【読書ノート】オストロム『コモンズのガバナンス』問読(第3回)

問い:長期にわたって持続的で自律的な共的資源管理を可能にする社会規範は、どうして維持されてきたのか?

入会地とか里山とか、なんだか素晴らしいもののように語る人たちのことがちょっと苦手だ。「協働」とか「絆」って言葉も、目の前に突きつけられるとちょっとビビる。

吉本隆明が「人間は本当はひとりで生きたいのだが、仕方なく社会をつくった」みたいなことを言っている。たしか『中学生のための社会科』という本の中に書いてあったと思う。 吉本さんがそういうことを言うのは、「孤独」というものが人間の核にあるのだという人間観を持っているからだろう。吉本さんに影響を受けている糸井重里は「ひとりでいるときの顔が想像できない奴のことは信用できない」と言っているけれど、同じような意味だろう。私はこのふたりにだいぶ影響を受けている。

なんでオストロムを放置してこんなことをダラダラ書いているかというと、オストロムの「みんなが自発的に協力し合えばコモンズの悲劇なんて回避できる」という考え方になんだか居心地の悪いものを感じているからだ。私がこのブログで散々悪口を書いている『人新世の資本論』の「コモン」という考え方にも近寄りがたいものを感じる。

この手の議論は突き詰めれば「ソーシャルキャピタル」というところに行き着くのではないだろうか。だけど、冷静なソーシャルキャピタル論者なら必ず指摘してくれることだけど、ソーシャルキャピタルって、負の側面も持っているものなのだよ。

たとえば昔の日本の農村は人々が貧しいながらも助け合っていたので、ソーシャルキャピタルは非常に豊かだったと言えるだろう。でも、よそ者に対しては冷たかったし、村の掟を破った者への寛容さだって皆無だった。ようするに、仲間内ではソーシャルキャピタルは人々を協力に導くけれど、その範囲を越えるとむしろ人々を疎遠にしてしまったり、場合によっては対立を招いたりすることもあるということだ。

このことについて、そういえばヒースも同じようなことを書いてたな。

odmy.hatenablog.com

ハーディンの議論はよく誤解される。そうした誤解は、インフォーマルなコモンズではコモンズの悲劇は発生しないという、ハーディンに対する批判にみられるものだ。エリノア・オストロムによれば、単にコモンズが存在する(つまり私有財産権がない)というだけでは、必ずしも悲劇を生み出さない。もし、その集団がインフォーマルな規範や道徳的な制約など、その他の制度的な取り決めによってフリーライドを防ぐことが可能であれば、それは問題を解決するための完全に合理的な方法となる。

しかし、そうしたインフォーマルなコモンズで成り立つことは、一般的に言って拡張性に欠ける。 つまり、人々が互いによく見知っていて、信頼し合っている小規模な定住型コミュニティではうまく機能したとしても、関係者の数が多くなるにつれて維持が難しくなる。見知らぬ人々の間ともなれば実質的に維持が不可能になるだろう。

まあ、そういうことなんだろうな。だから、オストロムの提案する理論やモデルはしょせんは小規模なコミュニティでしか通用しないものだよ、ということになるだろう。そして、そうした小規模なコミュニティが衰退し、グローバルな資源管理や環境汚染の方が問題となっている現在では、むしろオストロムが批判するような教科書通りのゲーム理論のモデルの方が現実をうまく説明してくれるのではないだろうか。今の気候変動なんてもろに囚人のジレンマだし。

さて本題。オストロムは「長期にわたって持続的で自律的な共的資源管理を可能にする社会規範」の維持についてどんなことを書いているだろう?

オストロムは3章の最後に、そうした資源管理を可能にする制度の設計原理として次の8つを挙げている。

  1. 明確な境界
  2. 地域的な条件と調和したルール
  3. 集合的選択への参画
  4. 監視
  5. 段階的な制裁
  6. 紛争解決メカニズム
  7. 組織化における最低限の権利の承認(外部の政府権力が制度づくりに介入しないということ)
  8. 入れ子状の組織(より規模の大きな共的資源の場合)

明確な境界がないと、よそからどんどん人が入ってきて資源が取られてしまう。すると早い者勝ちになってしまって、資源管理なんか成り立たなくなるのだ。だから明確な境界は絶対に必要だ。

また、ルールは地域的な条件と調和していないとならない。一律なルールを押しつけてはダメということだ。そして、その地域と調和するルールをつくるためには、ルールの影響を受ける人たち自身がルール作りに参加できないとならない。

ところで、こうしたルールに人々はなぜ従うのだろう? 狭い社会だから、周囲に対する自分の評判が傷つくのを恐れてルールに従うというのはあるだろう。だけど、それだけではない。監視と制裁活動も必要だし、実際、人々はそうしたことにずいぶん労力をかけている。

この問題についてもちゃんとオストロムは論じている。それは、ルールがうまいこと作られていて、監視の費用が少なかったり、あるいは監視すること自体が監視者に便益をもたらしたりするからだ。

