【読書ノート】『啓蒙思想2.0』第1章

読む動機

何年か前に読んだのだけど、例によってほぼ忘れてる。

センの『正義のアイデア』では、理性的な公共的討議によって不正義を発見することで、少しずつ正義を実現していくことが大事だよ、ということが繰り返し語られている。とにかく理性というのが大事だ。不正義を発見するときは、「残酷な事態を目の当たりにして心を動かされる」みたいな感情の働きも大事だけど、その感情が妥当なものかどうかも理性によって精査されなければならないとセンは主張する。

odmy.hatenablog.com

確かに理性は大事だ。たとえば今の時代、インパクトのある写真や動画によって人々の善悪の判断が大きく左右されてしまうという、困った事態が頻発している。そういう写真や動画を見ると心が動かされるし、「悪者」に石を投げつけたくもなる。だけど、よくよく事情を調べて理性的に判断してみると、実はその「悪者」はぜんぜん悪者ではなかったとか、そもそもの写真や動画で示されている出来事自体が社会的にはたいした問題ではなかった、ということも結構ある。

だけどその一方で、理性的に物事を判断するというのは難しい。それは、SNSでよく見かける陰謀論にはまってしまった人たちを見ればわかる。「あなたの判断は間違っている」と、いくら根拠を挙げて反論しても、「ははは、あんたの言ってることこそフェイクですね」の一言で「論破」されてしまう。

センの言うように、確かに理性は重要だ。だけど、理性を使いこなすことは思いのほか難しい。「理性を使いこなす」という課題をクリアしないと、センがいくら良いことを言っても、それを現実社会で活用するのは不可能だ。

で、ヒースによる本書は、そういうなんだか頼りない理性を補うためのアプローチをいろいろ提案してくれるものだ(確かそうだったと思う)。センの議論に本書の議論をつなぎ合わせることで、センのいう公共的討議という奴を実行可能にすることができるんじゃないか。そういうもくろみで本書を読み返していきたい。

なお、文庫で再版されたばかりの本なので、あんまり詳しく要約すると著作権的に良くない気がするから、ある程度雑な感じにまとめます。

第1章 冷静な情熱 理性――その本質、起源、目的

合理的思考の重要な特徴は、理由を説明できること(p46-47)

ヒースのここの議論はブランダムを参照したもの。何かを主張するのならその理由を説明できないとならない。

「あいつマジ死んだ方がいいよね」「なぜですか?」「むかつくから」「なぜむかつくのですか?」「いや、顔が」「顔がなんですか?」「うぜえな。お前キモいよ」「何が キモいのですか?」「顔が」「顔がなんですか?」「アアアア!! もう寝るッ!」という感じで、理由が説明できないのならその人は合理的とはいえない。

合理的思考の特徴をもっと詳しく(p50-)

ヒースは、簡単な論理パズルをひとつ紹介したあとで、このパズルを解くのに必要な合理的思考の特徴を5つ挙げる。それは、明示的な言語表現と、脱文脈化、ワーキングメモリの利用、仮説に基づいた推論、そして、その難しさ・時間がかかること、だ。

直観に頼って「うまく言えないけど、俺のゴーストがささやくんだよね」とか天才ぶってないで、ちゃんと言語化すること。そして、具体的な文脈は省いて、問題を抽象的に捉えること。こういう合理的思考は脳のワーキングメモリを消費する。でも、そうやってワーキングメモリを使うことで、仮説に基づいた推論が可能になる。ただ、そうやっていちいち言語化したり、文脈を丁寧に取り除いたり、ワーキングメモリを消費したり、仮説を立てたり、ということをやるわけだから、合理的思考は難しい。時間がかかる。

二重過程論(p56-57)

人間には、ヒューリスティック(経験則)に基づく直感的認知と、論理的思考に基づく認知の2つがある。

直感的認知は領域固有のものであり、モジュール性を持つ。たとえば、顔を認識するのに特化してるとかだ。特化してるから認知は一瞬で行われる。でも、他の領域に流用ができない。たとえば、顔を認知するためのモジュールでギターを弾くことはできない。

