【読書ノート】『ルールに従う』第9章(実質ラスト)

10章「結論」がまだ残ってるけど、特に新しい話題が出てくるわけではないので、この9章でラストということにしたいと思う。

第9章 規範倫理学

イントロ

道徳哲学者たちは、人間同士の利他的ないし協力的行動を説明する上での問題をろくに考えてこなかった。つまり、理想的な道徳理論をつくったとしても、本当に人々がその通りに動くかどうかはわからないという問題だ。

その点、進化理論家たちの説明の仕方は役に立つ。しかし、彼らは逆に行きすぎている面がある。生物学的システムのダイナミクスを研究するのに用いられたのと同じ種類のゲームが、文化的システムにも拡張できると仮定してしまっているのである。それは愚かな仮定だ。

9.1 進化ゲーム理論の問題点

「集合行為問題における協力」を生物学的要因で直接するのは無茶だ。というのは、生物学的要因は、行動パターンの文化的適応度に直接作用しえないからだ。これは言語を見てみれば簡単にわかる。たとえば英語を話す人たちのほとんどが「失礼します(excuse me)」という状況で、カナダ人は「ごめんなさい(sorry)」と言う。こうした違いが、生物学的な適応度で決まってくるとはとても考えられない。

文化的再生産のモデルにおいて、「適応度」はブラックボックスの中なのだ。しかしこのブラックボックスの内部を進化ゲーム理論家たちは無視している。だから、彼らが「集合行為問題における協力」の成功について、特別な洞察をもたらすことはないだろう。

9.2 道徳と黙約

規範的合理性は基礎づけすることができない。それは文化的な産物なのだ。

それにも関わらず規範的合理性を基礎づけしようとするから話がへんなことになる。道徳哲学者たちは、ある行為が道徳的かどうかを決定するための単純な公式を探し求めようとしてきた。また、文化相対的なものを低くみて、道徳とは慣習的な社会規範とはちがう何か特別なものなのだという風に彼らは考えがちだ。

しかし、一般的な社会規範と区別される道徳的規範なんてものは存在しない。これらの間には明確な区別はないのだ。

道徳哲学者たちは、エチケットのような社会規範は任意に選択可能だが、道徳性はそうではないと考える。これは怪しい考えだ。マナー講師の主張する不思議なエチケットについて異議をとなえることに正当な道徳的理由があるのと同様に、道徳性のルールについても正当な道徳的理由にもとづいて異議をとなえることもできるのだ。

社会規範は黙約的だが、道徳性だって黙約的だ。人々が最後通牒ゲームに反応する仕方は、北アメリカでは公平性の原理の遵守を反映しているが、ニューギニアでは贈与を規制する規範の遵守を反映している。どちらも黙約的だ。どちらかというと「公平性」の方が道徳性に当たると考えられがちだけど、だったら「贈与」を重視するニューギニアの人たちは不道徳なのかね? そんなことないだろう。社会規範と道徳性は区別できないのだよ。

9.3 後黙約的道徳性

哲学者たちは道徳性を黙約から区別しがちだ。しかもさらにおかしなことに、道徳性を「黙約的道徳性」からさらに区別して、「本当の道徳性」みたいなものを考えているみたいだ。

だったら、その「本当の道徳性」とやらだけで世の中の道徳問題を考えればいい。だけど、なぜか彼らは黙約的道徳性のことも気にしがちだ。たとえば功利主義者たちは、功利主義から導かれる結論が黙約的道徳性の制約と衝突しないようにするのにかなり神経を使っている。「罪を犯していない人の臓器を取り出して病気の人に分け与えよう」みたいな結論が出ないように屁理屈をつくるとかだ。そんなに「本当の道徳性」が大事なのなら、黙約的道徳性なんて気にしなければいいではないか?

これは、黙約的道徳性と、倫理学における抽象的な理論との関係を、道徳哲学者たちがうまく理解してないことから起こってくる混乱だ。

彼らは「後黙約的」という表現を使う。後黙約的推論によって導かれた道徳性こそが本当の道徳性であって、黙約的道徳性はそれに依存するものにすぎない、というわけだ。だから、黙約的道徳性は後黙約的推論によって覆すこともできる。後黙約的道徳性は、黙約的道徳性に対する正当化の基礎を提供するというのだ。

私はこれは間違っていると思う。実際には、後黙約的道徳性は、その権威を黙約的道徳性に依存しているのだ。われわれが後黙約的道徳性と見なしているものは、本質的には、黙約的道徳性に暗黙的に存在している義務の構造を明示的に述べるようにデザインされた表出語彙なのだ。