たとえば、灌漑の輪番制だ。この場合、利用者は利用時間が決まっていて、順番に取水する。先にAさんが使っていて、次の順番のBさんが自分の番を待っているとしよう。このとき、ふたりは図らずも相互監視をしていることになる。なぜなら、Aさんがまだ取水している以上、Bさんはずるして取水時間を早めにして取水量を多くすることはできない。また、Bさんが待っているわけだから、Aさんもまた取水時間をだらだら引き延ばして取水量を増やすことはできない。ふたりは別に正義感から相手を監視しているわけではないが、結果的に、相互監視をしていることになるのである。つまり、監視費用が少ないということだ。

また、監視者は違反者を見つけると報酬が与えられることがある。監視により便益がもたらされるということだ。日本の村の例でも、監視者は違反者から酒をせしめることができる。

違反者に対する制裁は段階的なものになる。つまり、あっけないほど軽いものである場合もあれば、かなり重い場合もある。これは人々がルールに従おうとする気持ちに配慮したものだ。たとえば、何度もルール違反を繰り返す人に対してはそれなりの厳しい制裁が必要だ。そうでないと、他の人からしたら「あれだけ違反してるのにあんなに緩い制裁しか与えないんだったら、こんなルール守るだけ無駄だな」と思われてしまうからだ。だから、見せしめとしての厳しい制裁が必要になってくる。その一方で、たまたま違反してしまったような不運な人に厳しい制裁を加えたら、その人は腹を立ててもう二度とルールに従おうと思わなくなるかもしれない。制裁はケースバイケースでなくてはならないのだ。

これに関連して、紛争解決メカニズムの存在も重要だ。これは、ルールの解釈をめぐる紛争解決という意味だ。悪意のないルール違反まで厳しく追及するようでは、そのルールは不公正だと思われ、誰も従わなくなる。だから、みんなが納得するようなルールの解釈をするために、紛争解決メカニズムが必要になってくるのだ。

あと、こうしたルールづくりに外から政府が口出ししないようにしないとならない。さもないと、政府の力を借りて自分たちのルールをひっくりかえそうとする輩が出てくるからだ。

最後の入れ子状の組織というのは省略。資源管理が複雑なときはこうなるというだけのこと。本質的なのは1~7の原理だ。オストロムの3章での議論はこれで終わり。

こうしてまとめてみると、思ってたよりも「絆」みたいな話が出てこなくて、個人的にしっくりくる議論だな。よく知りもせずに悪口書いてすみません。オストロムはゲーム理論の既存の研究を批判しているけれど、その割に、ゲーム理論にちゃんと回収することもできそうな議論になってる。今回の議論で各プレーヤーは利他的であるとか身内に優しいとかの仮定はぜんぜんされてないのだ。

その一方で、ヒースの言うとおり、これをもっと大きなコミュニティの問題にまで拡大するのは難しそうだ。たとえば日本の憲法や法律をぜんぶチャラにして、相互監視と段階的制裁だけでやっていこう、という風にしたら、日本はヤクザか新興宗教に乗っ取られることになるだろう。

あるいは、単なる規模の問題だけでなく、その社会の近代化の度合いも関係してきそうだ。日本の部活動で相互監視と段階的制裁だけでやっていったら、すごく強くて一体感のあるチームができそうな気もするけれど、体罰とハラスメントの横行するブラック部活になりそうな気もする。近代的な部活動なら、体罰やハラスメントがあれば相談窓口に行けばいいということになる。しかし原理7が満たされている場合、ルールづくりに外部は口出しできないのだ。

こう考えると、よくできた議論だなあと思う一方で、なんだかオストロムの見ている世界がとても懐古趣味的なものにも見えてくる。それとも、ここらへんの難点は第4章の制度変化のところで扱われるのだろうか?

そこで次の問い。

次回の問い:オストロムの議論はただの懐古趣味なの?

【独学法】目次マトリクスはアウトライナーでやった方がいいな

シラバスを書かないとならない。ネタになりそうな文献を1冊1冊真面目に読んでいったら時間が足りなくなるので、まずはバッと網を張って、使えそうなネタがどこにあるのかを特定したい。掬読や問読も使えるけれど、一番役に立ちそうなのは目次マトリクスだ。

目次マトリクスは独学大全で出てきた手法。文献整理に使える手法で、オリジナルは看護学の先生が開発したものらしい。

目次マトリクスは、複数の書物から抜き出した目次をひとまとめにすることで、それら書物の内容と構成を一望化できるようにしたものである。 『独学大全』p442

イメージとしてはこんな感じかな。本は架空です。

書名 1章 2章 3章 ………
癌は治る 癌は食事で治る やっぱり病院に行こう 漢方も悪くない
コロナは来る コロナ第10波は来る! ワクチン古今東西 私の免疫力は53万です
飲み物は基本おいしい 牛乳はおいしい ジュースもおいしい 水は普通

これでまず、本の概要がざっとつかめる。でも、それだけだともったいない。せっかく表をつくるのなら、それぞれの本の内容同士の関連性も見てやりたい。で、似たような内容のセルがあったら、それらのあいだを関連づける。線を引っ張ったり、同じ色を塗ったりするのだ。