論理的思考に基づく認知は領域に縛られず、いろんな領域に使える。冷蔵庫の中の食材をどんな順序で使えばいいかを計画するとかにも使えるし、新型iPhoneの設計のためにも使える。だけど、時間がかかる。直列処理システムになっているのだ。だから、マルチタスクというのは人間には不可能だ。「フフ、これからのビジネスパースンはマルチタスクがトレンドさ」とか言っている人は単に集中力が低くて、複数の仕事にあれこれ目移りしてるだけなのだ。

古い心は進化の産物(p62-64)

で、直感的認知というのは、古い心がやるものだ。古い心は進化の産物だ。

進化というのは保守的なものだ。だって、自然選択というのは、環境に相対的に適応している者が残っていくものなわけだから。「あ、進化の方向をまちがえた!」と途中で気づいて、5億年分進化を逆戻しして、またそこから進化をやり直す、なんてことはできない。まちがってても、そのままの方向に進化していくしかないのだ。

「しゃっくり」って人間には必要ない機能だよね、というのがわかったとしても、自然選択ですぐに無くなるとは限らない。進化は保守的だからだ。人間の脳には、そんなガラクタが山ほど詰まっている。

人間の脳は合理的思考用にデザインされていない(p72-75)

たとえば目の前にボールがあって、それが1つか2つか3つかを一瞬で判別するくらいのモジュールならある。また、片方にボールが20個あって、もう片方にボールが30個あるときに、どっちが多いかを一瞬で判別するモジュールもある。だけど、虚数とは何かを一瞬で理解するためのモジュールなんてあるわけがない。「虚数モジュール」なんてものが自然選択によって生まれるなんて考えられないでしょう?

だから、合理的思考というのはあくまで自然選択の副産物に過ぎないのですよ。

言語があるから合理的思考ができる

進化したのは合理的思考ではなく、言語の方だ。

言語を使えるようになることくらいなら、古い心でもなんとかなる。だけど、言語の文法構造のシステムが発達していくと、それが合理的思考の基礎になっていったのだ。言語によって他人に対して指図することもできるけれど、自分に対して指図することもできる。で、自分に指図するときに、幼児はいちいち声に出すけれど、大人は声を出さないで抑えることができる。ようするに、合理的思考とは内言語の一形態なのだ。

合理的思考は明示的なものだ、と最初の方で書いたけど、それは合理的思考というのがもともと言語だからだ。幼児みたいにいちいち思考過程を声に出さなくて良いけれど、声に出そうと思えばできるのだ。

で、言語というのは公的なものだから、合理的思考も公的なものになる。つまり、私にとって納得のいく理由は、他人にとっても納得がいく理由である、ということだ。

システム1とシステム2(p82-83)

直感的な認知システムをシステム1、合理的な認知システムをシステム2としよう。それぞれの特徴を思い出したかったら本書の該当ページを開いてくれ。

啓蒙思想1.0の人たちはシステム1を無視してたけど、われわれのように啓蒙主義2.0に取り組もうとする人たちは、システム1を理解し、さらにシステム2の強みと弱みをきっちり理解する必要がある。

コメント

本章は同著者の『ルールに従う』の要約みたいな内容。そもそも合理的思考とはどういうものなのかをブランダムの推論主義をベースにして特徴づけた上で、進化論の議論にからめていって、合理的思考は進化の副産物に過ぎないからいろいろポンコツなところがある、ということを論じている。

後半になってまた言語に関する議論が出てくるのだけど、これも『ルールに従う』だとブランダムやヴィトゲンシュタインに関連づけられていたと思う。進化論や心理学を使って人間の認知や思考の特徴を論じていくという議論は割と多いと思うけど(ボウルズとかギンタスとかヘンリックとか)、ヒースの独特なのは、何もかも進化論や心理学に還元してしまうのではなく、言語哲学を絡めてくるところ。それによって、「である」という事実に関する領域だけでなく、「べき」という規範に関する領域を論じることが可能になっている。そしてそれにより、言語という規範的現象によって根拠付けられる合理的思考を扱えるわけだ(ボウルズの『モラル・エコノミー』なんかは、「市民」とか「リベラル」というのをキーワードにしているのに、合理性の話がぜんぜん出てこないという、かなりアンバランスな議論展開になっている)。科学的議論に哲学議論を接ぎ木することに抵抗を覚える人も多そうな気がするけれど、個人的には、そういう風に接ぎ木しないで人間についてあれこれ言ってもなんか物足りない気がしてしまう。

odmy.hatenablog.com