ゲーム理論を勉強するとどんな御利益があるの?

ゲーム理論は役に立たないかも?

大学でもゲーム理論がよく教えられるようになってきた。でも、ゲーム理論の授業が人気科目だという話はあまり聞いたことがない。また、ゲーム理論をふだんの問題解決に活用している人もそれほどいないようだ。ゲーム理論なんてなくたって、世の中は普通に回っている。

ゲーム理論は役に立つ」と主張する人は多いのだけど、一方で、どう役に立つのかというのはよくわからない。「役に立つ」派の人たちは、ゲーム理論で分析できる現実の事例をたくさん挙げることで、「ほうら、現実を理解するにはゲーム理論がこんなに役に立つでしょ?」と言ってくる。たとえばこんな感じに。

PK戦は混合戦略のナッシュ均衡だ!」

「気候変動はN人囚人のジレンマだ!」

「繰り返しゲームではしっぺ返し戦略が最強だ!」

そうなのかもしれない。でも、それがわかったからといって何がどうなるというのだろう?

サッカー選手はゲーム理論を勉強してもPK戦に勝つことはできない。気候変動が囚人のジレンマだとわかっても、それで気候変動が防げるわけではない。しっぺ返し戦略だって、うまくいくかどうかはケースバイケースだろう。結局、現実を後付けで説明してるだけであって、ゲーム理論を問題解決に使うことなんて無理なのではないだろうか。

ゲーム理論が何の役に立つのかいまいちよくわからない。これが、人々が(というか私が)ゲーム理論を学ぶモチベーションを大きく下げてしまっているのではないかと思う。そこで、ゲーム理論が何の役に立つのかを改めて考えてみたいと思う。

ゲーム理論の研究者たちの言い分

それでは本職のゲーム理論の研究者たちはどう言ってるだろう? まずは『ゲーム理論入門の入門』にどう書いているかみてみる。「入門の入門」というくらいだから、私のように入門前につまずいている人にも「それはね」と優しく説明してくれることだろう。

と期待してたけど、実はこの本ではゲーム理論がどう役に立つかについてほとんど何も書いてない。「入門の入門」なのに。「入門の入門」って、入門するモチベーションを持たせるためのものなんじゃないかなあ。マリコ様がどうしたこうしたとかいろんな事例を挙げてゲーム理論で解釈しているだけで、「なんでそんな風に考えないといけないの?」というところはよくわからなかったよ。

それでも、それっぽいことが「はじめに」のところでちょっとだけ述べられているので引用してみよう。

もしあなたが重要な戦略決定(たとえば、新商品の価格設定や、新規市場への参入戦略の策定)に携わるビジネスパーソンなら、ゲーム理論の基礎を理解していることは欠かせないだろう。

でも、これはかなり疑わしい主張だ。ゲーム理論を知らない優秀なビジネスパーソンなんていくらでもいるだろう。イーロン・マスクビル・ゲイツスティーブ・ジョブズ松下幸之助本田宗一郎ゲーム理論を勉強していたなんて話、聞いたこともない。どうもこの本はゲーム理論が現実に役立つということについて、ほとんど説明できていないみたいだ。がっかりだよ。

続いて、『活かすゲーム理論』もみてみる。「活かす」ということにこだわっている本書なら、ゲーム理論が何の役に立つのか、きちんと説明してくれるだろう。

私たちは生きている中で、多くの社会問題に直面します。社会問題とまではいかなくても、学校や会社、あるいは家庭など、日常の中で解決が難しい問題に直面することも少なくないでしょう。「なんでこんなことになるんだ」などと戸惑うこともあると思います。そのとき、ゲーム理論という手法をあてはめて考えることで、考えを整理し、その原因を解明していけるかもしれません。 p3

この本の中で強調されているのは、複雑な現実を抽象化してシンプルな「モデル」をつくることだ。そして、モデルをつくるための方法としてゲーム理論が位置づけられている。

モデル化をした後は、ゲームの結果を予測することになります。何が起きるかわからない複雑な事例であっても、簡略化をして本物の「ゲーム」のようにモデル化していくことで、プレーヤーのインセンティブを知ることができ、結果を簡単に予測できるようになってきます。p12

ゲーム理論を活かす』の方が、ゲーム理論を勉強する意義についてきちんと考えていると思う。つまり、現実が複雑すぎるからまずモデル化しよう。そのためにゲーム理論を学ぶのだ、ということだ。

しかし、それでは「モデル化」するとどんな良いことがあるのか。複雑なものを単純化したら、何か良い解決策が出てくるものなのだろうか。そこで、「モデル化」するとどんな良いことがあるかをもう少し考えてみよう。

モデル化するとなんかいいことあるの?