線で結ぶためには、目次マトリクスに集められた情報を理解し、突き合わせ、比較することが必要になる。こうした作業を通じて目次マトリクスは血肉化していく。情報を処理することを通じて、目次内容の理解が深まり、さらに不明箇所やもっとよく理解する必要がある箇所なども浮かび上がってくる。 『独学大全』p444

ただ、その関連付けの作業がExcelだと難しい。独学大全ではなんか線を引っ張ってる図が出てくるのだけど、Excelでそんな線を引っ張ったりしたらレイアウトが崩れたり線がごちゃごちゃになったりして、どう考えても悲劇にしかならないと思う。セルに色を塗って、同色同士で関連づける、というやり方もあるけれど、色なんてすぐに足りなくなるのが目に見えている。また、同じ章に複数のトピックが含まれていたら、どんな色を使えばいいんですか? という問題もある。

というわけで、Excelで目次マトリクスを作るのはいろいろ問題がありそうだ。それで、アウトライナーを使うことにした。そもそも私はExcel嫌いなのだよ。なんか重いし。

手順はこんな感じ。使ってるアウトライナーはworkflowyです。

1. ただひたすら目次を書き込む

  • 小見出しも書き込む
  • 書き写すのが大変ならどっかから書誌情報を探してきてコピペするという手もある。でも、真面目に書き写した方が頭に定着するので、私はせっせと書き写している

2. 章のタイトルに適当にタグを貼っておく

3. 打ち込み作業がある程度進んだらタグを検索

  • 検索欄でタグにカーソルを合わせるとそれまで入力したタグがずらっと出てくるので、関心があるタグを押せばいい

4. 検索に引っかかったそれぞれの章にコメントを書き込んでいく

  • (まだここまで作業が終わってないので図はない)
  • この作業のなかで、気がついたらタグを追加したり、コメントをさらに追加したりする。これで文献間の関係性がどんどん明確になってくるし、それぞれの文献に対する理解も深まる。

その他まだ言いたいこと

  • このやり方がExcelよりも便利なのは、たんに目次を書き写すだけでなく、それぞれの章の小見出しの下位にさらに書き込むことができること。Excelでセルの中に書き込んでいったらどんどんセルが巨大になってしまうけれど、アウトライナーなら、書き込みが邪魔なら単にたたんでしまえばいい。
  • 目次には章タイトルしか書いてなくても、本文を読んでいくと小見出しが出ていることがある。小見出しは大事な情報なのでちゃんとマトリクスに書き込んでいこう
  • 章タイトルや小見出しだけみても内容がよくわからなかったら、何行か抜き書きしてみよう。
  • タグの付け方のコツはとりあえずこんなところだろうか。もっと良いやり方もある気がするけど
    • 章タイトルや小見出しを見ながら、重要そうなキーワードを選ぶ
    • その項目のレベルに適したタグを貼ること
      • たとえば、環境経済学の教科書の章に「環境経済学」というタグを貼るべきではない。環境経済学の本なのだから、すべての章が環境経済学に関連しているに決まっている。このやり方ではすべての章に「環境経済学」というタグを貼るはめになる。各章には、「環境経済学」よりも下位レベルのタグを考えるべき(CVM、費用便益分析など)。
    • タグの表記揺れは避ける
      • たとえば「地球温暖化」というタグと「気候変動」というタグはどちらも意味としては同じ。しかし、両方をその場その場でバラバラに使っていると、あとで検索しても関連する章をいっぺんに表示することができなくて不便。どちらかに統一しよう(あとで気づいたら統一するというのでもいいと思う)。
    • 目次を書き写したり、抜き書きしたりしながら、「あ、ここ面白いなあ」と思ったところはにはタグでgoodをつけておく。いいね、ということ。あとでgoodタグを検索すると面白いものばかり出てくるので面白い

【読書ノート】オストロム『コモンズのガバナンス』問読(第2回)

イントロ

もともとこのブログを始めたきっかけは『独学大全』に書いてあった「会読」という独学法を実践するためだった。

会読は、同じように本を読む人たちとともに行う共同行為である。これだけでも我々は、いくらか挫折や断念から遠ざけられる。(……)では、共に会読する人を見つけられない時はどうすればいいか。一つの方法は、一人でも始めてしまうことだ。(……)一冊の書物をただ読むだけでなく、他人にもわかるように文章化することは、何よりも理解を助け深める。インターネットを使えるなら、一人会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ。誰かわからぬが、誰かが見ている(かもしれない)事実が、継続を支える。『独学大全』p221-225

この「他人のもわかるように文章化する」というのがポイントなのだよな。ただ読書ノートを作るだけならObsidianなりNotionなりに作ればいいのだけど、後から読み返すとなんか無味乾燥なものになりがちだ。それでブログを再開しようという気になったのだ。

