わってしまう(日本でも最近ぜんぜん聞かなくなった)。単に「議論を重ねればいいのです!」ということではなくて、公共的討議をもっと効率的に進めるための仕組みが必要なんじゃないかな。
私の好きなヘルマン=ピラートのヘーゲル経済学の本だと、自由貿易を題材にして、こうしたグローバルな制度づくりの道筋をモデル化している。「グローバル累進資本税」と「自由貿易」じゃテーマがぜんぜん違うけれど、公共的討議を具体的にどう進めるのかというのでは参考になる。ややこしい議論で私もあんまり理解してないのだけど、がんばって説明してみる。
ヘルマン=ピラートらのアイデアは、「国際市場での市場アクセス権の取引」という視点を取り入れること1。経済学の教科書だと、自由貿易は無条件で推進するべきということになっているけれど、現実には、こうした「市場アクセス権の取引」を通して自由貿易に関する制度が作られていく。
なんでこういう視点が必要かというと、経済学の教科書に従ってそれぞれの国が自主的に貿易制限を撤廃していくというシナリオは現実的でないから。実際には、もっと囚人のジレンマ的な状況になる。たとえば、相手国に気づかれにくいところでこっそり非関税障壁を導入するかもしれない。で、そういう風に相手が裏切るリスクを考えると、お互いに疑心暗鬼になって、ますます協力的でなくなるかもしれない。つまり、「我が国は自由貿易にコミットする」という主張に信憑性がないのだ。
だから、「市場アクセス権の取引」というプロセスを明示的に取り入れることで、貿易制度に対する各国のコミットメントを相互に承認されたものとすることが必要になる。そうすることで、各国のコミットメントに信憑性をもたらすことができる。
で、そうしたプロセスを各国が進めるには、国内の様々な主体からもきちんと合意を得なければならない。国内の消費者、生産者といった主体のことだ。だから、自由貿易は経済学理論をそのまま現実に適用することで実現されるのではなく、様々な主体同士の政治的インタラクション(ロビイングとか)を通して実現されるものだ。そして、こういうインタラクションの中で公共的討議が行われることになる。
きちんと説明できてる気がしない。そもそも「市場アクセス権の取引」ってのが具体的にどんなものなのか、私はよく知らない。ただ、手ぶらでワイワイ議論しても公共的討議としてはあんまり生産的でないという雰囲気は何となくわかる。ザックリ言うと、「権利の取引」という風にした方が、何が論点なのかが見えやすくなるということなんじゃないかと思う。「実現ベースの比較」という観点からいっても、権利の初期配分が明示化されていれば、公共的討議を通して権利配分がどんな風に変化したかというのがわかりやすくなる。
グローバル累進資本税について公共的討議を進めるにしても、手ぶらでワイワイ議論するんじゃなくて、討議を進めるための仕組みが必要なんだと思う。少なくとも、「格差は悪か?」みたいなふんわりしたレベルで議論するのは効果的でないんじゃないか。いや、具体的にはどうすればいいのかぜんぜんわからないのだけどね。自由貿易の場合だと、国内では生産者団体とか消費者団体とかが公共的討議の担い手として重要な存在になるとおもうけど、グローバル資本課税の場合、そういう利益者団体をうまく特定できない気がする。そこらへんも問題だ。貧乏人は個々バラバラに貧乏だし、大金持ちは個々バラバラに大金持ちで、それぞれまとまったグループを作っているわけではない。無理にまとめようとするとへんなカルト組織みたいのができそうな気もするし…。
センやピケティは公共的討議や熟議を重視するし、その点は私も同じなのだけど、そういう討議を効果的に進める仕組みはどういうものであればいいのか、どういう人たちに討議の担い手になってもらえばいいのか、というのはかなり難しい問題だと思う。国内限定の問題なら国会で議論すればいいのかもしれないけれど、センやピケティはグローバルな視点で考えているので、国会だとちょっと話がずれてくる。難しい問題です。難しい問題なのでここで放棄します。