これは日常生活における推論と、論理学における推論との関係に似ている。われわれが日常行っている推論(e.g. 「雨が降っている」→「歩道は濡れている」)は、三段論法のような形式論理を現実に適応しているわけではない。逆だ。むしろ、日常行っている推論の構造を明示的に述べるための表出語彙として論理学の推論が生み出されたのだ。

これと同じ事で、「道徳性」を実体化し、黙約的道徳性から切り離された独立の理想として取り扱うのは、「形式主義的誤謬」なのだ。

黙約的道徳性は非常に複雑な文化的人工物だ。これが矛盾する結果を導き出すことはある。たとえばトロッコ問題みたいな状況を設定すればいい。しかし、だからといって、道徳性が破綻してしまうということにはならない。単に、黙約的道徳性は単一の選択ルールや正当化のシェーマに要約されないというだけのことなのだ。

規範倫理学の仕事の要諦は道徳性の基礎を発見することではなく、われわれの実践に関するより頑健なテーマ化と批判的反省を可能にする表出語彙を発展させることだ。そして、そういう仕事がうまくできるのは、黙約的道徳性にわれわれがコミットしているからなのだ。

9.4 道徳的観点

道徳を社会規範と同一視する考え方には、2つの反論が存在する。

  • 反論1:不道徳的制度の問題
    • 道徳と社会規範が同じだとしたら、不道徳な制度があったとしてもそれを批判することができない。
  • 反論2:アノミー状態のインタラクションの問題
    • 規範システムの内部に地位を持たない人々をどう扱えばいいかわからない。

どちらも、黙約的道徳性の「外側に」何かの基準がないと困ったことになるぞ、という考え方だ。

反論2が考えているのは、たとえば古代ギリシアギリシア人が自分たちを野蛮人たちと区別していたようなケースだ。彼らは野蛮人には道徳的権利がないと考えていた。

このケースでは、ギリシア人は野蛮人を道具的に扱っても構わないのだろうか? そんなことはない。たしかに、当時のギリシアの社会規範システムは、野蛮人に配慮するための理由を提供してくれない。だけど、自分の振るまいがいつか規範に組み込まれる候補として残ることに、道徳的な人々は関心を持ち続けるだろう。

社会規範が具体的な指針を与えてくれなくても、自分を他者の立場に置き、自分の行為がその人の観点からどのように見えるかを考慮し、それがその人にとって受容可能かどうかを考えることはできる。ようするに黄金律ということだ。規範に従う生き物は、そうした「道徳的観点」を取るものなのだ。

もっとも、道徳的観点は、それだけで道徳律を生成するには弱すぎる。逆に、黙約的道徳性は複雑な文化的人工物であり、何世代にもわたって発展してきたものだ。道徳的観点は原理の候補を生み出すことはできるが、それが実際に社会規範に組み込まれるかどうかはまた別の話なのだ。

9.5 独立した道徳的判断

反論1について。不正義な規範に直面したとしても、黙り込む必要はないし、「外部」からの批判が必要なわけでもない。実際、公民権運動のような歴史上の道徳的改革の運動をみると、そうした道徳的主張は、実は日常的に用いられている言語を用いながら行われていることがわかる。

われわれは、子どものころは、完全に非反省的な仕方で社会規範に同調する。しかし、個人はだんだんと、志向的計画システムにいて社会規範と個人的欲求とのあいだに整合性をつけるようになる。こうして、模倣的同調性に対する非反省的性向として始まったものは、志向的計画システムの発展とともに、反省的で安定的な規範コントロールシステムとなるのだ。

9.6 結論

(略)

感想

倫理学の教科書だと社会規範と道徳を別物と考えるというのが普通の考えみたいだ。たとえば品川哲彦『倫理学入門』p16-17にはこんな風に書いてある。ここでは、「道徳」と「倫理」という表現が使われているけど、対応関係としては「道徳=社会規範」、「倫理=(社会規範と区別される)道徳」という風になってると思う(ややこしい)。

道徳とは、私たちが一緒に生きていくために守るべき行為規範の体系である。(…)これにたいして、倫理は本人の生き方の選択に関わる。(…)日本語の道徳と倫理という語に上のような区別はもともとないけれども、ラテン語ギリシア語のこの語源を反映させて、世間のきまりを遵守する生き方を道徳的、矜持ある生き方を倫理的と呼び分けることができる。

だけど、こういう風に分けることには根拠がない、というのが本章の議論だ。逆に、こういう風に分けてしまうと、社会規範と区別される「本当の道徳」というものがぽわーんと宙に浮いているということになってしまう。で、そういう「本当の道徳」に基づいて、Aという社会の規範は正しいけれど、Bという社会の規範は不正だ、という風にジャッジできるということになってしまう。だけどそれは三段論法のような形式論理に基づいて、人々の日常の論理判断の適切性を一方的にジャッジするのに似たへんな考え方だ。