とはいえ、やってみると割と面倒なのだよ。再開の決意はしたけれど、ついついサボりがちだった。それで、「継続する技術」というアプリを導入した。

三日坊主を解決する神アプリ|『継続する技術』で出来る事とは (teluru.jp)

これは、何かを習慣化するためのアプリだ。というとありがちだけれど、このアプリの特徴的なのは、習慣化したいものを1つしか指定できないこと。あれこれ目標を設定すると結局どれもつづかなくなってしまう。だったら1つだけにしてしまえばいい。それさえできなければお前はクズだ。トイレを使っても出したものを流せない連中と同等だ。クズになりたくなければ1つに絞って習慣化するがいい。お前がクズでなければきっとうまくいくからがんばってね。おそらくそういうメッセージが込められたアプリなのだと思う。

それで私は「ブログを書く」という毎日の目標を立てた。クズにならないために、毎日がんばろう。

オストロム問読(第2回)

問い:具体的な事例を教えて1

本書でオストロムは次の3つのテーマそれぞれについて事例分析をしている。

  1. どうすれば長期にわたって持続的で自律的に共的資源を管理できるのか? (第3章)
  2. 制度変化はどんな風に行われるのか? (第4章)
  3. 失敗したり脆弱性を持っていたりする制度はどういう特徴を持つのか? (第5章)

ここで、基本になるのは1番目のテーマだろう。だから、第3章から事例を1つ持ってくれば、本書のイメージが摑みやすくなるはずだ。日本人である私にはちょうどいいことに日本の事例が出てくるので、日本の事例を以下に紹介しよう。

日本の事例:村落での共有地管理

  • McKeanという学者が日本の3つの村落を対象に調査研究した。以下、調査結果 p79-83
    • 日本では何世紀にもわたって共有地が村落の制度によって管理されてきた。
      • 森林や山間部の自然、草地が管理されてきた
    • そもそもコモンズでどんなものが生み出されたの?
      • 木材、ススキ(茅葺き屋根などの材料になる)、飼料、腐葉土(肥料になる)、薪、炭など
    • 土地の所有権はどうなってたの?
      • もともと土地の所有権は朝廷にあったが、16世紀後半の太閤検地の結果、村落に委譲された
      • 村落の所有地に関する収支計算や分配の単位は世帯ではなく、組(複数の世帯で構成される)
        • 一方、アクセス権は世帯単位で与えられる
          • 個人には認められない
      • 近代化以前の人口成長率は昔は非常に低かったので、村落内の所有権分布は大きく変化しなかった
    • コモンズに関するルールはどんなものなの?
      • 村の寄り合いで、コモンズから得られる有用な産物を各世帯がどれだけ収穫できるかが決められていた
        • 寄り合いは、全世帯の家長が参加する資格がある
      • コモンズの収量を高めたり維持したりするための共同作業が各世帯に求められた
        • 年1回の火入れとか、樹木や茅を刈るとか
      • 監視と罰則のルールもあった
        • 不正利用者を探す監視員を雇っていた
          • 不正利用とは、入山が認められていない時期に入山して収穫するなど
        • 違反者は収穫物や道具、馬を取り上げられた
          • 罰金を納めると道具と馬は返してもらえる。収穫物は没収
        • 違反の程度が重いと村八分となる
    • どういうときにルール違反が発生するの?
      • 入山が認められる時期(口明け)が来るのを待ちきれずに入山してしまうとき
      • コモンズの管理に関する村の長の決定に納得できないとき
        • まだ口明けではなかったが、彼らは、自分たちの畑で育てている野菜に用いる支柱に必要な木の棒を切り出すために揃ってコモンズに入ってきた。もし彼らが適切な時期に木の棒を切り出すことができなければ、野菜の収穫が台無しになる。彼らは、村の長が的外れな口明け日を設定しているということに確信を持っていたのである。 (McKean 1986より) p81

さらなる問い

ようするに入会地みたいなことなのかな? 入会地の定義はよくわからんけど。

疑問は、どうしてこういう社会規範が維持されてきたかということ。いくら監視があるったって、大勢の村人たちが違反をやるようになれば、監視が追いつかなくなるのは目に見えている。なんだったら、監視員に見つかっても買収するという手だってある。あるいは、監視員とグルで違反をするという手もある。まじめに監視員をやって報酬をもらうよりもずっと割が良いんじゃないだろうか。

ここらへんの問題は3章のまとめで議論されているみたいだ。明日、そこのところを再び問読していこう。

次回の問い:長期にわたって持続的で自律的な共的資源管理を可能にする社会規範は、どうして維持されてきたのか?