モデル化すると論理的に考えられるようになる

以下、参考にするのは『思考の方法学』という本だ。

本書でいう「モデル」とは、考える対象となる事物を吟味して大切な要素のみを選び出し(それ以外は捨て去り)、選び出された要素(部品)同士の関係性を記述することによって、現実の真似事(模型)をこしらえたもののことです。その際、モデルを、当事者の目的を達成するための「思考の枠組み」として上手く機能するようにこしらえることができれば、大変に役立つツールとなります。 p3

モデル分析は、現実への対処法を考えるときに不可欠の技術です。モデルを作成して用いるからこそ、私たちは論理的な思考に基づいて物事を理解したり、適切な計画を立てることができます。p4

ここでいう「モデル」は、必ずしもゲーム理論のモデルに限定されない。自然科学、工学、社会科学を問わない、あらゆる学問分野におけるモデルに共通した議論だ。

「論理的な思考に基づいて」というのがポイントだ。論理的な思考が必要なときにモデルが役に立つ。逆に、サッカー選手がPK戦でどう動くか、みたいなときは直感の方が重要だろうし、モデル思考はあまり役に立たないだろう。

もうちょっと具体的に、モデル思考とはどんなものかをみてみたい。そこで、リボ払いを例に、モデル思考とはどんなものかを考えてみよう(ここは『数字であそぼ。』第8巻のエピソードを参考にした)

クレジットでモノを買うとき、リボ払いなら月々同じ金額を払えばいい。利用者側としては、毎月の負担額が一定なのでなんとなく気が楽だ。だからリボ払いをする人はそれなりにいるのだろう。

しかし、これはただの分割払いではなく、実質的に借金なのだ。とうぜん利子がつく。しかもかなり大きな利子だ。だから、毎月払っていてもなかなか借金の残額は減らない。

100万円のモノをリボ払いで買うとしよう。深く考えない人は、月々5万ずつ払っていけば20ヶ月で完済するな、と考える。

しかし、これは100万円の借金なのだ。金利が15%なら(リボ払いの金利はべらぼうに高い)、1年で15万円の借金がプラスされる。だから、年間に5×12=60万円返済しても、残額は40万円ではなく、40万+15万=55万円だ。そして2年目はこの55万円にまた15%の金利がついて(複利というやつだ)、8万円程度の借金がプラスされる。残りの借金は約63万円だ。月々5万円ずつ1年返済しても、まだ3万円借金が残る。つまり、20ヶ月で返済できるはずだったのが、24ヶ月以上かかってしまうということだ。返済総額は、5万×24ヶ月=120万以上となり、20万以上も余計にかかってしまうことになる。これが、リボ払いをすることのコストだ。

真面目にこういう計算をする人なら、リボ払いなんてことはしない。あまりに割に合わないからだ。サラ金金利が18%くらいだというから、リボ払いを利用することはサラ金でお金を借りることとたいして変わりない。リボ払いを使うのは、多くの場合、こうした計算をしていない人たちだろう。

このような金利の計算をすることも一種のモデル思考だ。これはシンプルなモデルであり、次のパラメーターでできている。これにより、「いつ完済できるか」という予測ができるわけだ。

  • 初期時点での借金総額 100万
  • 金利 15%
  • 月々の返済額 5万

確かに、「考える対象となる事物を吟味して大切な要素のみを選び出し(それ以外は捨て去り)、選び出された要素(部品)同士の関係性を記述する」というモデルの要件はこれで満たしていることがわかる。

初期時点での借金総額、金利、月々の返済額は「大切な要素」だ。逆に、「リボ払いの勧誘員の誘い文句や笑顔」「月々の返済額が固定であることの安心感」といった要素は捨て去られている。それらは、リボ払いを選択する動機にはなっても、リボ払いで実際にいくら払うことになるかを説明する要因にはならないからだ。