論理学の語彙は、日常の論理判断の構造を明示化するためのものに過ぎない。同じように、倫理学の語彙は、日常の道徳判断の構造を明示化するためのものに過ぎない。だから、論理学や倫理学に基づいて現実をジャッジするのは形式主義的誤謬なのだ。

「本当の道徳」という「外部」がなくても、社会規範を「内部」から批判することはできる。「黄金律」を使ったり、個人の志向的計画システムの成長の過程において欲求と社会的規範を整合させたりする中で、そうした批判的視点を生み出すことはできる。もちろん、それはあくまで新しい社会規範の「候補」を生み出せるというだけであって、個人の力で社会規範を簡単に変えられるわけではない。だけど、少なくとも「本当の道徳」なんてものに頼る必要はないのだ。

…という風に、今回まとめた内容をさらにまとめ直したようなことになってしまった。個人的には、この9章が一番ためになった気がする。倫理学に対して持っていた違和感の正体がわかった感じだ。倫理学者は立派な倫理理論をつくるけれど、たいていの場合、社会に対してまったく影響力を持たない。たとえば「善」という概念の分析がどんなに緻密に行われても、社会での犯罪件数はまったく変わらないだろう。あるいは環境倫理学の議論が現実の環境問題の解決にほとんど寄与していないというのもさんざん指摘されてきたことだ。「倫理学者の役割は議論の交通整理だ」というのも聞いたことがあるけれど、交通整理なら他にも上手な人がたくさんいると思う。倫理学は何の役に立つのか? というのに納得のいく説明は、少なくとも私は聞いたことがない。

ヒースによると、倫理学の役割は論理学の役割と似ている。つまり、日常的な判断の構造を明示化するための語彙を提供するのがこれらの学問の役割なのだ。だから、これらの学問が、日常から離れたどこか「外部」で完璧な論理や道徳をこしらえて、日常を鮮やかにジャッジしてくれる、なんてことはない。そういう鮮やかなジャッジを期待するのなら、確かに倫理学は役に立たない。しかしそういう風に期待する人は、そもそも倫理学の役割をかんちがいしているのだ。

こうやって、倫理学の役割を限定的なものだと考える一方で、ヒースは進化論の役割も限定的なものだと考えている。社会規範は文化の一種だ。文化を進化論の枠組みで理解しようとしてもうまくいかない。文化の場合、何をもって「適応」と考えればいいかがあやふやだからだ。規範同調性自体は進化の産物だけど、規範同調性に起因する文化的変化は進化論の枠組みでは扱えない。社会規範は歴史的に形成されてきた「外的足掛かり」だ。倫理学者の誤りは、そうした外的足掛かり抜きでも人間は道徳判断ができると考えている点だ。進化論者の誤りは、そうした外的足掛かりの形成が進化論で説明できると考えている点だ。ヒースは両者に対して批判的に距離を置きつつ、人間の道徳性を論じていく。

普通、進化論を導入したら進化論でなんでもかんでも説明したくなるものだと思う。ヒースの議論の面白いのは、進化論の重要性は認めつつも、進化論から距離を取ろうとしているところだ。進化論が重要なのはあくまで「規範同調性」の導出までで、そこから先は進化論からの影響をシャットアウトする。そして、むしろセラーズやブランダムの言語哲学、あるいはカントの超越論哲学、そしてアンディ・クラークの認知哲学といった哲学の力で、人間の合理性や道徳性を検討していく。すべてを科学で説明しようとせず、科学で説明できない部分を残すというやり方は、ヘルマン=ピラートの「連続性テーゼ」とも共通している。

個人的に、科学で何もかも説明しようとする発想は好きじゃない。というか、納得できない。だって、どう考えても科学では決まらないでしょう、ということはたくさんあるから。小説読みながら、登場人物の言動のひとつひとつを進化論やらゲーム理論やら心理学やらで解釈しようとしてたら絶対破綻する(破綻せずに解釈し切れるとしたら、それは凡庸でダメダメな小説なのだ)。

決まらないということを強調しすぎるのが文学の悪いくせだけど、でも、逆になんでも決めすぎてしまうのが科学のダメなところだとも思うので、両者のあいだを行くようなのが良いと思う。本書はいい感じにあいだを行っている。まあ、あいだを行くというのは誰とも仲間になれないということでもあって、なかなかつらい道でもあるのだけど…。本書を引用している論文とか本とかって、あまり見たことないし。まあ、凡百の学者どもはビビって距離を置くのだろうけれどね。専門に立てこもっていつも有利にゲームを進めようとする人たちよりも、こうやって危ない道を行く人の方が私は好きだよ。