  1. 6章の結論はなんなのか、という問いも前回挙げたけど、それに答えるにはたぶん本をぜんぶ読まないといけない。まずはやりやすいところから取り組んで行こう。

【読書ノート】オストロム『コモンズのガバナンス』転読・掬読・問読(第1回)まで

イントロ

授業準備でいろいろと本を読まないとならない。私は遅読なので、なんでもかんでも読んでるわけにいかないから、読むべき本を効率的に絞り込んでいくしかない。

せっかくなので、もう少し方法論という奴を取り入れて読んでいきたい。例の『独学大全』に出てくる本の読み方を実践してみるのだ。

今回扱う本はオストロムの『コモンズのガバナンス』。「コモンズの悲劇は現実には必ずしも発生しないよ」というのを実証的に明らかにした本らしい。有名な本で、私も他の本で引用されているのを何度も見たけど、おっくうなので読んだふりして読んでなかった。読もう。

読み方

読み方の手順としては、独学大全に出てくる次の方法を使いたい。

  • 転読
    • やり方:本をぱらぱらめくる。1分以内のすべてのページをめくる。
    • 効能:『独学大全』ではあんまり明確に述べられてない。たぶん、読むことのハードルを思いっきり下げる、というのが効能なんじゃないかな。積ん読対策ということか。繰り返し転読するべきである、とも書かれている。
  • 掬読(スキミング
    • やり方:読むべき所だけ読む。つまり、序論や第1パラグラフに載ってる目的や問いを読んで、それに対応する結論が書いてある最終パラグラフのあたりを読む。
      • 『独学大全』では触れられてないけれど、「各段落の最初の1行だけ読む」というのも効果的だと思う(パラグラフライティングで書かれた文章は、段落の最初の1行にその段落の概要が述べられている)
      • あと、目次を読む、というのもよくあるやり方だけど、これも『独学大全』で紹介されてないな。目次をみて、目的と結論がどこに書かれてるかを探す、という風にやるとよさそう。 → (追記)「目次マトリクス」という方法のところでばっちり紹介されてました
      • それから、翻訳本の場合は後書きを見るというのも使える技だ。
        • ただ、今回のオストロム本の訳者あとがきはあまり役に立たない。お世話になった人たちへのサンキューを書き連ねているだけだから。
    • 効能:最小限の時間でテキストの概要をつかむ。読むことのハードルを下げるという効能もある。
  • 問読
    • やり方:まず、文献の章見出しを拾い出して、それを問いの形に書き換える。次に、その問いに対応した答えを本の中に探す。
    • 効能:簡単に本の要約ができる。問いの数を増減させれば、要約の長さや密度を自由に変えられる。理解が深まるし、記憶にも残りやすい。

あと、段落ごとに要約する「段落要約」とか、線を引っ張ってあとでそこについてコメントを書く「刻読」とかは、私がいつもこのブログでやってることだ。今回は問読までやろう。あと、問読は複数回やると良いと思う。今回は1回目ということ。

転読

  • 1分間、ページをぱらぱらめくってみてわかったこと
    • ゲーム理論っぽい図が出てくる。普通の書き方とちょっとちがう気がする。
    • 引用文献リストがやたら長い。
    • 途中で実証分析みたいのやってるなあ。フィールド調査の結果みたいなのが出てくる。
    • 図表はいろいろ出てくるけど、いかにも学者っぽい書き方なので読みにくそう。
      • 一般人が楽しんで読むような本じゃなさそうだ。

掬読

  • 目的
    • 共的資源のガバナンスや管理のために自己組織化できる場合もあれば、できない場合もある。それがなぜなのかを明らかにする。 p29
  • 結論
    • 現在の集合行為理論は、次の3つの問題を抱えている p236-237
      • 制度変化の漸進的で内発的な性質を考慮すること
      • 内部変数が集合的なルールの供給の水準にどのように影響するかを分析するための、外部の政治体制の特徴を考慮すること
      • 情報と取引費用を考慮すること
    • 本書ではこれに代わり、次のような変数を考慮した枠組みを提案する p238-
      • 制度選択に影響を及ぼす変数
        • 制度選択の便益についての判断に影響する状況変数
        • 現行のルールを変更する費用の判断に影響する状況変数
          • 監視費用と実効化費用の判断に影響する状況変数
        • 共有規範と割引率に影響する状況変数
    • (結論が6章全体に散らばっているので、探すのが大変。本書全体を読むよりも、まず6章を先に読んだ方がいいのかもなあ。)

問読(1回目)

  • 章タイトルを問いに変換して答えを書く
    • 第1章 コモンズを見る視点
      • 問い:コモンズをどんな視点からみるのか?
      • 答え:共的資源のガバナンスや管理のために自己組織化ができる場合とできない場合がある、という視点からコモンズを見る p29
    • 第2章 共的視点をめぐる自己組織化と自治に関する制度分析
      • 問い:共的資源をめぐって人々が自己組織化や自治をしているとき、それを支えている制度をどう分析するのか?
      • 答え:共的資源問題は、「占用問題」と「供給問題」の2つに分けて考える p55
        • 占用に関する重要な問題は、固定的で時間独立的な資源をいかに配分してレント消失を回避し、不確実性や権利の割り当てに関する対立を少なくするか、といったものである。 p56