このように、本質的でない要素を捨て去ることで、複雑な現実をシンプルに考えることができる。シンプルに考えることができるということは、論理的に考えることができるということだ。

論理的に考えるためには言葉や数式を使わなくてはならない。しかし現実が複雑すぎると人間の言葉や数式ではうまく捉えられなくなる。たとえば「渋谷のスクランブル交差点を渡る人たち全員の歩き方や表情や互いの位置関係を言葉や数式だけで説明しなさい」と言われても、そんなことは無理だろう。だから、なるべく無駄な要素はそぎ落とさなくてはならない。そうすることで、現実を言葉や数式で扱えるようになり、論理的に考えることができるようになるのだ。

もちろん、人はつねに論理的に考えるわけではないし、論理的に考えることが常に有効なわけでもない。たとえば有能な経営者は論理よりも「野生の勘」に頼っているかもしれない。PK戦のときのサッカー選手はその場の「空気」のようなものに反応して体を動かしているのかもしれない。あるいは、天才的なアーティストの「ひらめき」のようなものもあるだろう。

だけど、そうした勘(直感)が常に有効に働くとは限らない。勘が鈍るということもあるし、人間にはさまざまなバイアスがあるからだ。だからこそ、直感に頼る前に、冷静にモデル分析をして、自分の直感が正しいかどうかをチェックすることは重要なことなのだ。

モデル化すると他人の「断言」に惑わされなくなる

現在のようにSNSで様々なあやふやな情報や感情的な意見がやりとりされている時代では、現実をモデル分析することは特に重要だといえる。

さっきの本には、モデルを学ぶことのこういう効用も述べられている。

モデル分析の本来の有りようを学んでおけば、こうした世間に満ちあふれる断言に対して、「いったい、どのようなモデル分析によって導かれたのだろう?」という疑問を持つことができます。p23

たとえば、コロナパンデミックを例に考えてみよう。パンデミックの初期には、PCR検査の数を増やせ、という主張がよく聞かれた。日本の検査の数はあまりにも少なすぎる、というのだ。

しかし医療関係者たちは、検査をやみくもに行うのは良くないと主張していた。なぜかというと、感染者が少ない時点で検査をやみくもに行うと、本当は感染していないのに「感染者」と判定される人(偽陽性者)の数があまりに多くなってしまうからだ。

たとえば、人口1億1,000万人の国で、感染していない人が1億人いるとする。この検査法で、間違った検査結果が出てしまう確率が0.1%だとする。 すると、この1億人にPCR検査をすると、1億×0.001 = 10万人もの人々が、本当は感染していないのに感染者扱いされることになってしまう そういう人は、本当は感染していないのに感染者扱いされることで、生活を大幅に制限されることになる。そんな人を10万人も出してしまうのは、あまり好ましい事態とはいえないだろう。

一方、モデル思考が身についている人なら、「そもそも検査の精度はどれくらいなんだろう?」とか、「症状からみて感染の可能性が高い人をある程度絞り込んだ方がいいのではないだろうか?」という風に問うことができる。そうして、本当に検査をたくさんするべきなのかを疑うことができるわけだ。つまり、他人の「断言」に惑わされずに済むわけだ。

ただしこういうモデル思考をすることでいつもうまくいくわけではない。たとえば、ヤンデル先生というお医者さんは、noteにこんな記事を書いている。

note.com

ヤンデル先生はパンデミックのころ、PCR検査をやみくもにやってもしょうがないよ、ということをネット上で主張していた。そのときの動画も丁寧に上のリンク先で見られるようになっている。

その主張の根拠はさっき述べたようなことだ。つまり、感染している可能性のある人をある程度絞り込めていないうちに検査をやみくもにやってしまうと、偽陽性の人がたくさん出てきてしまうよ、ということ。

動画の説明はとてもわかりやすい。それこそ小学校高学年でも理解できるような内容だ。これはヤンデル先生の「意見」というよりも、科学的推論を淡々と述べているだけだ。つまり、「感染者数」「検査の失敗率」「検査対象者数」といった変数を使ってモデルを組み、「感染者数が多いときに闇雲に検査対象者を広げると、偽陽性の人が多くなる」という結論を引き出しているのだ。