        • 共的資源をめぐって人々が直面する供給サイドの問題は、資源システムの構築およびその維持管理に関するものである。 p57

        • 需要サイドの供給問題の1つに、資源そのものに悪影響を及ぼさないための採取率の規制がある。 p58

    • 第3章 長期にわたって持続的で自律的な共的資源の管理
      • 問い:どうすれば長期にわたって持続的で自律的に共的資源を管理できるのか?
      • 答え:制度に関して、次の8つの設計原理が必要 p106
        • 明確な境界
        • 地域的な条件と調和したルール
        • 集合的選択への参画
        • 監視
        • 段階的な制裁
        • 紛争解決メカニズム
        • 組織化における最低限の権利の承認
        • 入れ子状の組織(規模の大きな共的資源の場合に必要)
    • 第4章 制度変化の分析
      • 問い:制度変化をどういう風に分析するのか?
      • 答え:
        • すべての再帰的な状況が制度的ルールによって形作られていると仮定することである。 p166

        • すべての再帰的な状況が、あるルールによって特徴づけられていると仮定すれば、制度供給の概念は、新しい制度の「起源」と呼べるものと、既存の制度の変化と呼べるものの両方を含むように拡張できる。 p167

        • 基盤的選択と集合的選択の過程はともに、さまざまな状況における行為主体の行動に影響するルールを生み出すのである。 p168

        • 基盤的選択の段階では、誰が資格を持つかを定め、将来の集合的選択の決定方法を定めた現行のルールを変更すべきかどうかを、人びとが決定する。 p168

        • 同様に、集合的選択の段階では、誰が資格を持つかを定め、将来の運用上の選択について定めた現行のルールを変更するかどうかを、人びとが決定する。 p168

        • どちらの過程においても、現行のルールと変更後のルールのもとでのフローの純便益の期待値を、人びとは比較する。したがって、制度変化を説明するためには、ルール変更が提案される場に参加している人びとが、現行のルールと変更後のルールにおける純便益をどのように捉え、評価するかを検討する必要がある。 p168-169

    • 第5章 制度の失敗および脆弱性の分析
      • 問い:失敗したり脆弱性を持っていたりする制度はどういう特徴を持つのか?
      • 答え:第3章で挙げたような設計原理を持っていない
    • 第6章 自律的な共的資源管理の分析枠組み
      • 問い:自律的な共的資源管理を分析するのにどんな枠組みを使うのか?
      • 答え:(掬読で明らかにした結論と同じ。以下、再掲)
        • 本書では次のような変数を考慮した枠組みを提案する p238-
          • 制度選択に影響を及ぼす変数
            • 制度選択の便益についての判断に影響する状況変数
            • 現行のルールを変更する費用の判断に影響する状況変数
              • 監視費用と実効化費用の判断に影響する状況変数
            • 共有規範と割引率に影響する状況変数

今後

なるほど、なかなか良い感じの読み方だな。オストロムの本がどういう方向性で展開していくのかだいたい見えてきた。

ただ、6章はこれだけだとよくわかんないな。本書全体に言えることだけど、「ここが本章の結論です」という風にきちんと明示していない。普通は章の最後の節が結論になっているものだけど、オストロムの場合、そういう書き方をしていないのだ(勘弁してくれ)。6章はとくにその傾向が強くて、結局、6章全部を読まないと何が結論なのかよくわからない気がする。

あと、具体的な事例をひとつかふたつちゃんと読まないとイメージが湧かないなあ。

というわけで、第2回の問読では次の問いに答えていきたい。

  1. 6章は結局どういう結論なの?
  2. 具体的な事例を教えて?

全部読まなくても、こうやって問読を繰り返していけば自分に必要な知識は手に入るわけだ。なかなかいい。たぶん、このオストロムの本ってまともに読もうとしたら1ヶ月くらいかかっちゃうと思う。問読なら1週間くらいでいけるのではないかな?

【雑文】もっと凸凹を!

 私がやりたいことは突き詰めれば勉強ノートをまとめることなのだから、別にブログに書かなくてもいいよなあ、と思ってしばらくブログを休止していた。その後少しのあいだだけScrapboxを使っていて、そのあと深い理由もなくNotionに移行した。

 ただ、Notionに勉強ノートを書き続けてだんだんわかってきたのだけど、これだと本当にただ本の要約を書いているだけになってしまいがちだ。

 要約だけだと何がまずいのか? それは、本の内容が頭を素通りしてしまうことだ。

 本を読むときは、別にその本に全面的に賛成して読んでいるわけではない。ところどころ「へんだなあ」と思ったり「これって、こういう方向にも展開できないかな?」とか思ったりしながら読むわけだ。つまり、本は読み手のバイアス込みで読むものだ。なのだけど、単に要約を書くというだけだと、そうしたバイアスのない、平板な文章になってしまう。だから、頭を素通りしてしまって、読んでも読んでもなかなか頭に定着しないし、自分の考えもあまり進歩しない。文章はもっと凸凹したバイアス込みのものにした方がいいのだ。

 別にNotionでもなんでも、バイアス込みで書けばいいじゃん、という気もするのだけど、なぜかNotionだとそうはならない。Notionだからというよりも、人目に触れない文章を書くと、書き方が平板なものになってしまうということだと思う。書いても楽しくないから、必要最低限の労力で効率的に書こうとする結果、平板になるのだろう。

 放置していたブログの方は、あんまり人は来ないのだけど、それでも平均したら毎日10pvくらいはある。10人が1回ずつ見てるのか、1人が10回見てるのかはわからないけど、ともかく人目に付いているということだ。

 人目があれば、そこには自意識が働く。自分が賛成できない内容の本の要約を書くとき、自分がそこに賛成していると思われたくないから、余計な自分の意見を書き添えたりする。くだらない自意識だ。でもその自意識が、余計なことまで考える動機になる。それで結果的に、ブログに書いた方が凸凹した文章になるのだ。

 あと、私はずいぶん長いこと失業していたのだけど、やっと大学教員に復帰することになったのだよね。それで授業資料をつくろうと苦悩しているのだけど、「なんかこんな調子じゃクソみたいな授業にしかなんないな」という感じにつきまとわれているのだ。

 だから、授業資料のパーツをこのブログで作っていこうと思っているのだ。で、なるべく凸凹したパーツをつくっていきたい。凸凹したものが学生に受けるかどうかというと、まあ、受けないだろうと思う。効率的に勉強したい大多数の学生にとって、凸凹は忌むべきであって、もっとすべすべしてないといけないのだ。でも私は中学生や高校生くらいのころから、そういう「わかりやすく丁寧だけど無味乾燥な授業」をする先生たちのことを内心軽蔑していたのだよ。点数の取り方を教えてくれる先生よりも、自分の考えを論じてくれる先生の方が好きだった。

 私が高校時代好きだった古典の先生は、古典の授業なのに太宰治坂口安吾の話ばっかりしてたな。クラスの9割くらいの人たちはその話を無視してせっせと受験勉強に励んでいたけど、私を含む1割は先生の話を熱心に聞いていた。私はその1割に届く授業ができればいいと思っている。

 はてなブログ、しばらく使ってなかったけど、ブログタイトルをAIが考えてくれるサービスなんて追加されてたのだな。使ってみたら、「授業を楽しくする先生の秘訣」だってさ。まあ、AIに読みこなせないような文章を書けるよう、これからも努力するよ。

【雑文】ブログでなくてもいいのかも

 私がブログを書くのは、別に人とコミュニケーションしたいからでもないし、人々を啓蒙しようというのでもないし、承認欲求を満たしたいからというのでもない。ただ、読書ノートに使っているだけだ。

 読書ノートが欲しいのならコクヨがお勧めですよ、と言うことになりそうだけど、私は字が汚いし、それに、書いたものをすぐどっかやって無くしちゃうし、私はコクヨ向けの人間ではないようだ。それならPCのメモ帳的なツールにどんどん書き込んでいけばいいのだけど、そういうのって、読み返さないのだよ。PCはあくまで仕事のためのものと割り切っているので、仕事じゃなけりゃ触りたくもない。

 その点でいうとブログはなかなか良い感じだ。読み返したかったらスマホタブレットを使えばいい。あと、人前に出すものなので、書き方もそれなりに穏やかになる(ひとりで書いてると、筆者を罵倒したりする癖がある)。あと、読者の反応がわかるのはちょっと面白い。たとえば風土論はとても不人気のようで、PV数がガクンと減る。私は他人と感覚がずれてるので、そういうズレが可視化されるとふーんと思う。

 ただ、ちょっと気になってるのは著作権の問題だ。私は本の内容をコンパクトにまとめる能力がないので、けっこうダラダラとまとめる。でも、それって著作権的にどうなのだろう、と少し心配になっている。古い本とか洋書なら、損害を被る人が実質的にゼロだと思うから、思いっきりダラダラまとめる。でも、新しい本だとどうかな、とも思う。あと、数式がたくさん出てくるような本になると、実質的に本の丸写しに近いことになってくる(式を丸写しして、そこに注釈を加えていく感じ)。やっぱりそれはまずいだろう、と躊躇してしまう。

 最近、scrapboxというツールを見つけたのだけど、これをブログの代用にしてもいいなあ、と思いつつある。ザックリ言うと、「自分専用のwikiがつくれる」みたいなツールだ。ページ間にリンクも張れるみたいだけど、私は無能なのでそんな面倒なことはしない。普通にブログみたいに使ってる。そして、ブログより使い勝手がいい気がする。「具体的に?」と言われてもまだうまく言語化できないけれど、ずっと書き続けていたくなる使い心地だ。

 無料版はプロジェクトが一般公開されるので、ブログと同じで「人目にさらされる」という状態は確保できる。その一方で、ブログに比べて検索に引っかかりにくいんじゃないかなあ、と思う。scrapbox自体には他の人のプロジェクトを検索する機能はついてないし(たぶん)、Google検索のときも「scrapbox」というキーワードを入れておかないとまずヒットしない。となると、著作権の問題はあまり気にしなくてよくなるんじゃないだろうか。