でも、このようなモデルに基づいた主張をしたことを、さっきのnote記事では謝罪している。その趣旨は、PCR検査を受けたい人たちが何を求めているかをよく考えていなかった、というものだ。

考えてみれば、世の皆さんは、別に、PCRが大好きであるとか、PCRをやらないと生きていけないとか、no PCR no LIFEとか、そういったことは一切おっしゃっていません。 ただ安心したいだけなんですよね。 ただ不安・不満をなんとかしたいだけなんですよね。……

ぼくは、みなさんの「本当に欲しいもの」に対して、あまり真剣に向き合おうとしてこなかったのだと思います。

モデル思考の話に引き寄せれば、現実をシンプルにモデル化する過程で、「人々が本当に欲しいもの」に対する配慮までそぎ落としてしまったということだ。

モデルは完璧ではない。現実を単純化するわけだから、その過程で必ず何かがそぎ落とされる。そのため、不安な人に対してモデル思考をする人が「それはね、こういうことだから別に何の問題もないんですよ。安心してくださいね」と言っても相手の不安がまったく収まらないことがあるのだ1

確かにモデル化すると他人の「断言」には惑わされなくなる。でも、気付いたら自分の方がモデルに基づいて他人に傲慢な「断言」をしてしまっていることもあるのだ。だからモデルをつくる人は現実に対してもっと謙虚でなくてはならない。そして、モデルと現実がうまくかみ合わなければ、自分がつくったモデルを壊して作り直す勇気も必要だ。先に紹介した『思考の方法学』にも、こんなことが書かれている。

モデルというものは一通りつくり終えたらそれで終わりではありません。人間による営みを、伝統主義に陥ることなく正面から観察し、変える勇気を持つことが大切です。……新事実を部品として取り入れ、古きを捨てて新しきをこしらえることに努力を注ぐのです。これが、人間の幸せの実現を目指す研究の本質かもしれません。 p251

まとめ

  • モデル化すると、複雑な現実を論理的に分析することができるようにな
  • すると、人間が持っている偏見や感情的なバイアスを排除して、冷静にものごとを捉えたり、解決策を考えたりすることができる
  • しかし、反面、モデル化の過程で大事なものが排除されてしまうこともある(人の心に対する配慮など)
  • だから、モデルをつくって終わりじゃなくて、モデルが現実とどんな風に関係しているのか、モデルが排除したものは何なのか、どこにモデルの限界があるのか、ということをきちんと意識しないとならない
  • ゲーム理論は人間社会をモデル化するとても便利で面白いツールだ。だけど、当然、ゲーム理論でうまく説明できない事例もある。そこは謙虚にならないとならない。
  • かといって、卑下することもない。論理で説明できるところは頑張って説明してみよう。そうすることで、現実に対する見方を変えることができるし、ひょっとしたら、解決策のヒントくらいは見つかるかもしれないのだ。

あとがき

毎日ブログを書こうという誓いが風邪(というかインフルエンザ)で挫折してしまい、このブログをどうしたものかわからずしばらくほったらかしにしていた。

4月からの授業資料をいろいろ作らないとならないのだけど、非公開の読書ノートをひたすらため込んでいてもそこからどうやって授業スライドにつなげていくのかいまいちイメージがつかない。やっぱりブログで自分の考えを書いていった方が授業にもつなげやすいのかな、と思って復活した。また挫折するかもしれないけど、とりあえず第1弾です。


  1. これに対して、物理学者の早野龍五氏は福島の原発事故後、「科学的に意味がない」赤ちゃん向けの被爆調査をしていたという。科学的に意味がないというのは、大人の方が放射性物質代謝が遅いから、調査するのなら大人の方だけ調査すれば十分だからだ(大人が大丈夫なのなら、赤ちゃんも大丈夫)。だけど、親としては子どもの被爆がどうしても心配になるわけだから、むしろ子どもの方を調査してもらいたいと思う。《「この子を測ってください」って、必ず言われるんです。ですからやはり、たとえ科学的には必要なくても、ベビースキャンは必要なんです。》(早野龍五・糸井重里『知ろうとすること』より)