 なので、しばらくはscrapboxでひっそり活動してみようかと思う。ブログはどうなるのかな? よくわからん。本の概要をscrapboxにまとめて、その感想をブログに書く、みたいな棲み分けをする? なんのために? 今後の方向性は未定。

【読書ノート】『地球と存在の哲学』第2章

第2章 母型の郷愁

1 近代性の拒否

 西洋にとっては、近代というのは時間的な現象だ。つまり、それまでは前近代だったけど、ある時点から近代に移行したのだ、ということだ。だけど非西洋社会にとっては、近代とは空間的なもの、つまり、西洋との対峙という問題になってくる。

 だから、非西洋社会では、近代は悪として捉えられることもある。なぜならそれは、自分たちのアイデンティティを侵害するものと見なせるからだ。

 それで、環境破壊の元凶は近代科学だ、なんてことを言い出す人も出てくる。梅原猛なんかは、西洋は怒りと力の文明であり、反対に東洋は慈悲の文明だ、なんてことを言っているくらいだ。

 だけどそれも結局は、自民族中心主義なのだ。日本人は、自分たちは自然についてよく理解しているから、自然の本質を庭園の形で表現できるのだ、と主張する。でも、そんな日本庭園だって、同じ東洋の中国人や韓国人から見たら随分不自然に見えるものなのだよ。

2 共生への郷愁

 昔を理想視するのは西洋人も東洋人も同じだ。たとえば聖書では「エデンの園」が理想だし、中国では遙か古代に「大同」という理想社会が存在していたという思想がある。そうした楽園では、人間と自然と神々は共生している。そのような「原初の母型」に対して人々は郷愁を抱くのだ。

 こうして自分の本当のアイデンティティを求める衝動は、「私たちの環境」が「他者の環境」よりも優れているという考えにつながる。本当は、単にお互いの文化的アイデンティティが異なるというだけの話なのに。

 この考え方はさらに、「良き野蛮人」という神話にもつながってくる。それは、「私たち」が失った本当のアイデンティティは、「良き野蛮人」の中に残っているというものだ。それで、現代のエコロジストはアメリカ・インディアンやアボリジニ生活様式を理想化しようとするのだ。もちろんそれは、そうした社会への粗雑な認識不足によるものだ。

 理性的な動物解放運動や、あるいは自然が「権利」を持つと主張する人々は、ようするに「大同」を求めているのだ。大同というユートピアでは、人間とそれ以外の生命のあいだには何の区別もなく、共存しているからだ。

3 全体論からファシズム

 日常生活の中で、動物に優しくしたり、害を与えないようにしたりするのは普通に見られる風俗習慣だ。だけど、それを「倫理」に格上げしようとするとやっかいなことになる。なぜならその場合、存在論的な問題が絡んでくるからだ。つまり、人間と非人間を存在論のレベルで同じように扱えるのか、という問題だ。

 人間に関しては「権利」と「義務」の関係が成り立つ。だけど、これを人間以外にまで広げることはできない。コブラには人間を噛まない「義務」があるだろうか? プレート・テクトニクスには地震を起こして都市を破壊しない「義務」があるだろうか。もちろん無い。だから、権利とか義務とかの概念を使って環境の倫理を築くことはできないのだ。

 それでもむりやり「自然の権利」について語ろうとすると、倒錯した結論が出てきてしまう。たとえば、地球の生態学的なバランスを保つには、人間の定員を減らす方が良いなんて言う人までいる。これはむしろ不道徳な主張だ。

 彼らは生態学全体論という特殊な存在論を前提としている。つまり、重要な地位を持つ存在とは「生命を持つ存在」なのであり、それが人間だろうが動物だろうが区別する必要はない、というタイプの存在論だ。まあ、それはそれで「なぜ生態系を尊重しなければならないか」という問いに対してはきちんと応えている。だけど、「その倫理を誰が守らなければならないのか?」という問いに対しては応えることができない。バッタに責任があるだろうか? ない? ないとしたら人間に責任があるというのだろうか。でも、生態学全体論では人間と動物を区別しないはずなので、それでは矛盾だ。だから、「誰が守るの?」という問いには沈黙するしかなくなってしまうのだ。

 結局、人間の主体性を捨象してしまうと、倫理は成り立たなくなってしまうのだ。そんなことしたら、結局はファシズムに行き着くだけだろう。

コメント

 整理してみると、1~2節の内容と3節の内容はあんまりつながってないように見えるな。1~2節は、自民族中心主義のために「わが国の自然はよそよりも優れている」とか「東洋は西洋とちがって環境に優しい文明なのだ」とかの変な主張が出てきてしまう、という話。3節は、人間と動物の存在論的なちがいをきちんと考えずに環境の倫理をつくろうとするとファシズムに行き着くよ、という話。いちおう、「大同」というキーワードでふたつの議論をつなげようとしているけれど、ちょっと無理があると思う。

 で、議論の中身自体はというと……普通かな。ただ、最後に「人間の主体性」という論点が出てきたところで、ベルク独自の環境倫理に関する議論につながっていくのだと思う。たしか。